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聴覚障害者を疑似体験する方法

健聴者が先天性(2023年6月14日加筆)聴覚障害者を疑似体験してみる、
最も良い方法と思われるものは何だろうか?

ある方が書いた下の記事に、
それについて触れているものがあります。

http://ameblo.jp/bcs33/entry-10077772774.html

耳栓をしても、それは自分でしただけのことなので、
別に苦痛ではないのです。
耳栓をしたら聞こえなくなるのは当たり前のことなので、
苦痛に感じるはずがない。
それでは、聴覚障害者の疑似体験にはならない。

テレビのボリュームを絞ったって、それは同じ。
それは、本当の聴覚障害者ではありません。

音が聴こえないという、単なる「聴覚障害」の実験と、
人間の障害として起こる聴覚障害者の体験は、
決して同じではない。


聴覚障害者とは

「単に耳が聞こえなくなっただけの人」

とは、全く違うのです。
それは人間に起こることなのですから、
様々な影響があります。
耳栓などは、物理実験と変わりありません。

水の中に入ってみても、
健聴者は音声会話はできなくなります。
スキューバダイビングの世界がそうでしょう。
でも、ろう者たちは手話で話せるので全く平気です。
水の中では音声言語に依存する健聴者のほうが、
コミュニケーション障害に陥ります。
環境により、両者の立場は逆転するのです。
でもこれだって、やはり聴覚障害者の
コミュニケーション障害とは違います。


まだ手話も全く知らない健聴者ならば、
聴覚障害者団体主催の行事に出かけてみると
いいでしょう。
そうすると、ほとんどの健聴者が、皆嫌がって
行かなくなります。
でも、それが疑似体験になるのです。

「環境が変われば誰でも障害者になりうる」

という例になるでしょう。(※)


(※)当ブログ
『日本のダメな障害者雇用を変えろ!!』
〔2013-01-12 18:00〕

『強い国を作った「人を切らない」思想
“障害者集団”、スウェーデン・サムハルの驚愕(最終回)』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090119/183071/

参照。


「環境が変われば、誰もが不自由な状況に置かれ、
誰でも障害者になり得る。
これは、裏を返せば、個人の差異は何も特別なことでは
ないということでもある。
障害を持つ。
それは特別視するようなことではない。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090119/183071/


当ブログ
『障がいは、特別なものではない』
〔2011-10-13 21:22〕
参照。



そこでは、耳に頼った生活をしてきて、
手話も知らない健聴者のほうこそ、
障害者になるのです。

あなたはその手話を見ても、さっぱりわからないだろう。
手話で話すだけの、ろう者ばかりの世界で、
誰とも話せないだろう。
必要な情報を得ようとしても、いつものように、
容易にはできないだろう。

一体誰が、そこにいるろう者が障害者に見えるだろうか?
むしろ、そこではあなたのほうこそ、
コミュニケーション障害や
情報障害に陥っていないだろうか?

逆の立場に立たされて、初めて知ることもあるに違いない。
聴覚障害者バリアフリーを知れば、
自分で気がつかなかった聴覚障害者バリアの存在も
わかるはずです。
あなたから初めて見た、その異常な体験こそ、
聴覚障害者が日常で耐え続けている
生活風景なのです。

聴覚障害者の周囲には、健聴者がつくり出している
バリアもたくさんある、ということを、
自分の身をもって思い知らされることでしょう。

音が聞こえないから障害があるのではない。
音が聞こえなくても方法はあるのに、
そうした配慮をしない(間接差別)から、
バリアがあるのだと知る。
それこそが聴覚障害の疑似体験になります。
そして、手話講習会でも、本気で手話通訳者を
目指す健聴者だけが残り、
その体験を通して手話を真剣に学ぶのです。

聴覚障害者バリアに挑むということは、
そういうことだと思う。
バリアを知らないで、バリアをなくす仕事が
できるわけがないだろう。
だから聞こえる人も、聞こえない世界とは
どういうことなのかを、
その疑似体験を通して知ります。

疑似体験といえども、ずっと関わっていく過程で
手話も覚えられないと、
その人にとってはかなり苦痛なものとなります。

私も、途中で手話学習を止めたことが何度もありました。
でも、なかなか覚えられなかったからこそ、
障害とはどういうものかが、わかるのだと思います。

その体験を通して、聴覚障害者の精神的苦痛を
幾らかでも知ることになり、
ようやく本当の聴覚障害者との関わり方を学ぶのです。
手話が出来るからといって、手話通訳者の試験に
合格できると思うのは間違いだそうです。

その疑似体験を一般の人でも、誰にでもできるのが、
毎年の「耳の日(3月3日)」に行われている、
耳の日文化祭でしょう。

東京では、今年は3月2(土)~3日(日)の
2日間に行われます。

 http://www.tonancyo.org/chirasi/121218miminohi1.pdf

健聴者で、これから聴覚障害者への手話通訳や
要約筆記通訳を学びたい方、福祉の仕事などを
されたいと思っている方、
聴覚障害者バリアフリー、聴覚障害者問題を
研究されている学生の方などは、
是非出かけてみて下さい。

社会にある本当の障害とは何か、わかることでしょう。

障害には二つあることに気づくでしょう。

耳の不自由など、誰にだっていずれは起こりうるものであって、
特別な障害ではないのです。
むしろ、そうした社会的弱者を排除するような傾向(差別)、
システムこそ、人間社会として異常だと認められます。

障害者のみならず、女性、老人、子どもまで含む、
あらゆる社会的弱者にやさしい社会とは、
どうあるべきかが、わかるでしょう。

国連・障害者権利条約がなぜ必要なのか、
わかることでしょう。

日本にも障害者差別禁止法がなぜ必要なのか、
わかることでしょう。



【その他の、疑似体験についての参考資料】

http://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_f/f-137/f-137_9.pdf

http://zaq.ne.jp/users/hoshinositahe/article/9/

http://www.tsukuba-tech.ac.jp/repo/dspace/bitstream/10460/282/1/Tec02_0_24.pdf


【私がおすすめする本】
『言葉のない世界に生きた男』(A Man Without Words)
スーザン・シャラー(Susan Schaller)著 中村妙子訳
(1993年6月25日発行,晶文社)




〔参考記事〕

当ブログ
『「コミュニケーション力」とは』
〔2011-04-12 21:04〕




『コミュニケーションの神秘性』
〔2011-08-30 00:40〕






【追記】

『『聴覚障害者を疑似体験する方法』(補足説明)』
〔2016-11 -11 21:00〕




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『聴覚障害者を疑似体験する方法』(補足説明)
2016年 11月 11日

以前から続いていることなのだが、
下の記事がよくランキングに入っている。


『聴覚障害者を疑似体験する方法』
〔2013-02 -28 18:00〕


自分で書いたのだから、自分が言うのもヘンな話だが、
聴覚障害者が読んでいる記事ではなさそうだ。

私は時々、障害者施設に入ることがある。
そこでこのあたりの時期には以前、
依頼を受けたりしたことが何度かあった。

「大学の卒論(研究論文?)を書くため、
聴覚障害者の日常生活や、
困ったことなどについて知りたいのですが、
ご協力していただけませんか?」

といった、健聴者大学生からのアンケート依頼だった。
この時、ろう者は大体、非協力的な態度だった。
やっぱり、健聴者を信用していない人が、
今でも多いからなのだろう。
だが私は協力したことが、何度かはある。
そういうことがきっかけで、上の記事もちょっと
書いてみたつもりはある。

聴覚障害について書くとなると、
これはやっぱり難しい。
(それでも、私は敢えて書いたが)

手話サークルでも健聴者が話し合ったことが
あったが、

「私達には難しいからやめましょう」

ということになった。
たとえ手話通訳士であっても、
聴覚障害者でもない者が無責任に語るもの
ではないからだろう。

「聴覚障害」「聴覚障害者」というものは、
実はものすごく幅が広いので、そういう説明になる。
手話通訳者たちは、手話を母語とする
「ろう者」を中心にして説明を広げていく人が
多いと思うが、
手話がわからない「難聴者」支援が中心の
要約筆記者は、手話通訳者の立ち位置からは
もう少し離れて説明する人もいる。

とにかく、そんな「聴覚障害」「聴覚障害者」の
ことを書けば、本が何冊も出来てしまうぐらい
だろうから、今回は一つの話に絞ることにする。

聴覚障害者は、かなり重度の障害がある人でも、
本人自覚があまりない場合が少なくない、と思う。
実際、身体障害者手帳の1級や2級を持っている
ろう者でさえ、

「自分は障害者ではない。
『ろう』(あるいは、『ろうあ者』)だ」

という人がよくいる。


〔参考記事〕

『「聾唖(ろうあ)」という言葉の存在意義』
〔2012-02 -28 20:20〕



『米国・ギャローデット大学でのろう運動』
〔2013-03-05 18:00〕



自分を「障害者」だとは思っていないし、
それを苦にもしていない。
ならば、聴覚障害者は皆、
本当にそうなのかと言うと、
いやそんな人ばかりでもない、実は。
ろう者からよく対極的な代表にされるのが、
難聴者だ。


『映画『レインツリーの国』(有村浩/原作)』
〔2015-12 -12 00:22〕




しかし、幅広くいても、ケースバイケースであるに
しても、やはり音声コミュニケーションが
苦手になる聴覚障害者は必ずいる。
それが「聴覚障害」なのだから。

よく職場で、何人かの健聴者と一緒にいることになるが、
たまたまにしても必然にしても、
そこに会話(コミュニケーション)が自然に発生する。
色々な話をしているのだろうが、
私には補聴器を幾ら傾けたって、
補聴器のボリュームを大きくしたって、わからない。
何か話していることはわかる。
聴こえている。
しかし、何を言っているのかが、さっぱりわからない。
それは、全く聴こえないで気にしていない場合より、
ずっと心が重くなってくることなのである。
そんな状況の時でも、
皆の輪に入ってコミュニケーションをする方法はある。
手話は使えないだろうから、筆談である。
だから、自分でも筆談ボードを持って来ている。

ところが、そんな気軽な会話をしている最中に

「筆談して」

とは、とても言えない。
そういう見えない力が自分の前に押し寄せてきている。
それで我慢してしまう。

健聴者はよく、

「聞きたいことがあったら書いてと言って」

と、気軽に声をかけてくれる。
しかし、それに素直に甘えることが、なぜか出来ない。
見ているとやっぱり、難しそうに思えてくる。

私の目の前にある、この雰囲気、見えない圧力は一体何だろう?
自分のせいなのか?
そんな悩みを何十年間も持ち続けていた。

そして、同じように悩んでいる聴覚障害者を、
仲間の輪の中に入ってみて、やっと見つけた。
だが、誰も明快な答えを見つけ出せてはいないようだ。
悩みがある、困っているのは皆同じ。

ただ一つ、新たにわかったのは、どんなに下手でも、
諦めずに一生懸命に手話学習に取り組んでいる
難聴者もいるし、手話をマスターして別世界に
飛び込んでいった聴覚障害者たちの姿があることだった。
見える言葉、動く言葉が、聴覚障害者と共にあった。

「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」

という、ヨハネによる福音書の言葉と同じだった。
(創世記には、「我々と似た様につくろう」と言う神の言葉がある)
手話という言葉を覚えるのに全く苦労もしない、
天性の手話者もいた。
それぞれが別々ではあったが。


あるろう者は、健聴者とコミュニケーションを
取ろうとする時のろう者について、
こう証言していた。

「ろう者はダメだよー。
こうやるのよ」

と言って、ろう者のやり方をやって見せてくれた。
手に握りこぶしを作って、机の上をいきなりドンッ!
と叩いた。
そりゃ、私もびっくりした。
だから、健聴者社会での常識から言えば、
感心しないのは分かる。
だが、聴覚障害による障害の深さも知っている
立場から言えば、私には机を叩くろう者を
非難する気にはなれなかった。

社会常識がどういうものであるべきかは
まず置いておくとして、健聴者は、
自分たちの社会の尺度だけで物事を見ているから、
こうした無理解が起こるのではないだろうか。
そこが残念でならなかった。





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【追記】(2023614日)

難聴の疑似体験

2018 09 15

難聴の疑似体験 : 蒼穹 -そうきゅう- (exblog.jp)

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人間は所詮、限界性のある生き物だ。
各々の限界性をわきまえて生きるべき存在
なのかもしれない。
だが、その限界を変えていくことができる存在
でもあるだろう。
それを、この人たちは私に教えてくれている。
人間の可能性は無限だ。
一つの可能性だけが、全てなのではない。






〔補足説明2〕

「人はパンのみにて生きるにあらず」

という言葉を、だいぶ以前に聞いたことがある。
キリストが聖書の中で言っていた言葉だっただろうか。

http://www.k-doumei.or.jp/np/2002_11/04_02.htm

働いて給料を貰わなかったら、人は生きてゆけない。
だが、人はそのために働き、生きるのではない。
スワンソンという生物学者は、3つの物質の他に、
もう一つの要素を加えた、という。



『人間が生きるために不可欠なものは

 「水、空気、食物、そしてコミュニケーション」

である。』
            (生物学者M・スワンソン)



『コミュニケーションは、
人間が生きるために必要なもの』
〔2012-02-18 01:19〕



東京大学教授・福島智氏は、
この4番目の要素について、

「コミュニケーションは酸素のようなもの」

と解説している。
これを立証するために、彼はある実験をしたという。
ある小学校で、子どもたちに20分間、
誰かと話す事も聞く事も禁止し、給食を取らせた。
そして、終わった後に、子どもたちから感想を
聞いたところ、

「いつもより美味しくなかった」

などというマイナス意見の声が次々と挙がったそうだ。
あくまでも、健聴者の疑似体験として可能な実験に
過ぎないのだろうけれども、これは聴覚障害者の
疑似体験になりうるのかもしれない。



ちなみに、聴覚障害者になると職場で
どういう障害が起きてしまうのかが、
具体的書き記されているのが
『聴覚障害者の就労後問題』です。
それらは全て実話です。

by bunbun6610 | 2013-02-28 18:00 | 聴覚障害の世界【ろう、難聴、中途失聴者】

ある障害者から見た世界


by bunbun6610