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親の責任、健聴者の罪

「親は、死ぬまで自分の子どもに対し、責任がある」
(『自分を最高に生きる』〔アーノルド・ベネット・著/渡部昇一・訳〕)

 →http://www.aga-search.com/441-6-17arnoldbennett.html

実は正確には憶えていないのですが、
こういう意味の言葉を、上の本で読んだ
ことがあります。

「もしも、わが子が罪を犯し、刑務所に入ったならば、
子どもが出所したとき、親は迎えに行かねばならない」

とも、書いてあったと記憶しています。

これは、新約聖書のキリストの教えにも共通する
考え方だと思います。
聖書では親とは「父」と呼ばれる神であり、
「子」とは人間というふうにもよく解釈されます。

ですが、実際に自分の子どもに関して、
責任を持つ親は、どれだけいるでしょうか?

当ブログ『理解されない難聴 消せない記憶』
(2011-05-30 00:43)では、親に粗末に扱われたり、
捨てられたり、なかには絶縁してしまったりした
聴覚障害者の一例を話しました。
私も、そのなかの一人です。

だから、ベネットの言葉は、非常に責任感があり、
それでいて人間社会の基本となる教えだと思うのです。

けれども、私の体験から正直に話すなら、親とは、
こうはなりません。
私の体験では、親とは次のような存在です。

健聴者の男と女は、次のように会話する。

「さぁ、私たちは結婚したぞ。
これか二人で幸せに暮らそう。
それには、何かな?
まず、幸せな家庭を築くことじゃないかな?」

そして彼らは、神に誓った永遠の愛とやらの名の下に、
セックスをする。
セックスなど愛ではなく、ただの性欲に過ぎない、
ということもわからずに。

そうして、自分たちの欲望を満足させるために、
彼らは子どもをつくる。
彼らは、生まれた子どもを見て喜ぶが、
それはつかの間のこと。

やがて、耳の聴こえない子どもが生まれたのだと
わかると、パニックになってしまう。
そして、しばらくしてパニックから乗り越え、
耳が聴こえないわが子をどうやって育てようかと、
あちこちに相談に行くのだが、どこも

「決定的な良い方法などはない」

と言われる。

その後は途方に暮れて、この重荷から逃げたい
がために子どもを放っておくか、
ヒステリー状態になって、誤ったスパルタ式教育をし、
わが子を何とか健聴者社会で生きてゆけるようにと、
支離滅裂に試みる。

だが、子どもは絶対に、その期待に完璧には
応えられない。
健聴者社会が聴覚障害者を排除するか、
ないしは奴隷としか見ていないからだ。

現実に、私の身体は自由であっても、
精神は生まれたときから、健聴者のつくった鎖に、
ずっとつながれたままだ。
私に本当の自由なんか、今でもない。

ここで親はもう、完全に絶望するのではないだろうか。

しかし、そのとき、聡明な親は、こう悟るかもしれない。

「人間を真に人間らしくするのは、愛だ。
障害のある子どもも、障害のある子どもを持つ親も、
幸せに生きる権利はある。

だが、今の社会はそうなってはいない。
そういう社会に変えていくことは、
できないだろうか」

方法はあります。
それが国連・障害者権利条約です。

提唱して20年以上もかかって、ようやく採択されたが、
時間がかかった分、この条約には難しい問題解決も
盛り込まれました。
その一つが、聴覚障害者の権利擁護です。


利己的な親は、子どもは自分たちの夢を叶える
ための道具だと思っている。
競馬場で馬券を買うみたいに、子どもをつくる。
自分たちにもし、障害を持つ子どもが生まれたら
どうするかなんて、考えてもいない。
ただヤルことしか考えていない、発情期のオスとメス
に過ぎないのだ。

そして、たまたま聴覚障害を持った子どもが生まれると、
頭を抱えて

「私たちはハズレを引いてしまった。
もう、仕方がないんだ」

とこぼす。(冗談じゃない!)
そして、子どもをとにかく、学校へ放り投げてしまう(※A)。

私は「仕方がない」という言葉を、親や大人から
何千回聞かされてきました。
それで子どものころはずっと「諦めるしかない」と
思っていました。
でも、それは絶対に間違っていると、
今では確信しています。
実は、大人の間違った考え方が、子どもの持つ
豊かな可能性、希望も捨て、潰してしまっていたのだ!

この思考こそが『神よりの逃走』(マックス・ピカート/著)
そして、『死にいたる病』(セーレン・キルケゴール/著)だと、
私は思うのです。

本当の絶望からは、希望の光も必ず、どこかに見えてくる
はずです。

(※A)ろう学校でも、学校教育だけでは限界がある、
と言われています。
特に社会マナーなどに問題のあるろう児は、
家庭環境に問題がある生徒、との報告が
なされています。

子どもは子どもでも、耳の聴こえない子どもとは
会話できない、と健聴者は考えやすいです。

言い換えるならば、健聴者は音声言語にこだわります。
それが当たり前で、それ以外のコミュニケーション手段、
例えば手話や筆談などは当たり前ではない、
と考えています。
実は、それがバリア(障壁)になっいるということもわからずに。


結婚したときから夢に描いていた、
子どもをはさんでの夫婦会話が、
成立しなくなる。
それではつまらない、と考えます。
自分たちの思い描いていた、幸福な家庭とはイメージが違う、
と文句を言い出します。

だが、デフ(Deaf)・ファミリー
(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC)
は違っていました。
彼らは、子どもが聴こえる子でも、聴こえない子でも、
大変喜んで、子育てを一生懸命したと、語っています。

子どもは、親の私物ではありません。
天からの授かりものなのです。


筆者注)
ウィキペディアでは「デフファミリーとは、家族全員が
聴覚障害者‐特にろう者‐の家族のことである。」と
説明しています。
ウィキペディアでいう「聴覚障害者」とは、
「ろう者(Deaf)」「ろう者(deaf)」「難聴」「中途失聴」の
全てを総称した用語です。

しかし、私の考えでは
『ろう文化案内』『「ろう文化」の内側から』
(キャロル・パッデン,トム・ハンフリーズ/共著)と同じく、
「ろう者(Deaf)」と「ろう者(deaf)」に区別しており、
上の話の「デフ・ファミリー」とは「Deaf family」の体験談です。

一方、難聴の親を持つ聴覚障害児の家庭だと、
健聴者の親と同じ考え方で育てている例も知っています。

親の責任、健聴者の罪_a0196876_0414769.jpg

by bunbun6610 | 2011-06-26 00:48 | 国連・障害者権利条約

ある障害者から見た世界


by bunbun6610