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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

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『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「『身体障害者手帳』
その直後、私に身体障害者手帳を必要とさせるきっかけが
生まれました。
ある音楽関係の出版社から『鬼武者』の楽曲に関してインタビュー
を受けた際、会話のキャッチボールがままならず、先方に大変苦労
をかけたために、自分には手話通訳士が必要だと強く感じるように
なったのです。

しばらくして今度はアメリカの『TIME』誌から取材のオファーを
受けました。
すでにアメリカでも発売されていた『鬼武者』の音楽に着目しての
依頼でした。

最初は、私のような者に世界の最有力誌が何の用かとも思いましたが、

「くるものはありがたく」

という隠者の鉄則に従い、取材を受けることにしました。

すぐに私は手話サークルの副会長に連絡をとり、派遣手話通訳士の
制度について相談したところ、

「派遣の手話通訳士を使うには、身体障害者手帳が必要」

という回答をもらいました。
その言葉で私はとても暗い気持ちになりました。

結局、この取材も手話通訳士なしで行い、先方に苦労をかける
申し訳ないものとなってしまったのです。
このあたりから、障害者手帳の交付申請を真剣に考えるように
なっていきました。
――私には手話通訳士が必要だ。
その後もしばらく、この思いが消えることはありませんでした。

 * * *

2002年の年明け早々、私はついに身体障害者手帳の交付を
受けました。
前年の暮れ、私は手帳の交付を受けるべく、手話サークルの
副会長と全聾の友人に付き添われ、地方自治体が指定する
医療検査機関で聴覚障害の認定検査を受けていたのです。
詳しい検査の結果が医師より伝えられました。

感音性難聴による両耳全聾、身体障害者等級第一種二級
(聴覚障害では最高等級)、両耳鼓膜欠落(りょうじ・こまく・けつらく)。

私は公に身体障害者と認定されましたが、私の心はいまだそれを
認めてはいませんでした。
若いころから年金など納められなかった私には、障害年金も
下りません。
これまでかたくなに拒み続けた心まで捨て、認定を受けた理由は
手話通訳士の派遣を受けたい、というその一点のみでした。
交付当日、私が区役所に到着すると、そこには恐縮しきった表情の
副会長が待ちかまえており、いいにくそうにこう伝えました。

「ごめんなさい。
私のリサーチミスでした。
障害者手帳がなくても手話通訳士の派遣は受けられるのだそうです。
あんなに手帳の交付を嫌がっていたあなたに・・・。
本当にごめんなさい」

何ということか。
私は顔面蒼白になりました。
しかし、多くの励ましをくれた親切で生真面目(きまじめ)なこの人を
責める気持ちにはなれませんでした。
交付されたものを退けることはできません。
福祉課のカウンターで赤い手帳を受け取った瞬間、「負けた」と
思いました。
それでも、当初の目的であった手話通訳士の必要は変わりません。
手話通訳士がいてくれれば、複雑な会話をこなすことができます。
これから、私の話を聞いてくれる人が現れたら、そのとき大きな助けに
なることでしょう。

一方、手話通訳士がいなくても、私には伝えられる手段があることも、
かすかに自覚し初めていました。

『TIME』誌の取材を受けたとき、私はそのインタビューの形式に限界
を感じました。
手話通訳士もいなかったうえ、日本語と英語の通訳の問題もありました。
さらに、音楽のことは音楽でしか語ることができない、という強い思いも
ありました。
苦慮の末、私は彼らの前でピアノを演奏して見せたのです。

そのとき、記者と英語通訳者は涙を浮かべて喜んでくれました。
私には、そのことが忘れられずにいました。
私にはピアノがあった。
繊細なタッチも、華麗なパッセージも私の指は憶えている。
それが自分に聞こえないだけだった。
私が自分で聴けないことさえ我慢すれば、私にはまだ人を喜ばせる
手段が残っていた。
私にはピアノがある――。
この思いが、私の運命の扉をもう一つ、開けることになったのでした。」



=======================================




>「若いころから年金など納められなかった私には、障害年金も
下りません。」



障害年金をもらえない障害者が、たくさんいると言われています。
生活保護費の「漏給」とは違い、もらえる資格を永久に失ってしまった
障害者で「無年金障害者」といわれています。
制度上の矛盾があるようです。

当ブログの過去記事にも、詳細を述べています。
カテゴリー『無年金障害者の問題』を参照)
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by bunbun6610 | 2014-02-07 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「ある日、長い間使っていなかった補聴器を何気なく右耳に装着し、
ボリュームを最大限にすると、わずかに音が聞こえたのです。
少し聴力が回復したという喜びがあふれてきましたが、その期待は
一瞬にしてかき消されました。
聞こえてくる音は確認すると、やはり言葉もゆがんでいて何をいって
いるのか正しく聞き取れないのです。
聴力がわずかに回復したような気がしたものの、結局は何の役にも
立たないことがわかりました。

結局、私は暗闇の〈音楽室〉で、鳴りやまぬ耳鳴りに耐えながら、
文字通り作曲の隠者生活を送っていました。
しかし、このまま誰とも交渉せずに生きていくことなどできるわけが
ありません。

――このままでは誰とも会話できない、何とかしなければ・・・。

私は、以前から考えていたことを行動に移すことにしました。
手話を習う決心をしたのです。
全聾になってから2年近く手話の習得を避けていたのは、『鬼武者』
の劇伴音楽の作曲に追われていたことが大きかったのですが、
もう一つ理由がありました。
何かへんなプライドみたいなものが強く働き、手話サークルに向かう
足を止めていたのです。

それまでにときどき集めていた手話サークルの情報には、通っている
人の大多数は健常者である、と書かれていました。
恥ずかしい話ですが、当時は自分の障害を認められない、認めたく
ないという気持ちが非常に強く、手話サークルで健常者から私に
注がれるであろう「障害者を見る目」というものに耐える自信が
ありませんでした。

普通の健常者以上に「音」というものを自在に操ってきた自分が、
いまや自分の声すら聞こえず、うまく話せているのか確かめようも
ありません。
私の発音に首をかしげる人を見るたびに、不安と悔しさとみじめさが
入りまじった複雑な感情が沸き起こり、また、そんな自分自身を嫌悪
していました。

私は被爆二世として生きてきたので、万が一それ以外の差別や
偏見にぶつかったとしても十分耐えうる免疫力が備わっているだろう
とタカをくくっていたのですが、それが単なる盲信にすぎなかったことを、
そのとき嫌というほど思い知らされたのです。
私は、おびえとプライドの板ばさみになっていました。

正直にいえば、私はもともと健常者であり、あなたがたよりはるかに
「音」に長(た)けた人間だったのだ、そういう愚かなプライドを持って
いました。
当初は作曲家という私個人の傲慢さからくるものだろうと思っていた
のですが、のちに、それは、もしかしたら人間本来の愚かさなのかも
しれないと思うようになりました。

というのも、作曲家として聴覚障害を公にし、メディアからも身を退いた、
ある意味ではすでに作曲家でもない隠者の私には、もはや隠さなければ
ならないものなど何もないはずです。
なのに、周りから勧められていた身体障害者手帳の交付手続きだけは、
かたくななに拒んでいたのです。
やはり、これは人間本来の傲慢さの表れのように思えてなりません。
しかし手帳は必要ないにせよ、誰とも会話できないというのは放って
おける問題ではありませんでした。

意を決して区役所に相談に行き、そこで紹介された手話サークルに
通うことにしたのです。
通い始めてすぐに、習得が思った以上に厄介なことに気づきました。
中途失聴で全聾の私には、手話を習うにも説明の声が聞こえないのです。
講師の先生たちに迷惑をかけながらも、一つひとつ言葉を確認して、
習得していきました。
サークルは週一回しかなかったので、私はそれに飽き足らず同じ区の
別の手話サークルとのかけ持ちも始めました。
そこに初めて参加したとき、それまで通っていたサークルの先生が
偶然講師を務めていて、お互いに驚きました。
それも縁だったのか、以来、その先生には大変可愛がってもらいました。
先生からは多くのことを学びましたが、いまでも最も感謝しているのは、
相手の口の形を見て言葉を判断する口話術(こうわじゅつ)の大切さを
教えてもらえたことです。
先生は私の体調の許す日時に可能なかぎり時間を合わせて、喫茶店
などで口話のレッスンをしてくれました。
しばらくは音楽求道をゆるめて手話習得を優先し、自宅でも練習に
励みました。
私はこれまでも大きな誤解を悔やみました。
サークルの仲間はみなあたたかい人ばかりで、愚かな自分を恥じる
ばかりでした。
こうして日差しに耐えながら日中の外出を重ね、集中して勉強した私は、
4ヵ月間で手話をマスターすることができたのです。
仲間から

「あなたの手話習得は異例の早さ」

とほめられましたが、特別な感情は湧きませんでした。
何しろ私にとって手話習得は、背に腹はかえられぬ切実な問題だった
のですから。」



======================================




>「ある日、長い間使っていなかった補聴器を何気なく右耳に装着し、
ボリュームを最大限にすると、わずかに音が聞こえたのです。
少し聴力が回復したという喜びがあふれてきましたが、その期待は
一瞬にしてかき消されました。
聞こえてくる音は確認すると、やはり言葉もゆがんでいて何をいって
いるのか正しく聞き取れないのです。
聴力がわずかに回復したような気がしたものの、結局は何の役にも
立たないことがわかりました。」



補聴器の限界を語っています。
軽・中度難聴者には、補聴器は使用条件によっては有効性もあります。
しかし、重度難聴者の場合は、かなり厳しくなってくるのが現実です。

補聴器のみではなく、視覚情報も複合的に活用して、
それでも意味を大幅に単純化させて理解するのが、
重度難聴者のコミュニケーション方法だと思います。



>「――このままでは誰とも会話できない、何とかしなければ・・・。

私は、以前から考えていたことを行動に移すことにしました。
手話を習う決心をしたのです。」


実は私も、手話を本気で覚える気になった動機は、
佐村河内さんのこの動機と同じでした。
聞こえなくなると、もう健聴者と話すことは難しくなり、
誰も私と話す人はいなくなってゆきました。
そこで、崖っぷちに立った私は、ろう者との交流をしていくうちに、
手話を覚えてしまいました。
今では、健聴者や難聴者・中途失聴者とは、ほとんど交流がなくなりました。
手話で話せる人とだけ、交流をしています。


>「中途失聴で全聾の私には、手話を習うにも説明の声が聞こえないのです。
講師の先生たちに迷惑をかけながらも、一つひとつ言葉を確認して、
習得していきました。」



「どうしても日本語の説明がつく講習会で手話を覚えたい」

という難聴者・中途失聴者もたくさんいると思います。
そういう場合は、下記のような手話講習会もあります。
ただし、そこはろう者の手話〔日本手話〕とは違います。


〔東京都福祉保健局主催
中途失聴・難聴者対象手話講習会〕


http://www.tonancyo.org/chirasi/2013shuwa-kousyukai.pdf#search='%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E9%80%94%E5%A4%B1%E8%81%B4%E8%80%85%E3%83%BB%E9%9B%A3%E8%81%B4%E8%80%85%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E6%89%8B%E8%A9%B1%E8%AC%9B%E7%BF%92%E4%BC%9A'



>「相手の口の形を見て言葉を判断する口話術(こうわじゅつ)」

健聴者社会のなかで生きていくためには「読話」が必要だと思います。
下のような読話講習会もあります。


〔東京都読話講習会〕

http://www.tokyo-shuwacenter.or.jp/pdf/dokuwa2012-01.pdf#search='%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E9%80%94%E5%A4%B1%E8%81%B4%E8%80%85%E3%83%BB%E9%9B%A3%E8%81%B4%E8%80%85%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E8%AA%AD%E8%A9%B1%E8%AC%9B%E7%BF%92%E4%BC%9A'
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by bunbun6610 | 2014-02-06 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「『残された唯一の道』
さらなる絶望感に打ちひしがれ、作曲家人生をリタイアするという決意を
強くしたものの、いざその先の就職云々(しゅうしょく・うんぬん)に思いを
めぐらすうち、恐ろしいことに気がつきました。
ただの全聾者(ぜんろうしゃ)でしかない私には、どこにも職がないことです。

私は、あまりに音楽のためだけに生きすぎてしまっていたのです。
もし、聴覚障害がなければ、よしんば作曲家の道を退いたとしても会話が
できるのですから、どんなことでもできたでしょう。
これまでのアルバイトのようにして、仕事を見つけることもできたはずです。

しかし、全聾になったいま、そうした仕事を見つけることは極めて困難でした。

一方、私には絶対音感があり、全聾になってなお運良く作曲することが
できる――。
逆に、いまの私にできることは作曲だけだったのです。
そのとき私は、

「耳が聞こえなくなったからこそ、私には音楽しかなくなった」

という痛烈な逆説に思い至ったのです。

とはいえ、全聾者になったいま、これまでと同じように自分から積極的に
作品を売り込んだり、メディアに働きかけることは、どうしても聴覚障害を
売り物にしていると誤解されてしまいます。
それを避けてなお作曲家でありつづけるには、「作曲の隠者生活」を選択
するしかないと思いました。
あたかも隠者のように自分からは働きかけず、もし、私の音楽を求めて
くれる人が声をかけてくれたら、そのときには「山を下りて」ありがたく作曲
させてもらおう。

結果的にそれは、メディアから身を退くことを意味していました。」


===================================



>「ただの全聾者(ぜんろうしゃ)でしかない私には、どこにも職がないことです。」


一つだけ道があるのですが、それは当ブログで述べている、
障害者雇用枠で雇ってもらい、単純絵労働をすることです。
音楽は諦めなければならないでしょう。

でも佐村河内氏は、障害者手帳の取得も拒んでいましたよね。
それでは、どこにも就職できないでしょう。

もしも、あなたも突発性難聴に襲われたなら、必ずこのような人生の岐路に
立たされてしまいます。

働き盛りの40歳以降になると、難聴になる確率が上がってくるそうです。
難聴になったり失聴してしまうと、精神的ショックを受ける人も少なくありません。
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by bunbun6610 | 2014-02-05 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「それは幼少時によく演奏していたベートーヴェンの《月光》のメロディを
頭の中で流し、その旋律を五線紙に記譜していく、というものでした。
完成後に本物の楽譜と照らし合わせることで、自らの絶対音感を判断
してみようと考えたのです。
記譜を終え、そのスコアを楽譜と照合してみたところ、一音のミスもなく
完璧に記譜されていました。
少しだけ自信をつけた私は、管弦楽曲三十曲近くで次から次へとテスト
を重ねた結果、絶対音感がまったく衰えていなかったことを確認できた
のです。

――音が聞こえなくても作曲を続けられる!

そう確信したとき、初めて涙がこぼれました。

何とか作曲できる自信が持てるようになったころには、納期まであと
2ヵ月を切っていましたが、全聾(ぜんろう)となった私にはさらなる
過酷な試練が始まっていたのです。
それは、中途失聴者に起こりがちな、軽度より少し強い、いわば〈軽度上〉
の永続的な耳鳴りでした。
日を追うごとに耳鳴りの音量はどんどん巨大化し、全聾以前のそれよりも
激しくなっていきました。
それでも、持ち時間は限られていました。
全聾と激しい耳鳴りを考えれば、納得のいく作品に仕上げるには相当の
精神集中が必要とされることは容易にわかったのですが、それは困難を
極めました。
仮に耳鳴りの程度が同じであったとしても、外部の音が聞こえる状態での
耳鳴りと、外部の音がいっさい聞こえない静寂の中での耳鳴りとでは、
聞こえ方、感じ方がまったく異なるのです。
不快感や息苦しさは、全聾になってからのほうが圧倒的に増幅していました。
さらに耳鳴りは、分単位、ときには秒単位で突然大きな音量に変化する
という特徴を見せ始めていました。
頭の中にノイズなど存在しないのだ、と必死に自己暗示をかけながら、
ひたすら自身の内側に沸き起こる音楽にだけ意識を集中させるよう努め、
四苦八苦しながら作曲の筆を進めました。
睡眠時間を削り、少しでも作曲に費やす時間を捻出し、何とか納期ギリギリ
でスコアを提出することができました。

しかし、ほっとしたのも束の間、制作発表会までには二週間ほど余裕が
あったにも関わらず、その間、別のことが猛烈に私の頭を悩ませることに
なりました。
制作発表当日、テーマ曲の演奏終了後に、ステージ上で司会者と作曲家
の談話が行われることになったのです。

耳が聞こえないのに対談などできようはずもありません。

しかし、

「ほかのクリエーターすべてが対談を行うのに、大編成で生演奏まで披露
しておきながら、作曲家が抜けるのはありえない」

という理由で説得されては納得するしかありませんでした。

耳の障害をどうすればごまかせるのか。

私は打開策を求め、ありとあらゆる方法を模索してみましたが、答えなど
ありませんでした。
そのときの私はもはや誰とも会話のできない人間になっていたのです。
妻とでさえ、まともに会話ができません。
まず、相手に耳が悪いことを伝え、恐縮しながら筆談をお願いし、それに
先方が応じてくれて初めて会話が成立するのです。
当たり前ですが、耳が聞こえないとはそういうことです。
この先、誰とも会話しないで生きていくことは不可能です。
全聾者にそれは不可能です。
遅かれ早かれ知られてしまうことでした。

すべてをさらけ出す――。

私に残された道はそれしかありませんでした。」


===================================



>「絶対音感がまったく衰えていなかったことを確認できた」


ろう者と難聴者・中途失聴者者の違いがわからない健聴者が、よくいる。

「ろう者はしゃべれないのに、中途失聴者者は何でしゃべれるのか?」

と聞かれることがある。
違いは何かと言うと、一般的には「母語が違うから」といった説明法がある。
しかし、これだけではやはり、納得できていない健聴者も案外少なくない
ことに気づく。
私は、どのように説明すればより理解してもらえるのか、今も苦心している。

「難聴者や中途失聴者は両耳を手で閉じても、しゃべることができる。
当たり前じゃないか」

と説明してみたことがあったが、健聴者がろう者と比較すると、
理解できなくなる人もいるらしい。
そういう健聴者は、ろう者と中途失聴者者とをすぐ、
混同してしまうようなのだ。

何と言ったらよいのかわからないが

「聴力と、発語力は比例する」

と思っている健聴者もいるらしい。

自分のことを「全聾」とか「全く耳が聞こえません」と言うと、

「それではあなたはろう者ですね。
ろう者なら、どうしてそんなにしゃべれるのですか?」

などと聞き返されたりする。
それで返事に困ってしまう場合がある。

しかし、佐村河内氏の言う「絶対音感」が、その答えになるのだとわかった。
耳が聴こえなくなっても、まだ正確な絶対音感を持っているうちならば、
発音がきれいにできるのではないだろうか。
つまり、音声についての正確な記憶、イメージ力があるなら、
耳が聴こえなくなっても、それを使いこなすことはまだ可能だということだ。

もしも、音声の記憶がなかったり、失くしてしまったり、
イメージ力がなかったなら、それは再現のしようがない。
知らないものはできないのだから。



>「中途失聴者に起こりがちな、軽度より少し強い、いわば〈軽度上〉
の永続的な耳鳴りでした。」


耳鳴りに悩まされている難聴者や中途失聴者者は多い。
かなりのストレスになってしまい、健康悪化につながる。
不眠症になる人もいる。


>「制作発表当日、テーマ曲の演奏終了後に、ステージ上で司会者と作曲家
の談話が行われることになったのです。
耳が聞こえないのに対談などできようはずもありません。」


>「耳の障害をどうすればごまかせるのか。」

>「誰とも会話しないで生きていくことは不可能です。
全聾者にそれは不可能です。」



聴覚障害者が会社面接、職場、仕事で一番困るのが、このようなことだ。
ごまかすのに悩むこともある。
人と会うと障害が起こる。
しかし、それは耳が悪いから、という障害が最大要因なのではない。
コミュニケーション方法の違いで生じるのである。



===================================


「『悪夢のような光景』
私は『鬼武者』制作発表会で耳の障害が公になることを観念すると同時に、
ある重大な決意をしました。
今回の大編成によるメインテーマの作曲で、私は全聾になっても譜面上
での作曲は可能だと確信していました。
しかし、これまで聴覚障害を隠し通してきたのには、理由がありました。
一つは、耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。
それだけはどうしても避けたかったのです。
自分の作品はいっさいの同情なしに正しく評価されなければならない、
たとえそれが「クソだ」という評価であっても、です。
もう一つは「聴覚障害を売り物にした」という誤解も避けられないだろう、
ということです。

この二つの理由が、この先間違いなく、自らをひどくみじめな思いに陥らせる
であろうことはわかっていました。
・・・(中略)・・・
考えに考えたあげく、私は答えを導きだしました。――『鬼武者』
を最後に作曲家人生からリタイヤしよう、と。」



===================================



>「これまで聴覚障害を隠し通してきたのには、理由がありました。
一つは、耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。
それだけはどうしても避けたかったのです。
自分の作品はいっさいの同情なしに正しく評価されなければならない、
たとえそれが「クソだ」という評価であっても、です。
もう一つは「聴覚障害を売り物にした」という誤解も避けられないだろう、
ということです。
この二つの理由が、この先間違いなく、自らをひどくみじめな思いに陥らせる
であろうことはわかっていました。」


このために犠牲を払ってきたというのが、私には信じられなかった。
あまりに大きな犠牲を払ったと思う。
それは、この本をもっと後まで読み進めていけば、わかってくると思う。


===================================


「今朝家を出る前に、連れて行くべきか否か悩んだ弟の亨(とおる)の写真
のことを思い出したのです。
いったんは胸ポケットに収めたのですが、考え直して、結局〈音楽室〉に
置いてきたのでした。

「お兄ちゃんの曲の演奏会に僕を誘うんじゃったら、《交響曲第一番》のとき
にしてぇよね!」

と、最後の言葉を残して逝(い)った弟。

「もし、おまえが生きていたら、今日の演奏会にきたいといっただろうか?」

私は心の中でそう問いながらも、すぐに自分勝手な答えでその問いを
打ち消してしまいました。

「これを最後にリタイヤしようと考えている、弱っちい兄貴に会わずにすんだ。
おまえは今日こなくて正解だった」

と。
耳鳴りの音が減少するとともに、あの絶望感が静かに戻り始めました。
――これは偏執狂者(へんしゅうきょうしゃ)が見る悪夢なのか?
まだ吐き気が残る胸の中に絶望感がどっしりと定着したとき、私はあたりが
暗くなっていく感覚を確実に感じていました。
そして、うなだれて床に視線を落としたときです。
扉下の隙間に差し込まれた白いメモ書きが目に飛びこみ、私はドキリとしました。
紙にはこう書かれていました。

〔佐村河内さん、みんなが探しています〕

慌てて扉を開けると、私を確認して安堵(あんど)した様子のスタッフが3人
いました。

「なぜ私がこの中にいるとわかったのですか?」

と問うと、一人が

〔いくらノックしても返事がないから、佐村河内さんだと確信しました〕

と紙に書いてくれました。
それは耳が聞こえない人だ、ということを意味していました。
私を探していたのは、問題が発生したので指揮者が至急話したがっている、
という理由からでした。」


「『死んだ“作曲家”』
指揮者のもとに行くと、彼は楽譜のある小節を指差し、紙にペンで記しました。

〔この一小節は実際に鳴らして(演奏して)みると、一つのパートがほかの
楽曲群にマスキングされてほとんど聞こえなくなるのですが〕

「このパートは瞬間的なサブリミナル的効果をねらったものだけれども、
あなたの指摘も否定できない」

私はそう答えながら、まさかこの箇所の不具合を鋭く指摘してくるとは、
と内心思っていました。
じつは作曲中、この部分の実験的試みを行うべきか否か、一度悩んだのです。
しかし、あまりに時間がなかったので、頭の中で時間をかけてしっかり響きを
確認するということを怠ったまま、見切り発車的に記譜していました。

〔このパートが入ることで全体の響きが一瞬にごって聞こえるので、
これをカットしたバージョンを聴いてもらって気に入っていただけたら・・・〕

指揮者はそこまで書き、瞬時に顔を青ざめさせ、

「聴けないんでしたね。
すみません」

と謝罪しました。
私も瞬時に青ざめました。
しかし、それは不具合を指摘されたからではありません。
彼の指揮や提案はもっともなことでした。
私が青ざめたのは自分が、“死んだ作曲家”になっていた、と気づいたからでした。

現役の作曲家なら、通常自分で指揮をします。
あるいは指揮はしなくとも演奏に立ち会い、指揮者の感じた音のバランスを
自分の耳で確認し、違うと感じればその場で訂正し、あれこれオーケストラに
鳴らさせ、それを再び自分の耳で選別し、最も納得した響きを決定採用する
のです。

ところが、私にはその耳がない。
頭の中のオーケストラしか聴くことのできない私には、作曲後、実音に頼って
改訂するこができません。
だとすれば、私の音楽は作曲時においてすでに“完璧”でなければならなかったのだ!
 という思いが深く胸に突き刺さったのです。
死んでしまった作曲家は、自分の音楽を聴くこともできなければ、後世の指揮者が
感じた音のバランスに口出しすることもできません。
死人に耳なし、死人に口なしです。
死んだ作曲家に改訂は不可能なのです。

つまり、私の作品は完成した時点で、すでに死んだ作曲家の作品と同じなのだと
思いました。

私自身がまさに“死んだ作曲家”だったのだ、と気づいた瞬間でした。

結局は、録音時間も迫っており、私がその場で集中し、しっかり響きを確認して改訂
する時間がなかったため、問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」


「私は客席に戻りましたが、今度はスタッフの集まる一階席ではなく、誰もいない
二階席へと向かいました。
自分の創った音楽を自分で聴くことができない人間が、自分の音楽を堪能している
人間たちの中に身を置くことは、もはや耐えがたいことになっていたのです。」


「やがて録音も終了し、観客を入れて本番を迎えました。
私は本番演奏を舞台袖から見つめました。
虚無の目で・・・。
演奏が終わり、ステージへ呼び出されました。
当てられるスポットライトがまぶしく、ステージ上からは客席は暗くてよく見えません。
聞こえない私は、観客の拍手を想像して、形式通り頭を下げるほかありませんでした。
白状するならば、絶望感に包まれていたステージ上の私は、まったくの無感動でした。
その後、各クリエーターと司会者とのトークコーナーが始まりました。
やがて作曲家の番となり、私は筆談者を伴い、再びステージに上がりました。
司会者はまず私の耳の病気の説明をしたうえで、続けて、事前に頼まれて書いて
おいた〈作曲家の本作品への思い〉という私の短い原稿を朗読しました。
最後は筆談者の突きだした紙に書かれた〔終、お客さまにお辞儀を〕という指示に
機械的に従い、私の長い一日が終わりました。

こうして、夢にまで見た自作劇伴音楽(じさく・げきばん・おんがく)の、一流オーケストラ
による生演奏の場面は「悪夢の象徴」へと姿を変え、その一日は忘れがたい日として
深く胸に刻まれたのです。」



===================================



>「頭の中のオーケストラしか聴くことのできない私には、作曲後、実音に頼って
改訂するこができません。
だとすれば、私の音楽は作曲時においてすでに“完璧”でなければならなかったのだ!
 という思いが深く胸に突き刺さったのです。
死んでしまった作曲家は、自分の音楽を聴くこともできなければ、後世の指揮者が
感じた音のバランスに口出しすることもできません。
・・・(中略)・・・
つまり、私の作品は完成した時点で、すでに死んだ作曲家の作品と同じなのだと
思いました。
・・・(中略)・・・
結局は、録音時間も迫っており、私がその場で集中し、しっかり響きを確認して改訂
する時間がなかったため、問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」



>「自分の創った音楽を自分で聴くことができない人間が、自分の音楽を堪能している
人間たちの中に身を置くことは、もはや耐えがたいことになっていたのです」


>「その後、各クリエーターと司会者とのトークコーナーが始まりました。
やがて作曲家の番となり、私は筆談者を伴い、再びステージに上がりました。
司会者はまず私の耳の病気の説明をしたうえで、続けて、事前に頼まれて書いて
おいた〈作曲家の本作品への思い〉という私の短い原稿を朗読しました。
最後は筆談者の突きだした紙に書かれた〔終、お客さまにお辞儀を〕という指示に
機械的に従い、私の長い一日が終わりました。」



筆談ホステス』の著者・斉藤里恵氏(聴覚障害者)も、
講演の依頼を受けた。
佐村河内氏も、その斉藤氏の場合と同じような対談方法が
採用されたようです。(※)

この頃の佐村河内氏は、身体障害者手帳を取得していません。
彼自身、障害者福祉のことを調べていないし、
聴覚障害者への通訳(障害者自立支援法)のことなども、
まだ知らなかったようだ。


(※)
http://blog.goo.ne.jp/kazutou-s/e/02266a5f6c36e0c119e501eb43b510d0

『筆談ホステス』/ろう当事者木村晴美さんの感想
〔2010-02-17 11:52:18〕

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆ろう者の言語・文化・教育を考える◆ 
No.157 2010年2月17日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『■<文化> ドラマ『筆談ホステス』を見て』
には、次のように述べてある。

 「青森県の新成人を祝う行事に講師として招かれたとき、
自分の話は5分だけで、その後20分はあらかじめ用意されていた
質問に答える形で進められたそうだ。
もちろんすべて筆談である。」


 


通訳がなく、健聴者に一方的につくられたシナリオの通りにやるだけ、
というやり方は、健聴者にしてみれば

「聴覚障害者へ、できる限りの配慮をしてやったつもり」

であろう。
しかし、自分の存在感を感じることはできない。
自分だけ取り残されて、ものごとが進み、決定されてゆく。
そこには、たとえようもない己の非力を感じる。
結局、どうすることもできない佐村河内氏にも、
こう言っている箇所がある。

>「・・・問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」


仕方ないとはいえ、これは寂しいことだ。
自分のつくった曲を真の完成に導けないのは、
さぞ悔しい気持ちもつきまとうことだろう。

音声中心の世界では、聴覚障害者は疎外感、
虚しさを感じるばかりだ。
それが、ほとんどの聴覚障害者が味わってきた苦しみだとは、
健聴者には全く気づかない。
聴覚障害とは、そういうものなのだ。
まさに「関係障害」である。
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by bunbun6610 | 2014-02-04 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「このころには右耳の聴力も次第に衰え、再び補聴器をつけるようになり、
私は人との会話が少なくてすむ道路清掃のアルバイトにつきました。
夕方6時から明け方までの肉体労働に携わり、「先行」と呼ばれる職種を
担当していました。
数時間遅れで同じルートにやってくるスイーパー(ゴミを吸引する大型清掃
車)の前を先行し、歩きながら竹ぼうきを使って国道の路肩のゴミを道路側
に掃きだしていく作業です。

一年間住み込みで働いたのですが、この職場では素晴らしい仲間たちと
めぐり合うことができました。
よくぞここまで集まったな、というほどの変わり者集団でした。
みなそれぞれに事情を抱えた人ばかり。
世間的に見れば、ほめられたものではありません。
女房子供に愛想(あいそ)をつかされて逃げられた「荒くれおやじ」、
再婚し新しい家族のために残業マニアと化した「頑張り屋のアニキ」、
ギャンブルで莫大な借金を抱えた「自称ダメ男」、
神秘主義とアニメをこよなく愛する「心優しい対人恐怖症男」・・・。

この愛すべき「変態おやじ」たちにささえられていたからこそ、きつい仕事も
続けることができたのです。
彼らは初めて、私の発作のつらさを理解してくれた人たちでした。
自分のつらさを知るぶん、他人のつらさを感じられる人たちでした。
発作で倒れてSOSを伝えると、仲間はすぐに無線で連絡を取り合い、
応援を寄こしてくれました。
ここの親方は口は悪かったのですが、本当に心の優しい人で、親方が病気を
理解してくれていなければ、長く仕事を続けることはとうてい無理だったと
思います。」


「食べ終わると、お決まりのおやじたちの苦労話を聞くのがとても楽しみでした。
一人ひとりのちっぽけな人間たちは、みなそれぞれに悲しくも壮大なドラマを
持っているのでした。
おやじたちは、ときおり私の音楽への思いを聞いてくれ、いつもこういうのです。

「俺たちが応援するから夢に向かって頑張れ、そして羽ばたけ。
でも、もし夢が破れても心配するな。
俺たちはいつでもおまえを受け入れるよ。
いつでも帰ってこい!」

社会の底辺とさえいわれる環境で、たくましく生きる彼らは本当に素晴らしい
仲間たちでした。
私は彼らから、人間の生々しい現実、飾り気のない優しさ、そして何より他人の
苦をわがことのように感じる尊さを教わったのでした。」



======================================




>「彼らは初めて、私の発作のつらさを理解してくれた人たちでした。
自分のつらさを知るぶん、他人のつらさを感じられる人たちでした。」




>「社会の底辺とさえいわれる環境で、たくましく生きる彼らは本当に素晴らしい
仲間たちでした。
私は彼らから、人間の生々しい現実、飾り気のない優しさ、そして何より他人の
苦をわがことのように感じる尊さを教わったのでした。」



なぜ多くの人が、佐村河内氏の音楽に感動したのだろうか。
その音楽はもしかして、人間らしい“ぬくもり”とかを
感じることができる音楽だから、なのでしょうか?

この箇所を読むと、そんなふうに想像できる部分だと思う。

聴覚障害者同士で心の交流ができる方法は、
実は音による方法では難しい場合が多い。
視覚による方法である。
残念だが、彼が全身全霊をもって創り出した音楽によって、
ではないのだ。

同じ障害を持つ人々からの、佐村河内氏への関心が高い
にもかかわらず、障害を乗り越えた彼の音楽を聴くことが
できないというのも、皮肉ではないか。

音楽は、健聴者のためにつくられる。
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by bunbun6610 | 2014-02-03 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)





「『3年間の決意』
メンバーとの話し合いの末、そのバンドは解散する道を選びました。
私はさておき、彼らは情熱、技術ともに本当に素晴らしいバンドマン
でした。

まわり道をしましたが、こうして私はクラシック作曲家としての夢を
つかむため、打ち込みによる劇伴(げきばん)用音楽の作曲を再開
しました。
26歳のころのことです。

このころ、右耳は低下し始めた当初の聴力を保っていましたが、
左耳の聴力はさらにだいぶ落ちてきており、耳鳴りも変わらずに
続いていました。
私の両耳のステレオ感は、以前よりも悪い形で再び失われてしまった
のです。
いままで、売り込みを続けながら積みあげてきた自分の音楽が正当
に評価されるためにも、このことだけは誰にも知られたくありません
でした。
聴覚障害が知られてしまえば、今後自分が書く楽曲に同情票が
入ってしまうであろうことが簡単に予想できたからです。
それだけはごめんだ! という気持ちを強く抱いていました。

* * *

私はある朝、保険証片手に始発電車に飛び乗りました。
行き先は都心からなるべく離れた田舎町。
急行や特急電車を乗り継ぎ県境をまたいで3時間半、
ひたすら遠くへと向かいました。

私の珍しい名前では都心の耳鼻咽喉科に行けば、いつどこで
業界関係者に漏れ伝わってしまうかもしれない・・・。
誰にも知られたくないという不安感と異常なまでの潔癖性の性格が、
遠くまで足を運ばせていました。
降り立った駅近くで、耳鼻咽喉科の診療所を見つけて駆けこみました。

症状を詳しく説明すると、医師は聞きました。

「異常は何日前から起こりましたか?」

「左耳が2年前、右耳が去年」

と答えると、

「難聴を甘く見ておられましたね」

と医師はあきれたように笑い、

「すぐに診察したわけではないからはっきりとはいえないが、どちらの
耳も突発性難聴だった可能性が考えられます・・・」

と前置きしたうえで、こう説明した。
突発性難聴の根治率は、発症から一週間以内に診察を受けて即入院し、
酸素治療やステロイド剤の点滴などをすれば90%、10日で70%、
14日で50%、20日で40%。
それ以上治療が遅れると、いったん低下した聴力を回復させるのは難しい。
難聴は時間との闘いだったのだ、と。

「あなたの場合、根治率はゼロパーセントでしょう」

と告げられました。
ひどくショックを受け、動揺を隠せない私に医師は尋ねました。

「なぜ、すぐに病院に行かなかったの?」

自分には偏頭痛の発作があること、どちらの耳の異変も運悪く長く発作が
続いた時期に起きたことを詳しく説明すると、医師は気の毒そうな顔をした
あとで、さらに続けました。
その言葉に、私は完全に打ちのめされました。

「大変いいにくいことですが、あなたのようにきちんとした入院治療を
受けなかった方の場合、今後はさらに聴力が落ちていく可能性があります。
残念ですが・・・」

そして、医師は補聴器を勧めたのです。

「まず地方自治体の指定する専門医療検査機関へ行き、そこで詳しく検査
してもらいなさい。
厳密な検査の結果、『聴覚障害者』であると認定されたなら、自治体から
身体障害者手帳が交付されるので、それを受け取りなさい。
手帳があれば、補聴器はタダ同然で買うことができますよ。
手帳なしだと補聴器はとても高価になりますから」

とんでもない! と思いました。
誰が身体障害者と認めるものか!

帰りに「補聴器」という幟(のぼり)が立つ店に立ち寄り、価格を確認した
ところ、20万円から30万円もする高価なものでした。
いずれにしても、すでに左耳は相当聴力が落ちていました。

身体障害者手帳の交付を受けなければ補聴器は20万円、手帳の交付を
受ければ(障害が公〔おおやけ〕に認められれば)補聴器はタダ同然・・・。

その後、数日かけて考えた末、私は一つの決断を導きだしました。
肉体的苦痛を考えれば、私の持ち時間は長くはないのかもしれない。
現世では、顧(かえり)みられず終わってしまってももはやかまわない。
死後、誰かが自分の楽譜を見つけて演奏が実現し、人々に聴いて
もらえる音楽――そんな作品を書けるようになりたい。

そのためにも、詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり
極(きわ)め、クラシック音楽に必要な研究に没頭するための時間が欲しい。
それに要する期間を3年間と区切りました。
そして、音楽以外の勉強をしながら得たものを曲に反映し、打ち込みの
音楽で試していくためには、ステレオ感を得られる耳が欲しい。
どうしても補聴器が必要だと思いました。

私は妻にその決意を語り、初めて左耳の聴力低下のことを告白したのです。

「どうしてもやりたいことがある。
3年間だけ俺を食わしてくれないだろうか」

高価な補聴器を買うには妻の理解が必要でした。
私はこれまで聴覚障害を隠してきた理由を説明し、さらに今後も公(おおやけ)
に隠し通すためには、身体障害者であることを認めるわけにはいかないと
話したのです。
情けない頼みごととみじめな告白でした。

「補聴器を買ってもいいだろうか?」

「いいよ」

当時の二人には、とても高価なものだったのですが、妻はそれ以上何も
聞いてはきませんでした。
そして、こういって笑みを浮かべました。

「苦しい発作を抱えた身体とそんな耳で耐えていけるの?
でも、あなたが大丈夫というなら、私は平気です。
私は、あなたがしたいことをしてほしいだけだから」

この3年間は1秒たちとも無駄にはできない――。

私は、その決意を胸に深く刻みました。」



====================================





>「いままで、売り込みを続けながら積みあげてきた自分の音楽が正当
に評価されるためにも、このことだけは誰にも知られたくありません
でした。
聴覚障害が知られてしまえば、今後自分が書く楽曲に同情票が
入ってしまうであろうことが簡単に予想できたからです。
それだけはごめんだ! という気持ちを強く抱いていました。」



今の社会では、補聴器を装用している人もよく見かけるようになりました。
とはいえ、まだまだ、難聴を隠して生きている人は非常に多いのでは
ないだろうか。

佐村河内氏のような理由は、障害者としては珍しいと思う。
本をずっと読み進んでいくと、彼にもやはり、周囲の健常者から、
障害者として見られることに対する抵抗感を持っていたことがわかります。



>「行き先は都心からなるべく離れた田舎町。
急行や特急電車を乗り継ぎ県境をまたいで3時間半、
ひたすら遠くへと向かいました。
誰にも知られたくないという不安感と異常なまでの潔癖性の性格が、
遠くまで足を運ばせていました。
降り立った駅近くで、耳鼻咽喉科の診療所を見つけて駆けこみました。」



「難聴を本当にどうにかしたい」

と思うならば、この選択はありえないのではないか、
と思うくらい、私はびっくりしました。
もし悪い医者に引っかかってしまったら、騙されていたことも
十分にありえます。

本来なら、医療機関の情報収集を十分にして、厳選した病院へ
行くべきだと思います。

(しかし、実際は佐村河内氏も書いているように

「難聴治療は時間との闘い」

とも言われ、とてもそんな余裕はないのが普通であるようだ。)


私は幼少のときに、母に連れて行かれた耳鼻咽喉科医院に

「耳穴の中を掃除すれば治るから」

と言われて数ヶ月間、通院させられたこともあります。
医者に騙されたのです。
悪徳医師だと思って間違いないと思っています。
本当の難聴治療は、佐村河内氏がこの本で書いているように、
一刻も早い治療措置を行う必要がある、という。
私の場合も、すでに手遅れでした。

医者だけでなく、母までも、子供だった私の主張など信用せず、
この医者の言うことを、初めは信じていたのです。
無理もない。
普通は、どの親であっても、子供の言うことよりも、
専門の医者の言うことを信用するのが当たり前だろう。

しかし、数ヵ月後には通院費を払い続けるのがイヤになったのか、
母もうんざりしてきたようで、私は通院をやめさせられました。
それっきり、母は私の耳のことなど全く考えなくなってしまいました。

「あのときに、この医者が正しい診断をしてくれていたら」

という怨みが、私には今でも強く残っています。

私は、この医者の住所を今でも知っています。
この医者はどういうわけか、今では自宅の耳鼻咽喉科医院を
他の医者に貸していて、自分は遠くの大学病院の外来医師
として、勤めているという。

私がこの医院に診察してもらった当時は、院長の姓名を冠した
医院名だった。
しかし、今はその地域の名を冠した医院名に変わっている。
現在の院長は別人だ。

何かやらかしたからなのかもしれまんせん。
勿論、殺してやりたいほど憎んでいます。


ところで、この本を読んでいたら、佐村河内氏は被爆二世だと
いうことがわかりました。
それで、インターネットで探してみたら、
下のような事例もありました。
この方も、佐村河内氏と同じ、被爆二世なのだろうか?

 『音のない世界に住む武さんのブログ』



>「難聴を甘く見ておられましたね」

>「突発性難聴の根治率は、発症から一週間以内に診察を受けて即入院し、
酸素治療やステロイド剤の点滴などをすれば90%、10日で70%、
14日で50%、20日で40%。
それ以上治療が遅れると、いったん低下した聴力を回復させるのは難しい。
難聴は時間との闘いだったのだ、と。」



そのときになってから、突発性難聴を治せる病院を
調べ始めていたら、対応が遅れてしまうだろう。

「佐村河内さんは、たまたま運悪く、突発性難聴になった
のだから、しかたがない」

と思うだろうか。

だが、それがこの病気の現実なのだ。

突発性難聴になった人のうち1/3は回復できるが、
1/3は中途難聴者になり、
そして残りの1/3の人は失聴への過程を辿る、
と言われています。
軽く見ていると、取り返しがつかなくなり、
後に大変な苦労をするようになる病気です。

耳の病気で難聴になったコロッケさん(ものまねタレント)についての
記事もありますので、参考にしてみて下さい。(※)


(※)当ブログのカテゴリ;『難聴・中途失聴』の目次をご覧ください。


〔間連情報〕
岩波新書『音から隔てられて - 難聴者の声 -』
(入谷仙介、林瓢介/編者 1975年7月21日/第1刷発行
 株式会社岩波書店/発行所)


「耳治療が現段階ではむつかしい困難性にみちたものであり、
ただひとつ難病対策として取り上げられている「突発性難聴」に
しても、医学雑誌や関係資料を見ると、回復の可能性のある
のは発病後せいぜい1、2週間以内で、それ以外はすべて
手遅れという専門医学者のきびしい判定が行われており、
その大事な期間を、さすらいのうちに過ごしている多くの
同障害者のことが、辛くてならない。

難聴症状は聴力の低下や激しい耳鳴りを生じることによって、
子ども以外は早期発見は可能としても、早期治療をどのように
してするかということが、一つの大きな緊急課題である。
・・・発病後間もない時期に、適当な治療を積極的にうけて
さえいれば、私の聴力障害も今日よりもずっと軽くてすんだの
ではなかったかとの悔いも強い。」(P105~107)




>「「大変いいにくいことですが、あなたのようにきちんとした入院治療を
受けなかった方の場合、今後はさらに聴力が落ちていく可能性があります。
残念ですが・・・」

そして、医師は補聴器を勧めたのです。」



難聴を放っておいた難聴者のなかには、このように言われる
ケースも多いのではないか、と思います。
私もそうでした。
昔は、他になかったようです。


>「地方自治体の指定する専門医療検査機関」

この病院であればOK、ということではなく、
そこにいる「身体障害者認定医」による診断が必要です。
それ以外の医師ではダメですので、注意してください。



>「身体障害者手帳の交付を受けなければ補聴器は20万円、手帳の交付を
受ければ(障害が公〔おおやけ〕に認められれば)補聴器はタダ同然・・・。」



身体障害者手帳の交付を受ければ、障害者福祉のさまざまな
恩恵が受けられます。

「補聴器は両耳装用が効果的」

と言われますが、両耳だと普通の人には、かなりの高額出費に
なってしまいます。



>「詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり
極(きわ)め、クラシック音楽に必要な研究に没頭するための時間が欲しい。
それに要する期間を3年間と区切りました。」



私は、健聴者と同じようにして音楽を聴くことはできません。
だから、佐村河内氏の音楽もわからないのですが、
多くの人の心を捉える秘密は、ここにあるのではないだろうか、
と思いました。
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by bunbun6610 | 2014-02-02 18:30 | 難聴・中途失聴
『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「交響曲をやりたい!

しかし、交響曲はひとりでは演奏できはしない。
ならば指揮者か?
極度な人見知りの私が、百人もの楽団員とわたり合えるとは思えない。
そうなると、交響曲とかかわる残された道は一つでした。
自分がそれを書く人になる!!
交響曲を書こう。
それを自分の遠い将来の目標にしよう。

私はその日から母の指導を離れ、はるか頂(いただき)にそびえる
《交響曲第一番》に向けて、ひとり歩み始めたのです。」


「しかし、アルバイトを続けていくうえで、私は大きな悩みのタネを
抱えていました。

高校二年生から始まった、あの偏頭痛(へんずつう)の発作です。
年二回、夏と冬にそれぞれ二ヵ月間。
ずっとサイクルは定着しており、毎日最低三回から五回の激しい
頭痛が起こります。
発症過程は高校時代から変わらず、最悪の頭痛時には悶絶という
言葉以外表現のしようがない状態となり、大量に発汗し、ときには
嘔吐し、平均で一時間ぐらい、最長では二時間近く続くこともある
のです。
病院を何軒訪ねても、「重度の偏頭痛」という同じ診断結果が出る
のみでした。

音楽の求道(ぐどう)に支障をきたす発作にはいつも悔しい思いを
させられましたが、生活を支えるアルバイトにおいてはもっと深刻な
問題でした。
発作で生じる問題を何とかしようと、あの手この手で理由をつけては
ごまかしてみたり、正直に事情を打ち明けて「発作の起きたときだけ
休ませてほしい」と頼んでみたこともありました。
最初のうちは「仕方ないなあ」と無理を聞いてくれていた雇い主も、
忙しいときに倒れてしまう私を見るたびに、あからさまなうんざり顔に
なっていくのがわかりました。
私は先方からクビを切りだされる前に、自ら身を引く旨を伝えるのを
習慣とするようになりました。

このような経験を重ねるうち、年に四ヵ月間の発作期間中は働けないし、
働いてもすぐに辞めざるを得ないことになるとわかったので、
それ以降は一つのアルバイトをしながら、発作期間明けに始められる
次のアルバイトの面接に行くといったことをくり返していたのです。

19歳のある時期には、アルバイトのつなぎがうまくいかずに家賃が
払えなくなり、ついにアパートを追いだされ、半年間の路上生活を送った
こともありました。
着替え、楽譜、五線紙だけをリュックに入れて、山手線に乗って終日
ぐるぐるとまわっていたこともあります。
夏には、開店と同時に路上生活の先輩方と一緒に、冷房の効いた
デパートになだれこんでいったこともありました。
偶然にも街でバッタリ出会った高校時代の先輩が警察官をやっていて、
勤務地である池袋の交番に宿泊させてくれたこともありました。
しかし、路上生活を送りながらも、音楽求道の手をゆるめることは
決してありませんでした。

若気(わかげ)の至りといえばそれまでですが、このような不安定な
生活も精神的にきついと感じたことはありません。
ただ仕送りを続け、「まっとう」以上につくしてくれていた両親の期待を
裏切った路上生活の行為には、強く胸を痛めていました。」



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この頃の佐村河内氏は、まだ難聴ではないようです。
偏頭痛に悩まされての体験だと思われます。
偏頭痛の症状が重くなるにつれて、症状の種類も増え、
後に耳鳴りや難聴にも悩まされるようになっていく、
そして失聴していくと、この本には記されている。


アルバイトをコロコロと変えるのは理由がある。
それは、難聴者の人生と似たところがあると思う。

私も、若いときは難聴を隠してアルバイト等を転々と
していたので、「私とよく似ているな」と感じる。
若いときの難聴が軽いうちならば、簡単にごまかして
雇ってもらえる。
そして、入社時の短い間ならば難聴は、ある程度までは
ごまかせる。
しかし、いつまでも隠しきれるというものではない。

圧倒的に多かったトラブルが、人間関係である。
働き続けるには、相当な厚かましい精神力(?)がなくては、
自分も苦悩に耐えられるものではなかった。
「聴覚障害」とか、身体障害者手帳も知らなかった。
親も、我が子の難聴を隠したがっていた。
今の時代のような考え方など、想像もできなかった。
だから、短期で辞めてしまう場合がほとんどだった。
いい加減といえばそれまでだが、それしかなかったのだ。

佐村河内氏も、当時の病気は違うけれども、同じような
苦悩があったと理解できる。
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by bunbun6610 | 2014-02-01 18:30 | 難聴・中途失聴
NHKスペシャル『魂の旋律 ~音を失った作曲家~』
佐村河内 守

2013年3月31日(日)
NHK総合 午後9時00分~9時49分放送

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0331/



再放送予定の情報

http://www.nhk.or.jp/special/



「“現代のベートーベン”と呼ばれる日本人がいる。
佐村河内守(サムラゴウチ マモル)、49歳。

14年前に原因不明の病で両耳の聴力を失いながら、
クラシック作品の中で最も困難とされる交響曲を書き上げた。
現存作曲家の交響曲が演奏される事がほとんどない中、
彼の「交響曲第一番“HIROSHIMA”」は、
広島、東京、京都、大阪など5回も演奏されただけでなく、
一昨年発売されたCDは、音楽チャートでTOP10入りを
果たしJ-POPと上位を競うなど、“偉業”とも言える
空前のヒットを記録した。

そんな彼が、今取り組んでいるのは、東日本大震災の
被災者へ向けたピアノ曲「レクイエム」。
彼の曲に勇気づけられたと、多くの被災者から声が届いた
ことを受け、“鎮魂”の思いを強く願うようになったのだ。

しかし、震災を体験した訳でもない自分に、納得できる
鎮魂曲が作れるのか…。
被災地を訪ね、被災した人たちとの交流を深めるなど、
佐村河内の格闘の日々が続いている。

番組では、音のない世界の住人、佐村河内がいかにして
レクイエムを完成させるのか。
3月上旬に予定されている宮城での演奏会に向けた
制作現場に密着。
さらに、彼の交響曲に救いを見いだした被災者たちの
取材も加え、“命を削り、音を紡ぐ”作曲家・佐村河内守
の実像に迫る。」



==========================




当ブログ

『『交響曲第1番HIROSHIMA』
(佐村河内守) 中途失聴者の作曲家』
〔2012-12-31 18:30〕


では、私はうっかり

「聴こえなくなっても、作曲ができる、というのはわかりますね。
なぜ健聴者はそれを「奇跡」と書くのかが、理解できません」

と書いてしまいました。

でも、このテレビを観て、私にもやっと、耳の聞こえなくなった
人が交響曲を完成させる難しさが、理解できました。

ギター1本で作曲し歌う、シンガー&ソングライター
とは違うんだ…。


同時に、NHKの映像による聴覚障害
(「耳鳴り」と交響曲づくりの障害について)
の説明もすごくわかりやすいものだな、
と思いました。


「身を削って」

とか

「命を削って」

とか言うけど、被災地とその人々への『レクイエム』を
つくる過程でも、確かにそういう姿がカメラに
映っていました。

私は、こう思う。
その耳鳴りのなかで交響曲の作曲をするというのは、
ものすごく集中力が必要な作業であり、
楽しいとかという気持ちで音楽をつくるのとは
違うのではないだろうか、と。

耳鳴りがすると頭の中で常に邪魔されているから、
音のイメージをつくっていても、
聴者が聞いて満足するような曲を完成させるのは
難しいのではないだろうか、と思いました。

完成した自分の曲を聞くこともできないというのに、
彼は果たして自分のつくりだした芸術を味わえるの
だろうか。

曲がどのように仕上がったのかを見るためには、
聴衆の反応を見るしかないのではないだろうか。

だがそれでは、芸術といえるのだろうか。

なぜ彼は、それでも音楽を続けるのだろうか。


それでも、音楽家としては致命的と言われるような
障害を持っても、氏が“音楽求道”(作曲活動)を
やめなかったのは、並ならぬ執念だと思いました。

健常者は、よくそんな障害克服に成功した障害者
を賛美する。


映画『だいじょうぶ3組』ではないけれども、
それ風にいう、つまり普通に考えたら

「耳が聞こえなくなったら、フツー、音楽家の仕事
は諦めて、民間企業の障害者雇用枠で就職し、
働くしかないだろ」

で妥協するのが、多くの障害者の現実なのでは
ないだろうか。


しかし、佐村河内氏の場合は違った。

まさしく、奇跡だと思う。


一体、何が氏をそこまでさせたのだろうか。

聴覚障害者になってしまったからといって、
そこで彼が音楽を捨ててしまったら、
ただの聴覚障害者で生涯を終えてしまっていたに
違いない。

しかし、この困難をどうやって乗り越えたのか、
まだよくわからない。

そういった謎もまだ多いことから、
この人物への興味は、視聴者でもまだとても広くて
深いのではないか、と思う。
日本中の聴覚障害者も当然、大勢の人が観て、
そう思ったのかもしれません。

というのも実は、当ブログへの3月31日の、
佐村河内氏の関連記事へのアクセス数も、
突出して多かった(67.62%)のです。


なお、インターネットで調べてみると、
氏の著書には『交響曲第一番』(※)がある。

それによれば、盲目の少女との接点があり、
それが彼の運命を動かしたのではないか、
と思うが…。


(※)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%95%AA-%E4%BD%90%E6%9D%91%E6%B2%B3%E5%86%85-%E5%AE%88/dp/4062139359



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by bunbun6610 | 2013-04-02 18:00 | 難聴・中途失聴
全聾の作曲家? 現代のベートーベン?
日本人です。

よく読むと、ろう者(Deaf)ではなくて、
中途失聴者です。

私も聴覚障害者として、彼の音楽には関心があるのですけど、
残念ながら、音楽を聴き取るのは難しいです。
でも、聴こえなくなっても、作曲ができる、というのはわかりますね。
なぜ健聴者はそれを「奇跡」と書くのかが、理解できません。


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http://www.news-postseven.com/archives/20121216_160330.html

全聾作曲家のCD大ヒット「1を得るために99を捨てた」壮絶人生
2012.12.16 07:00

先日発表された2012年アマゾンランキング。
CD売上クラシック部門で1位に輝いた
『交響曲第1番HIROSHIMA』(佐村河内守・さむらごうちまもる)
が話題だ。
アマゾンの「音楽」総合ランキングでも、ユーミンやMr.Childrenを抑え、
トップを走る(12月14日時点)。
発売元の日本コロムビアによると、CDはすでに6万枚を販売。
数千部でヒットと言われるクラシック業界において、
異例の大ヒットを見せている。

 火が付いたきっかけは、11月9日のNHK「情報LIVEただイマ!」
での特集だった。
反強の大きさに、NHKは12月12日には「あさイチ」内で再放送
(政見放送で一部の地域のみ)。
米国の『タイム』誌に“現代のベートーベン”と称された作曲家の
魂の音楽が、ようやく広く日本人に届こうとしている。

 その人生はあまりに壮絶だった。
 4歳から母の英才教育でピアノを学び始め、小学3年生で
「ソナタ」を制覇。
10歳で「もう教えることはない」と母に告げられた。
その後は独学を貫き、音大への入学を懇願する両親を振り切って、
上京。
アルバイト生活を送りながら音楽求道の日々を送る。
金が尽き、路上生活を送ったこともあったという。
 一時はロック歌手としてデビューするものの作曲家と生きる
覚悟を定め、「鬼武者」などゲームや映画音楽の依頼も舞い込む
ようにもなった。
だが、過酷な運命が次々と佐村河内氏を襲う。
原因不明の発作、聴覚の異常、最愛の弟の事故死、
そして30代半ばで「全聾(ぜんろう)」に。
音を喪った後も、激しい耳鳴りや神経症に悩まされ続けた。
耳鳴りを誘発する光を避けるため、薄暗い部屋で作曲された
のが『交響曲第1番』である。
作曲に取り掛かったのは17歳のときのこと。
幾度もの破棄を重ね、完成したのは2003年の秋だった。

 作曲時の苦闘を佐村河内氏は、自著『交響曲第一番』で
こう表現している。

「私は《交響曲第一番》の完成を目前としながら、悶絶する
日々を送らねばなりませんでした。
(中略)
発汗や嘔吐を伴う硬直のあと、激しい全身痙攣が起こり、
発作が長引けば気絶してしまうこともありました。
そんなときは、ほとんど例外なく失禁しており、
鼻からもたびたび出血しました。
私にとって神聖な〈音楽室〉は、嘔吐物と尿と血にまみれた
恐ろしい戦場と化していました。
二日後には洗面器、一週間後には尿瓶なるものが登場し、
二週間後に生まれて初めて大人用紙オムツを装着したときは、
泣き笑いが止まりませんでした」
(「」内、以下同書より)

 氏は広島県出身の被爆2世であり、確実な原因をつかみきれない
聴覚障害について、被爆との関係性を指摘する医師もいるという。
上記著書には、自分の曲を自分で聴けない運命を呪う様が
克明につづられる。
だが、悲しみの末に、一つの真実に辿りつく。

「音楽は他者のために書かれる」

ものだと。

 そんな氏を支え続けたのは、高校時代に知り合い、
20代半ばで結婚した妻だった。
その妻の口癖は「欲しい服はないんですか?」。
衣・食・住と睡眠には興味がないという氏は、
外出する際、ほぼ例外なく同じ服を着るからだ。

「私には音楽しかない」

「1を得るために99を捨てる」

――音を喪くし、“偏執狂者”を自任する作曲家が、
暗闇のなかで辿りついた境地だった。

 2003年の完成の後、CDが発売されたのは2011年7月
のこと。
日本コロムビアの担当者は、突然やってきたブームについて
こう語る。

「信じてきてよかったなという気持ちですね。
佐村河内さんの人生の凄さもさることながら、
やはり“音楽の力”が強いと思います」

 とはいえ、こうしたブームについて、冷静な声もある。
音楽にも造詣が深い評論家の玉木正之氏はこう語る。
「クラシックには、数年に一度、大ヒットが生まれます。
100万枚売れた小澤征爾さんの『ニューイヤー・コンサート2002』
や、最近ではや辻井伸行さん、佐渡裕さん。
ただ残念ながら、ブームはブームで終わることがほとんどです。
今回も、急にクラシックファンが増大することはないでしょう。
でも、これをきっかけに、少しでも聴く人が増えれば嬉しいですし、
クラシック業界もこうしたヒットをきっかけに、ファンを広げていく
取り組みが求められていると思います」

『交響曲第1番』は、2013年2月25日に、大友直人指揮・日本フィル
ハーモニー交響楽団によるコンサートが決定(東京芸術劇場)、
夏にはロシアのサンクトペテルブルグ交響楽団が演奏を
予定している。
また、2013年春公開予定の映画『桜、ふたたびの加奈子』
(広末涼子・稲垣吾郎主演)には、佐村河内氏作曲の
『弦楽作品集』が流れる。
苦難の道のりを経て見出された2012年クラシック界最大のスターは、
来年も旋風を巻き起こしそうだ。


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奇跡の作曲家・佐村河内守の壮大な交響曲が大反響!
発売1年5ヵ月目で初のオリコンTOP10入り。
2012-12-12 12:57

http://exanime.exblog.jp/19280634/

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佐村河内守氏の、上の経歴を見ますと、
ある疑問を思い浮かべます。
大人になってから失聴した人ですから。

失聴前は健常者だった。
ということは、初診日が20歳前からの障害者の場合の、
障害基礎年金適用(受給対象者)ではありません。

しかも20歳頃は、まだ定職に就いていなかった
ように思えます(アルバイトだったようです)。
そして、失聴前にホームレスも経験している、という。
というとその頃、国民年金を納付できていなかった期間もある、
ということでしょう。
年金の未払い期間がある可能性がある、ということです。

というともしかすると、その未払い期間によっては、
受給要件を満たしていない可能性もあるのです。

受給要件となりうる初診日前に、
年金を払えないという最悪状態にあるわけで、
そのために中途失聴者でも条件を満たせず、
無年金障害者になってしまっていた、
という可能性もあると思います。

だから、こういう運命に生まれた聴覚障害者は心配だな、
と思いました。

氏は、果たして無年金障害者なのだろうか?
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by bunbun6610 | 2012-12-31 18:30 | 難聴・中途失聴