補聴器を外した理由
2011年 01月 07日
Q社での就労後問題(日記から)
2011年1月7日(金)
当事者(聴覚障害者)の立場から見ればの話だが、
見えない障害とは、健聴者にとっては何と都合のいい
ものであろうか、と思う。
補聴器を外した理由は二つある。
仕事中、周囲の人の話し声ばかり聞こえているだけで、
自分はその内容がわからない(音だけしか聞こえない)。
その疎外感、孤独感に我慢を続けるだけで、
そのうちに耐えられなりそうだからだ。
そこに居るだけでも、苦しく、耐え難くなることが、
周囲の人にはわからない。
自分がなぜ、そんなに気にしては苦しむのかもわから
ないが。
もう一つは、補聴器に依存すれば、筆談などの合理的
配慮が全く得られなくなってしまうからだ。
何度も聞き返すということは、音声は聞こえていると
思われる。
そうすると健聴者は、聞き取れなかったら何度も言う
ようになる。
それが親切、理解だと思い込んでしまっている。
コミュニケーションとして30%も通じれば、その次も、
またその次もと、話しかけられ続ける。
そうして、自分には不得手な音声言語の世界へと
引きずり込まれてしまう。
そうすると、もう完全なコミュニケーションなどダメだ。
自分のコミュニケーション方法だけに引きこもっている
のかもしれないが、私はその見方には納得できない。
健聴者は親切のつもりで何度も言ってくれるつもり
なのだろうが、私の立場からは、何度聞いてもわから
ないとわかっているのに、我慢して聞き続けるのは
とても辛い。
それに応じれば、私は最終的にはわからなくても
「わかったふりをする」
昔のクセをまた出さざるをえなくなる。
なぜならば、人によっては、2度目に言う時は、
言い方も表情もきつくなるので、
なおさらなのである。
どちらの理由にしても、あまりひどい状況になって
しまうと、相手を殴ってやりたい、という衝動に駆られる
場合もあるのだ。
勿論、そんなことが出来るわけがない。
だから、ただ必至になって耐えるのみである。
残念ながら、そんな苦しみを健聴者に分かってもらう
のは無理だろう。
やはり、この苦しみは一生続くのだろう。
これが聴覚障害者の宿命なのだ。
2011年1月7日(金)
当事者(聴覚障害者)の立場から見ればの話だが、
見えない障害とは、健聴者にとっては何と都合のいい
ものであろうか、と思う。
補聴器を外した理由は二つある。
仕事中、周囲の人の話し声ばかり聞こえているだけで、
自分はその内容がわからない(音だけしか聞こえない)。
その疎外感、孤独感に我慢を続けるだけで、
そのうちに耐えられなりそうだからだ。
そこに居るだけでも、苦しく、耐え難くなることが、
周囲の人にはわからない。
自分がなぜ、そんなに気にしては苦しむのかもわから
ないが。
もう一つは、補聴器に依存すれば、筆談などの合理的
配慮が全く得られなくなってしまうからだ。
何度も聞き返すということは、音声は聞こえていると
思われる。
そうすると健聴者は、聞き取れなかったら何度も言う
ようになる。
それが親切、理解だと思い込んでしまっている。
コミュニケーションとして30%も通じれば、その次も、
またその次もと、話しかけられ続ける。
そうして、自分には不得手な音声言語の世界へと
引きずり込まれてしまう。
そうすると、もう完全なコミュニケーションなどダメだ。
自分のコミュニケーション方法だけに引きこもっている
のかもしれないが、私はその見方には納得できない。
健聴者は親切のつもりで何度も言ってくれるつもり
なのだろうが、私の立場からは、何度聞いてもわから
ないとわかっているのに、我慢して聞き続けるのは
とても辛い。
それに応じれば、私は最終的にはわからなくても
「わかったふりをする」
昔のクセをまた出さざるをえなくなる。
なぜならば、人によっては、2度目に言う時は、
言い方も表情もきつくなるので、
なおさらなのである。
どちらの理由にしても、あまりひどい状況になって
しまうと、相手を殴ってやりたい、という衝動に駆られる
場合もあるのだ。
勿論、そんなことが出来るわけがない。
だから、ただ必至になって耐えるのみである。
残念ながら、そんな苦しみを健聴者に分かってもらう
のは無理だろう。
やはり、この苦しみは一生続くのだろう。
これが聴覚障害者の宿命なのだ。
by bunbun6610
| 2011-01-07 18:00
| C.キュービタス