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手話の持つ可能性



当ブログ

『手話について』
〔2011-06-13 00:06〕


では、手話には文法的に異なるものがあり、
それが「日本手話」と、「日本語対応手話」と
呼ばれていることは説明しました。


〔参考〕

 →http://www.nhk.or.jp/fukushi/one_syuwa/one_shu10.html


(財)全日本ろうあ連盟は、こういう区別をよしとして
いませんが、私のブログでは説明上の混乱を避ける
理由で、二つの異なる手話を区別し、名称も分けて
使うことにします。

もっとも、これはそれぞれの手話の使い手が、
意図的に区別して使っている、というわけでは
ありません。
手話の使用形態についての現状は、実はこの二つの
手話が混在し、無意識に使われているのですが、
これについてはもっと後になってから述べます。

ろう者(Deaf)の手話講師が、こう言いました。

「手話は視覚言語です」

私も、これは理解できます。
ろう者(Deaf)ですから、当然これは

「日本手話は視覚言語です」

という意味で言っています。

しかし、日本語対応手話を教える難聴
(HARD-OF-HEARING)の手話講師が

「手話は視覚言語です」

と言ったときは

「私が教えている日本語対応手話とは、
視覚言語です」

と言っているはずです。

私は正直

「この手話講師は本当に、そう思っている
のだろうか?」

と疑問に思いました。

日本語対応手話というのは、簡単に言うと、
見える日本語文章だと思います。
その証拠に、難聴者は、声でしゃべりながら、
それに合わせて手話を使う人が多い。

だから、まず話し手が自分の言いたいことを
日本語で考え、それを相手に手話で表します。
相手はそれを読み取って、日本語に復元する
という技法です。

これは、双方に日本語の知識がなければ
不可能だし、読み取るほうも理解できません。
つまり、日本語の音声言語がもとなのです。
ここでの手話の役割とは、聴こえないという
障害を克服するための、補助的な手段に
すぎません。

これで一体、視覚言語と言えるのでしょうか?

日本語には目で見る言葉、すなわち書き言葉も
確かに含まれています。
けれども書き言葉も、やはり音声言語がもとです。
それは視覚言語から派生したものではないと
思います。

日本手話は明らかにそれとは違います。
私は以前

「手話は古代エジプトの絵文字みたいなものに
似ているな」

と思ったことがありました。
あれを見ていると、何か意味のあるイメージが
湧いてきそうです。

手話は長い間、記録することができませんでしたが、
見たものを絵にするという伝え方は、昔から
使われていました。
その意味の解明は、音声言語のような翻訳とは違い、
非常に難しいけれども、明らかに作者の意図があり、
意味を持った、誰かに伝える方法です。

これを言語というのかどうかは知らないのですけれども、
日本手話にもやはり、そういうところがあると思うのです。

しかし、やはり日本手話には絵とも違う、決定的な
相違点があります。
それが、立体的で、自由な動きによる表現性です。

そのため、ビデオがない時代は、常にろうあ者同士が
会って、直接伝え合っていたのです。
この表現力を使って表す日本手話こそ、視覚言語として
その能力を最も発揮している、と思います。

一方、日本語対応手話ではかなり平面的なもので、
特性はだいぶ違っていますが、これはこれで別の
能力を発揮していると思います。


ところで、国連・障害者権利条約のなかでも

「手話は言語」(第2条 定義)

と認められました。

「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の
非音声言語等をいう。」

 →http://www.normanet.ne.jp/~jdf/shiryo/convention/index.html



日本手話の独自性は、けっして排他的でも、
音声言語世界とぶつかり合い、壁になるのではないと
思います。

むしろ、人類のコミュニケーション手段に、
新しいものを創造していく、と思います。

また、そういう可能性は、日本手話と日本語対応手話の
どちらも持っていると、私は思います。

難聴児の日本語教育や、人工内耳とも対立するとも
言われていますが、全く異なる性質の言語を壁と見なすか、
それともプラスになると見なすかは、親、大人の受け止め方
の問題だと思います。

手話の持つ可能性_a0196876_0291512.jpg

by bunbun6610 | 2011-06-18 00:33 | 手話学習(手話を学ぶ前に)

ある障害者から見た世界


by bunbun6610