蒼穹 -そうきゅう- bunbun6610.exblog.jp

ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

タグ:ヘレン・ケラー ( 5 ) タグの人気記事

『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




=================================



『マーク=トウェーン(本名はサムエル=ラングホーン=クレメンス)の思い出』
(P176~190)
「クレメンスさんは、いつもわたしの心に愛と勇気をえがき、わたしに
生きがいをかんじさせてくださいました。
あるとき、手におえないおせっかいのピーター=ダンが、こんなことを
いいました。
『ヘレン=ケラーさんは、日中だってなにも見えるじゃないし、夜は夜で、
昼とちっともかわらないときちゃ、じっさいつまんないだろうな。』
すると、クレメンスさんは、
『ばかなことをいうもんじゃない。
目が見えないってことも、なかなかおもしろいものなんだぞ。
そうじゃないと思うなら、ためしてみるがいい。
じぶんの家が火事になったくらい晩に、ベッドからかべぎわのほうへ
おりて、
戸口ににげようとしてみたまえ。』
とおっしゃいました。
このひとことで、ピーター=ダンはだまってしまいました。
クレメンスさんは、じぶんをいつも皮肉やだといっておられました。
でも、いわゆる皮肉やさんのように、卑劣な、見て見ぬふりをするよう
なことは、けっしてありませんでした。
よくこんなことをおっしゃいました。
『ヘレンさん、この世の中には、うつろで、どんよりとした、たましいの
ぬけた、なんにも見えない目というものもあるんですよ・・・。』
わるいということがわかっていながら、だまっているような人を見ると、
クレメンスさんは、もうがまんがならないようなかたでした。」
(P178~179)


「わたしがクレメンスさんのお話を、サリバン先生に手に書いてもらって
いるのを見つけると、さっそく、
『先生、先生は、ヘレンの左の手に書いてでも教えることができるのですか。』
などと、子どものようなことをおっしゃるのです。
また、わたしの感覚をためすために、そっとへやをぬけだして、となりの
へやにある自動オルガンを鳴らしたりなさいました。
そして、また足音をしのばせてへやにもどり、じっと、わたしがそれをかんじる
かどうか、見ておられるのでした。
サリバン先生は、クレメンスさんのそのかっこうがおかしくて、わらいをこらえる
のに苦労したと、あとで説明してくださいました。
ゆかがタイルだったものですから、空気をとおしてつたわる音はわかりません
でした。
しかし、オルガンのうつくしい和音の震動は、ときどきテーブルをとおして
かんじることができました。
クレメンスさんは、それを見ると、ほっとしたように、また食卓におつきになる
のでした。
あくる日は、わたしたちを、たのしいさんぽにつれていってくださいました。
そして、その夜は、ごじぶんの書かれた作品を、わざわざじぶんで読んで、
わたしにきかせてくださいました。
なにもかも、うれしいことばかりでした。
そして、さりげなくおっしゃったお話、大まじめになさるじょうだん、どれもこれも、
わたしの心をゆたかにしてくれました。
クレメンスさんは、目の見えない、耳のきこえないわたしがそこにいるという
ことなど、まったく気がつかないというようにふるまいながら、それでいて、
ひじょうにこまかく、わたしのことを考えていてくださるのでした。
わたしには、それがよくわかりました。
そんな友情をかんじるときほど、幸福なことはありませんでした。」
(P188~189)

『わたしのすすむべき道』(P190~199)

「しかし、もっとかなしいこともありました。
それは、あのパーキンズ学院の院長でおられた、アナグノス先生のことです。
それはまだわたしが少女のころのことですが、アナグノス先生は、
サリバン先生とわたしを、学院にひきとってくださろうとなさったことがありました。
これに反対なさったのは、サリバン先生でした。
先生は、わたしが一つの学校の内部でだけ生活するということは、
私の教育のさまたげになると、お考えになったのです。
身体障害者というものは、もし、ふつうの環境においておくことができるならば、
そのほうが、かれらだけの生活をさせておくよりは、はるかによいのだ――
これがサリバン先生のお考えでした。
いろいろないきさつから、もしわたしが、あのときにあのまま、学院の中でくらす
ようになっていたら、いまごろもっと幸福になっていたかもしれないと、
考えないでもありません。
なぜなら、学院では、だれもがゆびで話をするのですから、なんの不自由も
かんじなかったでしょう。
それに、わたしは目の見えない子どもがとてもすきなのです。
それに、わたしはアナグノス先生に、おとうさんのようにしたしんでいました。
そして、サリバン先生を、わたしのところへおつれしてくださったのが、
アナグノス先生だったのですから。
しかし、わたしたちは、学院をさりました。
アナグノス先生は、そのとき、「サリバンは恩知らずだ。」と、おいかりに
なりました。
しかし、もしまだ先生がこの世においでになりましたら、あのときのサリバン
先生のなさったことが、けっきょくただしかったのだということを、わかって
いただけたと思います。
わたしの一生をひきうけようとなさった人々の中には、まるでわたしを主役に
した劇を、わたしが考えだしたかのようにしくみ、それがうまくいかないばかりに、
すっかりめんぼくをつぶされるようなかたもありました。
ルーマニアの美しい王妃さまがそうでした。
王妃は国じゅうの盲人を一つのところにあつめて、たのしいホームと仕事を
あたえようと計画されたのです。
それは、「光の炉(ろ)べ」という、うつくしい名前の町になることになって
いました。
その仕事をわたしにてつだえといってこられたのです。
その計画は、たいそうりっぱなものです。
しかし、盲人を独立させるための仕事ではありません。
わたしは、おてつだいできませんと、返事をだしました。
王妃はたいそうおいかりになり、わたしが、じぶんの利益しか考えない女
のようにお考えになったようです。
それきり、文通もとだえてしまいました。
わたしはいま、わたしにあれこれさしでがましいことをけっしてなさらなかった
かたがたに、心から感謝したいと思うのです。
ふしぎなようですが、そういうかたがたにかぎって、ほんとうにわたしをたすけ、
わたしをよろこばせてくださったのです。
ベル博士も、マーク=トウェーン氏もそうでした。サリバン先生はもちろん、
母もロジャース氏も、みんなそうです。
そしていつも、わたしの仕事はわたしがじぶんでえらべるようにしておいて
くださいました。
わたしは、じぶんのすすむべき道にまようとき、いつも常緑樹の林にいくのです。
夜のあいだ霜にいためつけられた花や葉が、朝になるとまた身じまいをただして、
りりしく大空を見あげています。
それを見ると、わたしは心をうたれるのです。
また、そんな林をあるいていると、いつも、くらい土の中で、せっせと苦労している
根の歌をきくような気がするのです。
根というものは、じぶんのさかせたうつくしい花を、けっして見ることはできない
運命にあるのです。」(P196~199)



=================================

[PR]
by bunbun6610 | 2014-05-05 20:00 | 聴覚障害
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




===================================


「『ベル博士の思い出』
アレキサンダー=グラハム=ベル博士のお話をしましょう。
「うつくしい思い出というのは、人間がもつことのできる最高のとみである。」
といった人があります。
博士の思い出こそ、わたしのもっとも大きなたからです。
世間の人々は、ベル博士といえば、すぐ電話を思い出すことでしょう。
しかし、ろうあ教育につくされた博士の仕事は、電話の発明におとらず
偉大なものです。
そして、わたしはそれにもまして、やさしくしんせつな友だちとして、
博士を思いだします。
博士こそわたしの恩人ですが、わたしは、恩人とか先生とかよぶよりも、
「わたしのいちばん古いお友だち」とよびたいと思います。
博士は、まだサリバン先生がきてくださるまえ、くらやみの中にいる
わたしに、あたたかい手をさしのべてくださったかたです。
サリバン先生がわたしのところへきてくださることになったのも、
ベル博士のおせわがあったからなのです。
ベル博士の一家は、ずいぶんむかしから、代々ことばの研究をして
こられました。
博士の祖父にあたるかたは、どもりをなおす方法を考えだされたかたです。
おとうさんは、耳のきこえないものが、あいてのくちびるを見て話をきく
方法を完成されたかたです。
そのおとうさんは、むすこのベル博士に、
「すこしも金にならない仕事だった。」
といっておられたそうですが、博士には、それが電話の発明よりも、
はるかにだいじな仕事だということは、ちゃんとおわかりになっていたのです。
ベル博士は、とってもおとうさん思いのかたでした。
博士は、おいそがしくて、一日か二日おとうさんにおあいにならないと、
すぐに、
「どれ、おやじにあってこよう。
おやじと話すのは、強壮剤をのむようなものだからな。」
そんなじょうだんをおっしゃって、いそいそとおでかけになりました。
博士の小さな家は、ポトマック川が海にそそぐところにありました。
わたしたちがたずねると、おふたりはよく、なにもお話しにならずに、
ただしずかにたばこをくゆらしながら、川を上下する船やボートを
ながめていらっしゃることがありました。
そんなとき、どこかでききなれない小鳥が鳴くと、
「おとうさん、いまの声は、どんな記号であらわしますか。」
と、博士がおたずねになり、いっしょうけんめい、その声を口にして、
くちびるの形を研究し、ああでもない、こうでもないと、いつまでも
おふたりで、発声学の研究にむちゅうになられるということでした。
博士は、どんな声や音でも分析し、それを読唇法にとりいれられました。
ベル博士は、おかあさんにもそれはやさしいかたでした。
わたしがお知りあいになったころには、もう、おかあさんはまったく
耳がきこえなくなっておられました。
ある日、サリバン先生とわたしは、ベル博士にドライブにつれて
いっていただいたことがありました。
道々(みちみち)、わたしたちは、すいかずらやつつじを見つけると、
それをたくさんつみました。
すると、帰るとちゅう、博士は、おかあさんのいらっしゃる別荘によって、
「にわからはいって、おやじとおふくろをおどろかせるんだ。」
そんなことをいって、しのび足ではいっていかれました。
わたしたちもそのあとにつづきました。
ところが、階段のところまでいくと、
「しずかに。
ふたりとも、よくねむっているんだ。
このまま帰ろう。」
と、博士はわたしの手のひらにおっしゃいました。
わたしたちは、音をたてないように、もっていた花をぜんぶそこに
いけて帰りました。
目にこそ見えませんでしたが、やさしいむすこをもったおとうさんと
おかあさんのしあわせそうなすがたを、ありありとわたしは思い
うかべることができました。
その後も、博士のご両親をおたずねするのは、とてもたのしみでした。
おたくには、毎日たくさんの訪問客がありました。
おかあさんは耳がまったくきこえないのに、はたのものが気が
つかないほど、じょうだんまでまじえて、じょうずにお話しになって
いました。
あいてのくちびるを見て話しておられるのです。
それほど、読唇法をじぶんのものにしておられたのです。」
(P157~162)


「目が見え、耳がきこえる人々には、耳がきこえず、ものもいえない
ということが、どんなことだか、おわかりにならないかもしれません。
わたしたちのまわりをとりかこむしずけさというものは、あの神経の
つかれを休めてくれるしずけさではないのです。
『おはよう。』という声や、小鳥の声でやぶれる、そんなやさしい
しずけさではないのです。
それは、いっさい他人とじぶんをひきはなし、とじこめる、ざんこくな、
あついかべのようなしずけさなのです。
ですから、むかしの、わたしのような人たちは、どんなわずかな
希望もありませんでした。
そのかべをやぶってくださったのが、ベル博士でした。
そして、わたしのようなものもはじめて人類のたのしい社交に
くわわることができるようになったのです。」(P162~163)


「(ベル)博士は、電話が実用化されたさいしょの建物を見せて
くださったとき、
『もし、わたしの仕事をてつだってくれたトーマス=ワトソンくんが
いなかったら、この発明はとても完成しなかっただろう。』
とおっしゃいました。
『電話がはじめて通じたとき、どんな話をなさったのですか。』
わたしがたずねました。
『「ワトソンくん、ちょっときてくれ。」といったのですよ。』
なあんだと、わたしは思いました。
それで、
『はじめての通話なら、もっと意味ぶかい話をなさればよかったのに。』
といいました。すると、博士は、
『ヘレン、電話でいちばんたくさんつかわれることばは、この
「用事があるから、ちょっときてくれ」なんだよ。
電話は、そのためにあるんだよ。』
とおっしゃいました。
しかし、ふしぎなことに、博士はごじぶんのへやに、電話をおいて
いらっしゃいませんでした。
わたしはそれがふしぎで、たずねてみました。
すると博士は、
『外のごたごたした用件を、家庭にまでもちこみたくないからさ。』
といわれました。」(P164~165)


「博士は、電話の発明ばかりを世間がさわぎたてるのを、とても
なさけながっておられました。
わたしの手に、こんなことをおっしゃったことがありました。
『世の中の人間は、わたしが電話の発明いがいには、なんにも
しなかったとでも考えているらしい。
わたしも、電話の発明では、お金をもうけたからね。
それでみんな、わたしのことをさわいでいるんだよ。
お金さえもうかれば成功したと思うなんて、ほんとうに気のどくなことだ。
わたしはそれより、口のきけない人が、もっとらくに口がきけるように
なれたら、どんなにいいだろうと思っているんだよ。
それができたら、わたしはほんとうに幸福になれただろうにね・・・。』」
(P170~171)


「(ベル)博士とてもおいそがしいかたでした。
わたしは長くおあいできないときには、よく手紙をだしました。
が、けっして、返事をいただくつもりはなかったのですが、いつも
すぐに返事をくださいました。
また、わたしがなにか書くと、かならず読んでくださって、いろいろと
批評を書きおくってくださいました。
そして、いつもわたしを、あわれなものとしてではなく、一人まえの
人間として、対等のことばがつづられていました。
わたしが、『わたしのすむ世界』という本をおおくりしたときには、
すぐにこんな返事をくださいました。

『宇宙の問題について、あなたにろくなことがいえないだろうなどと
考えている人々のなかまに、わたしまでいれないでください。
わたしは、税金のことや、国のことや、また、さまざまなこの世に
おこる事件について、あなたの意見をききたいと思っています。
あなたが、じぶんという小さなからにつつまれた世界から、
広い世界にでて、いろんなことを考え、書いてほしいと思います。
あなただけの世界をのぞかせてもらうのは、たしかにわたしにも
おもしろいことです。
それだけに、外の世界のことも、どういうふうに考えているのか、
知りたくなるのです・・・。』


やさしい中にも、きびしいはげましのあることばでした。
『石のかべの歌』という、わたしの詩集ができたときには、
――あなたが、美と音楽の世界から追放されている人間でない
ことがもういちどわかって、たいへんうれしい。
――と書きおくってくださいました。
こんなにきびしくわたしをはげましてくださったかたは、ベル博士
のほかにはありませんでした。
大学の卒業がまぢかにせまっていたころのことです。
博士は、卒業したらなにをするかとおたずねになりました。
『卒業したら、サリバン先生とふたりで、人里はなれたところにすみ、
しずかにものを書いてくらしたいと思います。』
と、わたしは答えました。
すると、博士は、いわれました。
『あなたのこれからの仕事をきめるのは、あなたではないんだよ。
わたしたちは、ただ宇宙を支配している大きな力の道具にすぎないのだ。
いいかい、ヘレン。
じぶんを一つの型にはめてしまってはいけないんだよ。
本を書くのもいいだろう。
演説してまわるのもいいだろう。
なにかを研究するのもいいと思う。
できるだけ多くのことをしてごらん。
あなたが一つでも多くの仕事をすれば、それだけ、世の中にいる目の
見えない人や、耳のきこえない人をたすけることになるのだよ。』」
(P171~174)



===================================

[PR]
by bunbun6610 | 2014-05-04 20:00 | 聴覚障害
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




================================



「1892年の冬、そのかがやかしい空が、まっ黒な雲にとざされてしまうような、
かなしい事件がおこりました。
そのことを思いだすと、いまでも、心につめたいものが走ります。
わたしがはじめて口がきけるようになったその年の秋のことでした。
わたしたちはまた、あの「しだの石切り場」の別荘ですごしていました。
サリバン先生は、山のもみじのうつくしさを、いろいろわたしに説明してください
ました。
わたしはそれをききながら、そんなうつくしいけしきのでてくるものがたりを、
心にうかべていました。
それが、かつて読んでもらったことのある本のものがたりであることなど、
すっかりわすれてしまっていました。
わたしの心に、ごくしぜんにうかんできたものだとばかり思っていたのです。
それで、心にうかんだすばらしいそのお話を、わすれないうちにと思って、
つくえにむかい、すぐに書きはじめたのでした。
お話ができあがると、さっそくサリバン先生に読んできかせました。
われながらうまく書けたと、とくいになっていました。
夕食のとき、あつまった家の人たちにも読んできかせました。
みんなは、じょうずに書けているに、びっくりしました。
だれかが、あまりじょうずに書けているので、本で読んだお話ではないのかと、
たずねました。
わたしはびっくりしました。
そんな話を読んでもらった記憶は、まったくなかったからです。
「いいえ、ちがうわ。
これはわたしがつくったお話よ。
アナグノス先生のお誕生日のお祝いに、おおくりするのよ。」
わたしはいいはりました。
あくる日、わたしはそのお話を清書し、題を「秋の葉」とつけました。
しかし、サリバン先生に相談して考えなおし、「霜の王さま」とつけかえました。
そして、じぶんで郵便局までもっていきました。
パーキンズ学院のアナグノス先生は、たいへんよろこんでくださいました。
そして、学院の雑誌にそのままのせてくださったのです。
その知らせをいただいたとき、わたしは、天にものぼる思いでした。
だが、まもなくわたしは、その天から地面にたたきつけられなければ
ならなかったのでした。
わたしがボストンにもどってまもなくのことです。
わたしの書いたお話が、マーガレット=キャンビーというかたの、
『小鳥とその友だち』という本の中にある「霜の妖精」と、文章がひじょうに
よくにているということがわかったのです。
わたしは、きっとだれかに、いつかこのお話を読んでいただいたことがある
のでしょう。
それがわたしの心に残っていて、こういうことになったにちがいありません。
わたしは、たいへんもうしわけのないことをしたと思いました。
でも、いつ、どこで、「霜の妖精」などというお話を読んでもらったか、
どうしても思いだせません。
もしサリバン先生に読んでいただいたのだったら、まっさきに先生が
このことにお気づきになったはずです。
サリバン先生は、なにもごぞんじありませんでした。
ふつうのかたには、ちょっと考えられないことかもしれません。
でも、目も耳もないわたしは、そのころ、本を読むといっても、著者のことなど、
考えたこともありませんし、じっさいの世界をこの目で見たのは、赤んぼうの
ときの十九か月間だけなのです。
あとはすべて、手にふれ、他人の話をきき、本を読んで想像し、じぶんの
心の中に一つの考えをつくりあげてきたのです。
まだおさなかったわたしには、わたし自身の考えと、他人をとおして吸収した
考えとのさかいめが、はっきりわからなかったのです。
それで、こんなことがおきてしまったのだと思います。
アナグノス先生は、はじめ、わたしをしんじてくださいました。
ところが、学院のひとりの先生が、ある日わたしに、「霜の王さま」のことを
おたずねになりました。
わたしはしょうじきに、「霜の王さま」という題名を、サリバン先生に相談したこと、
また、秋のもみじや、霜について、いろいろ先生からおそわったことを
お答えしました。
わたしはその答えに、なにかわたしが、キャンビーさんの「霜の妖精」を
わざとまねをしたと、白状したように思わせるものがあったのでしょうか。
その先生はさっそく、わたしが白状したかのように、アナグノス先生に
つたえてしまわれたのでした。
アナグノス先生は、それをおききになって、わたしにだまされたとお思いに
なったようでした。
サリバン先生とわたしが、わざと他人の文章をぬすんで、先生にほめて
いただこうとしくんだことだと、お考えになったのでした。
やがて、学院の先生と役員でつくられた審査委員会に、わたしはよびだされる
ことになりました。
しかもその席には、サリバン先生といっしょでなく、わたしひとりでくるようにと、
いいわたされました。
まるで、罪人をさばく裁判のようです。
委員のかたたちは、はじめから、わたしに、「霜の妖精」をサリバン先生に
読んでもらい、それをぬすんで書いたことをみとめさせようと、きめてかかって
おられるようでした。」(P107~112)


「わたしが、ナイアガラのすばらしさに感動したといいますと、たくさんの
かたがたが、とてもふしぎがられました。
「あなたは、たきを見ることも、そのひびきをきくこともおできにならないのに、
どうして、なにをそんなに感動なさったのですか。」
こういうふうに、おたずねになるのです。
わたしはお答えしました。
「なにを感動したかって、それはとてもいいあらわすことはできません。
ちょうど、あなたが、『愛』とか『善』とか、うつくしい信仰を、見ることも
きくこともなしに感動なさるのとおなじことです。
とても説明できるものではありません。」」(P117~118)


「『大学受験』
二年間のろう学校生活をおわると、ボストンのとなりのケンブリッジに
ある女学校に入学しました。
おなじ町にあるラドクリフ大学にはいる準備をするためです。
ケンブリッジ女学校は、もちろんふつうの女学校です。
わたしのように、目が見えなかったり、耳がきこえない生徒が入学した
ことはありませんでした。
わたしはあいかわらず、サリバン先生といっしょに授業をうけ、
授業をぜんぶ通訳していただかなければなりませんでした。
いちばんこまったのは、教科書でした。
これは、ロンドンとフィラデルフィアの友だちが、ぜんぶ点字に訳して
くださることになっていたのですが、なかなか、まにあいませんでした。」
(P126~127)


「ラドクリフ大学にすすむためには、いろんな学科について、それぞれ
予備試験をうけておかなければなりません。
わたしは、ケンブリッジ女学校で一年の授業をおわると、まずドイツ語
・フランス語・ラテン語・英語・ギリシア・ローマ史の試験をうけました。
語学にはそれぞれ、初級と上級があって、ぜんぶで九時間の試験を、
五日間にわたってうけるのです。
大学に入学するまでには、ぜんぶで十六時間の予備試験に合格しなけ
ればなりません。
わたしは、その半分以上を一年めにうけたのですが、ぜんぶに合格し、
とくに、ドイツ語と英語では、優秀賞をいただきました。
しかし、ふつうの人たちとちがって、わたしの試験はたいへんでした。
ほかの人たちはペンで答案を書きますが、わたしは、タイプライターで
うたなければなりません。
その音が、ほかの受験生のじゃまになるかもしれないというので、
わたしだけは、べつのへやで試験をうけることになりました。
試験中は、サリバン先生がついてくださるわけにはいきませんでした。
かわりに校長先生が、指話法で試験問題を読んでくださり、へやの
入り口には、試験官がひとり立っていました。
さいしょの日はドイツ語でした。校長先生が、まずはじめに、問題を
とおして読んでくださいます。
二度目には、文章を一つ一つ読んでくださり、わたしがそれを声に
だして読み、かんぜんにわかったかどうか、たしかめてもらいます。
わたしが答えを書くと、それをまた先生が、わたしの手に、わたしが
書いたとおり読んでくださいます。
そのときまちがいに気がつくと、先生はまたそれを、わたしのいう
とおり答案を書きこんでくださるというわけです。
試験がすむと、ギルマン先生は、その答案はわたしが書いたもので
あるという証明書をそえて、大学におくってくださいました。
予備試験は、すべて大学で問題がだされ、大学の試験官が採点する
のです。」(P129~130)


「こうしてわたしは、学校はやめましたが、おくれることなく、友だちと
いっしょに、いよいよラドクリフ大学の最終試験をうけることになりました。
1899年6月29日と30日の二日間です。
第一日は、初級ギリシア語と上級ラテン語、第二日は、幾何(きか)
・代数・上級ギリシア語の試験でした。
大学は、わたしがサリバン先生の力をかりることをいっさい禁じました。
そして、サリバン先生のかわりに、パーキンズ学院のバイニングという
先生におねがいして、試験問題をすべて、点字にうたせました。
バイニング先生は、わたしのまったく知らない先生でした。
ですから、点字のことに関するほか、いっさい質問することはゆるされ
ませんでした。
点字をたどって問題をとくことができても、いったんその答えをタイプライター
で書いてしまうと、もうそれを読みかえすことはできません。
あとで、もしまちがいに気がついても、訂正することもできませんでした。
でもわたしは、合格することができました。
困難が多ければ多いほど、それをのりこえられたときは、うれしいものです。」
(P134~135)


「『あなたはそんなおからだで、あの大学の講義をどのようにして
おうけになったのですか。』
わたしはよく、そういってたずねられます。
教室では、わたしはたったひとりでいるのとおなじです。
教授はまるで、電話で話している人のように、遠いものに思えました。
講義は、できるだけはやく、サリバン先生がわたしの手に、ききながら
つづってくださるのですが、それはまるで競争みたいで、わたしは、
おくれないようにと、そのことに気をとられてばかりいました。
まるでうさぎをおう猟犬のように、ことばはわたしの手をとおりぬける
ばかりです。
もっとも、ほかの学生だって、たいしてちがってはいなかったでしょう。
学生たちは、耳からきくと、めちゃくちゃなスピードで、それをノートに
書きうつすことにばかり心をうばわれているようでした。
とても、教授が論じておられる問題について注意をはらうことなど、
できそうにありませんでした。
わたしの手は、講義をききとるのにせいいっぱいで、ノートすることは
できません。
家に帰ってから、思いだせるだけを書きとめておくだけでした。
わたしがほかの学生におくれずに勉強しようとすると、苦労なさるのは、
やはりサリバン先生でした。」(P138~140)


「・・・わたしは勉強をなげだしてしまいたくなることもたびたびありました。
でも、わたしのために、いっしょに、いいえ、わたしいじょうに努力して
くださっているサリバン先生や、わたしのために点字訳をしていて
くださるかたがたのことを思いうかべ、またわたしは、勇気をとりもどす
のでした。」(P141)


「これまで、わたしのしょうがいのできごとを書きつづってきましたが、
わたしが本からどれだけたくさんのものをあたえられてきたか、
まだお話していないようです。
本というものが、だれにでもあたえるたのしみや知識だけでなく、
ほかの人々なら、目や耳からうけいれるものも、わたしはすべて、
本からえたのです。」(P144)


「お昼から夕がたまで、(サリバン)先生はたっぷり読んでくださいました。
『ああ、もうゆびがつかれてしまったわ。
きょうはこれくらいにしておきましょう。』
先生がそうおっしゃって、読むのをやめられたとき、じぶんで本が読め
ないのが、つくづくくやしくなりました。」(P147~148)






『――サリバン小伝―― 偉大な教師サリバン先生』〔保永貞夫〕(P204~215)

「ある日、サンボーンという人が慈善病院にきて、『だれか子どもをひとり、
すいせんしてもらい、学校で教育を受けさせたい。』と申しでました。
そのひとりに、アンがえらばれたのは、ぐうぜんにすぎませんでした。
が、これこそアンにとって、やみから光の世界へつうじる門でした。」(P211)


「・・・1886年に、アンはパーキンズ学院を、優秀な成績で卒業しました。
さあ、これから、どのような人生へ第一歩をふみだしていくか。
さすがにアンは不安でした。
そんなある日、アンは、アナグノス校長からよばれました。
『アラバマ州タスカンビアのケラー家から、ヘレンという6さいの、目が見えない、
耳がきこえない、口がきけないという、三重のくるしみをせおった、不幸な少女を
教育する先生をもとめられた。
わたしは、あなたをすいせんしたが、いってくれるかね。』
『はい、いかせていただきます。』
アンは、きっぱりと答えました。
しかし、アンはすぐに出発したのではありません。
それから六ヵ月、やはり三重のくるしみをせおった、ローラ=ブリッジマンという
少女を教育した、先代の校長ハウ博士の記録をねっしんに研究したのです。
1887年3月、21歳のアン=サリバンは、タスカンビアにむかって出発しました。
かばんの中には、パーキンズ学院の生徒たちから、ヘレン=ケラーにおくられる
人形がはいっていました。
人形に着せた服は、ローラ=ブリッジマンがつくったものでした。
ほかには、幼稚園用のナンキン玉とカード、2、3冊の点字本と点字器がはいって
いました。」(P213~215)

[PR]
by bunbun6610 | 2014-05-03 20:00 | 聴覚障害
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




================================


「『希望の光』(P41~45)
ボルチモアへつくと、チザム博士(はくし)が、しんせつにむかえてくださいました。
このかたが、父のきいていた眼科の名医だったのです。
しかし、さすがの名医も、わたしの目をどうすることもできませんでした。
けれども博士は、わたしを教育することはできるから、ワシントンにおられる
アレキサンダー=グラハム=ベル博士に相談するよう、父に教えてくださいました。
ベル博士は、もちろん電話の発明家として有名ですが、目の見えない人や、
口のきけない人の話しかたについても、いろいろ研究なさっているかたです。
「博士にご相談になれば、目が見えない子や耳のきこえない子どもがいく学校や、
先生についても、きっといろいろ教えてくださるでしょう。」
チザム博士は、父にそういってくださったのです。
わたしたちはそのおことばに力をえて、そのまますぐに、ワシントンにむかいました。
父は、わたしの目がもうなおらないといわれ、すっかりふさぎこんでいました。
それに、はたしてベル博士が、じぶんたちのことなど心配してくださるだろうかと、
もう不安がつのるばかりのようすでした。
でもわたしは、父のそんなくるしみなどゆめにも知らず、ただ、また汽車にのって
旅行がつづけられるというので、うちょうてんになっていました。

ベル博士も、それはやさしいかたでした。
わたしは、だれよりもさきに、それがわかりました。
博士は、わたしをひざの上にだきあげてくださいました。
わたしが博士のとけいをいじっていますと、博士はすぐに、そのとけいを鳴らして
みせてくださいました。
それに、なによりもうれしかったことは、わたしの手まねのことばをわかって
くださることでした。
わたしはいっぺんにベル博士が大すきになりました。
この博士とのめぐりあいこそ、わたしが、やみから光の世界へ、孤独から
愛の世界へはいることができたとびらとなったのです。
もちろんそのときには、そんなことをゆめにも思っておりませんでしたけれども。
ベル博士は父に、あのディケンズが「アメリカ雑記」に書いたハウ博士のつくられた
パーキンズ学院のことを話してくださいました。
そしていま、ハウ博士のあとをついで、その学院の院長をしているアナグノスという
かたに手紙を書き、わたしを教えることのできる先生がおられるかどうか、
といあわせるようにといってくださいました。
父はベル博士のおことばにしたがって、さっそく、アナグノス院長に手紙をだしました。
すると、半月ほどして、返事がまいりました。
てきとうな先生が見つかったという、しんせつなうれしい知らせでした。
これが1886年の夏のことです。
そして、サリバン先生がわたしのところへきてくださったのは、あくる年の3月
になってからのことでした。
こうしてわたしは、あの「旧約聖書」にある、イスラエルの民をみちびいて
エジプトをぬけだしたモーゼが、シナイ山(さん)で神の霊にふれたように、
「知識は愛であり、光であり、のぞみである。」という神の声をきくことができた
のでした。」(P41~45)


「あくる朝、(サリバン)先生はわたしを、ごじぶんのへやにおつれになって、
一つの人形をくださいました。
あとで知ったことですが、それは、あのパーキンズ学院の、目の見えない
子どもたちからのおくりものでした。
それに、その人形は、ハウ博士の教えをうけてりっぱな洋裁師になられた
という、ローラ=ブリッジマンさん(※)がこしらえたという着物をきていました。
わたしがしばらくその人形であそんでいますと、サリバン先生は、そっとわたし
の手をとって、手のひらに「D(ディー)、O(オー)、L(エル)、L(エル)(ドール
――人形のこと)」という字を、ゆっくり書いてくださいました。
もちろんわたしは、それがことばをあらわす字だということは知りませんでした。
でも、この手のひらでするゆびのあそびがおもしろくて、まねをしているうちに、
とうぜんじぶんでも、それが書けるようになりました。
わたしはすっかりうれしくなって、二階からかけおり、母のところへいって、
母の手のひらに、さっそく「人形」という字を書いてみせました。
つづいてわたしは、「ピン」「ぼうし」「ちゃわん」、それから、「すわる」「立つ」
「あるく」などということばをおそわりました。
しかし、それもやはり、ただ先生のなさることをまねするだけのあそびで、
それがなんの意味だかも、文字というものだということも、ぜんぜん知らな
かったのです。
だいいち、すべてものに名まえがあるということすら知りませんでした。」
(P47~49)

※ローラ=ブリッジマン・・・(おさないときに病気になり、視力・聴力、
そして臭覚までもうしなったのですが、ハウ博士というかたの教育をうけて、
のちにはりっぱに洋裁で身をたてた人〔P37~38〕)


「しかしわたしは、わからないことを毎日なんどもくりかえされるので、
すっかりいらいらしていました。
あたらしいせとものの人形をつかむなり、ゆかになげつけてしまいました。
こなごなにくだけた人形をかわいがることを知らなかったのです。
くだけちった人形を、先生が暖炉のわきによせるのを知ると、なんだか
せいせいした気持ちでした。」(P49~50)


「わたしたちは、すいかずらのあまいにおいにさそわれて、すいかずらが
からまった井戸のある小屋にいきました。
だれかが水をくんでいました。
先生は、わたしの手をとってさしだし、ポンプからあふれでるつめたい水に
さわらせました。
そして、もういっぽうのわたしの手をとって、その手のひらには、はじめは
ゆっくりと、だんだんはやく、「水」という字を、何回も書きつづけられました。
わたしは、いっぽうの手でつめたい水をかんじながら、もういっぽうの手の
ひらの、先先生のゆびのうごきに、じっと全身の注意をそそいでいました。
とつぜん、わたしは、なにかしらわすれているものを思いだすような、
なんともいえないふしぎな気もちになりました。
こうして、わたしははじめて、手にかかるつめたいさわやかなものが「水」
というものだということを知りました。
はじめて、ことばというものを知ったのです。
わたしをじっとおさえていた、あの目に見えない力がとりのぞかれ、くらい
わたしの心の中に、光がさしてくるのがわかりました。
井戸をはなれたわたしは、手にふれるものの名まえを、かたっぱしから
先生にたずねました。
もっともっと、すべてのものの名まえを知りたい一心でした。
手にふれるものなんでもが、新鮮に、いきいきとかんじられました。
家にもどると、ふと、さきほどゆかになげつけてこわした人形のことを思い
だしました。
そっと手さぐりで暖炉のそばへいくと、そのかけらをひろいあつめました。
それをつぎあわせようとしましたが、だめでした。
目になみだがいっぱいたまりました。
じぶんがどんなにひどいことをしたか、わかったからです。
そしてはじめて、ほんとうにかなしくなりました。
その日は、たくさんのことばを学びました。
「父」「母」「妹」「先生」など、いろんなことばをおぼえればおぼえるほど、
この世の中が、あかるくたのしくなってくるようでした。
その晩、わたしはベッドにはいってからも、きょうはじめて知ったよろこびを、
一つ一つ、もういちど思いおこしていました。
この世の中に、じぶんほどしあわせな子どもはいないにちがいないと思い
ました。
そして、あしたがまちどおしくなりました。」(P50~52)




「『「愛」という言葉』(P58~65より一部抜粋した文)
すると(サリバン)先生は、わたしをしずかにだいて、
「わたしは、ヘレンを、愛していますよ。」
と、ゆびで話してくださいました。
「『愛』ってなんですか。」
わたしはたずねました。先生は
「それはここにありますよ。」
というように、わたしのむねをゆびさしておっしゃいました。
そのときはじめて、わたしは、心臓の鼓動に気がつきました。
でも、わたしはそれまで、手でふれることのできるもののほかは
知らなかったのですから、先生のおっしゃることは、どうしても
わかりませんでした。
わたしは先生が手にしているすみれのにおいをかいでから、
半分はことばで、半分は手まねで、

「愛って、このあまい花のかおりのことですか。」

とたずねました。

「いいえ。」

そこで、またわたしはしばらく考えました。
わたしたちの上に、あたたかい太陽がかがやいていました。
わたしはそのあたたかさのくる方向をゆびさして、

「これが愛ではないのですか。」

とたずねました。
すべてのものをあたため、成長させる太陽ほど、うつくしい
ものはないように思えたからです。
しかしサリバン先生は、やはり首をよこにおふりになりました。
わたしはとまどってしまいました。
これがミモザ、これがすいかずら・・・というように、先生はこれまで、
なんどもわたしの手にふれさせて教えてくださいました。
それなのに、先生は、「愛」を見せてくださらないのでしょう。
わたしはふしぎでなりませんでした。
それから一日、二日たってからのことです。
わたしは、大きさのちがうビーズ玉を糸にとおすことを教えてもらって
いました。
大きいのを二つとおすと、つぎに小さいのを三つ、というふうに、
つりあいのよいようにとおしていくのです。
いくらやっても、わたしはすぐにまちがえました。
そのたびに、先生はわたしのまちがいを、こんきよく、しんせつに
教えてくださいました。
それでもまだ、わたしはまちがえてしまいました。
(どうしたらいいのかしら。)
わたしはしばらく手を休めて、考えこんでいました。
すると、サリバン先生は、わたしのひたいに、ゆびで、「考える」と、
お書きになりました。
わたしは、はっとしました。
いまじぶんの頭の中におこっているふしぎなはたらき、それが「考える」
ということなのだなと、はじめて気がついたのです。
手にさわることのできないもの、かたちでいうことのできないものにも、
名まえがあるのだということが、はじめてわかったのです。
長いこと、わたしはじっとしていました。
ひざの上のビーズのことを考えていたのではありません。
(あの「愛」というのも、この「考える」と同じような、かたちのない、
手にふれることのできないものではないかしら。)
わたしは、そんなことを考えていたのでした。
その日は朝から、空はどんよりとくもって、ときどき雨さえふって
いました。
ところが、そのとき、きゅうに南国のかがやかしい太陽が、ぱっと
さしこんできたようでした。
わたしはもういちど、先生にうかがってみました。

「これが『愛』ではないのですか。」

すると、先生はちょっと考えるようにしてから、

「そうね、『愛』というのは、太陽がでてくるまえに、空にあった雲
のようなものよ。」

わたしには、いっそうわからなくなりました。
すると、先生はすぐに、もっとやさしいことばで、つづけてください
ました。

「雲は、さわることはできないでしょう。
でも、雨はかんじますね。
そして、雨がふると、草木や、かわいた土が、どんなによろこぶかも、
ヘレンは知っているでしょう。
『愛』もさわることはできないもの。
でも、その『愛』が、すべてのものにそそがれるとき、そのやさしい
よろこびは、かんじることができるものよ。
『愛』がなければ、しあわせもないし、きっと、あそびたくもなくなって
しまうわ・・・。」

先生のおっしゃることが、はじめてよくわかりました。
わたしは、じぶんの心と他(た)の人々の心とのあいだに、目に見えない、
さわることのできない、うつくしい糸がむすばれていることがわかった
のです。」(P62~65)


「わたしが二つ、三つのことばをつづれるようになると、サリバン先生は
さっそく、文字をうきぼりに印刷した、ほそ長い厚紙をくださいました。
それは、ものの名や、はたらきや、性質をあらわした単語でした。
それをならべて、みじかい文章がつくれるようになっているわくも、
いっしょにいただきました。
わたしは、わくの中に文字をいれて文章をつくるまえに、まず実物で
文章をつくりました。
たとえば、「人形」「あります」「ベッド」「の上に」という紙をとりだして、
「人形」は人形の上に、「ベッド」はベッドの上におきます。
それから人形をベッドの上におき、そのよこに、「ベッド」「の上に」
「あります」という紙をならべるのです。
こうしてわたしは、一つ一つの単語から文章をつくり、文章とじっさいの
意味とをむすびつけてみるのでした。
先生のお話によりますと、ある日わたしは、じぶんのしているエプロンに、
「少女」ということばをピンでつけて、おしいれの中にはいり、おしいれの
たなに、「おしいれ」「の中に」「います」ということばの紙をならべたり
したそうです。
このあそびほどおもしろいあそびはありませんでした。
へやの中にあるものをかたっぱしからつかって、わたしは毎日何時間も、
先生と、こうしたたのしい勉強をつづけました。」
(P66~67)


「こんなちょうしですから、わたしは、いわゆる「勉強」という気はすこしも
しませんでした。
みんなたのしいあそびのように思っていました。
サリバン先生は、どうしてわたしのしたがっていることや、よろこぶことを、
あんなによくわかってくださったのか、いまから考えてもふしぎなくらいです。
やはり、長いあいだ、目の見えない人たちといっしょにくらしてこられた
からでしょうか。
また先生は、すばらしい詩人でした。
先生は、まえに教えたことをおぼえているかどうかためすために、
問題をだすようなことは、けっしてなさいませんでした。
あまりわたしが興味をもちそうにない、理科の専門的なことばなどは、
ほんのすこしずつすこしずつ、それもかならず、ごく身近な問題として、
具体的に教えてくださいました。
ですから、むずかしいことでも、わたしは知らないままにおぼえていました。
わたしたちの教室は、家の中ではなく、いつも森や、しばくさの上でした。
ですから、そのころの勉強の思い出には、まつ葉のかすかなやにの
においや、のぶどうのかおりがしみています。
わたしの勉強には、いろんなものが参加してくれました。
うるさくなきつづけるかえる、きりぎりすやこおろぎ、わた毛につつまれた
ひな鳥、それに野の花、すみれ、新芽をふきだした果樹・・・。」
(P67~68)

「「だれが水に塩をいれたの?」」(P86)

「『話しかた』
わたしが口で話をすることを学びはじめたのは、ボストンにでてから二年
たった1890年の春のことでした。
どうにかして人にきこえる声をだしたいという気もちは、その以前から
ありました。
わたしは、かた手でじぶんののどをおさえ、かた手でくちびるのうごきを
さわりながら、よく、わけもわからない声をだしていたものです。
じぶんののどばかりではありません。
なんでも音をだすものがおもしろく、のどを鳴らすねこや、ほえている
いぬをさわるのが大すきでした。
また、歌をうたっている人ののどにも手をやってみましたし、だれかが
ひているピアノの上に、手をおくのもすきでした。」
(P99)


「お友だちの話によると、ないたり、わらったりは、ふつうの子とおなじ
ようにしていたそうです。
まえにもいいましたように、「ウォーター(水)」だけは、「ウォーウォー。」
と発音していましたが、それもサリバン先生が教えてくださるように
なったころには、ほとんどききとれないくらいにしか、発音できません
でした。
そして、ゆびで話をすることをおぼえてからは、もうまったく、
口をつかわなくなってしまったのです。
まわりの人たちが、わたしとはちがう方法で話をしていることは、
かなり以前から気がついてはいました。
そして指話法(しわほう)では、どうしてもまんぞくしきれないものは
かんじていました。
友だちも、わたしにわるいと思ってでしょうか、わたしと話すときは、
かならずゆびをつかいました。
ですから、口で話をするくふうをする機会もありませんでした。
それでも、わたしはあきらめていたのではありません。
わたしが口で話す練習をはじめるようになったのは、ぐうぜんの
ことからでした。
この年の春、ローラ=ブリッジマンの先生で、ちょうどノルウェーや
スウェーデンを旅してこられたラムソンという先生が、わたしを
たずねてきてくださったのです。
そして、ノルウェーの女の子で、わたしとおなじように、耳もきこえ
なくて、目も見えない身でありながら、勉強して、りっぱに話ができる
ようになった子どもの話をしてくださったのです。
先生はただ、わたしをはげますために、こんなお友だちもありますよと、
かるい気もちでお話しになったのだと思います。
ところが、わたしはその話をきくと、もう、いても立ってもいられなくなりました。
「先生、わたしにも、すぐその勉強をさせてください。」
と、いっしょうけんめいおねがいしました。
ラムソン先生は、あまりきゅうにわたしがおねがいしだしたので、
ちょっとおどろかれたようですが、やはりボストンにあるろう学校、
ホレス=マン学校の校長先生、サラ=フラー先生のところへつれて
いってあげましょうと、やくそくしてくださったのです。
その年の3月26日、わたしはフラー先生のところへつれていって
いただきました。
フラー先生は、やさしい先生でした。
話をきくと、その場で、じぶんが教えてあげようといってくださいました。
フラー先生は、わたしの手をとって、じぶんの顔のところへもっていき、
声をだすときの舌やくちびるにさわらせてくださいました。
わたしはそれをいっしょうけんめいまねて、一時間のうちには、
M(エム)、P(ピー)、A(エー)、S(エス)、T(ティー)、I(アイ)の、
六つの発音ができるようになりました。
先生はその日から、十一回、わたしのために授業をしてくださいました。
そして、じぶんの口ではじめて、
「きょうはあたたかいです」
ということばができたのでした。
それはもちろん、とぎれとぎれの、どもりながらの発音だったにちがい
ありません。
でも、それはまさしく人間のことばだったのです。
しかし、十一回のみじかい勉強では、ただ発音の基本を学んだだけでした。
わたしの話すことばは、フラー先生とサリバン先生にはわかっていただけ
ましたが、そのほかのかたには、わたしが話している百分の一もわかって
いただけなかったにちがいありません。」(P100~104)

「フラー先生の勉強がおわると、あとはまた、サリバン先生といっしょに、
くりかえしくりかえし練習をつづけなければなりませんでした。
サリバン先生は、一つでも発音がうまくできないと、わたしといっしょに、
何時間でも、できるまで練習をつづけてくださいました。
わたしはなんども、うまくできなくて、
(ああ、やっぱりだめなんだわ。)
そう思うときがありました。でも、つぎのしゅんかん、こんどうちに帰ったら、
母や妹と、口で話ができるのだと考えなおして、また勇気をだして、
できるまでつづけました。
こうして努力しているうちに、ゆびで話すより、口で話すほうがやさしく
思えるようになりました。
それからわたしは、できるだけゆびをつかうことをやめました。
ただ、人の話をきくときには、あいての人のくちびるに手をあてて話をする
より、ゆびのほうがはやいので、サリバン先生も、ほかのいく人かの友だちも、
そのあとも、ずっと指話法(しわほう)でわたしに話しかけてくださいました。」
(P104~105)

[PR]
by bunbun6610 | 2014-05-02 20:00 | 聴覚障害
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




正直、ヘレン=ケラー氏のことは、ほとんど何も
知らなかった。

盲ろう者の会でも

「盲ろう者というと、みなさんはよく、
有名なヘレン=ケラーのことを思い出すかも
しれません。
しかし、そのような恵まれた例は少ない。」

というふうに言われる。

特例的な人だというふうなのだ。

それと、ヘレンには「心の清い、聡明な人」という
イメージがある。
なぜか、障碍者というイメージがしないのだ。
それはヘレンがもともと、そういう素質のあった
人で、なおかつ、サリバン先生という、
優秀な家庭教師にも恵まれていたからだ、
と思っていた。

しかし、この本を読むと「それだけではなかった」
ということがわかる。

世の中では、あまりにもサリバン先生の功績が
有名になってしまっていないだろうか。
特に、ろう者社会からは「手話弾圧者」として
有名になってしまったベル博士(※)についての、
ヘレンの思いというのは、正反対のように
なっている。

(※)アレクサンダー=グラハム=ベル博士


ヘレンの場合、普通の盲ろう者とは育った
環境が違っていたから、そうなったのだろう。


心の清らかな障害者というのは、健常者は
深く心打たれると思うが、それは障害者に
とっても同じだ。

二十世紀の障害者で二人挙げるとすれば、
私はヘレンと、エレファントマン(ジョン・メリック
という男性らしい
)だろう。


日本人なら、金子みすゞ を選ぶかもしれない。


曲がった心を持ってしまった私には、
あの詩のように思うことはできないが、
それでも憧れることは確かだ。



==========================



ヘレン=アダムス=ケラー年表(一部省略有り)

1880年(明治13) アラバマ州タスカンビアに生まれる。
1883年(明治15) 病気で失明、耳もきこえなくなる。(1歳)
1886年(明治20) ベル博士に会い、パーキンズ学院
を紹介される。(6歳)
1887年(明治20) アン=マンズフィールド=サリバン
先生が、家庭教師としてやってくる。(7歳)
1888年(明治21) パーキンズ学院に入学。
1890年(明治23) サラ=フラー先生に発声法を学ぶ。(10歳)
1894年(明治27) ライト=ヒューマソンろう学校に入学。(14歳)
1896年(明治29) ケンブリッジ女学校に入学。(16歳)
1900年(明治33) ラドクリフ大学に入学。(20歳)
1931年(昭和6) 第一回世界盲人大会に出席。(51歳)
1936年(昭和11) サリバン先生死去。(56歳)
1937年(昭和12) 日本にくる。各地で講演。(57歳)
1948年(昭和23) 日本にふたたびくる。(68歳)
1952年(昭和27) フランスからレジオン=ド=ヌール勲章
をおくられる。(72歳)
1955年(昭和30) 三度目の日本訪問。(75歳)
1968年(昭和43) ウェストポートの自宅で死去。(87歳)




「人生におけるまれな不幸、見えない、きこえない、
口がきけないという、三つのくるしみをせおいながら、
しかも、『わたしは幸福です。』といいきれる人も、
また、まれでしょう。
ヘレン=ケラーが『二十世紀の奇跡の人』といわれる
のもとうぜんです。」
(P217 『解説 愛とまごころの教育』〔保永貞夫〕より引用)





「そして、あのうっとうしい二月に、おそろしい病気が
やってきて、わたしの二つの目と、二つの耳を、
永遠にとざし、生まれたばかりの赤んぼうとおなじ状態
に、つきおとしていったのです。
その病気は、急性の胃と脳髄の充血だということでした。
お医者さまは、その高いねつをみて、とてもたすかる
みこみはないと、はじめからきめていました。
けれどふしぎなことに、ある朝早く、ねつはでたときと
おなじように、とつぜん、わけもなくひいてしまいました。
その朝の家族のよろこびようったらありません。
そして、だれひとり、お医者さまでさえ、わたしが一生、
見ることも、きくこともできないからだになっていようとは、
気がつかなかったのでした。
わたしはいまでも、おぼろげながら、この病気のようすを
記憶しているように思います。
目をさましさえすれば、母はいつもそこにいて、
わたしのくるしみをなぐさめようと、いろいろにして
くれました。
また、くるしいゆめうつつにも、あんなにすきだった光が、
日一日とかすんでいくのを知ったときのかなしいおどろきは、
とうてい、わすれることはできません。
それからのちは、だんだん、光も音もない世界にもなれて
しまい、かつて見聞きすることができたということも、
あのわたしの先生――サリバン先生があらわれて、
わたしのとざされたたましいをときはなってくださるまで、
すっかりわすれておりました。
けれども、わたしのしょうがいのさいしょの19か月の
あいだに心にやきつけられた、広いみどりの野、
光にみちた空、木や花のささやきは、けっしてわすれる
ことはできません。」(P15~17)


「病気がなおってしばらくのあいだのことは、
よくおぼえておりません。
ただ、いつも母のひざの上にこしかけていたことと、
母が、なにか用事で立ちあがると、その着物のすそを
つかんで、どこへでもいっしょにいったことだけは、
わすれません。
しかし、そのうちにわたしは、手さぐりで、もののかたち
やうごきを知るようになりました。
やがて、じぶんの意志を人につたえることがひつように
なり、かんたんな身ぶりであいずをするようになりました。
首をよこにふれば「ノー」、うなずけば「イエス」、
ひっぱるのが「きてちょうだい」、おすのが「いってちょうだい」
です。
パンがほしくなると、パンを切って、バターをぬるまねを
しました。
アイスクリームがほしくなると、冷凍庫をうごかす身ぶりを
しました。
これはときどき、ほかのものをつくってほしいこととまちがえ
られましたので、「つめたい」ということをしめすために、
身ぶるいをしました。
母のほうでも、わたしにいろんなことをわからせるのに、
ずいぶん苦労しましたが、やがて、母のしてほしいことは、
なんでもわかるようになりました。
母がわたしになにかとってきてほしいと思ったときは、いつもすぐに
わかって、二階へでも、台所へでも、どこへでも走っていきました。
ほんとうに母の愛のこもった知恵のおかげで、わたしの長い長い夜も、
けっしてくらいばかりではありませんでした。」(P17~18)


「わたしは、じぶんが、ほかの人とちがっていることを知りはじめたのは、
いつのころだったでしょうか。
それは、はっきりとはおぼえていませんが、サリバン先生がきてくださる
よりは以前のことでした。
母や友だちが、ほかの人とお話をするときには、わたしのように手まね
でなく、口をつかって話すのだということに気がついたのも、そのころの
ことでした。
わたしはなんども、話しあっているふたりの中にはいって、ふたりの
くちびるにさわってみました。
しかし、それがなんのことなのか、さっぱりわかりません。
わたしもいっしょうけんめい、くちびるをうごかしてみました。
もちろん、ことばになるはずがありません。
わたしはだんだん、いらいらした気持ちになり、しまいには、ふたりの
あいだでじたんだをふみ、人をけとばし、大声でわめきちらして、
あげくのはてには、その場になきくずれてしまうのでした。
そんなわたしにも、じぶんがわるいことをしたということはわかって
いたようです。
乳母のエラは、わたしがけるといたがりましたし、わたしはじぶんでも、
かんしゃくをおこしたあとは、すこしもたのしくなく、いつもかなしく
後悔しました。
かといって、かんしゃくをやめることはできませんでした。」
(P20~21)

「ほろほろちょうは、人目につかないところに巣をつくりますが、それを
さがすのが、わたしは大すきでした。
「マーサ、ほろほろちょうのたまごをさがしにいきましょうよ。」
口ではいえませんから、両手でにぎりこぶしをつくって、それを地面に
おく身ぶりをします。
それは、草むらにあるまるいもの、つまりたまごのことなのです。
マーサは、いつもすぐにわかってくれました。
たまごが見つかったときのうれしさったらありません。」(P24)


「わたしはかっとなって、ゆりかごにとびつくなり、それをひっくりかえして
しまいました。
運よく母がそれを見ていて、おちかける赤んぼうをだきとめてくれました
からよかったものの、もしそうでなかったら、妹は死んでいたかもしれません。
このように、目と耳をうばわれていたわたしは、やさしいことばや、なんでも
ないちょっとしたしぐさからしぜんに生まれてくる愛情というものを、ほとんど
知ることができなかったのです。
けれども、のちになって、ことばというものをあたえられてからは、たとえ、
妹がわたしのゆびで話すことばを理解しなくても、わたしもまた、妹の
かたことがわからなくても、ふたりはいつも手をつなぎ、どこへでもいっしょに
でかけるようになりました。」(P35~36)


「しかし、年とともにわたしは、だんだん、じぶんの思うことを、もっとたくさん
人につたえたいとねがうようになっていきました。
わずかなわたしの手まねや身ぶりでは、じゅうぶんにわかってもらえない
ことがふえてきたのです。
わたしはもどかしくて、すぐにかんしゃくをおこしてしまいました。
これほどなさけない気持ちはありませんでした。
それは、なにか目に見えない力が、わたしをじっとおさえているような、
いたたまれない気持ちです。
わたしはその力をはらいのけようと、必死にもがきました。
そんなとき、母がそばにいてくれると、わたしは母の両うでの中で、
力いっぱいあばれ、しまいには力つきて、なきくずれてしまうのです。
そのときのみじめな気もちったらありません。
そんなかんしゃくを、毎日毎日、毎時間毎時間おこしつづけるように
なりました。
父も母も、これにはほとほとこまりぬいたようでした。
しかし、わたしたちのすむ近くには、盲学校も、ろう学校もありません。
かといって、タスカンビアのような、こんなへんぴなところへ、耳がきこえ
なくて目が見えない子を教えにきてくれるものずきな人も、見つかりそう
にありませんでした。
それに、だいいち、かんしゃくをおこしたがさいご、まるでけもののように
あばれまわるわたしを、はたして教えることができるかどうか、友だちや
親類のものは、それを心配していました。」(P36~37)


「この大きなビーズをひきぬいて、それをおばにさしだしました。
「これを人形にぬいつけてちょうだい」
わたしはおばに、いっしょうけんめいあいずをしました。
おばははじめ、わたしがなにをしてくれといっているのか、ちょっとわから
ないようすでしたが、
「わかったわ。このビーズを、お人形さんの目にしてほしいというのね。」
というように、わたしの手をとって、目にあててくれました。
わたしは、「そうだ、そうだ。」と、いっしょうけんめいにうなずいてみせました。」
(P40)



==========================

[PR]
by bunbun6610 | 2014-05-01 20:00 | 聴覚障害