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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

タグ:小山内美智子 ( 4 ) タグの人気記事


『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』
(小山内 美智子/著 1988年9月16日/第1刷
ネスコ/発行 株式会社文芸春秋/発売)



この本は、最近話題になっている『はだしのゲン』と同じく、
閉架図書(※)になっている書籍です。


(※)[用語]閉架 - 図書館で、利用者が読みたい本や
資料を請求して書庫から取り出してもらう方式。Yahoo!辞書






「どうしてもおねしょがなおらない女の子がいた。
どうしておねしょをするんだろうと、みんなで考えると、
実は、その子は夜中に、

『おしっこ、おしっこ』

と小さな声で叫んでいることがわかった。
職員はずっと離れた職員室にいるので、
その声が届くはずがない。
いまのように、ブザーもなかった。

彼女はがまんできなくてその場でおしっこを
してしまうほかなくなり、朝、職員にみつかって
お尻をたたかれたり、寒い戸外に出されたり
してしまうのだ。

そこでみんなで話し合って、当番を決めることにした。
当番とその子の手を紐でつなぎ、おしっこをしたく
なったら、紐をひっぱって当番を起こすことにした
のである。
そして起こされた当番が職員を呼びにいく。

ところが、他の子どもたちも、昼間の訓練や勉強、
掃除、洗濯で疲れているから、紐をひっぱられても
起きられない。
私も、最初のうちは起きていたけれど、そのうち、
いくら『おしっこ、おしっこ』と言われても、
もうおしっこなんてしてもいいや、眠いんだから、
というふうになってしまった。

次の日、やっぱりおねしょをしているのがみつかって、
職員にお尻をたたかれたり、どなられる。
それをみているのは、自分がそうされているのと
同じようにつらかった。

もう一度、みんなで考えて、疲れていない子が
めんどうをみることにしたら、うまくいくようになった
のである。

忘れることのできない友だちのひとりに、
ルミ子ちゃんがいる。
ルミ子ちゃんは私より一歳下で、歩行器にぶら下がり、
片足でスイスイとこぎ歩く。
しかし、自分で歩行器をはずして部屋に入ることが
できなかった。

職員が介助に来てくれるまで、どんなに寒いときでも、
廊下にじっと立って待っていなければならなかった。

施設の廊下は暗くて寒く、まるで冷蔵庫のようである。
ある日、私が遅くなってから部屋に帰ると、
ルミ子ちゃんが廊下にぽつんと立っていた。
歩ける子はさっさと部屋に入って、暖かいスチームの
前で遊んでいるようだった。

『寒くないの?』

と声をかけ、ルミ子ちゃんの手にさわってみると、
氷のようだ。

かわいそうになって、ルミ子ちゃんの冷たい手に
ハーッと息を吹きかけた。
ルミ子ちゃんは私の手をつかんで泣きべそをかいた。

ルミ子ちゃんも早く部屋に入って、みんなと遊びたいんだ
と思い、自分が歩行器に乗っていたころのことを思い出
してみた。
あのときは、どんなふうにして部屋に入ったのだろう。

まず、入り口に対して後ろ向きになる。
そして少し高くなっている床の段差に歩行器をつけ、
がっちりおさえたところで歩行器からからだを離して
お尻から部屋に入ればいい。
私は歩行器を足でおさえて、ルミ子ちゃんにやりかたを
教えた。

『はい、がんばって!』

でも、ルミ子ちゃんは恐ろしがって、歩行器からからだを
離そうとしない。
首を横に振って、またべそをかいた。
私は腹が立ってきた。

『こんなことぐらい、できないの』

と、ルミ子ちゃんの胸を押すと、ルミ子ちゃんは突然怒りだし、
私の髪をひっぱってギャーとわめいた。
すると、部屋でままごとをしていた手のつかえる友だちが、
私たちを見にきた。
そして、ルミ子ちゃんがお尻をつくあたりにすわって
手をひろげてくれた。

『大丈夫。私がいるから痛くないよ』

ルミ子ちゃんのお尻がストンと床に落ち、
友だちがそのからだを抱きとめた。
部屋にいたみんなが、

『わーっ、ルミ子ちゃん、できたできた』

みんなで大拍手をする。
その日から、ルミ子ちゃんは廊下に立っていなくて
よくなったのである。」


「それから、しのぶちゃんの機嫌の悪いときは、
みんなで声を揃えて

『しのぶちゃんのおかあさん、きれいだものね』

と言うようになった。
しのぶちゃんはたちまちおとなしくなって
いい子になるのだ。
母がときどきかくれてお菓子を持ってくる。
手のつかえるしのぶちゃんに取ってもらい、
口に入れてもらう。
お菓子は半分、しのぶちゃんにあげる。
頭のいい子はすぐにごまかして、
私より多く食べてしまうが、
しのぶちゃんはそんなずるいことはしない。
しょっちゅうおねしょをしたころは、
夜中に私がしのぶちゃんを蹴とばして起こし、
一緒にトイレに行った。
しのぶちゃんは重い知恵おくれ。
私も知能指数60と決めつけられ、

『言ってもわからない子、知恵がおくれているから』

と言われてきたが、知恵おくれとは、
いったいなんだろうかと考えてしまう。
しのぶちゃんは確かに字も読めないし、計算もできない。
しかし、おかあさんを思う心、親切を素直に受け取る心、
頭のいい子といわれる子にくらべて、
決して裏切らない本物の心を持っていた気がする。

ルミ子ちゃんもしのぶちゃんも、よくおねしょをして
叱られていた。

ひとりの看護婦さんが、自分の布団を私たちの
部屋に持ってきて、一緒に寝てくれたことがあった。
すると、看護婦さんが一緒のあいだは、
だれもおねしょをしなかった。
部屋のみんなもとても安心して眠れたのである。

ところが、それが上の人にみつかって注意され、
看護婦さんは一緒に寝てくれなくなってしまった。
たくさんある部屋のなかで、一部屋だけ甘やかす
ことはできないというのが、施設側の言い分だった。

ルミ子ちゃんもしのぶちゃんも、夜中に看護婦さんを
起こしたわけではない。
一緒に寝てくれている、いつ呼んでもすぐに起きてくれる
という安心から、おねしょが止まったのだと私は思う。」


「母が面会にきたとき、毛糸とかぎ針を持ってきてくれる
ように頼んだ。

『そんなのつかえないだろ。だめだよ』

私が泣いて頼むので、母はしぶしぶ買ってきてくれた。
母の目のまえで、両足をつかって得意のくさり編みを
してみせると、母は両足を強くにぎりしめた。
足のうえに冷たいものがポットンポットン落ちてくる。
九歳だった私は、母の涙の意味がわからなかった。
また足をつかったので、あきれて悲しんでいるのかなと
思ったものだ。
その日から、母は私が足をつかっても、
なにも言わなくなった。

現在、歩行訓練や手をつかう訓練はあるが、
足をつかう訓練が行われていないことを、
私は残念に思う。
健常者と同じところを同じように動かそうという
訓練だけでは、絶対にだめだ。
動かないところはいくらやっても、動かないのだから。

それより、足でどうやって鉛筆を持つかとか
口でどうしたら字が書けるとか、残された機能を
生かすリハビリのしかたを発明してほしい。


高校に通いはじめ、足を自由につかうことを許されて、
私の足は手でもあるのだということを、
私は自信を持って考えることができるように
なったのである。」


「高校も卒業が近づいて、いよいよ職場実習がはじまった。
比較的障害の軽い人は、お菓子屋さんや洋裁店、
印刷屋さん、クリーニング工場などに実習に行くことになった。
私のような重度の障害になると、行き先がない。
できることといえば、足で絵を描くことと、足でカナタイプを
打つことだけである。

そのころ、テレビで老人ホームの番組をみた。
そうだ、老人ホームには寝たきりの老人がたくさんいて、
手紙を書きたくても書けない人がいるにちがいない。
目が悪くなったとか、口では言えても文章になると
どうやって書いていいかわからない人もいるはずだと
思って、先生に相談してみた。

『お年寄りから話を聞けば、タイプで代筆できる。
それを仕事としてやりたい』

先生は『そうか』と言って、真剣になってあちこちさがしてくれ、
ある老人ホームをみつけてくれた。
自分にもできることがあったという喜びでいっぱいだった。

私は毎日老人ホームに通った。
最初、バカにされたり、

『あっちへ行け』

と言われたり、頭をたたかれたりしたときには、
大きなショックだった。
やめてしまおうとも思ったけれど、学校のみんなが
仕事の話しをしているのに、私だけ黙っているのが
くやしくて、毎日行きつづけた。

行くときは千葉先生が送ってくれ、帰りは父が
迎えに来てくれた。
ホームの寮母さんや看護婦さんが食事や
トイレのめんどうをみてくれた。
いい人がたくさんいて、私を励ましてくれた。
ホームに通いはじめて四日目に、
やっとひとりのおばあさんが、

『手紙を書いてくれないかい』

と声をかけてくれた。

『なにを書きたいの?』

おばあさんは自分の身の上ばなしをはじめ、
私はそれを全部聞いてから、
『お元気ですか』ではじまる、手紙を書いた。
書き終わったものを読んであげたら、
おばあさんはたいへん喜んでくれた。

『わたしの言ったこと、こんないい文章にしてくれた』

そしてホーム中に見せて歩いた。

次の日から、みんな私をバカにすることをやめ、

『わしも手紙を書いてくれないか』

『わしにも』

『わしにも』

と、たくさんの注文が集まりはじめたのである。
楽しくておもしろい仕事だった。
私はそこに三週間通ったが、そのあいだに三人の人が
亡くなった。」


「そのころ、障害者の親たちが役所を相手に、

『北海道に福祉村を』

『この子たちが生きているあいだに、
一日も早く福祉村をつくってください』

と訴えつづけていた。

『小山内さん、あれが本物だと思うかい』

と西村さんが言った。
西村さんのその一言が、『いちご会』をつくるきっかけに
なったのである。
西村さんの言葉を私なりに考えた結果、
自分たちの願いは自分たちの声で訴えなければ
夢をつかむことはできないのだということがわかった。



「ケア制度が確立していないカナダで、
障害者の75パーセントが独立して職業を持ち、
地域で暮らしていることを聞いて驚いてしまった。
職場では、女としての差別はあるけれど、
障害者としての差別はありませんと、
キャサリンさんははっきり言った。

『私はひとりで暮らしはじめて八ヶ月になります』

そう言うと、キャサリンさんは、

『あなたのご両親はあなたをとても誇りに思っているでしょうね』

と言った。私は返事に困った。
まだまだ日本では、私のような重度の障害者が
親や施設に頼らないで、自主的に暮らしたいと考えると、
まわりの人は誇りに思うどころか、顔をしかめるのだ。
親もとや施設で暮らすほうが、危険がなくて楽でいいではないかと
言うにきまっている。

『そうか、おまえもおとなになったな』

と祝福して送り出してくれる親が、日本には何人いるだろうか。」


「一日おき、しかも三時には帰ってしまうヘルパーの
介助だけでは、私は生きていけない。
もちろん、施設にいれば生きていくことはできる。
施設では最低限必要な介助は保証されるが、施設には、
障害者のほんとうの自立生活はないというのが私の考えだ。
障害者は施設を出て、自由と自立を手にしなければならない。
私たち障害者が街なかでふつうの人に溶けあって
自立生活をすることには、ふたつの意味があると思う。
ひとつは、障害者が社会から隔離されないで、
ふつうの町でふつうに暮らすこと
――人間らしく生活することだ。
そしてふたつめは、ふつうの人たちが私たち障害者を
毎日の生活のなかに受け入れ、
みんなで一緒に力と心を寄せ合って生きることを
学ぶことである。
そのためにも、私たちは『施設の充実』ではなく、
『安心して地域で暮らすための介助システムの充実』を、
役所に要求しつづけている。


ところが現実はどうだろうか。
不充分なヘルパー派遣を補うために、私たちは、
自発的に自分の時間をさいて無償で介助にきてくれる、
ボランティアの手を頼らなければならない。
私たちにとって、ボランティアの確保は、文字通り、
生命にかかわる問題なのだ。
私たちは生きていくために、夜も眠れないような思いをして、
自分の手足でボランティアをさがさなくてはならない。」


「こうして来てもらったボランティアにも、
やってもらえることには限界がある。
あくまで自発的な意思に基づくボランティアが、
それぞれの事情でやめていくのを、
私たちはとどめることはできない。
卒業、結婚、就職、転勤など、事情はさまざまだ。

『私、来月結婚するから、もう来られません』

という若いボランティアを、

『おめでとう、よかったね』

と明るい声で送り出すのだが、心の中がまっ暗になり、
顔がひきつり、冷や汗が出てくるのをどう隠そうかと
苦労する。
代わりの人をどうやってみつけようかと、不安でいっぱいなのだ。
不安はときには怒りにさえなってしまう。
しかし、この不安や怒りをボランティアにぶつけるのは
まちがっている。
私たちの生活の安定と保障は、ボランティアの責任では
ないのだ。
私が望むこと、実現させるように努力しなければならないのは、
役所の行うヘルパー制度の充実なのである。
・・・(中略)・・・
もうひとつ、つけ加えれば、ヘルパーの層がなるべく厚く、
私たち障害者が、ヘルパーを選べるようになったらいいなと思う。
わがまますぎると誤解されそうだが、からだを他人に預けることは、
介助者も気をつかうだろうが、私たちにとっても、
かなり気をつかう微妙なことなのである。
介助者と気が合うか会わないか、ささいなことのようだけれど、
思いのほか、ストレスの原因になったりするものだ。
私たちにとっては、食べたり飲んだり、入浴したりすることは、
全身の力をふり絞らなければならないたいへんな労働でもある。
微妙な気持ちのズレが、大きな負担になることもあるという現実を、
わがままだと決めつけられることなく、少しでも多くの人に
わかってもらえたらと思う。
ヘルパー制度が理想的な形で充実したとしても、ボランティアが
私たちにとってたいせつな存在であることに変わりはない。

たとえば、福祉の先進国であるスウェーデンでも、
ボランティアたちは活躍している。
・・・(中略)・・・
とにかく、現状ではボランティアへの負担が大きすぎる。
役所がやるべきことまでボランティアの手に押しつけられている。」


実際の問題として、障害者のケアはどうあったらいいのだろうか。
これには現在、ふたつの考えかたがある。
ひとつは、介助者がいつも障害者のそばにいて、
必要なときにケアを行うというもの、
もうひとつは、障害者はできるだけ介助者との接触を
少なくして、基本的にはいつもひとりで生活し、
決まった時間あるいは必要な時間にだけ、
介助者がやってくるというものだ。


私の考えでは、後者の『コマ切れケア』がいいと思う。
とにかく、障害者は自立しなければならないと
思うからである。


私たち障害者は、長いあいだ、人から世話を受けること、
だれかしらと一緒にいることに慣らされている。
ともすれば、介助者に際限なく依存してしまいがちだ。
その結果、いま、なにをしてもらいたいのか、
自分で考え、自分で決めて相手に伝えることさえ、
しなくなってしまう。
介助の人のいうまま、されるままにはならないまでも、
親切で気ごころの知れた介助者の先まわりケアに
全部をあずけてしまったり、自分ひとりで決めるべきことまで、
相談して決めるようになってしまう心配がある。
これは必ずしもいいこととは言えない。


したがって、私はあくまで『コマ切れケア』にこだわって、
障害者がひとりでいる時間をたいせつにしたいと
考えている。

いま、私のところには何人かのボランティアが
交替できてくれているが、ケアをすませたらすぐに
帰ってもらうことにしている。
トイレだけ、五分のこともある。
夕食の下ごしらえや入浴など、やってもらうことに
よっては三十分のこともある。
もちろん、ずっとそばにいてもらいたい気分のときや、
ひとりでいることが淋しい日もないではないが、
ふつうの人と同じように、淋しさや孤独に耐えることもまた、
自立生活ではないだろうか。

淋しかったら、ケアの人に甘えるのではなく、
自分で友だちをつくっていくべきだと思う。
介助者と友だちになってもいい。
しかし、それはケア・システムとは切り離して
考えなければならないことだ。

また、五分、十分、三十分というコマ切れケアには、
ボランティアの負担を軽くするという利点もあると思う。

『べったり三時間は無理だけど、出勤前の十分ならできるよ』

という人もいるのではないだろうか。」


「食事の支度にしても、私がいろいろ指示をして、
その通りに手を動かしてもらう。
ニンジンを千切りにしてくださいとか、
大根はイチョ切りにしてくださいとか、
もっと厚く、もっと細かくなど、ひとつひとつ、
自分でつくるときと同じように指示をする。
できたものが失敗だったら、それは私自身の責任だ。
夫や子どもに、

『今日の味噌汁、しょっぱいね』

と言われて、

『ケアの人がつくったから』

と答えるのでは、家政婦さんや手伝いの人がつくった
ことになってしまう。
ケアを受けることと、家事の手伝いをしてもらう
こととはちがうのだ。

ボランティアのなかには、そのちがいがよくわからなくて、
なんでもやってあげることがいいことだと思っている人がいる。
親切心からしてくれていることがわかるだけに、
断るのに困ることがある。
・・・(中略)・・・
忘れてはいけないのは、ケアを受ける側が決定権を持つことだ。
つまり、私は自分の手で家事をすることはできないけれど、
セーターの洗濯を頼むときも、お湯の温度や量、
洗剤の量や干しかたまで知っていて指示できなければ
ならないのである。
ただでさえ不足しがちなボランティアに対して決定権を
主張することは、実際には恐ろしいことである。
気分を害されて逃げられてしまったら・・・という恐怖と
闘わなければならない。

しかし、ボランティアとの触れ合いは、緊張だけではない。
楽しいことや教えられることも多い。
家事のプロフェッショナルのような奥さんが来てくれることもある。
そんなときには、自分のやりかたを押し通すだけでなく、

『教えてください』

と素直に言葉が出てくる。

反対に、包丁を持ったこともない学生が来てくれることもある。
そんな女の子の場合は、見ているほうがヒヤヒヤする。
この子はできないな、と思ったら、メニューを簡単なものにする。
大根は千六本に切るつもりだったのをイチョウ切りにしたり、
煮つけをつくるつもりだった魚を、塩焼きに変更したりする。
・・・(中略)・・・
そのあたりは、相手に合わせる柔軟性も必要だと思う。」

「不十分なヘルパー派遣と、不足しがちなボランティア
――必然的に、家族に頼ることが多くなってしまう。
私の場合も、夫の手を借りなければ、生きていくことができない。
夫は結婚して大学を中退した。
何ヵ月かはアルバイトをして、その収入と私の障害者年金で
暮らした。
しかし、ヘルパーやボランティアが休むと、私のケアをするために、
夫はアルバイト先とアパートのあいだを、一日のうちに何度も
往復しなければならず、アルバイトを続けることは無理だと
わかった。
結局、夫はアルバイトをやめ、現在、私たちは生活保護の
給付を受け、障害者年金と合わせて、月額十五、六万円の
生活費で暮らしている。
年金と生活保護による収入のうち、毎月のアパート代に四万円、
そしていちご会が雇っている職員にかかる費用の分担金が二万円。
残りが日々の生活費ということになる。
決して楽ではないが、ぜいたくをしたいとも、貯金をしたいとも
思っていないので、親子三人、つつましく暮らすことができる。
仕事を持たない夫が、毎日、いったいなにをして過ごしているのか、
不思議に思う人もいるらしく、そのまま私たちへの非難となって、
耳に入ってくることもある。

『働かないで生活保護をもらうなんて、ゴキブリみたいなヤツだ』

などという内容の匿名の手紙を何度か受け取ったこともある。
社会では、生活保護を受けることを、まるで人間失格のように
考える人がまだまだ少なくはないのだ。
まず、給付する側の役所が、私たちの事情と夢を、
全く理解してくれようとしない。
親もとを離れ、ひとりでアパート住まいをすることに決めたとき、
私はまず自分の両親を説得した。

『台所をべつにするんだから、もっとお金がいるようになるよ。
いまもらっている障害者年金だけじゃひとりで暮らせないから、
私、生活保護を受けるつもりなの』

昔風の両親もやはり、生活保護を受けることを恥と考えていた。
私は必死だった。

『いまはいいよ。とうさんやかあさんに頼ることもできるけど、
私はこれから何年も何十年も生きていくんだよ。
ずうっと、私のめんどうをみられるかい。
毎月、十万も十五万も出せるかい』

両親は私の言うことをわかってくれたが、
私はさらに念を押さなければならなかった。

『役所の人が来て、きっと両親が面倒みろっていうだろうけど、
なにを言われても、『うん』とは言わないで』

私の予想通り、私が生活保護を申請すると、
役所の人間が、毎日のように、両親のところにやってきた。
娘ひとりの面倒くらいみられないのか、と言う。
しかし、両親は、

『あの子の決めたことだから』

の一点張りで、とうとう首をたてには振らないでいてくれた。
そのあと、菊之進さんと結婚して、おなかに大地がいるときも、
役所から厳しい追及を受けた。
妊娠六ヵ月のときだっただろうか。
役所の担当員とケースワーカーが同時に四人もやってきた
ことがあった。
夫と大きなおなかを抱えた私をまえに、
生活保護を打ち切る相談をしたいという。
とにかく、夫は若いし健康なんだから働け、という。
それは不可能だと言うと、私に施設に入れと言う、
子どもが生まれたら、乳児院に預ければ、
夫は働きつづけることができるというのだ。
それを聞いたとき、私は怒りを通りこして、
悲しくなってしまった。
どうやら、役所では自分の管轄地区から、
生活保護給付家庭を一軒でも減らしたいらしい。
よその区に引っ越したらどうか、と言われたこともあった。

『きちんと態勢が整ってから、自立すればよいのではないか。
生活保護を受けてまで、いまやる必要はないではないか』

と、お役所は全く無責任なことを言うが、

『何十年待てば準備ができるのですか。
その準備はだれがしているのですか』

と、言葉にならないくやしさが胸にこみあげてくる。
私たちは、たったいま、生きているのだ。
自立も結婚も出産も、いつまでも待てるものではないのだ。

『一人前の男が働きもしないで生活保護で暮らしている』

と思われている夫は、多分、ふつうのサラリーマンと同じくらい、
あるいはそれ以上に忙しい毎日を過ごしている。
・・・(中略)・・・
つまり、いまの地域ケアの貧弱さを、全部、夫が埋めているのだ。
・・・(中略)・・・
私たち障害者が受ける生活保護は、一般的に考えられている
生活保護と、意味がちがっている。
病気などの理由で一時的に働けない人は、病気が治れば
働くことができるが、私たちの場合は福祉行政そのものが整備され、
十分なケア制度が実現しない限り、障害者の家族の負担は減らない。」

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by bunbun6610 | 2013-09-16 19:00 | バリア&バリアフリー

『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』
(小山内 美智子/著 1988年9月16日/第1刷
ネスコ/発行 株式会社文芸春秋/発売)



この本は、最近話題になっている『はだしのゲン』と同じく、
閉架図書(※)になっている書籍です。


(※)[用語]閉架 - 図書館で、利用者が読みたい本や
資料を請求して書庫から取り出してもらう方式。
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「『大地、バイバイ』
夫が手を振って出ていくと、大地は手をのばして
大声で泣きはじめる。
大地はすっかりおとうちゃん子になってしまったようだ。
ちょっとさびしい気がする。
両手で抱いてやりたい気持ちでいっぱいだ。

『おかあちゃん、抱けないんだ。ごめんね』

私は足で大地の頭をなでる。
なんとかなだめようと、足でおなかをくすぐると、
大地はやっといつもの笑顔に戻った。
そして私の足にからみついてきた。
私の口から自然に子守唄が出てくる。
はっと気づいて歌うのをやめる。
私の歌を聞いて育ったら、大地が音痴になってしまう。
十一年まえ、姉が男の子を生んだ。
私がかたわらで子守唄を歌っていると、姉が、

『あんたが歌を教えたら音痴になるからやめて』

と笑いながら言った。
身内の気やすさが言わせた悪気のない冗談だったのだが、
私は深刻に悩んでしまった。
私は手のつけられないほどの音痴で、しかも言語障害がある。
いつか自分の子どもが生まれたら、どうやって言葉を教えようか、
言語障害がうつったらどうしようと考えた。
それから、私は赤ちゃんのいるところでは歌わないことに決めた。
しかし、八ヶ月になった大地は、ある日、

『だいちゃん。まんま。ぱっぱ』

と、三つの言葉をはっきりと正確に口にした。
たとえ大地が音痴になったとしても、生活にはそう困らないだろう。
眠りかけた大地の邪魔をするように、私は子守唄をふたたび
歌いはじめた。
少しのあいだ、大地は眉をひそめたが、次第に安らかな
寝顔になっていった。」


「時間が許す限り、夫と一緒に保育園まで大地を迎えに
行くことにしている。
最初、子どもたちは私の姿を見て、

『わっ、あれ、なんだ。
人間か? 怪獣か? おばけだーっ』

とわめきまわった。
なんのことかわからないまま、大地も一緒になって

『おばけー』

とはしゃいだ。
笑おうと思っても、ほおがひきつった。

『私の父は障害者だったんだ』

四、五年もつき合って、やっと話してくれた友だちがいた。
大地ももうすぐ私の存在を隠したがるときがくるだろう。」


「目的地は札幌市内の“芸術の森”だ。
階段が多くて車椅子がつかえず、歩いて登ったので、
足がガタガタになってしまった。
保母さんたちも私のことを気にしてくださり、手をつないでくれたり、
車椅子を運んでくださったりで、たいへんお世話になった。

『来年は階段のないところにしなきゃね』

と言ってくださるのを聞いてうれしかった。
障害を持たない人たちと行動することは、
周りの人々にさまざまな波紋をひろげることになる。
そんななかからほんとうの人と人とのつき合いが生まれてくる。

母親二年生の私にも学ぶことが多い一日だった。」


「友だちのひとりと通りかかったとき、
彼女がなにげなく言ったことがある。

『小山内さん、ここのお医者さん、
すごく上手なんだってよ。
小山内さんも妊娠したら、ここにくればいいよ』

それは悲しい言葉だった。

『そうね。
そのまえに、まず素敵な男をみつけなきゃね』

と、自分を慰めるつもりで答えたものの、
私が産婦人科にくることはないだろうと思った。
玄関までのたった四段の階段が、
私にはエベレストに登るより、高くて遠い、
困難な道のりに思えた。
ふつうの人なら、一秒もかからないで駆けあがって
いく四段きりの階段は、障害者には一生かかっても
登れない階段なのだ。」


「たまに耳にする話だが、障害をもつ娘の
初潮を悲しがる母親がいたり、ひどい場合は、
自分で始末もできないし、どうせ子どもも
生まないのだからと、卵巣や子宮をとられて
しまう人もいるという。
ほんとうにひどい話だ。
幸い、私の場合は、三年おくれで入った高校で、
いい先生に出会うことができ、専門のケアもつけて
もらって、トイレも生理の始末もしてもらえるようになった。
高校生になって、はじめて人生が開けたような気がした。」


「私も女のひとりとして言いたいのは、
女にとってセックスは単に『挿入する』だけではない
ということ、挿入がなくても、十分に幸福になれるという
ことなのだ。
『立つか立たないか』
『挿入できるかできないか』
の点にこだわって深刻に悩んでいる男性障害者に、
ぜひわかってほしいと思う。
愛することは挿入することとイコールではない。
むしろ、どんなふうにでも愛し合うことができ、
快感をわかち合うことができる柔軟性と積極性を
持つチャンスを与えられていると思ったほうがいい。
とにかく、恋をすること、愛すること、愛する人と
結ばれたいと願うことから、はじまるような気がする。
それらをおそれてはいけない。
異性に胸がときめく自分を前向きに認めなければ
いけないと思うのだ。
失恋して傷ついても、恋はしないよりしたほうがいい。
それが結局は『性を持った自分』を生きることに
つながると、私は信じている。」


「養護学校や施設では、脳性マヒの子どもに、
『やればできる』という方針で、
汗水流して自分のことは自分で、
という教育をしているが、
三十代で肉体が衰えることを実感してみると、
あの教育も考えなおさなければならないのでは
ないだろうか。

一時間も二時間もかかって食事をし、
着替えも洗面も、ふつうの人の百倍のエネルギーを
つかってやることが、最善の暮らしかただろうか。
食事の半分を自分で食べ、あとの半分は介助して
もらうとか、着替えにも介助を受けて、あとの時間は
ゆっくり音楽でも聞くというようにコントロールする
方法もあるのではないかと思う。
過去、多くの脳性マヒ者が、授産所で、からだを
すり減らして早死にしてきた。
東京の仲間たちは、いま真剣に脳性マヒ者の
老化について研究している。
そういえば、脳性マヒの老人にはまだ会ったことがない。」


「自由に生きることは、とてもエネルギーがいる。
心臓も強くなければならない。
ポケットからお金を取ってもらう。
ストローをグラスにさしてもらう・・・・・・
そばに手のつかえる友だちがいれば、
簡単にしてもらえることだが、見知らぬ人、
障害者と出会ったことのない人に声をかけ、
手伝ってもらうのは、なかなかたいへんなことだ。
以前、タクシーに乗ったとき、
ポケットからお金を取ってくださいと頼んだら、

『あんた、どうして親と歩かないんだ。
だめじゃないか』

とどなられた。

『困ったもんだ』

『親はなにをしているんだ』

ブツブツ言いつづける運転手に向かって、
私は一生懸命に言った。

『私はおとなです。
いつでも、できるかぎり、ひとりで歩いています。
いけませんか』

障害者を無視する人、拒否する人に、
障害者もごくありふれたひとりの人間であることを
認めさせなければならない。
そのためには、むりやりにでも、
私たちの存在を見せなければならない。
小さな外出にも、そんな意味がある。

運転手は、私の言葉に黙りこんで、
ポケットからお金を取って、
走り去っていった。」


「私は一度も『おとなになったら・・・』という夢を
持ったことがないのだ。
ただ、歩けるようになりたい、手をつかいたいという、
目のまえの現実しか考えていなかった。
醒めきった子どもだったのかなと、いまさらのように思う。
二十八歳になって、ペールくんの質問に答えられない
ことが、私の最大の障害だったのかもしれないと思う。
はじめから私を障害者としかみていなかった
まわりのおとなたちも、障害を持たない子どもには
あたりまえのように質問することを、
私には聞かなかったのだろう。
障害は人間がつくりだすものだということが、
ペールくんの質問ではっきりわかった気がした。
これからは、どんなに障害の重い子どもにも、

『おとなになったらなにをしたいの』

と聞かなければならない。
その質問と答えが、障害を持ったものの世界を
変えていくきっかけになるかもしれないからだ。
今日のペールくんの言葉は神様の言葉に似ていた。
ありがとう。」


「私は、ものごころついたころから、
親に反抗することはほとんどなかった。
とくべついい子だったわけではない。
なにもいわなくても、母がすべてしてくれたからだ。
子どものころはそれで許されても、おとなになったとき、
すでに身についてしまった依存心が
甘えとあきらめだけを増長させて、
自立心をマヒさせていることに気づく。
この子が不憫だといって、親たちはいつも先回まわりして、
冷たい風に当てないようにする。
社会の目にふれさせたくないといって、
養護学校や施設をつくる。
そのかばいかたが障害者にとってマイナスになっているのだ。
子どもは社会や親に対し、さまざまに反抗する。
反抗して、実際に行動してみて、自分でまちがいに
気づいたとき、おとなへの階段をのぼるのだと思う。



「ひとり暮らしをはじめてから二、三ヵ月のあいだは、
不安で不安で、電気、水道、ガス、ドアの鍵などを、
夜中に一度起きて確かめたものだった。
親と暮らしていたときには、戸締りなど、
考えたこともなかった。
お米屋さんがお米を配達してきたときには、
足でお金を払うのが恥かしかった。

『ボランティアの人が来たら払いますから』

などと言ってしまった。
障害者は肉体的には依存して
『助けられて』生きなければならない。
しかし、それがいつしか全面的な依存『甘え』に
なってしまう。
ある朝、ボランティアに来てくれている奥さんと
郵便局に行った。
奥さんは私のポケットから手紙とお金を出して言った。

『美智子ちゃん、あとは自分で言いなさい』

そしてどこかに行ってしまった。
私はあせって、冷たい人だなあと思った。
でも、郵便局の人とうまく話ができて自分ひとりで
用が足せたとき、心が晴れ晴れした。
奥さんのやりかたは、障害者にとって正しいものだった。
社会や施設に対する不満を陰でぶつぶついいながら、
施設の暖かい部屋のなかで、
決まった時間に食事が出てくるという生活では
『生かされている』ことにしかならない。
それでほんとうにいいのだろうか。
だれもひとりでは生きられないけれど、
私たちは身にしみついた依存心を振り払って
いかなければならないと思う。



「・・・来客だ。
・・・(中略)・・・
やってきたのは、いまいる施設を出て暮らしたいという
希望を持った障害者だった。
三度目の来訪だ。
彼は生まれたときから施設で暮らし、十二年間、
ぞうきんを縫っていた。
施設を出たいが、親や兄弟がいい返事をしないらしい。
彼は脳性マヒで障害は中程度である。

『三十二歳にもなるんだから、親や兄弟のことばかり
気にしないで、自分のことは自分で決めて。
人生は一度しかないんだから』

私は施設を出るようにけしかけた。
彼は自分ひとりでは説得は無理だと思っているらしく、
お兄さんや妹を連れてきた。
彼の兄弟たちは、話もわかってくれ、
彼のことを真剣に考えているようだった。
私がいままで見たり聞いたりした例でいくと、
脳性マヒの障害者でも、自分のことはすべて自分ででき、
学校にも行っているくらいの人は、
健常者の社会でも十分生きられるという希望を持つ。
しかし、たいていは失敗し、脱落してしまう。
何十軒とまわって職を求めても断られるのが現実で、
そのうちきっと働けると思いながら、
結局は施設や家に閉じこもって年老いていく。
希望は持つべきだが、もっと自分の現実を知らなくては
ならないと思う。
字を書いてもミミズがはったよう、話をしてもなかなか
通じないうえ、顔が歪んで相手に不快感を与える・・・
こんな人が、いまの競争社会のなかで生きていけるだろうか。
大きな企業ほど雇ってはくれまい。
私たち脳性マヒは、社会にとっては煮ても焼いても
食えない存在なのだと思う。
煮ても焼いても食えないところからはじまる
開きなおりがなくては、私はこんなに若い夫と
恋はできなかった。
大地を生む決心もつかなかった。
今日、訪ねてきた人も、なんとか開きなおって、
地域で暮らしてほしい。」


「医者はずっとクル病だと言っていたそうだ。
昔はわからない病気はみんなクル病ということに
してしまったらしい。
父と母はそれを信じて、牛乳や卵や砂糖など、
栄養のあるものばかり食べさせてくれていた。
ところが、ある日、婦人雑誌を読んでいた母が
『脳性小児マヒ』という言葉を発見した。
記事を読んでいくと、私の症状によく似ている。
母は

『うちの子はクル病ではない。
脳性小児マヒという名の病気だ』

と直感したという。

そして札幌にきていろんな人にみせたら、
やはり母の直感は当たっていた。
私の病気を最初に発見したのは母だったのである。
昔は脳性マヒはただマッサージをすればなおる、
ほかに方法はないと思われていたので父と母は
毎日毎日私の手や腕をマッサージしたり、
年に何度か札幌に連れて出て訓練を受けさせたり、
いろいろなことをした。
そのころ、両親は農業をしていたので、
冬のあいだは手足の訓練をする時間もあったが、
夏になると忙しくなる。
自然とほったらかすことになり、せっかく動きかけた
手がまた動かなくなる。
毎年、そのくり返しだった。
いまでも母が後悔しているのは、もっと早く農業を
やめていたら、私の手がもう少し動いていたかも
しれないということだ。
夏のあいだ、天気のいい日は毎日畑に行った。
母とお手伝いのお姉さんと手をつないで、
必ず歩いて行った。泣いてもわめいても、
歩かされた。
私がいま歩けるのは、そういうことがあったからである。」


「あるとき、母が内緒で風船ガムを持ってきてくれた。
施設では虫歯予防のためということで、毎晩ガムがでた。
私は悪知恵をはたらかせて、毎日でるガムの包み紙を
取っておき、風船ガムの包み紙と取りかえて
カムフラージュしようとした。
風船ガムを包みなおすときは、少し知恵がおくれている
友だちに手伝ってもらった。
頭のいい子に手伝ってもらうと、そのまま取られてしまう
からである。

『半分あげるから手伝ってよ。
保母さんにも看護婦さんにも黙っているんだよ』

と口止めすると、知恵おくれの子は喜んで手伝ってくれた。
いま思うと知恵おくれの子を利用したみたいだが、
手のつかえない私にとっては生きるための知恵だった。
といって、知恵がおくれているからといって、
バカにしたり、ガムの数をごまかしたりすると、
その子は二度と手伝ってはくれなくなる。
正直にガムを分け、『ありがとう』と言うと、
どんなときでも裏切られることはない。
部屋のたたみのあいだから、
ガムが一枚出てきたことがあった。
みつけたのは手がつかえる子で、
その子は自分ひとりでそのガムを食べようとした。

『ちょっと待って。そのガムはだれのもの?』

みんなで話し合ったがいったいだれが落としたものか、
わからない。
じゃあみんなで分けて食べようということになり、
算数のできる子がものさしで六等分した。
ガム一枚にも、小さな政治や思惑があった。

日曜日には親が面会に来る子と来ない子、
いろんな表情があった。
親が会いに来られない子は、職員や同室の子に
当たり散らす。
消灯後になると、親が来た子は、布団のなかやトイレで、
親が持ってきてくれたお菓子をこっそり食べる。
私は母の持ってきてくれたお菓子を、
ひき出しのいちばん奥に入れておいた。
手がつかえないので、布団のなかやトイレで食べる
ことはできない。
施設に入って三年目で、私は部屋のボスになっていたから、
知恵の遅れている子に命令して、ひとりで隠れて
食べている子からお菓子を取り上げ、
みんなの口に入れるように指示した。
いかにも正義の子どものようだが、実は私自身、
手がつかえないから思いついたことなのだ。
もし手がつかえていたら、食べられない子の悲しみや
屈辱をわかることができなかったかもしれない。

施設の外に一歩出れば、お菓子屋の店先に、
お菓子が山のように積んである。
そのころの私には不思議な光景だった。
施設では、職員の数も十分とはいえなかったから、
ただ責めてもしかたのないことだとは思う。
いまでは、私のいたころのような施設はないと
思いたいが、私には施設はまるで牢獄のようにつらい
ところだった。」

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by bunbun6610 | 2013-09-16 18:00 | バリア&バリアフリー
『車椅子で夜明けのコーヒー 障害者の性』
(小山内 美智子/著 1995年4月26日/第1刷
ネスコ/発行 文藝春秋/発売)


「障害者が一番しなければいけないこと、
それは、自分の障害を主張することです。」

     (シンディ〔米国の車椅子障害者〕)

当ブログ
『障害はあなたという人間の一部です』
〔2011-11-17 22:30〕

より。




〔参考情報〕
『書評で人と本をつなげるブログ/ブックハウス』




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【T・M〔匿名〕さんとの文通】


「私は今、親元で何不自由なく生活しています。
欲しいものがあれば買って来てくれ、行きたいところが
あれば出来るかぎりは連れて行ってくれます。
家に居れば何ひとつ困ることなく楽な人生がおくれると
思います。
親が死ねば施設(国)が第二の人生を与えてくれます。
でも、何かが足りないのです。
これまで、両親は私を育てるため自分の人生を犠牲に
して来ました。
普通に子供を育てるのとは違い、私が思っている以上
にたいへんだったと思います。
心から感謝しています。

でも、私も成人して自分の生き方を持ち始めました。
このまま、他人が与えてくれる楽な人生を歩みたく
ありません。
出来るかぎり自分のことは自分でやって、
自分の意思で行動し、
何にでもチャレンジしたいのです。
その可能性が1%でも、私は自分の人生を自分の力
で切り開いて行きたいのです。」
(1989.5.30 T・M)


「一所懸命歩いて、ドアを何度もたたき、
自分の考えをぶっつけなければ、
自立は0%で終わってしまうかもしれません。
あきらめなければ100%です。」
(1989.6.22 小山内)


「先週の土曜日、札幌行きを親に切り出したのですが、
予想どおり猛反対を受けました。
とくに母親には参りました。

母親の言い分は

『理想と現実は違う。
理想を追い求めているとかならず失敗して自分が
惨めになるだけ。
お前は自分のおかれている立場をよく考えて
行動しなさい』

と言われました。
また、

『これからおまえがやろうとしていることは
日本の障害者のトップ・レベルを歩むことで、
けっしてお前の出来ることじゃない』。

私もそう思います。
ただ、経済力が低いことで諦めて良いのでしょうか?
小山内さんのお母さんも同じだと思いますが、
これまで私をどのように育ててきたか私だって
わかります。
その話を泣きながらされるとすごく弱いのです。
あとの問題はお金です。」
(1989.6.30 T・M)


「お金が苦しいと言いますが、あなたは自分に
月どれくらいの障害基礎年金が出ているのか
知っていますか。
地方によってもちがいますが、いろいろ加算すれば
八万円くらいは出ているはずです。
自分の年金(給料)をいくら家に入れるか、
いくら自分の小遣いにするのか、
いくら貯金するのか自分でやっていますか。
きっと親にまかせっきりではないでしょうか。

私も二十歳ごろまで、なんでも親まかせでした。
私の生きる道は、親が作ってくれると思いこんで
いました。
でも私のほうが若い。
同じ日にはお墓には行けないことを知りました。

親まかせの生き方はやめようと決心した日から、
毎日親とけんかでした。
しかしそのうち親も根負けし、
(言っても無駄だ! ほおっておけ!)
というふうになればしめたもの。
障害をもたない人たちも、親に逆らいながら大人に
なってゆく。
そして自分が親になったとき同じことを繰り返す、
というのが人間の歴史です。
ただ障害者は、今の世の中の仕組みのままでは親に
抵抗できない。
親に捨てられては生きられないという恐怖があるから
夢を捨ててしまうのです。

でも、やっぱり親は先にあの世に逝ってしまうのです。
一生あなたの生涯にはつきあえないのです。
親が障害者のわが子にやりたい事をやらせないことは、
非常に無責任な愛だと思います。
一年、一ヵ月、一日でも若いうちに社会の厳しさを知らせる
ことが親のわが子に対する最大の子育てだと思いますが、
いまの親は間違っています。
子供が親の生きがいになってはいけないのです。
それは障害者でも、そうではない人でも同じです。

『ピア・カウンセリング』とは何かといえば、あなたと私の
この手紙のやりとりがまさにピア・カウンセリングなのです。
私はあなたと同じ障害者、私の経験したことをあなたに
言っている。
もうこの手紙で私はあなたにカウンセリングを
しているのですよ。

札幌に来ることの意味は、カウンセリングの会場に
来ることではなく、あなたが親と戦い、勝利し、
ひとりで汽車に乗ったり、飛行機に乗ること。
そしてあなたが夢と勇気を持てるようになることです。
途中で言葉がうまく通じなくて、警察に保護されて
家へ帰されるかも。
それでもあなたの行動は間違っていないのです。」
(1989.7.7 小山内)


「結論から言います。
今回の札幌行きは諦めようと思います。
これは言い訳かもしれませんが、私は親に負けた
のではなく、お金に負けたのです。
・・(中略)・・・もし親に経済力があり、
私にお金があれば、親に殺されても冒険をしたいです。
・・・(中略)・・・
実は父親も軽度ではありますが、障害者手帳を
持っています。
・・・(中略)・・・
家で障害者じゃない男は弟一人です。
両親はその弟だけは一人前にしたいというのが
願いです。
両親は『弟の幸福はお前の幸福』と考えています。
でもそれは違うと思います。
・・・(中略)・・・
そんな訳で両親は今は頭も金も弟のことでいっぱいです。
家の経済力では私の年金でさえ使わなくては弟を
大学へはやれないのです。
私としても大学ぐらいは出してあげたいと思います。
・・・(中略)・・・
今私が自由になる金は、今年の一月から通っている
作業所の給料、三千円前後だけです。
その金をためて札幌にどうどうと行きたいと思います。
その時はよろしくお願い致します。」
(1989.7.13 T・M)


「それぞれの家庭の事情があると思いますが、
やはりあなたは自分に負けたような気がします。
大の男が一ヵ月自由になるお金が三千円では、
何年たてば札幌に来られるのでしょうか。
煙草や酒をやめたくらいではあなたは若いうちに
自由にはなれませんね。
弟さんにご家族の皆さんが期待するのは
よく分かりますが、弟さんの荷が重過ぎると思います。
あなたの年金までつぎこんで大学に進学するという
考えは絶対にやめたほうがいいと思います。
そうしたほうが弟さんも自分の人生の選択権が
ひろがるのではないですか。

親が子供の将来を縛るのは、日本の福祉が貧しい
からです。
親も子もそれぞれ独立した人間です。
年金を生活費に入れているということには、
そこの家庭の事情があるのでしょうが、
弟の学費まで年金からというのはおかしいと
私は思います。
やっと弟さんが大学を出て、就職をして結婚したとき、
それからあなたの旅立ちですか?
それは悲しすぎます。
たくさんの仲間たちと接し、障害が重ければ重いほど、
一ヵ月、一日でも早く若いうちに自立したほうが
いいのでは、と思います。
『鉄は熱いうちに打て』ということわざ通りです。
でも命がけで育ててくださった親にはなかなか
逆らえないという気持ちも痛いほどわかります。
でもまず自分を真剣に愛することから始めてください。
きっと何かが見えてくると思います。
・・・(中略)・・・

私も若い頃、自分が嫌いでした。
でもたくさんのことを経験したとき、少しずつ自分が
好きになってきました。
そんなとき少し惚れてくれる人が現れ始めたのです。
せっかく引っかかった男にふられたとき、
また自分の障害を呪いました。
でもまたチャレンジしました。
失敗は人を成長させてくれます。
あなたもこれから失敗の旅が始まるのですね。
何度失敗するか競争しましょう。
失敗の数が多いほどあなたを大きくさせます。
親の言うなり、施設にいれば、あなた自身の失敗は
一度も経験できないでしょう。
失敗は親や職員が後片付けするからです。」
(1989.7.18 小山内)


「・・・その時私が泣いたのは、彼女が結婚することも
ありましたが、いつまでも親の言いなりで、
他の同じ年代のやつらは親になっているのになぜ、
俺だけが親の支配下の中で子供でいなくては
いけないのだろうと思ったからです。

その日、私は酔いつぶれるまで飲みたかったのですが、
親に買ってもらったのは缶ビール一本きりでした。
一本なんてコーラを飲むのと同じです。
二十四歳の男が失恋したのですから、悪友と夜通し
飲み明かすでしょう。
結局私たちは、親から離れない限り、金も、酒も、
タバコも、恋愛も自由にはなれないのです。
小山内さんの言うとおり一日も早く自立したいです。
弟の大学ももちろん夜間部です。
昼間はバイトをしています。
母親は

『自立には反対じゃない。
ただ弟は今しか時間がない。
今やってやらないとだめ、お前には時間がたっぷりある。
弟のことが終わるまで待ってほしい』

といいますが、私は待っていいか疑問に思います。
私だってこんな身体です。
あまり時間がないと思います。」
(1989.7.25 T・M)


「私のそばにはいつも誰かがいました。
介護してくれる方は私の言うとおり動いてくれます。
でも、何かが違うんですよね。
何が違うかは分かりませんが、もちろん我々障害者にとって
介護者は命の次に大切です。
でも、時には介護者から離れるのも必要だと思います。」
(1989.9.15 T・M)


「あなたが、初めて一人で物を買った喜びよくわかります。
私も初めて一人で喫茶店に行ったとき本当に生きるって
いいなーと思いました。
一人になることはとても大切です。
グループホームに住みたいという気持ちわかります。
けれど、そこに住んでしまうとなかなか出ていく人が
いないのが現実です。
横浜からも、あまりいい返事は来ないと思いますよ。
一人暮らしをする前に、一人で出かけること、
料理をおぼえることなど、社会のルールを身につけることから
始めなければ、一人暮らしを始めてもボランティアや
介助スタッフにふりまわされて、自立ではない生活をしている
人を私は何人も見ています。
精神を強くすることから始めてください。
たくさん冒険をしてください。」
(1989.9.27 小山内)


「私は今自立という夢に向かって走っています。
しかし、多くの障害者が夢や自分自身の感情や怒りを
捨てて親や施設のいいなりで暮らしています。
最近親の会で知りあった障害者もその一人でしょう。
彼は生まれて間もなく施設に預けられてから三十五年間
ずうっと施設生活でしたが、施設の管理、職員の態度に
耐えられなくなり、施設から逃げ出し自宅へ帰ってきました。
その彼が涙をこぼしながら私に言うのです。
『好きな時間にテレビが見られ、好きな物が食べられ、
自分の意思どおり生きられる。
家に帰って来て良かった』と。
私は施設生活の体験は子供の時しかありません。
子供心にも施設がイヤでイヤで仕方がありませんでした。
大人の施設がどういうところか分かりません。
でも、彼の話を聞くと人間として生きる気力がなくなる所と
思われます。
彼は今、本当に幸せと言いますが、それでいいのでしょうか。
彼の家は障害を恥ずかしいと思っているようです。
弟の結婚式にも出られないのです。
弟の結婚式に出席するのは当たり前でしょう。
彼自身も『俺がいるとみんなに迷惑をかける』という考え方で
外へ出ようとしません。
親も彼を人間として扱っていない証拠です。
買い物にも行けず、頭は丸坊主。
毎日毎日テレビとにらめっこの人生が幸せという彼が
かわいそうでたまりません。
彼と小山内さんを比べると、雲の上を跳び越して宇宙の
果ての遠い星の人のようです。
でも私はその星に昇って行くのです。
親も私の自立に徐々にではありますが、関心を持ち始めました。」
(1989.10.6 T・M)


「確かに私は、今まで親の顔色を見ながら生きてきました。
買い物に行きたいときやお金が欲しいときなどは、
親の機嫌のいい日を見はからって言いだします。
情けないと思いません?
二十五歳にもなる男が、たかが三千円や五千円の金を使うのに、
いちいち親の顔色を見なければ使えないのです。
これは親が私を子供の感覚で見ているからではないでしょうか。
普通の人なら、高校にでも行けばバイトもでき、自由なお金も
手に入るでしょう。
しかし、我々障害者はいつまでたっても、自分の自由になる
お金はできないのです。
私もそれを変えようとしましたが、どうにもなりません。
親としても精一杯苦しい生活の中で育ててくれたのです。
ストライキを起こしても、結局は負けてしまうのです。
親の顔色を見るのは、まさしく障害があるからです。
健常者ならば、親に捨てられても自分で働いて食べて行けます。
家にいる限り、親に見放されたら生きて行けません。
何も目標のない施設で、動物園の動物のようにただ餌だけを
楽しみにいきていかなければなりません。
その恐怖感で親に逆らえないのです。
その状態を変えるために自立を決意したのです。」
(1989.12.7 T・M)


「ヒューマンケアの中西さんと話ができてよかったですね。
彼があなたに対して、一時的にでも施設に入ってみたらと
言ったのは、あなたはまだまだ精神的に自立ができてないと
思ったからかもしれませんね。
施設や親から独立したら、即自由が手に入るわけではありません。
自由になる裏には辛く厳しい生活や人間関係、精神のトレーニング
が必要です。
札幌でも、まだ指折り数える人しか一人でアパート生活をしている
人はいませんが、真に自分自身で生きているかというと、
首をかしげるケースもあります。
部屋に閉じこもり、テレビとにらめっこしたり、ボランティアに去って
いかれては困るという恐怖から、物を取られても、
自分の意に反したことをやられても、我慢している
人もいます。

自由とは、たえず自分を厳しく律することだと思います。
・・・(中略)・・・
施設は大きくなればなるほど、職員たちの意見に対立があり、
それが一番障害の重い者にふりかかってくることは
悲しむべきことです。

『あの看護婦さんは、怖いからちゃんとしなければ』

『あの保母さんは優しいから甘えてもいい』

などと、子供たちは毎日カメレオンのように暮らしている
のですものすね。
でもね、これは普通の社会や会社に行っても、
みんなカメレオンで生きています。

施設に入ってしまうと、夢を捨ててしまう人がいますから、
施設はあなたにとって人生の階段だと思ってください。
施設の建物が立派になったり、職員が多くなっても、
私たちが子供の頃経験してきたイヤな思い出が、
今も繰り返されているのでしょうね。
施設は社会へ出るためのトンネルでなければなりません。
でもトンネルから一生出られない人たちが、あまりにも
多すぎることは悔しいことです。
何としてもこの現実を壊すことは、私たちにしかできない
仕事なのです。
施設に入ったら、思いっきり年金でやけ酒を飲んでください。」
(1989.12.13 小山内)


「親ともめていて手紙が書けない状態でした。
本当にごめんなさい。でも、けっして自立を諦めた
訳じゃありません。
もめた原因は今年の三月の衆議院選挙でした。
私はこれといって投票したい候補者はいませんでしたが、
親に逆らう意味で投票に行きました。
私の地域の投票所は土足では投票出来ません。
従って私が投票するには係員が抱いて行かないと
投票できません。
それが親にとっては恥ずかしいことに思えたのでしょう。
係員も地元の人だし。
投票から帰ってくると凄いけんまくで言われました。

『あんな思いをして一票入れたってしょうがない、
世間に後ろ指をさされるだけだ』

またこんなことも言われました。

『おまえがいくら自立自立と叫んでも普通の人間としての
人生は歩めない。
障害者なりの人生を歩めばきっと幸福になる』

障害者なりの人生とはなんでしょうね。
また同封した手紙は母親にあてた手紙です。
いちご通信に載せてください。
あれだけの手紙を書いても分からない親たちが憎いです。」
(1990.7.5 T・M)


「なぜ俺が家を出たいか、思っていることを全部書きます。
お母さんが言うように、異性を求めていることは確かです。
結婚はいずれにしても

『一度でいいから女を抱きたい』

『このまま女を知らずに死にたくない』

という気持ちが強いのです。
それが自立したい理由の半分以上です。

でも、それだけではありません。
他にもいろいろあります。

いつか弟がこの家にお嫁さんを連れてきた時、
俺はどんな顔でそのお嫁さんに会えばいいのですか。
弟の兄貴としてではなく、単なる『この家の子供』でしか
会えないでしょう。
結婚式にも出席できずこの家に取り残され、
ただ一人結婚式が終わるのを待っている俺を想像すると、
惨めな気持ちになります。
たかが一日と言うかもしれません。
だけど、その一日が来る日が怖いのです。
恐ろしいのです。
この気持ちは誰にも分からないと思います。

その後も、ずうっと弟は大人の立場で、
俺は子供の立場でつきあって行かなければ
ならないのです。
お嫁さんとも対等には話ができないでしょう。
障害者は親のそばにいる以上、大人には
なれないのです。
また、世間からも大人として認められないのです。

この前、従兄弟のサッちゃんが来た時、本当に
悔しかったです。
本当なら一緒になって話ができるはずです。
サッちゃんとは遊んでもらった思い出があるし、
年だって違わないのです。
なぜ、あいさつだけしてコソコソと奥へ逃げなくては
ならないのでしょう。

小さい頃から、弟の成長が怖かったのです。
それは俺とは違う人生を歩み始め、
俺からだんだんと離れて行くからです。
チョコレートが多いの少ないのととっくみあいの
喧嘩をしていた相手が高校へ行き、
大学へ行き、お嫁さんをもらうのですよ。
こっちは相変わらずチョコレートが多いの
少ないのとやっているのに。

お母さんはよく俺が施設に入れば、弟が面会に
来てくれると言いますが、
それを心から喜べると思いますか。
行きたい所へも行けず、食べたい物も食べられず、
自分より年下の職員を先生と呼び、
いつも拘束された生活をしているのです。
弟は、お嫁さんと子供を連れてしあわせそうに
来るのです。

『兄ちゃんこれ食え』

と言ってくれて、嬉しいと思えるほど俺は立派
じゃありません。
どう思いますか。

俺が自立したいのは、異性だけのことではなく、
人間として大人として生きたいのです。
応援してください。」
(お母さんへ T・M)(1990.7.5 T・M)


「・・・親の強い愛に負けてしまい、家や施設に
閉じこもってしまった人をたくさん見てしまったので、
またあなたもかとがっくりしてしまいました。
選挙よく行きましたね。
一票をあなたが入れたこと、それは人間としての夢です。
私も誰に入れてみようかという思いがない時も、
選挙には行きました。
私たちはみにくい体を見せて、

『私はここで生きてるぞ!』

と言うことが、もっとも大切な仕事です。
あなたのとった行動は正しかったと思います。

葬式、結婚式に出られない悔しさは、言葉では
いい表せません。
従兄弟の結婚式に姉に声がかかっても、
私には声がかかりません。
子供の頃、なぜ自分だけ取り残されるんだろう?
と不思議でした。
でも、だんだん年をとってきて、私の存在を隠したいんだ
ということが分かった時、ショックで誰にも言えませんでした。
親の葬式さえ、家に鍵をかけられた友人もいます。
あなたは何があろうと、弟の結婚式に出てください。
出たからといって、何も変わらないけれども、あなた自身が
変わってきます。
あなたのお母さんはあなたを産んだことで親戚友人から
白い目で見られ、障害を持つ子を産んだことは全部
お母さんの責任にさせられたのでしょう。
女は健康な子を産む一つの道具に過ぎないという考えも、
今もってなくなっていないのだと思います。
お母さんが悪いのではなく、そうさせてきた周囲の人たちが
悪いのです。
あなたが自立した時、お母さんは女としてのプライドが
持てると思います。

私がスウェーデンに行って、あるスウェーデン人に

『あなたのお母さんはあなたを産んでよかったと
思っているでしょう』

と言われた時、私は涙が出たことを思い出しました。
どんな子を産んでも女は偉いという社会になるといいですね。

サッちゃんとチョコレートのお話いいですね。
あなたはチョコレートではなく、恋人が欲しいのでしょう。
私は欲しいものはまず手に入れたので、チョコレートも男も
似たようなものだと思います。
でもやっぱり味見をしなければ死にきれませんよね。
どうしたら恋ができるかなあと考えています。
やっぱり失敗を恐れないこと、数打てば当たる!
という根性でしょう。
女を抱きたい!! と思いながら生きること、
それがエネルギーになり、あなたの人生が変わってくると
思います。
プライドを持った人間として、エッチな男として生きましょう。」
(1990.8.15 小山内)


「今回東京へ行き、一番感激したことは、いちご通信で
登場していたT・Mさんに会えたことだ。
あまりにも言葉がはっきりしており、スマートな雰囲気もあり、

『この人が本当にあの暗い手紙を書いていた人かなー』

と、自分の目を疑った。
三、四年前電話が来ても、ひとつの言葉を聞き取るのにも、
三、四分かかった。
まったく奇跡である。

『どうしてそんなにスラスラ話せるようになったの?』

と聞くと、

『独り暮らしをしたら介護者が来てしゃべらなければならない、
家に居た時は何もしゃべらなくても一日が終わっていた』

これこそ真のリハビリテーションであると思った。

『姉が来たので町を案内したんだよ。
両親も諦めたらしく、いまでは喜んでいる』

と、彼の目は太陽のように輝いていた。
私が手紙を書き続け、そしてヒューマンケア協会が、
彼を受け入れた。
すばらしい連携プレーではないだろうか。」
(小山内)

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by bunbun6610 | 2013-08-26 18:00 | バリア&バリアフリー
『車椅子で夜明けのコーヒー 障害者の性』
(小山内 美智子/著 1995年4月26日/第1刷
ネスコ/発行 文藝春秋/発売)


「障害者が一番しなければいけないこと、
それは、自分の障害を主張することです。」

     (シンディ〔米国の車椅子障害者〕)

当ブログ
『障害はあなたという人間の一部です』
〔2011-11-17 22:30〕

より。




〔参考情報〕
『書評で人と本をつなげるブログ/ブックハウス』




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「デンマークから来たデンマーク筋ジストロフィー協会
の会長エヴァルド・クロ氏は、日本全土をまわり講演
をした。
彼は歯切れのいい口調で、

『デンマークの福祉と日本の福祉とのあいだには
三十年開きがある』

といっていた。
驚いたというより腹が立った。
なぜこんなにも開きが起こったのか、だれの責任なのか
を考えた。
政治家、行政、教育、障害児の親、そして私たちの
責任だろう。
戦争にエネルギーを使いすぎたのだと思う。
車椅子ひとつを見ても、飛行機の座席でいうと
日本のはエコノミークラスで、デンマークのはファースト
クラスの椅子だ。
十五年前からもう北欧は大規模施設を壊して、
障害者の性の問題に真剣に取り組んでいた。
昨年、十五年ぶりにおとずれたスウェーデンでは、
『車椅子からベッドインまで』
というセックスケアのマニュアルもできていた。」


「人間、皆いくつもの顔を使いわけて生きているのだ。
しかし障害の重い人たちは、いつもいい子で子どもの
ようにふるまうことを要求されている。」


「北海道の障害をもつ中学生の少女が普通学校で
勉強したいと闘ったが、本人にも親にもどこで勉強
するかの選択をする権利はないと裁判所は答えた。
なんと悲しい社会なんだろう。
まわりにいる子どもたちは、彼女を見て何を考えて
いるのだろう。
施設では結婚を許しても妊娠は許されない。
障害があろうとなかろうと、せっかく生まれようと
する貴い命をなぜ消してしまうのか。」


「二十七歳になりコンドームをもっていてもおかしく
はないだろう。
しかしボランティアやヘルパーさんに見つかり、
軽蔑され来てもらえなくなったら困るという恐怖感
がつきまとっていた。」


「二十歳を過ぎたとき、少し知恵の遅れた人がいて、
私は言葉で化粧の仕方、洋服の選び方、料理の作り方、
ことこまかに伝えた。
目やにだらけでボロボロの服を着ていた彼女は、
私のアドバイスでくやしいほど美しくなったのである。

『きれいだね。よかったね』

というと、彼女は『ありがとう』と、はじめて涙を流した。
彼女は恋をしたらしく、料理のメニューを聞きに
しょっちゅう電話がかかってきた。
そして、セックスの仕方もことこまかに教えてあげた。
しかし、施設側はふしだらな知的障害者だといい、

『寝た子を起こさないでくれ』

と私をどなり、彼女は実家に戻された。
彼らが結婚したとき、避妊の仕方、セックスのやり方
などをまわりにいる人たちは恥じらいなくアドバイス
しなければいけない。」


「交通事故にあい、精子が出なくなったという男性
からの電話を受けたことがある。
彼に子どもがつくれないとわかると婚約者は去って
いったという。
それは子どもがつくれるとかつくれないという理由
ではないと思う。
歩けなくなった彼を見たくなかったのかもしれない。
心は離れていく。
相手に子どもをつくる能力がなくなったと知ったとき、
別れを告げる人もいる。
それは死刑宣告にも似たむごい現実である。
日本でも障害者がミニスカートをはき、激しいベッド
シーンがある映画を作りたい。
プレイボーイの車椅子男性を描きたい。
それができたとき、日本の社会もようやく
成熟したといえるのではなかろうか。」


「なぜなら、障害者は夫婦げんかをしたときに、
意地をはっていたとしても、トイレに行きたくなれば
トイレ介助をしてもらわなければならない。
障害をもった側が、

『さっきはごめんなさい』

と先にあやまざるをえない辛さを、私が一番よく
知っているからである。」


「(トイレ便器の)ウォシュレットはもとは障害者の
ために作られたという。
現代ではテレビ、ステレオ、ドアのロック、照明など、
一般の人たちは知らずのうちにリモコンを使って
いるが、これらも障害者のために作られたのだ。
車のオートマチックや、野菜切り器など、障害者の
ために作ったものが、障害をもたない人たちに
とっても便利だということがわかり、
一般に普及している。
電動車椅子の小さなハンドルの箱の発明は、
NASAで研究されたという。

アパートを探しにいったとき、

『玄関にスロープをつけてもいいですか?』

と聞くと、アパートの美観が損なわれる、といわれた。
なぜ階段が美しいものとされているのか。
階段をつけた建築家は、自分が年をとり、
その階段に上れない日がくることに気づかない
のだろうか。
自分の身のまわりのものを見渡してほしい。
だれもが、ひとつや二つ、障害者のために
作られたものを使っている、ということに気づくはずだ。
けっして私たちは邪魔な存在ではない。
わがままをたくさんいって生きていることが、
私たちの仕事なのだ。」


「私たちは美しいプロポーションではない。
美しい顔でもない。
美しく着飾ってもさまにはならない。
殺し文句が一番きくらしい。
自分なりの口説き方を勉強するほか、手だては
ないだろう。
それはだれからも教えてはもらえない。
孤独なマラソンランナーである。
ゴールを見ないで死んでしまう人もいるだろう。」


「障害があるから異性を得ることができないとは、
いいたくない。
が、やはり山奥の施設で健康な男女三百人いても、
赤ん坊の泣き声、かん高い子どものおしゃべりが
ひとつも聞こえてこないのは、奇妙な世界である。

ある講演の最後の質疑応答で、施設を見学した
中年の女性が、

『すばらしい設備の施設でしたよ。
あんないいものを作ってもらい、何が不満なの』

と私に問いかけた。

『じゃあ、あなた一生あそこで暮らしたいですか?』

と彼女に聞くと、低い声で、

『いいえ、暮らしたくありません』

とうつむいた。
五百人くらいいた会場が、一瞬のうちに静まりかえった。
私はあまりにもきつい言葉をいいすぎたのかと思い、
涙が出てしまった。」


「ホストクラブからの帰り際、ハンサムボーイがタクシー
を拾ってくださった。
一台目がつかまったけど、

『あまり感じのいい人ではない』

といい、彼は断った。
そして二台目のタクシーは、とても感じのいい人だった
ので、

『この人なら大丈夫だよ』

といい、乗せてくださった。
もう真夜中の十二時を過ぎていただろうか。
彼の予想どおり、タクシーの運転手さんはとても
親切だった。

『すいませんねえ』

と何度もいうと、運転手さんは、

『こんなこと、当たり前ですよ。
あなたはお客様なのですから』

といい、車椅子を上手に開き、家の玄関まで
送ってくださった。
あれほど感じのいい運転手さんはめったにいない。
会社の名前と本人の名前を覚えておけばよかったと、
後悔している。

障害をもった人たちは、タクシーに乗るのが
恐ろしいという。
その意味は、私もいく度か経験しているので
よくわかる。

『なんで、付添人がいないのか。
面倒だ』

とどなる人もいる。
まったく悲しいことである。
北海道の障害者は冬は雪があり、地下鉄に
エレベーターがついても、そのエレベーター
まで行く手段さえない。
秋の冷たい風が吹くと、友人たちは、

『また穴ごもりの季節がやってきたなあ。
つまらないなあ』

という。
十二月、一月に東京に行ったとき、障害者たちは
すいすいと電動車椅子に乗っていた。
あれほどうらやましいと思ったことはないほど、
感激した。
タクシーもチップでも払えば親切にしてくれるの
だろうか。
なぜお客をどなりまくるのか、全国のタクシー会社
を経営している社長に訴えたい。
優しい運転手さんがふえないかぎり、雪国に住んで
いる私たちはどこにも行けない。
この問題をなんとか解決したいものである。」


「女を口説くために年金を使ったほうがいいのでは
ないか。
ところが、年金さえ親が管理し、三十代、四十代の
大の大人が月五千円、一万円のお小遣いという人
もいる。

『それでは女は口説けないよ』

という。
年金を月いくらもらっているかわからない人さえいる。

『一度でいいから喫茶店に行ってみたいなあ、
コンサートにも・・・』

というひとがいるのだ。
女を口説くために借金してもいいのではないか。
それがノーマルな社会だと思う。
障害のない人で女に狂って、身を滅ぼす人は
たくさんいるのではないか。
それがいいとはいえないが、障害者だってそういう
人生をおくる人がいてもいいのではないか。

セックス・ケアはどこまで踏みこんでいいのか。
服を脱がせ、下着をはずし、コンドームまでつけて
あげるのか。
そして、どちらかの体を上に乗せてあげるのか。
むずかしい。」


「秋も終わり、ストーブを買わなければ行けない
季節になっても、

『ストーブを買ってきて』

という電話がない。
副会長兼コーディネーターをしている沢口さんが
しびれを切らして、

『寒くない? ストーブ買おうか?』

と電話しても、あまりいい返事はこない。

『全部やってあげるのは簡単だけど、それでは施設の
ようになってしまう』

という沢口さんは、ストーブのパンフレットを持って行き、
選んでもらったという。

『もし凍え死んだら私たちのせいになるもんねえ。
どこまで手伝おうか、どこまで待っているかむずかしいよ。
プライドの高い保育園生のように見えることもあるよ』

と彼女はつぶやいていた。
施設は寒くなったら黙っていてもストーブが入る。
ご飯が目の前にくる、黙っていても寝る時間がくる。
これではいくら年をとっても社会人にはなれない。
沢口さんは、

『私たちもそういう時代があったんだねえ』

と大きなため息をつき、ケアのことからストーブのことまで
心配している。

『私たちもしかしたら施設の職員になっているときも
あるかもね』

といっていた。」



「(阪神大震災の後で)ニュースでボランティアが豚汁を
作ってもってきた。
ひとりのおばあさんの前に豚汁をおいたが、食べさせて
くれる人がいなかったという。
そんなコメントを聞き、私の幼い頃、食事の匂いだけが
鼻を通り、だれも食べさせてくれなかったことを思い出し、
涙が止まらなくなってしまった。
性のことから、現実めいたことまで書いてしまったが、
豚汁が食べられなかったお婆さんの苦しみと、
バージンで死んでいく障害者たちの悔しさは、
同じものではないだろうか。
被災者の人たちは力強く立ち上がるのにちがいない。
障害者も声を大にして立ちあがり、恋愛をし、
子どもを産み、育て、悔いのない人生を送ってほしい。」


「次はケア・マニュアルの本を書きたいと思っている。
全国で介護学校がたくさんできているが、あれは
私にとってはありがた迷惑なことなのだ。
教科書を作るのはすべてケアを受けたことのない人
なのである。
だから、ケアを受ける立場で、教科書を作りたいと思う。
もちろん私だけの原稿ではなく、看護婦、医師、
ケースワーカー、学識経験者の人たちにも原稿を
書いていただき、本物のケアとは何かということを
書き綴りたい。
原稿の中で、障害をもたない人たちと意見が違って
くるかもしれない。
でも、それでいいのだと思う。
その迷いや答えは、ケアを受ける人、ケアをする人が、
働きながら考え出していけばいいのだと思う。
この夢は実現させたい。
協力してくださる方がいらっしゃったら、
ぜひ手をあげていただきたい。

本当は介護学校なんていらないと思う。
しかし、国が決めたのだから仕方がない。
私の死ぬまでの夢は小さな介護学校を作り、
校長になることである。
生徒さんたちにお風呂にいれていただき、

『あなたは七十点。あなたは八十点』

と手つきや視線を見て思いやりを感じて、
点数をつけること。
そんな学校があってもいいのではないか。
介護はペーパーテストではない。
記憶力でもない。
学歴でもない。
才能なのである。
その才能と優しさを見つけていくことが、
今後私たちの仕事だと考えている。
障害が重ければ重いほど、優れた教師になれる。
本当のケアを教えられる。
厄介者と思われていた重度障害者は、二十一世紀
の高齢社会の財産となっていくのだ。
みんな、プライドをもって生きてほしい。」

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by bunbun6610 | 2013-08-25 18:00 | バリア&バリアフリー