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『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(13/13)マジョリティの感覚

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



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「友人が通うある有名私立大学で、車イスの学生の受け入れに備えて、
校舎の一角にエレベーターを設置することになった。
すると、かなりの数の学生から、

「ごくひと握りの障害者のために、たくさんの金を使ってエレベーターを
付けるぐらいなら、もっと授業料を安くしろ!」

という反対の声が上がったそうだ。
車イスを通して、駅の階段や狭いトイレの不便さを体感しながら、私と
一緒にあちらこちらを旅している友人は、

「自分の大学で、そんなバカなことを言うヤツがいるなんて、ホントに
情けないです」

と、頭をかいた。
私も「そうだね・・・」と、ため息まじりの苦笑いでうなずいた。

反対の声を上げた学生たちとの間に存在する“こころの段差”に、私たち
は失望を感じた。
私の母校の寮の三段の階段よりも、それはあまりに大きく、しかも目には
見えないのだ。
恐らく自分の立場しか考えようとしない学生たちは、自分で段差を作り出し
ていることにまったく気づいていなかったのだろう。
でもその無関心こそ、相手との関係を隔てる見えないバリアそのものなのだ。

後日エレベーターは計画通りに設置されたという。

近い将来、その大学には車イスの学生が入学してくることだろう。
そうすれば、設置に異を唱えていた学生たちとの出会いも生まれる。
その密度が濃くなるにつれ、

「エレベーターを付けるぐらいなら、もっと授業料を安くしろ」

という感覚は彼らから消えていくに違いない。」
(P217~218)



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〔参考情報〕


『4つのあったかバリアフリー』
〔2012-07-11 09:11:05〕




「心のバリア」という言葉も、聞いたことがあると思う。
それが、4番目のバリア(障壁)だ。
これを取り除くのが、最も難しいと言われている。

聴覚障害者も、情報保障・通訳がついてもバリアが解決しない、
と感じることがあるが、それがこのバリアが原因だったりする。
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by bunbun6610 | 2014-06-13 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(12/13)『“障害者ドラマ”に嘘があったっていい』

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



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『“障害者ドラマ”に嘘があったっていい』
耳が不自由な看護婦を主人公としたテレビドラマ「星の金貨」の
続編が始まると、またまた好評を博した。
ほかにもここ数年、障害をもつ人を主人公にした連続ものの
ドラマが相次いで高い視聴率を上げている。
結果論だと言われるかも知れないが、私はこの現象を3、4年前
からなんとなく予感していた。

各局がしのぎを削って制作するゴールデンタイムのトレンディ
ドラマのモチーフは、男と女のラブストーリー、キャンパスもの、
不倫、SFもの――と、制作者たちは知恵を絞ってありとあらゆる
シチュエーションを考え出してきたが、どうもここ数年アイデアが
ワンパターン気味だった。
それは視聴率の低下という形ではっきり表れた。

そこで制作者たちは、どこにでもあるラブストーリーに“障害”という
スパイスをかけることを思い立ったのだろう。
その証拠に、彼らは口を揃えて

「社会への啓蒙を目的とした、いわゆる“障害者ドラマ”を作って
いる気は毛頭なく、男と女の純粋な愛の姿を描いている」

と言う。
価値観や、善行を押しつけられることを嫌う若者が視聴者の大半
であるトレンディドラマにとって、この姿勢が高視聴率の原因に
なっているのかも知れない。

私自身、36年以上も脳性マヒと付き合って、その“スパイス”が
いかに波乱万丈な喜怒哀楽を生み出すかを実感している。

しかし、このようなテレビドラマに対して、障害をもつ人たちやその
関係者からは、現実の生活や状況とは違う、との批判も多く出ている。

実は、6年ほど前、私の大学時代を描いた青春記をもとにし、
二時間ドラマが放映された。
坂上忍さんが私の役を演じたのだが、その時も

「なぜあなた自身が演じなかったのか」

といった声がいくつかあった。
答えは簡単だった。

「だって私は彼ほど顔が良くないし、だいいち俳優じゃないから」

これまであまり世間に知られていなかった“障害者”が、何気なく
お茶の間で話題になることは悪いことではない。
ドラマに出演した女優が、それがきっかけで手話教室に通い続け、
今では共演者たちの先生役をかって出ているという話も聞く。
そうした広がりはきっと一般の人にも影響を与えていくはずだ。

考えてみると、これまでのヒットドラマだってうまい嘘をついた賜物だ。
障害者ものに限って嘘をまったく許さないというのは不公平だ。
まるっきりのデタラメでも困るが、すべてが現実のままでは“ドラマ”
になり得ないし、想像力はふくらまない。

障害の種別は違っていても、美人女優の常盤貴子さんや鈴木京香
さんに愛される、障害をもつ主人公の男性をついつい自分に置き
かえて、「こっちも恋にがんばろう」とニタニタするミーハーな私がいる。

真実ではないと知りつつも、うまい嘘は現実の生活をいつの間にか
生き生きさせるようだ。
そこに、ドラマの真髄だってあるのではないだろうか?」
(P185~187)



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by bunbun6610 | 2014-06-12 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(11/13)障害者の自立に最も必要なこと

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



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「もちろん、障害をもつ人たちと付き合っていくには、障害をもたない人が
手を貸さなければならない場面が多々出てくる。
でも、それはその人と付き合うための手段であって、根本的な目的ではない。
根来君も私も未知数の可能性が広がる高校時代に、そのことに気付けた
ことが何よりの幸運だったろう。

「あの時の功ちゃんの言葉が、きっとボクの人生を変えたんだよ・・・」

当時よりかなりお腹が出てきた根来君は、しみじみと言った。
そして、ひと口酒を口にして一語一語かみしめるように、キャンプのまとめの
ミーティングで私が言ったその言葉を反復してくれた。

「ボクたち障害者は健常者に甘えていてはダメなんだ。
自分たちからどんどんいろんな世界に飛び出して、相手に自分のことを
わかってもらおうとする努力をしていかなければならない」

こうまではっきりと主張できたのもまた、根来君たちと出会い、障害という
垣根を超えた付き合いができたから、素直に声にできたのだろう。
同様に彼も五日間の共同生活を体験していたからこそ、私の言葉に心を
動かされたのに違いない。
根来君はその後、仲間と障害をもつ人たちを親元から一時的にあずかる
センターを開いた。」(P183)



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ヘレン=ケラーの言葉を思い出す。
ヘレンはろうあ者だったが、ろうあ者とは随分違う。
なぜだろうか。

それは、育った環境によると思う。
様々な人と交流できたからこそ、あのような人格形成が
なされたのではないだろうか。
そうしたことが、障害のあるなしに関わらず、
全ての人の自立に必要なことだと思う。


ろう学校の廃止や、インクルーシヴ教育に反対する、
あるろう者は、こう言った。

「健聴者の学校なんか行って、一体何になるというのだ。
学校を卒業したら、みんなバラバラになるだろ。
何にもならないぞ。

でも、ろう学校は違う。
卒業後も、ずっと仲良くしていられるんだ。
これが我々の社会(ろう者社会)の財産、幸せなんだ」


ヘレンも、それはわかっていただろう。
しかし、ヘレンは別の道を進んだ。



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『『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(4/5)ベル博士』
〔2014-05-04 20:00〕



より引用。



「やさしい中にも、きびしいはげましのあることばでした。
『石のかべの歌』という、わたしの詩集ができたときには、
――あなたが、美と音楽の世界から追放されている人間でない
ことがもういちどわかって、たいへんうれしい。
――と書きおくってくださいました。
こんなにきびしくわたしをはげましてくださったかたは、ベル博士
のほかにはありませんでした。
大学の卒業がまぢかにせまっていたころのことです。
博士は、卒業したらなにをするかとおたずねになりました。
『卒業したら、サリバン先生とふたりで、人里はなれたところにすみ、
しずかにものを書いてくらしたいと思います。』
と、わたしは答えました。
すると、博士は、いわれました。
『あなたのこれからの仕事をきめるのは、あなたではないんだよ。
わたしたちは、ただ宇宙を支配している大きな力の道具にすぎないのだ。
いいかい、ヘレン。
じぶんを一つの型にはめてしまってはいけないんだよ。
本を書くのもいいだろう。
演説してまわるのもいいだろう。
なにかを研究するのもいいと思う。
できるだけ多くのことをしてごらん。
あなたが一つでも多くの仕事をすれば、それだけ、世の中にいる目の
見えない人や、耳のきこえない人をたすけることになるのだよ。』」
(P171~174)」



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『『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(5/5)マーク=トウェーン』
〔2014-05-05 20:00〕



より引用。



『わたしのすすむべき道』(P190~199)

「しかし、もっとかなしいこともありました。
それは、あのパーキンズ学院の院長でおられた、アナグノス先生のことです。
それはまだわたしが少女のころのことですが、アナグノス先生は、
サリバン先生とわたしを、学院にひきとってくださろうとなさったことがありました。
これに反対なさったのは、サリバン先生でした。
先生は、わたしが一つの学校の内部でだけ生活するということは、
私の教育のさまたげになると、お考えになったのです。
身体障害者というものは、もし、ふつうの環境においておくことができるならば、
そのほうが、かれらだけの生活をさせておくよりは、はるかによいのだ――
これがサリバン先生のお考えでした。
いろいろないきさつから、もしわたしが、あのときにあのまま、学院の中でくらす
ようになっていたら、いまごろもっと幸福になっていたかもしれないと、
考えないでもありません。
なぜなら、学院では、だれもがゆびで話をするのですから、なんの不自由も
かんじなかったでしょう。
それに、わたしは目の見えない子どもがとてもすきなのです。
それに、わたしはアナグノス先生に、おとうさんのようにしたしんでいました。
そして、サリバン先生を、わたしのところへおつれしてくださったのが、
アナグノス先生だったのですから。
しかし、わたしたちは、学院をさりました。
アナグノス先生は、そのとき、「サリバンは恩知らずだ。」と、おいかりに
なりました。
しかし、もしまだ先生がこの世においでになりましたら、あのときのサリバン
先生のなさったことが、けっきょくただしかったのだということを、わかって
いただけたと思います。
わたしの一生をひきうけようとなさった人々の中には、まるでわたしを主役に
した劇を、わたしが考えだしたかのようにしくみ、それがうまくいかないばかりに、
すっかりめんぼくをつぶされるようなかたもありました。
ルーマニアの美しい王妃さまがそうでした。
王妃は国じゅうの盲人を一つのところにあつめて、たのしいホームと仕事を
あたえようと計画されたのです。
それは、「光の炉(ろ)べ」という、うつくしい名前の町になることになって
いました。
その仕事をわたしにてつだえといってこられたのです。
その計画は、たいそうりっぱなものです。
しかし、盲人を独立させるための仕事ではありません。
わたしは、おてつだいできませんと、返事をだしました。
王妃はたいそうおいかりになり、わたしが、じぶんの利益しか考えない女
のようにお考えになったようです。
それきり、文通もとだえてしまいました。
わたしはいま、わたしにあれこれさしでがましいことをけっしてなさらなかった
かたがたに、心から感謝したいと思うのです。
ふしぎなようですが、そういうかたがたにかぎって、ほんとうにわたしをたすけ、
わたしをよろこばせてくださったのです。
ベル博士も、マーク=トウェーン氏もそうでした。サリバン先生はもちろん、
母もロジャース氏も、みんなそうです。
そしていつも、わたしの仕事はわたしがじぶんでえらべるようにしておいて
くださいました。
わたしは、じぶんのすすむべき道にまようとき、いつも常緑樹の林にいくのです。
夜のあいだ霜にいためつけられた花や葉が、朝になるとまた身じまいをただして、
りりしく大空を見あげています。
それを見ると、わたしは心をうたれるのです。
また、そんな林をあるいていると、いつも、くらい土の中で、せっせと苦労している
根の歌をきくような気がするのです。
根というものは、じぶんのさかせたうつくしい花を、けっして見ることはできない
運命にあるのです。」(P196~199)」




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『『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』(1/2)』
〔2013-09-16 18:00〕




「障害を持たない人たちと行動することは、
周りの人々にさまざまな波紋をひろげることになる。
そんななかからほんとうの人と人とのつき合いが生まれてくる。」


「障害者を無視する人、拒否する人に、
障害者もごくありふれたひとりの人間であることを
認めさせなければならない。
そのためには、むりやりにでも、
私たちの存在を見せなければならない。
小さな外出にも、そんな意味がある。」


「私たち脳性マヒは、社会にとっては煮ても焼いても
食えない存在なのだと思う。
煮ても焼いても食えないところからはじまる
開きなおりがなくては、私はこんなに若い夫と
恋はできなかった。
大地を生む決心もつかなかった。」


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『『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』(2/2)』
〔2013-09-16 19:00〕



「自分たちの願いは自分たちの声で訴えなければ
夢をつかむことはできないのだということがわかった。」」


「もちろん、施設にいれば生きていくことはできる。
施設では最低限必要な介助は保証されるが、施設には、
障害者のほんとうの自立生活はないというのが私の考えだ。
障害者は施設を出て、自由と自立を手にしなければならない。
私たち障害者が街なかでふつうの人に溶けあって
自立生活をすることには、ふたつの意味があると思う。
ひとつは、障害者が社会から隔離されないで、
ふつうの町でふつうに暮らすこと
――人間らしく生活することだ。
そしてふたつめは、ふつうの人たちが私たち障害者を
毎日の生活のなかに受け入れ、
みんなで一緒に力と心を寄せ合って生きることを
学ぶことである。
そのためにも、私たちは『施設の充実』ではなく、
『安心して地域で暮らすための介助システムの充実』を、
役所に要求しつづけている。」


「私たち障害者は、長いあいだ、人から世話を受けること、
だれかしらと一緒にいることに慣らされている。
ともすれば、介助者に際限なく依存してしまいがちだ。
その結果、いま、なにをしてもらいたいのか、
自分で考え、自分で決めて相手に伝えることさえ、
しなくなってしまう。
介助の人のいうまま、されるままにはならないまでも、
親切で気ごころの知れた介助者の先まわりケアに
全部をあずけてしまったり、自分ひとりで決めるべきことまで、
相談して決めるようになってしまう心配がある。
これは必ずしもいいこととは言えない。」


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by bunbun6610 | 2014-06-11 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(10/13)『思わぬ告白と思わぬ抗議』

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



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『思わぬ告白と思わぬ抗議』
『1.思わぬ告白』
障害がある人でも気軽に楽しめるプレイスポットを紹介する雑誌の
仕事で、編集者のMさんに車イスを押してもらって、伊豆の洋ラン
パークを体験取材した。

ひと通りの取材が終わり、昼食を食べにパーク内のレストランに
入った。
メニューを見ると、何種類かのカレーが目に飛び込んできた。
カレーならスプーンを口元に運んでもらえさえすれば、とりあえず
用は足りる。
食事介助に慣れていない彼にもさほどの負担がかからないと思い、
その中からタイカレーを注文した。

すると、取材に同行していたカメラマンと雑誌のアドバイザーも、
それぞれビーフカレーと和風カレーを頼んだ。
頭をかきながら最後まで迷っていたMさんは、仕方なさそうに

「それじゃ、僕もビーフカレーでいいです・・・」

オーダーした皿がくると、さっそくMさんが私に食べさせはじめた。
でも、私の皿が三分の一ぐらい減っても、自分のカレーには口を
つけようとしなかった。
私の介助に精一杯で、食べる余裕がないのかと

「Mさんも食べてください」

と声をかけても、

「僕はあとから食べますから大丈夫です」

そして、私の皿が半分ぐらいになると、彼は咳き込みはじめ、
テーブルの上の紙ナプキンで額の冷や汗を拭き出した。

その場にいたほかの三人が口々に

「どうかしたんですか? 大丈夫ですか?」

と心配気に尋ねると、彼は苦笑いしながら

「実は僕、肉の形が丸々わかる料理を見ると、元の牛や豚や
鳥が殺されている場面を連想してすぐに気持ち悪くなっちゃう
んですよ」

思わぬ告白に、私たち三人が

「そうなんだ・・・」

と唖然として相槌をうつと、Mさんはさらに

「これもてっきり肉はカレーや野菜にまぎれて、そのままの形
は見えないと思って注文したんだけど」

と、自分の皿の牛肉のかたまり2、3個を苦々しく眺めた。

結局、額の冷や汗を拭き拭き私に食べさせるだけで、彼は
自分のカレーには一口も手をつけなかった。

カメラマンと雑誌のアドバイザーがもう一度パーク内の写真
を撮ってくると席を立つと、今度は少々リラックスして、事の
おこりを話しはじめた。

それによると、35歳になる彼の幼稚園時代、家から持たされ
たお弁当に牛肉を使った献立があったそうだ。
食べている途中でお腹が一杯になった彼は、その脂身の部分
を残そうとした。

ところが、幼稚園の先生は

「残してはいけない」

とむりやり口を開けさせ、脂身を口の中へ押し込んだ。
そのあとすぐ、気持ちが悪くなった彼は食べたものはすべて
吐き出してしまったという。

以来、彼は30余年も“肉恐怖症”に取りつかれているわけだ。
その恐怖は私の障害と違って、目に見えない分だけ内にこもり、
より大きなストレスになっていたのではないだろうか。

実際、これまで彼は家族以外の人間とはなるべく一緒に食事
をしないようにしてきたというし、そこまでのルーツを人に話した
のも私が初めてだそうだ。
いやおうなく、障害をむき出しにして生きていく私を前に、
ちょっぴり気を楽にしてくれたのだろうか。


『2.思わぬ抗議』
前項の「思わぬ告白」が、日本経済新聞夕刊の連載コラムとして
世に出た翌日の夕方、編集担当のNさんが深刻な声で電話を
かけてきた。

「昨日のコラムを読んで、東京都食肉市場(芝浦と場)から正式な
抗議がありました」

折りしも、集団発生した病原性大腸菌O157による食中毒で、
感染した子供たちへのいじめ問題が発生して、日本中が揺れて
いた8月の下旬のことだった。

抗議を受けた箇所は、

「実は僕、肉の形が丸々わかる料理を見ると、元の牛や豚や鳥が
殺されている場面を連想してすぐに気持ち悪くなっちゃうんですよ」

という表現。
それが、と場で働く人たちへの差別につながっているというのだ。

思ってもみなかった抗議だった。
電話を切って一時間余りで、対応を話し合うため我が家に駆けつけた
Nさんは、

「なるべく早いうちに、直接先方へ行ってこちらの真意を説明するか、
コラムのスペースを割いて説明のコメントを載せるかしたほうがいい
と思います」

と、言った。

言うまでもなく、私にはと場で働く人たちを差別しようとする意識など
みじんも働いていなかった。
ただ、Mさんの「肉恐怖症」の現実と、それが彼自身の見えない障害
として心の大きな負担になってきたこと、そして原因となった幼稚園
時代の一件を引き起こした先生の横暴さを伝えようとしただけだった。
だから私には、新聞社がどう言おうと、謝罪したり、原稿の内容を
訂正するつもりは毛頭なかった。

その一方で、相手に面と向かって私の心持ちを話さなければという
思いに駆られた。
Nさんもその意向に同意してくれ、コラムが出たちょうど一週間後、
言語障害の言葉の通訳として母にも付き添ってもらい、芝浦と場
へ出向いた。

現地に向かう車の中で、Nさんが

「今日は言いたいことを存分お話しください」。

と場に着くと、新聞社の文化部長と、法務室の室長さんがすでに
到着していた。

会議室に通されると、まず経営者側にあたる都の職員3人と面談し、
その後で労働組合の役員5、6人と相対した。
それぞれ一時間半余り、合わせておよそ3時間を費やした。
法務室長さんは都職員とも組合員とも以前から面識がある様子で、
再会の挨拶を交わしていた。
面談の冒頭、Nさんが口火を切った。

「松兼さんは障害者をはじめ、一貫して社会的な弱者に対する差別
と闘うために文章を書き続けている方です。
ですから、今回のコラムでも、と場で働くみなさんを差別しようとする
意図はまったくなかったと思います」

まさにその通りだった。
それを受けて私も、問題の箇所の表現はMさんの“見えない障害”
を説明するほかの何ものでもないことを力説した。

コラムの中では字数の関係で書かなかったが、Mさんには幼稚園
での一件以前に自宅の庭で鶏が首を絞められる場面を見た経験が
あったそうだ。
Mさんにとってもそれは自分たちが生きていくためのごくごく自然な
光景だった。
ところが例の一件以来、「肉恐怖症」に陥り、仕事の席や宴席で出さ
れたステーキに吐き気をもよおして上司との関係が気まずくなるなど、
数えきれない苦労を強いられてきた。

そのあたりの事情を補足したうえで、

「私は出産時の酸素欠乏によって手足が不自由になりましたが、
それと同じようにMさんの場合、幼稚園の先生の横暴がきっかけで
肉の形が丸々わかる料理を見ると、元の牛や豚や鳥が殺されて
いる場面を思い浮かべて気分を害してしまうんです。
それは彼にとって生活のさまざまな場面でマイナスになっている
生理的な見えない障害なんです。
だから、問題の箇所は彼の障害の説明であって、そこに差別意識
があるはずもありません」

それを聞いて、組合書記長のA氏も、

「そういうことってよくあるよね・・・私も小学校の時分に同じような
経験をしたことがあります」

と、小さくうなずいた。
A氏は最初の自己紹介のなかで、と場での仕事のかたわら、長年、
障害をもつ人たちの自立生活を支援する活動に関わっていること
を話してくれていた。
そのためか、私を見つめる視線も自然で、張りつめた緊張状態の
なか、なぜか彼にはホッとさせる雰囲気が漂っていた。

その一方で、別の組合員の一人は少し声のトーンをきつくして、

「Mさんや松兼さんの中に差別意識がないことはよく分かりました。
でも、“殺されている場面を連想して”という言い方をされると、
私たちにしてみれば自分らの職業を否定されているようで黙って
いるわけにはいかない」

たしかに発信者には相手に対する差別意識や悪気がなくても、
受け手にとっては不愉快な結果を招くこともある。
以前、着替えを手伝ってもらっていた大学時代の友人に

「お前をこうやって介助していると、将来、自分の赤ん坊ができた
時も世話には困らないだろうなあ・・・」

と、笑って言われたことがあった。
友人にしてみればとても素直な気持ちだったのだろうが、

「俺は赤ん坊と同じなのか?!」

と、ちょっと不愉快な気分にもなった。
とはいえ、友人の素直な気持ちを差別意識だとは思わなかったし、
その場で声に出して怒ることもしなかった。

物を書いて世に出す立場にある者は、己の文章が他者を傷つける
恐れがあることを自覚して仕事に臨まなければならない。
ところが今回、私は思わぬ抗議を受けるまで、と場で働く人たちの
存在や彼らに対する差別が根強く残っている現実をまったく頭に
入れていなかった。
それはやはり物書きとしての私の落ち度だった。

組合員にも、私の認識不足を認めた。
そのうえで、次のように問いかけた。
恐ればかりにとらわれていたら、書き手それぞれの視点や想像力
が封殺されてしまうことだってなりかねないからだ。

「人は個々にいろいろな考えをもって生きていますから、すべての
人が納得するものを書くのは難しいと思います。
仮にそれが現実になるとしたら、戦時中の国家による言論統制と
同じ状態を意味して、むしろとても危険なことではないでしょうか?」

先の組合員は、

「それでも新聞などの大きなメディアでああいったことを書かれると、
書き手の松兼さんの意思には関係なく、一人歩きして私たちに
対する差別を助長してしまう危険性があるんですよ」

「障害とともに生きる私もこれまでたくさんの差別と遭遇してきました
し、これからもあらゆる差別と闘っていきたいです。
それにはまず、差別の状況を分かりやすく一般の人に知らせる
必要があると思います。
その際、場合によっては差別を受ける当事者にとって嫌な表現も
使わなければならない時もあります。
でも、それは決して差別を肯定しているのではなく、差別と闘う
第一歩なんです。
私は人から“かたわ者”と言われても頭にきません。
障害をもった自分にプライドをもって生きているから、言葉で攻撃
されても何ともありません。
むしろ、それを口にした人の心の貧しさと闘っていこうと思うんです。

小きざみに体を左右にゆらし、つばきをまき散らしてそう言った
私の姿に一瞬、会場全体がシーンとなった。」
(P173~180)


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by bunbun6610 | 2014-06-10 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(9/13)一人前の障害者

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



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「『一人前の障害者』
大手企業の工業デザイナーとして活躍する友人は、身体の成長とともに
軟骨が摩擦してもろくなったり、けずれていく珍しい病気をもって生まれて
きた。
そのため、身長は小学校高学年程度で止まり、足や手の関節にも変形
した部分が見られる。
幼かった時分には治療方法を求め、両親に連れられていくつもの病院を
転々とした。
でも、彼自身は20代半ばまで

「自分が障害者だと思ったことは一度もなかったし、周りからそう見られる
ことがいちばん嫌いだった」

とのこと。
実際、学生時代も就職後も自分が健康な仲間たちと何ら変わりないように、
無我夢中で振る舞ってきたそうだ。

たとえば、会社のある大阪から出張で月2、3回東京まで行き来していたころ、
駅の階段を上り下りすると、足に過度の負担がかかるので、毎回、自家用車
を一人で運転して片道8時間以上かかる夜の高速道路を飛ばした。
会社にはそれを悟られまいとして、「新幹線を使っている」と言い続けていた
という。
強く生きようとするあまり、現実の障害を自身の一部として受けいれようと
しなかったのだろう。
その当時、障害をもつ人たちとの関わりも意識的に避けていた。

「車イスに座ったり、杖をついている人を目の前にすると、普段は忘れようと
している僕自身の障害を突き付けられるようでとても嫌だったんです」

が、27歳の時に転機が訪れた。
クライアントの大規模な展示会をチーフでプロデュースしていた彼は、
3、4日徹夜同然で現場に詰めた。
その間中、ずっと立ち通しだったため、膝にたまった水が化膿して歩けなく
なってしまったのだ。

「あの時、初めて自分がほかの人とは違うっていうことに気づいて、
このまま無理な生き方をしていたらダメだと思いました」

と、振り返る彼。

そう思いはじめると、もっと障害をもつ仲間たちと付き合ってみたいという
気持ちも自然に湧き、福祉施設や作業所に足しげく通うようになった。
その中で自分より重度の障害がありながら、生き生きと暮らしている人たち
の姿を目の当たりにして、

「彼らを見ていて、僕も“一人前の障害者”にならなきゃアカンと心に決めた
んです」

誰でも年とともに、何らかの障害をもつようになる。
それを嫌悪するのではなく、人間らしいものとして受けとめる心に、本物の
豊かさが宿るはずだ。

彼は最近、公園などへ遠出する際、アメリカ製のファッショナブルな車イスに
乗るようになった。
車イスのうしろにはたいてい、障害をもつ人たちの作業所に勤務する奥さんが、
ニコニコほほ笑みながら介助役として立っている。
彼にとって、それはきっと人生をより自然に、より楽しくデザインしなおした
シンボルなのだろう。」(P163~165)

「クヨクヨ悩んでいるより、とにかくまずは解決のための人間関係づくりだよ」
(P172)



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「成長の証」- ファッショナブルな補聴器を装用する
聴覚障害者との共通点

聴覚障害者も、ろう者は両耳に耳掛け型補聴器をつけて、
堂々と街を歩いているが、難聴者はわざと長髪にして、
補聴器が見えてしまわないようにする人がよくいる。
障害を隠さない障害者と、隠す障害者との違いだ。
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by bunbun6610 | 2014-06-09 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(8/13)ホスピス

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)




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ホスピスについて
「痛みをコントロールする薬を飲む時間を定めたり、傷口のガーゼの
汚れをチェックするなど、必要最低限のことはスタッフ側から患者さん
に促すこともある。
が、基本的には患者さんの意思と選択で毎日を設計していくのである。
ときにはホスピスのラウンジを使って、子供の結婚式や仲間たちとの
“最後の晩餐”を開きたいという患者さんもいるとのこと。

「正直言って初めてのときは、そんなことをやられたら困っちゃうんじゃ
ないか、と戸惑うこともありました。
しかし、一度やってしまえば、次に同じことを言われても、そのときには
戸惑うことはありません」

と、百戦錬磨の黒川婦長。

一般にホスピスというと、どんな「わがまま」でも通る場所なのかと思わ
れているそうだが、当の患者さんはわがままを言っているつもりは毛頭
ないのだ。
限りのある命を最大限に自分らしく、悔いなきものにしようと精一杯の
注文を出している。
そう考えることが、聖ヨハネホスピスを支える大切な価値観なのだろう。」
(P71)


「「たとえば患者さんが

『頭が痛い』

と言ったときに、

『ではお薬を飲んで下さい』

とは言いません。
まず、

『何かお薬飲みますか』

と聞くのです。
それが私たちの基本なのです」

黒川さんの言葉に

「僕も、ホスピスにはこれまで日本人が一番苦手だった自己決定の大切
さを社会に発信していく役割があると思います」

と言った、その舌の根も乾かないうちに、周りの目ばかりを気にして、
自己決定を遅らせている私。
その恥ずかしさに照れ笑いしながら、黒川さんに

「やっぱりビールをいただきます」

と、告げた。
すると、山崎さんも

「それじゃ、僕もビールにしよう」

と、ニコニコした。

山崎さんの話によると、ホスピスに入院する95%の人が自ら末期ガン
であることを知っているとのこと。
つまりホスピスへ入ること自体、一般病院での意味のない延命治療を
拒否し、残された時間を最大限に自分らしく生きようとする患者さん
本人の自己決定なのだろう。

患者さんが自己決定するには薬や病状に関する正しい情報の提供が
必要になる。
ところが、死を医療の敗北と考え、タブー視する一般病院では、患者に
真実を隠したままその場しのぎの治療を行い、患者は苦痛と不安を抱い
たまま息を引き取ることも多い。
それは決して「納得できる死」ではないはずだ。

一方、少しでも病気を治したいと願う患者の方も、自身が置かれた事情
がよくわからないまま、最初から医師に「おまかせします」と、言ってしま
いがちだ。
黒川さん曰く、

「人は誰しも亡くなるということを前提に、患者さんとおつきあいするところ」

だという桜町病院ホスピスでは、そうした「おまかせします」も、医師の
一方的な治療も考えられない。

「痛みで食事ができなくなった方に点滴をする場合も、カロリーの高いもの
にするか、低いものにするかをお伺いするのです。
その際、高いものにすれば、長く生きられるかもしれないが、ガン細胞にも
栄養が行き渡るから痛みがひどくなって、余計に苦しむことになるかもしれ
ないという点まできちんとお話しします。」

山崎さんの説明を聞いて、ホスピスがいかに民主的で、かつ、厳しさも
備えた場所かを痛感した。
実際、患者さんの中にも

「自分で選択しなければならないから、厳しいところだね」

と言った人もいるという。

考えてみると、医療の世界に限らず、私たちはこれまで権威や専門知識
をもつ人たちに答えを委ねるばかりで、自分自身の判断と責任によって
進路や物事を決めていく習慣があまりなかった。
自らの死について他人(医者)まかせにしてしまっては、あまりにも悲しい
ことではないだろうか。

もちろん、患者さんが

「自分だけでは判断できないから、どちらがいいと思いますか?」

と、問うこともあるという。
そう言われて初めて、医師や看護婦さんは専門知識に基づいた自身の
意見を口にするだろう。

また、最初は自己決定をしていた人も、病状の変化に伴い、だんだん
考えることが辛くなって

「一番いいと思う方法でやって下さい、おまかせします」

と言う場合もあるそうだ。
これはむやみやたらな「おまかせします」とは、まったく違った類の

「おまかせします」

だろう。
患者さんとホスピススタッフの間には、それまでの情報や意見のやりとり
で培われた信頼関係があるのだ。
その信頼にはきっと、

「この人なら、安らかな“納得できる死”へと導いてくれる」

という思いが込められている気がする。

死は誰にとっても、人生で最大にして最後の未知なる体験である。
だから、とてつもない不安や恐怖がつきまとう。
が、山崎さんも黒川さんも、安らかな死を迎える患者さんたちを見送って
いると、自分の死がこわくなくなったという。
患者さんたちが死と向き合いながら、自分らしく生きる日々の尊さを示し
てくれているからだろう。
それは、その人の最後の伝言でもあるのだ。」(P73~75)


「たとえば4年前、療育センターの紹介を受けて入院のために直行した
T病院でのこと。

まず初診を受けるように言われたのだが、40度近い高熱があるのにも
かかわらず、外来待合室で車イスに座ったまま一時間近く待たなければ
ならなかった。
ようやく順番が回ってきて、5,6人いる医師ごとに壁で仕切られた診察室
へ入ろうとすると、出入口も中のスペースも狭く、車イスの先端が何度も
壁にぶつかってしまった。
やっとの思いで中へ進むと、今度は50歳前後の医師が見下ろすような
口調で、

「こっちの言っていることはわかるの?」

と、母に尋ねた。
彼は、私が車イスに乗っているというだけで意思疎通ができないと思ったの
だろうか?
私の怒りを代弁するように、母は憮然と答えた。

「もちろん分かります。
一応、大学を出ていますから」

が、その医師はそれ以降も母にばかり質問を向け、私の目を見て話そうと
しなかった。」(P87~88)


「『付添いが入院の交換条件?』
T病院は看護婦さんだけが患者の世話をする基準看護で、私的に雇う
付添いさんはもちろん、原則的に家族の付添いも禁止されていた。
が、婦長さんは入院した直後、母に、

「申しわけありませんが、人手不足なのでご家族の方に付添いをお願い
したいんですが」

と、切り出した。
それは、私のような手間がかかる重度障害者やお年寄りが病気で入院
しなければならなくなった時、多くの病院で家族に求められる交換条件
(?)なのだ。
母は、苦笑いして、

「はい、そのつもりで来ましたから大丈夫です」

とはいえ、四六時中の付添いは60歳を前にした母にとって、やはり
過度の負担となった。」(P89)


「『もっと他の言葉を!』

「目が覚めるように、そばにいる時はできるだけ声をかけてあげてください」

同室の脳梗塞のAさんの家族に、看護婦さんが言った。
そのアドバイス通り、長男家族のお嫁さんとお孫さん二人が毎日欠かさず
交代で病室に来て、あれこれと話しかけていた。
その中で必ず、選挙演説のごとく連呼されるのが、

「おじいちゃん、頑張って!」

家族以外の見舞い客も同様の言葉を発していた。
でもそういう時、Aさんが目を開けることはほとんどなかった。

「どうして私たちが来ている時に目を開けてくれないんだろう・・・」

20歳前後の孫娘が残念そうに言った。隣のベッドで聞いていて、つい、

「毎日、同じことばかりを言われて、Aさんも閉口しているんだよ」

と、つぶやいた。
障害とともに生きる私は、健康な時でもよく人から「頑張って!」に類する
ことを言われ、「努力」を強要されがちだ。
過日も私の著作『障害者に迷惑な社会』(晶文社)を読んだテレビの番組
制作会社のお偉方から、

「障害があるのに、ライターとして頑張っておられるので番組をつくりたい
のですが・・・」

との打診の電話を受けた。
その瞬間、

「こういう人こそ障害者に迷惑なんだ!」

と思い、それを皮肉を込めてこう伝えた。

「私はお酒を飲んだりオールナイトの映画を観に行ったり、“不良”ばかり
していて、少しも頑張っていないんです。
ですから、そちらの番組意図には合わないと思いますよ」

意外な反応に、その人は唖然とした口ぶりで、

「あっ、そうですか・・・それではもう一度検討してみます」

あれから一年以上が経つが、二度目の電話はかかってこない。
たぶん、不良障害者の番組はとても作れないとあきらめたのだろう。

こういう経験を繰り返しているうちに、どうも人一倍「頑張って!」に抵抗感
を抱くようになったらしい。

さて、「頑張って!」にはなかなか目を覚まさなかったAさんも、家族が
いない折、若い看護婦さんが身の回りの世話をしている時にはたびたび
目をパッチリ開けて、彼女たちの体にタッチしようとした。

「まったくAさんたら、エッチなんだから!」

看護婦さんのたてる声に、おじいさんがただ無気力になっているのでは
ないことがわかって、こちらも笑顔になった。」(P114~115)


「もちろん、患者の家族は早く元気になってほしいという願いも込めて
「頑張って!」を口にするのだろう。
それが大きな励ましとなって、衰えかけた生命力や自然治癒力を蘇らせ、
回復のきっかけになることもあるだろう。
でも、むやみやたらと使ったり、相手の状況を考えないで口にすれば、
患者の苦痛にしかならない場合も多いのでは?
とくに、頑張っても治らない病と向き合う患者にとって、これほど残酷な
言葉はないだろう。

大江健三郎さんが家族で実家の四国に帰省した折、知的障害をもった
長男の光さんは、年老いたおばあさんからよく

「いままでたいていのことは体験してきたけれども、死ぬことだけは
初めてだから、しっかりしていなければならない」

と、問わず語りされていたそうだ。
それが頭にこびりついていた光さんは、東京に戻る際におばあさんへ
贈る言葉を考えに考えた末、大きな声で、

「元気を出して、しっかり死んでください」

それを聞いておばあさんも、

「はい、元気を出して、しっかり死にましょう」

大江さんのエッセイ集でそんな二人の会談を読んで大笑いし、久し振り
にとても温かい気分に包まれた。
と同時に、「頑張って!」よりはるかに吟味された光さんのその言葉に、
驚きにも似た感動を覚えた。
実際、その後おばあさんは大病をされたが、光さんの

「元気を出して、しっかり死んでください」

が一番の励ましになったとのこと。」(P116)



「『回診の威圧』
ドレーンがまだ挿入されていた入院3、4日目のお昼前、婦長さんが
穏やかな口調で、

「今日の午後、回診がありますのでよろしくお願いします」

それを聞いて、また「T病院とは違うなあ」という思いが走った。

T病院でも毎週水曜日の午後に、内科の部長やら副院長やらの
回診があって、その30分前ぐらいになると、病室に、

「もう少しで先生がいらっしゃいますから、部屋を片付けておいてください」

と、準備をせかす看護婦さんのあわただしい声がした。
そう言われるとこちらも「急がなければ・・・」と焦ってしまい、身動きがとれず
自分では何もできないものの、ベッドの周りをキョロキョロ見渡した。
いざお偉い先生が婦長さんと十数人もの部下(医師)を引き連れてやって
来ると、威圧されているようで心細くなった。
そして、付添いの母はこの時に限って病室の外に出され、私一人が医師
たちの勉強台にされた。
彼らの間ではわけの分からない専門用語が飛び交うばかり。
聞いているだけであれこれ余計な心配が走り、妙に胸が騒いだ。
それは回診後も増幅され、いっそう具合が悪くなってしまったことさえあった。」
(P117)


「とはいえ、510病棟でも決して人手が足りているわけではなかった。
平日であれば、午後になってもいろいろな検査、処置、膨大な薬の仕分け
などに追われ、看護婦さんが患者の散歩に付き添う余裕はとてもなかった。

その点、休日は勤務につく人数は2、3人少なかったものの、緊急の場合
を除いてはふだんの仕事がない分、散歩などの時間をつくりやすいように
思えた。

別の日、朝の清拭の後、看護婦さんが声のトーンを落として、

「ほんとはこんなことしたくないんだけど・・・ごめんなさいね」

と言いながら、Aさんの両手をヒモでベッドの柵に縛りつけた。

Aさんは病後まだ食事がとれず、鼻に通した管から栄養を補給していた。
この管は、かなり太いものらしく、点滴のように注射針を使って挿入する
際には、うめき声が上がるほど苦しい思いをしなければならなかった。
挿入された後も管がどうにも邪魔のようで、無意識のうちに手で抜き
取ってしまった。
とはいえ、管はAさんの命綱。
抜かれたままにはできず、悲痛なうめき声の中、医師と看護婦さんが
再度苦心して鼻へ。
それが2、3回繰り返されるうちに、仕方なくヒモで手を縛るようになった
のだ。

「ずっとそばについてあげられればいいんだけど、とてもそうはいかない
からね・・・」

手を縛りおえた看護婦さんが、自分に言い聞かせるように忍びなく
言った。
縛られる側、縛る側、双方を苦しめる日本医療の一つの現実を見る
思いがした。

にもかかわらず、東京都はナースの数を削減しようとしているとのこと。
看護婦さんの間では冗談半分で、

「(人員削減を決めるような)都議会議員が病院に来ても診てあげない」

という怒りが飛び交うこともあるらしい。」(P124~125)


「『初心の感動』
時間は少し前後するが、入院して一週間ほど経った頃、Oさんが、

「今日の午後は手が空きそうだから、久しぶりに頭を洗おう!」

と、言ってくれた。
入院前と合わせて20日以上も風呂に入っておらず、頭がかなりかゆ
かったので、車イスに乗って洗面台で頭を洗ってもらっていると、

「ワァー、気持ちいい!」

心の底から感嘆の言葉が飛び出した。
すると、Oさんはちょっと申しわけなさそうに、

「もう少し手があれば、もっと頻繁に洗ってあげられるんだけどね・・・」

それを聞いて、ふと4年前のT病院での看護学生のことを思い出した。

三週間の病院実習で私の担当になった彼女は、朝8時から午後の
4時まで、諸々のミーティングや自分の食事時間以外は私のそばに
いた。

ある日、彼女も病室にお湯をいっぱい入れた洗面器を持ってきて、

「きょうは足浴しましょう!」

とニコニコして言った。当時も高熱と痛みのため、ぬれタオルで体を
拭いて
もらうだけで、入院前を合わせると一か月半以上も風呂に入って
いなかった。
それだけに足だけとはいえ、久しぶりにお湯につかれるチャンスに
歓声を上げて、

「そんなの初めてだなあ・・・」

彼女はちょっと怪訝そうな顔をして

「一か月間、一度もやってくれなかったんですか?!」

小さくうなずくと、一瞬腕組みをして、

「どうしてなんだろう?」

彼女が習ったばかりの看護マニュアルでは、足浴はもっとひんぱん
に行われることになっていたのだろうか。
もしかしたら、そこに看護の現実とのギャップがあったのかも知れない。

母が横から背中を支えるなか、ベッドに腰掛けて彼女に足を洗って
もらうと、洗面器に一か月分の垢が浮かび上がり、何とも言えない
快感に包まれた。
Oさんに言ったのと同じように、

「ワァー、気持ちいい!」

彼女は満面の笑顔を浮かべて、

「そう言ってもらうと、本当に嬉しいです」

あれから4年が過ぎた今、看護の一線で活躍しているであろう彼女は、
あの時の“初心の感動”をどれぐらい覚えているだろうか。
そして忙しい現実の中で、ひと月にどれぐらい患者さんの足浴をしている
だろうか?」(P125~126)



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>「おじいちゃん、頑張って!」


これにはもう、本当に笑ってしまう。
Eテレ『バリバラ』でも

「障害者はこの言葉が、健常者から一番言われる」

と言っていたのを思い出す。


(参照記事;『バリバラ団の「かんばらなくていい!」に賛否両論』


障害者のいる現場へ何度も行って、そして実情を理解している
記者ならば、もうわかるのだろうが、わかっていないのは頭の人
(編集長)だということが暴露された記事だ。
写真だけは絶対というのは、要するに健常者は、障害者を見世物に
するのが好きなのだろう。
お涙頂戴モノを読むのが大好きで、それで自分も励まされる、
と思い込んでいるようだ。
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by bunbun6610 | 2014-06-08 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(7/13)障害者にとっての“家族”とは

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)



この記事には、私が勝手に、下の副題をつけることにする。

副題;『「わたしは、ヘレンを愛していますよ」(サリバン)――“愛”という関係性がもつ意味』



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「毎日の生活に人の手助けが不可欠な私のような重度の障害者には、
「家族」はなくてはならない存在である。
が、ここで言う家族とは、戸籍上に記される「血族」だけを指しているの
ではない。
これまで日本の障害者の日常を窮屈なものにしてきた原因の一つも、
この血族のみに頼りがちな福祉施策にあったことは確かだろう。

もちろん、親をはじめとする血族はその人を支える家族であることは
間違いないが、絶対視してはお互いの生活を束縛してしまうことになる。

障害者のより自由な社会参加を実現するためにも、それぞれの意志や
知で結ばれる新しい家族をどんどん増やさなければならない。」
(P49)


「周知の通り『奇跡の人』は、1歳半の時の病気がもとで幼いころより盲、
聾、唖という三重の障害を負ったヘレン・ケラーと、ヘレンの若い女教師
アニー・サリバンの運命的な出会いとその闘いの日々を描いた物語である。

そこで一貫して焦点があてられているものは、ヘレンに言葉を獲得させ
ようとして厳しくも献身的な教育をするサリバン先生の姿だった。
原題の“THE MIRACLE WORKER”が示すように、「奇跡の人」とは
まぎれもなくサリバン先生を指しているのだ。

そしてサリバン先生が起こした“奇跡”の一番の象徴が、あばれて水差し
の水をこぼしたヘレンを力ずくで庭のポンプに連れていき、ポンプの水を
汲ませようとした時、手に流れる水にヘレンが“WATER”と叫ぶ、あの
有名なラストシーンだろう。
彼女たちの姿は、障害者がすばらしい指導者との出会いからハンディを
克服し、社会参加していく美談として何度となくさまざまな形で紹介されて
きた。

戯曲のシナリオを収めた本の裏表紙にも

「人間社会から隔絶された本能的欲望がおもむくままに生きる少女、
そのいわば野生の生物に何とか理性の光をともす。
全てのものには名前がある。
言葉を手に入れる。
人間は言葉によって感じ、知り、わかちあうことができる。
それがはじまりであり、全てである」

と、サリバン先生の偉業をたたえた一文が記されている。

もちろん、サリバン先生に出会い、言葉を獲得したことでヘレンの世界
が大きく変わったことは間違いない。
でも、それはサリバン先生の奇跡だったのだろうか?
言葉の獲得が二人の出会いのすべてだったのだろうか?
サリバン先生と出会う以前のヘレンは、人間として目覚めていなかった
のだろうか?

いくつもの疑問が脳裏を駆けぬけた。
私は思い切って、唐突に柴崎さんにそれをそのままぶつけてみた。

すると、芝崎さんは驚いたように身を乗り出して

「実はね、私たちもずっと同じことを考えていたの。
私たちが障害をもつ人たちの芸術作品に励まされたり、触発されたり、
支えられたりするように、サリバン先生もヘレンによってたくさんのもの
を受け取っていたと思うの。
で、何とか新しいヘレンとサリバン先生の関係を舞台にしたいと思って
いたんだけど――それじゃ松か兼さん、そのコンセプトで新しい脚本を
書いてみない!?」

と、目をランランと輝かせた。」
(P51~52) 

「・・・私にも重度の四肢障害と言語障害がある。
慣れているはずの柴崎さんでも、時折、聞き取りづらい言葉もあった。
が、柴崎さんはちゃんと意味を聞き取るまで当然のように何度でも聞き
返してきた。
目の前の障害をそのまま受け入れようとする柴崎さんのような仲間が、
いまの私を支え、可能性をどんどん広げる大事な力になっている。
ヘレンにとってのサリバン先生も、障害を共有するそんなパートナー
だったような気がする。
この思いを伝えるべく、新しい脚本を鼻打ちするためにワープロの前に
座った。」(P53)


「以前、大学で宗教哲学を専攻していた知人からこんなことを聞いた
ことがある。

「奇跡とは、人類が思ってもいないことが起こること。
少しでも人が願ったり、思ったりしたことが現実になることは“奇跡”
ではなく、人間の仕業なんだ」

へレンがアニーとの出会いを通して言葉を獲得したことも、Y君が私の
脚本書きをきっかけに初恋の女性と再会したことも、それぞれの思い
が結ばれた人間業なのだろう。」(P56)


「繰り返し書いてきたように、これまで何度となく描かれてきたヘレン・ケラー
は、サリバン先生の献身的な教育によって障害を克服し、言葉を獲得
する美談だった。

でも、私の脚本作りはそれを疑うことから始まった。
どんなに厄介でも障害はその人の一部であり、個性なのだ。
それを「乗り越え」てしまえば、その人自身がこの世から消えていなくなって
しまう。
サリバン先生との出会いでヘレンが新しい世界を開拓していったことは
確かだが、言葉を獲得した前も後も彼女は一生涯、三重苦と日々つきあい
ながら暮らしていたのだ。
その事実を抜きにしては、ヘレンの人生は描けない。

ところが、新聞をはじめとする日本のマスコミは「障害を乗り越える」的な
取り上げ方が大好きで、障害をもつ人たちが登場する記事やニュースには
必ずといっていいほど、そうした類の表現なり映像が出てくる。

そういえば、テレビ局でニュース番組を担当している知人が、

「阪神大震災関連の番組を作るとき、内容と直接の関係はなくても、
倒壊した建物や道路の映像をぜったい入れろと、上から言われてしまう」

と、愚痴をこぼしていた。
多様性や独自性を旨としなければならないのに、テーマのいかんをとわず、
現実のマスコミ界には目前の部数や視聴率ばかりを気にしたパターン化、
類型化の悪い癖がはびこりまくっている気がしてならない。

Y君も今回の原稿を書く際、上司のデスクから私がワープロを打っている
姿を写真に撮ってくるようにと指示されたとのこと。

逆に言えば、その写真がなければいくらいい原稿を書いても、記事として
掲載しないということだ。

また、Y君は、文中でできるだけ「乗り越える」的な表現を避けようとしたが、
なかなかデスクのOKが出ず、何度も書き直しさせられたらしい。
文中の「不自由さを乗り越え――」は、どうしても「障害を乗り越え――」
とは書きたくなかったY君が、デスクとの攻防のあげく、しぶしぶ文字にした
妥協策だったのではないだろうか?

他方、ワープロの鼻打ちの写真だけは絶対命令だったようだ。

・・・(中略)・・・お互いのスケジュールの都合でわが家まで撮影に来る時間
がなく、事務所にあったパソコンを鼻打ちすることにした。
ちょっぴり不満そうな顔をしたY君に、私は

「デスクにはバレるわけないから大丈夫だよ!」

とウインクした。
事務所のパソコンに触ったのはその時が初めてだったのだが。」
(P58~59)


「別の日にはこんなこともあった。
友人と車イスを押してもらって、奈良で開かれたわたぼうし音楽祭に
出かける時のことだった。
テレビクルーは、彼がわが家に私を迎えに来るシーンからカメラを
まわしたいとのことで、あらかじめ彼にも了承を得ていた。
日差しに弱い彼は、黒いサングラスをかけてきた。
その日はまさに夏の炎天下で、クルーの大半の人も同じような
サングラスをかけていた。

ところが、わが家から少しだけ離れた道路で待ちかまえていたクルー
一行のカメラマンは、

「そんなサングラスをかけていると、視聴者の印象が悪くなるから
外してくれ」

と、友人に言ったとのこと。
彼も即座に

「日差しで目が痛むのでかけているんです」

と突っぱねたそうだが、これは制作側の一方的な意向で事実を曲げよう
とする“やらせ”だと思い、眉をしかめた。

少しあとになって、それをはっきり演出家に言うと

「サングラスにこちらのカメラが映ってしまうから、外してくださいと言ったん
ですが――」

という答えが返ってきた。

それも制作側の都合だ。
ドキュメンタリーの基本は、番組の土台となる当事者の事実や都合が
何よりも優先されることだろう。
それだけは守ってほしいと伝えると、演出家は

「そういうことを言ってもらえてよかった」

と、笑顔をみせてくれた。

その後、カメラ抜きの場所でクルーのスタッフたちと酒をくみ交わした。
彼らも“カメラの束縛”から逃れ、私と膝を交えた話がしたかったという。
そんな彼らにはこちらの言い分に耳を傾け、いい番組に仕上げるため、
私と最後までやりとりしていこうとする情熱がみなぎっていた。」(P63)


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by bunbun6610 | 2014-06-07 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(6/13)レーナ・マリア・ヨハンソンさん

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)




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「ある月刊誌の取材で、国際福祉機器展の記念コンサートのため来日した
レーナ・マリア・ヨハンソンさんにインタビューした。
彼女は1968年、スウェーデン中南部のハーボという小さな村に生まれた。
出産時から両腕がなく、左足も右足の半分の長さしかなかった。
が、ご両親は彼女を障害児としてではなく、一人の娘として育て、あらゆる
可能性に挑戦する機会を作った。

三歳の時に始めた水泳の腕を磨き、1988年、ソウルで開かれたパラリン
ピックに参加。
そんな彼女の存在はスウェーデン中に知れわたった。
18歳の時には、ストックホルムのアパートで独り暮らしをしながら音楽大学
に通い始め、卒業後、神の御心を伝えるべくプロのゴスペルシンガーとして
の道を歩み出した。

60年代前半、レーナさんと同じように障害をもった子供たちが世界各地で
生まれ、薬害として大きな問題になっていた。
しかし彼女のお母さんは、原因となったサリドマイド剤は服用していなかった。

これまで何度かレーナさんの仕事や生活の様子を、マスコミを通して見聞き
する機会があった。
その中で、

「自分が障害をもっていることを、毎日の生活で意識したことが一度もない」

といった彼女の言葉がよく流されていた。
が、時たま弱音をはくことはあっても、進んでハンディの厄介さと向き合うこと
で、人間として生き生きできると考える私は、マスコミを通過した、
「障害を克服した」風のメッセージを聞くたび、「ほんとかなー」と首をかしげて
いた。

というわけで今回、意地悪な想いをこめて、彼女の人生の中で障害がどんな
意味をもっているのか、質問を繰り返してみた。
そのたび判を押したように彼女の口から出てくる言葉は「神様からの使命」
だった。

敬虔なクリスチャンのレーナさん曰(いわ)く、

「障害をもって生まれたことは、神様が私に与えて下さった大切な使命だと
思います。
この障害をもっていることで、より多くの素晴らしいもの、特権、チャンスを
神から与えられているんです。
従って次に生まれてくる時も、障害をもったまま生まれてきたいと思って
います」

この言葉を聞いて、ときどき「障害の厄介さ」に閉口する私は、彼女のたくましさ
に驚いた。
やはり信じるものをもつ人間の強さだろうか。
その一方で私と似た感情を抱いていることにほっとしもした。

レーナさんの本心に触れ、改めて「障害を乗り越える」美談ばかりを作り出す
日本のマスコミの幼稚さを痛感せざるをえなかった。

そういえば、私も何度となく新聞記者やテレビ関係者から、

「どうやって障害を乗り越えてきたのですか」

と質問された。
私は、そのたびに

「ハイ、お酒と、恋で乗り越えてきました」

と答える。
相手はまず次の言葉を失うのが常である。」
(P40~42)

 ※ レーナ・マリア・ヨハンソンさん〔スウェーデンの障害者・ゴスペルシンガー〕



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by bunbun6610 | 2014-06-06 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(5/13)障害者施設の絵画展で

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)




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「一種一級の脳性マヒである私の一番の財産は、どんな状況にも禁じられず、
いきいきした行動力を生み、さまざまな人や出来事にぶつかっていく好奇心
である。
そして、そこから芽生える怒り、知恵は見えない束縛を解き放ち、新しい世界
をつくる原動力となると信じている。」(P32~33)


「東京の劇団で女優をしている友人が、とある障害者施設が主催する絵画展
に出かけた時のことだった。
会場には、その施設で働く、障害をもつ人たちの手による作品が並べられ、
即売も行われていた。
一枚でも多くの絵を売ろうと、案内役の施設職員は一つ一つの作品の素晴らしさ、
芸術性の高さを力説した。

言葉通り、彼女の心をとらえた作品がいくつかあり、なかでも一番目を奪われ
感動した一点を数万円をはたいて買うことにした。
その時、彼女は久しぶりに心が洗われるような絵を自分のものにできて、
とてもウキウキした気分だった。

ところが、代金を払い終わり、案内役から作品を受け取る段になって、

「ご協力ありがとうございました」

と、頭を下げられた。
彼の口ぶりには何のためらいも感じられなかったという。

一瞬にして彼女は、自分が買った絵と彼女自身の感性がおとしめられた
気がして不愉快になった。

「私はなんにも“協力”なんてしてない!
ただ、心を動かされたその作品を自分のものにしたいから買っただけ
なのに・・・」

という怒りにも似た戸惑いが彼女の胸をよぎったのだ。

ついさっきまで、あれほど作品の素晴らしさを力説して売ろうとしていた
職員が、なぜ売買が成立した時点で、募金や慈善事業でもしているよう
な口ぶりに変わるのだろうか?
それではその作品、そのつくり手が、恐ろしく軽んじられてしまう。

もちろん、“ご協力”という言葉を使って頭を下げた職員にしてみれば、
これといった意志をもってしたことではなく、何の気なしに取った行動
だったのだろう。
が、逆にだからこそ彼女は、福祉業界全体に通じる勘違いを察知して
不快感を覚えたのかもしれない。
・・・(中略)・・・
相手から

「お買い上げありがとうございました」

と言われていれば、彼女もいい気分のまますんなりと帰路につけたに
違いない。
芸術作品(感動)を売り買いするというフェアーな関係が生まれたからだ。」
(P33~34)



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by bunbun6610 | 2014-06-05 18:30 | バリア&バリアフリー

『こころの段差にスロープを』(松兼功/著)(4/13)エスカル

『こころの段差にスロープを』
(松兼功/著 日本経済新聞社/発行所
1997年10月7日/初版発行)




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「歓迎会場は新幹線口の反対の北口にあり、
まっすぐ行くには駅の構内を通ることになる。
その途中で30段ほどの下りの階段がある、
そこに“エスカル”と呼ばれる車イス用の
エスカレーターが設置されていた。
エスカルは既存の階段の隅にレールを取り付け、
車イスを搭載するカタツムリのような形をした
ゴンドラを、そのレールに沿って稼動させる
ものだ。

とはいえ、私たちが目の前にしたエスカルの
ゴンドラは階段の下でレールから外され、
大きなビニールのカバーがかけられていた。
また、稼動させるためのリモコンのコントロール
ボックスにも鍵がかけられ、すぐには使えない
状況になっていた。
社協職員の男性は慣れた様子で50メートル
ぐらい離れた売店に鍵を取りに行った後、
ゴンドラのカバーを外し、コントロールボックス
を開けてエスカルを動かした。

結局、私がゴンドラを使って階段を下りきる
までに7、8分を要した。
もし車イスの人が単独でこの階段にさしかかった
場合、インターホンで連絡を受けた駅員さんが
駆けつけてくれるとのことだが、それにしても
かなりの時間待たされることは容易に想像
できた。
ないよりはあったほうがいいのかもしれないが、
それでは障害をもつ人たちがいつまでも気軽に
使えるものとは言えない。

残念なことに、車イスや歩行器で全国各地を
歩いていると、同じような最新福祉機器の放置
状態にあちらこちらで出くわす。
それだけに、K市のエスカルを前にしても

「なんだ、このことか・・・」

とぐらいにしか思わなかった。」(P30~31)



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by bunbun6610 | 2014-06-04 18:30 | バリア&バリアフリー