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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

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NHK大河ドラマ
 『花燃ゆ』

http://www.nhk.or.jp/hanamoyu/


NHK大河ドラマ『花燃ゆ』が始まった。

その初回放送の直前、Eテレ『子ども手話ウィークリー』

http://www.nhk.or.jp/shuwa/kodomo/


で、このドラマにはろう者の登場人物がいることが
紹介された。
主人公・杉 文(すぎ ふみ)の弟・敏三郎である。

敏三郎役は健聴者だが、手話指導に米内山明宏氏
(ろう者)が担当しているという。
今から160年前では、きちんとした手話というものは
使われていなかったらしい。



〔参考情報〕

『聾教育の功罪 ~手話VS口話~』

http://www12.tok2.com/home2/airtax04/rouk.htm


それで米内山氏も、身ぶりなどで伝える方法を
取り入れて、当時のろう者のコミュニケーション
方法を再現させているようだ。


敏三郎が使っていた身ぶりとは、
どのようなものだったのだろうか。

参考となりそうな情報がある。
ヘレン・ケラーのケースだ。

『『ヘレン=ケラー自伝』
(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)(1/5)三重苦』
〔2014-05-01 20:00〕



この激動の時代に敏三郎は、どんな社会的
役割を果たすのだろうか。

今年一年間、この番組を観るのが楽しみに
なりそうだ。

手話が今ほど発達していなかった時代は「身ぶり」
が多かったそうだが、米内山氏が「(これは何?)」
を身振りで表すと、日本手話の源流を垣間見る
ことができるような気がする。

(手を顎に添えて)首をひねる、

目を少し細める、

眉間や眉が動く、

などのN.M.S(ノン・マニュアル・シグナルス)が、
身体に自然に表出される。
気持ちがよく現れている表現だ。


(※)N.M.S

『「手まね(手真似)」とは何か?』
〔2013-04-08 18:00〕



『誰でもできる 難聴者、中途失聴者とのコミュニケーション方法』
〔2014-03-27 19:00〕




今日のような手話を知らなくても、身体全部を使って
表すのが「身ぶり」だ。
その存在感はすでに、時代を超越していたのではないか、
と思われる。
そして、それを受け止めた主人公・文は、
そうした気持ちを読み取るのが上手な、
心の優しい女の子だったのだろう。

資料を読むと、敏三郎を気にかけていた兄・松陰もまた、
敏三郎から精神的影響を受けている感じがする。

このあたりを理解することは重要で、
手話通訳者のタマゴさんたちも勉強になるのかもしれない。





〔関連情報〕

『聾史を探る』
http://ameblo.jp/ooinarukibou/theme-10032415166.html


棚田茂氏の資料より。
 →http://www.asahi-net.or.jp/~ai2s-tnd/risho_univ/2006/risho_20060415-20060702




【追記】(2015年1月11日)


 副題;『聴覚障害者と本との出会い』


『杉敏三郎が字をかけるようになった経緯の考察』
〔2014-02-18 19:20:29〕

より、引用。

>「私個人の経験を話します。
杉敏三郎と同じく生まれつきの聾唖の身でもあった
幼い頃の私は文字だけの本を読むよりも絵本・漫画
を読んだ方が言葉を覚えやすかったでした。

なぜなら、文字のみだとどういう状況でどんな言葉を
使うのかなかなか把握できなかったからです。
絵本・漫画だとどういう状況でどんな言葉を使うのか、
絵本・漫画に登場する人物がどんな表情でどんな言葉を
使うのか、どういう状況にはどんな言葉が使われたのか、
理解しやすかったのでした。

谷三山はこの事を吉田松陰に伝えた可能性があり得ますね。」





私は幼稚園児の時に、交通事故に遭って、
入院生活を送っていたことがあった。

六本木ヒルズ回転ドア事故と同じように、
母が肉屋で買い物のため、お金の支払いを
しようとした隙に、私は反対側にある
駄菓子屋さんの方へいきなり飛び出した。
それで清掃車(トラック)に轢かれてしまったのだ。

幸い、膝などの打撲だけで済んだらしい。
本当なのかどうかは、私にはわからないが。
強烈な耳鳴りがしていたのは憶えている。
しかし、聴覚の検査はしなかった。
多分、その交通事故より前から耳は悪かったと
思うが、事故でさらに悪くなったのかもしれない。
二週間ぐらいの入院生活をすることに
なってしまった。
ひょっとすると、頭に熱が出ていたのかも
しれない。

病院へお見舞いに来た先生は、
私に2冊の絵本をプレゼントしてくれた。


絵本『ちびくろ・さんぼ』
http://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E7%B5%B5%E6%9C%AC+%E3%81%A1%E3%81%B3%E3%81%8F%E3%82%8D%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%BC&tag=yahhyd-22&index=aps&jp-ad-ap=0&hvadid=68278452505&hvdev=c&ref=pd_sl_9e16kg6h5i_e




絵本『ピーターラビットのぼうけん』
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%91%E3%82%93%EF%BC%88%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%88%E3%81%BB%E3%82%93-%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4499284007




それまでも絵本を手にしたことはあったが、
この2冊が、初めて真摯に本を読んだ経験だった。


私は、退屈な入院生活にストレスを感じながらも、
絵本しかない状況の中で、それだけを繰り返し読んだ。
それが今でも自分の記憶に、なぜか強烈に残っている。
この体験が、自己形成の第一歩になっていたことは
間違いない。

聴覚障害者であるにもかかわらず、
私がこれほどブログに文字を書き込むことが
できるのは、おそらくこの体験があったからだろう。


小学生の時、ある博物館のコンピュータ診断でも

「適した職業はジャーナリスト」

とあったのを憶えている。

残念ながら、このコンピュータでさえも、
私が聴覚障害者として生まれた運命を予測
できなかったが、字を書くことが好きな性格
だけは読み取っていたようである。


そして、中学二年の時も、担任の先生が、
よく本を選んで貸してくれた。
それからまた、私の読書熱に火が点いた。
その人が、私の魂を育てた、恩師である。

耳は不自由でも、本の中の作者が、
私の魂に語りかけていた。

そしてさらに、異端宗教と呼ばれる宗教団体を
通しての、聖書との出会いがやって来る。

「本は人なり」――。
本は、ただ文字を記しただけの物ではない。
私も、吉田松陰と同じように感じていた。




〔参考情報〕

『聴覚障害者が著したホームページ』
〔2012-10-03 18:30〕

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by bunbun6610 | 2015-01-11 22:03 | NHK大河ドラマ『花燃ゆ』
映画『フリークス』をご存知だろうか。


『30年間上映禁止。ハリウッド史上屈指の怪映画『フリークス』とは ...』
〔更新日: 2014年06月13日〕



『ロオク映画館『フリークス 怪物團』 - Zero』
http://orange.zero.jp/floyd.boat/movie/hawkeye03-2.htm


『意味がなければサブカルはない
フリークス』
〔2012.05.10 Thursday〕



『映画大陸 : 『フリークス』 - ライブドアブログ - Livedoor』
〔2006年04月28日00:51〕




『フリークス - 遼東の豕』
〔2014-03-30〕




『YouTube - 世界の衝撃映像集
今では絶対作れない不思議な映画「フリークス」』
〔2012年12月10日〕





かなり古い映画作品だが、物語は現代社会と同じように、
健常者と障害者がそれぞれ、仮面芝居で互いにごまかし
合いながら生活を営んでいるところから始まる。
(そういう人たちばかりではないが)

だが、ある日、健常者が酒の勢いで本性を表すと、
障害者も仮面を捨てて本性を表す。

ただし、この映画物語が現代社会と多少事情が異なる
ところは、そこが、多くの障害者

(映画の中では「フリークス」と呼ばれる)

を集めたサーカス団であったことだ。
そこでは、フリークスがマジョリティであり、
健常者がマイノリティだったのである。

フリークスと、その仲間の健常者まで殺害しようと
する健常者がいた。
クレオパトラとヘラクレスである。
その醜悪な本性を表した健常者に報復しようとする
フリークスは、団結して逆襲し、二人を処刑する。
その結末がラストシーンとなるのだが、この意味は
恐ろしい。

クレオパトラの最後の姿は「醜い」とか「化け物」
とかいう意味よりも、人間にとって最も恐ろしいこと
を意味しているのではないだろうか。
それは「絶望」を象徴しているのだと思う。

誰もが虜になってしまう美女から、醜いアヒル女
(フリーク)にされ、その姿を見世物小屋でさらされ、
しかも誰とも話すこともできない。

つまり、フリークスに襲われた時のことも、そして
自分の気持ちを伝えることもできない。
自分のことを、誰にも理解されなくなってしまったのだ。
つまり、彼女は自分がかつて侮辱したフリークスの立場、
そのなかでも最低最悪のフリークにされてしまった。

「その罪深さゆえに心が顕れたので、なってしまった」

と言うべきだろうか。

クレオパトラは、仮にフリークスたちに懺悔したくても、
できない。
誰にも理解されないということは孤独であり、
それでは人間のあるべき姿(外見のことではなくて)
とはいえない。
だから、その姿を見て、誰もが「苦しくて、辛い」
と思うはずだ。

姿だけならば、フリークスだってクレオパトラと、
そうは変わらないはずだ。
実際、四肢がない、イモムシのような姿をしたフリーク
もいた。

だが、クレオパトラとフリークスの最も大きな相違点が、
フリークスは仲間を形成して営んでいた、のに対し、
クレオパトラは孤独だった、という点だ。
どちらが人間らしいかは、言うまでもない。

クレオパトラが、なぜあのような姿になってしまった
のかは、この映画には描かれていない。
(原フィルムには、その残虐なシーンがあったのかも
しれないが)

天罰だということにしたとしても、観る者には

「やり過ぎ」

だと感じるほどのショッキングさがある。

この映画が直ちに上映中止に追い込まれたのも、
そこにあるんじゃないか、と思う。

クレオパトラとヘラクレスが悔い改める可能性を、
フリークスが信じなかったところが、観客側からすれば、
残念に思う。
だから、観客受けするためにつくった映画ではないだろう。
しかし、それがこの映画の発したいメッセージだったの
かもしれない。

ともかく、観る側には

「そこまでしたら、一体、どっちが本当の化け物なのか?」

と思うだろう。


「確かに、クレオパトラは醜悪だな」

と思ったが

「それはフリークスのハンスだって、大して違わないじゃないか」

とも思った。

つまり、この映画は健常者も障害者も同じ人間として、
対等に描写しているように思える。
そのため、障害者を特別な存在として扱っている映画
とは違い、全く自然である。
障害者も健常者も関係ない。

そして、この映画の冒頭と最後のほうに出てくる、
サーカス団ガイド役の

「私たちも、一歩間違えれば、こうなっていたかも
しれない・・・」

というふうな言葉は、この映画を観る者すべてへ
投げかけている、と思う。

障害は決して、特別なものではない。

そして、人間のなかに潜む、神と悪魔も同じだと思う。
人間は、そのどちらにもなれない。
皆で力を合わせて、調和の世界を築くことが大事なのだ。
その調和を壊した元凶が、クレオパトラとヘラクレスなのだ。
だから、ああいうことになった。

このようなことは現実の世界でも、十分起こりえることだ。
障害者にも健常者にとっても、その普遍性は共通して
いるのだ。
この映画は、それを見事に語っていると思う。

そう思ったから、ユダヤ人哲学者マックス・ピカートの

『われわれ自身のなかのヒトラー』


を思い出した。



おそらく、ブラウニング監督は、当時の障害者差別に
ついて、よく知っていたに違いない。
彼は、人間を信じることができなくなるほど、そういう
現実を見てきたのかもしれないが、それでも“祈りの力”
を信じていたのではないだろうか。

物語の最後を、クレオパトラを殺さないで、
あえてあのような姿に変えて残したことが、
それを意味しているのかもしれない。

あのような姿になってしまったクレオパトラにできる
唯一のことは、神への懺悔、そして祈り以外にない。
だからその絶望に突き落とすことこそが、
クレオパトラの心を浄化し、真の希望へと導く
のかもしれない。

人間を外から見ただけでは見えないが、それが、
人間の高貴な内面性だと信じたい。

ブラウニングは彼なりに、フリークスだけでなく、
外見だけで判断されがちな人々の、代弁者の一人
になろうとしていたのかもしれない。
フリークスにも、内面の世界があるはず。


ブラウニングは、なぜこのような映画をつくったのだろうか。
社会からの批判も覚悟した上で、それでもこの映画をつくり、
世に送り出しているのだ。

この一作でブラウニングは、映画界から追放されたという。
それもまた、当時の人々の障害者への見方、差別の状況を
物語っているのだろう。

それにしても、あんなに様々な障害者たちが主役で、
あんなに生き生きと演じている映画、そして、
障害者差別にも正面から描いている映画は、
今もないだろう。

「二度とつくれない映画」だとも言われているのも、
うなずける。
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by bunbun6610 | 2014-11-06 18:30 | 雑談
『愛は静けさの中に』


これはアメリカの映画なので、日本のものとはだいぶ違う。
主演女優がマーリー・マトリンという人で、ろう者なのだ。
他にも、本物のろう者がたくさん出ている。

ろう者の文化や、考え方が随所に表された映画なので、
健聴者は理解するのに、とまどうかもしれない。

日本のテレビドラマと違い

「健聴者向けに脚色されたものではない」

と思わせるような、リアルさが見られる作品である。


物語は、あるろう学校で始まる。
このろう学校に赴任した、ろう学校教師ジェームズ(健聴者)は、
ろう者のサラと出会う。
そして、サラとジェームズは結婚する。
だが、二人の間にあるものによって、起こることがある。
それが、映画の物語になっている。
「ろう文化」と「聴者文化」と呼ばれるものだ。
普段、意識しないことだが、結婚生活では無視できない。

その中で、夫婦喧嘩のシーンがある。


日本でも『ろう文化宣言』というのを、聞いたことがあるだろう。
そのことと、深く関係するように思う。
文化(言語)の違い、そして心の違い・・・。
そうしたことを、深く考えさせられる映画である。

初めて観る人には、そうした背景が理解できないこともあり、
かなり難解な映画かもしれない。



サラ;「私は心を決めた。
私の気持ちを代弁しないで」

ジェームズ:「それで生きていけると思うか?」

サラ;「今までは周囲が、私という人間を造ってきた。
彼らは私の望みや考えを勝手に想像した」

ジェームズ:「『もういやだ』
当然だ。よくわかる。
ぼくは君を愛しているんだよ!」

サラ;「愛は関係ない」

ジェームズ;「それならぼくらはここで一体何している?!」

(サラは手話で話し続ける)

ジェームズ;「『手を見て』?
見てるよ!」

サラ;「これは『結ばれる』という意味。
とても簡単。
しかし、私がこうする時は大きな意味がある。
この意味は、『2人の人間が一つになる事』。
なのに、あなたは本当の私を無視して『サラのため』
を考える。
私はあなたと暮らし、仕事を辞め、ポーカーをマスターし、
話し方を学ぶ。
あなたの造った私よ!
あなたが本当の私にさせてくれない限り、
私の沈黙の世界に入れない。
私もあなたに近づけない。
それまで――私達はこのように結ばれる事は・・・ない」

ジェームズ;「感動的な話だが、それで生きられるのか?
君は大切な沈黙の城に自分自身を閉じ込め・・・」

(サラが怒り、ジェームズの話の続きをさえぎり、
もうその場を去ろうとする。
しかし、ジェームズは話を続ける)


ジェームズ;「聞いたよ! 君の言葉はしっかり聞いた。
君の手からぼくの頭に入り、口へ回った。
ハッキリ言おう。
君は偽ってる。
君は聾唖で幸せだなどと思ってはいない!」

(サラが無視し、離れようとする。
が、ジェームズは引き止める)

ジェームズ;「君は怖がってるだけだ!
話そうとしないのは、くだらないプライドだ!」

(サラに、一層の怒りの表情がにじみ出る)

ジェームズ;「哀れみを拒否し、自分で生きたい?
なら読唇術を学び、セックスが上手なんて自慢せずに、
マシな事に口を使え!」

(サラが嫌悪感一杯になり、ジェームズの話を
止めさせようとする。
が、ジェームズは話を続ける)

ジェームズ;「唇を読め! ぼくは何と言ってる?!
ぼくと話したい? ならぼくの言葉を勉強したらどうだ!
唇を読んで、読めないフリをしてたんだろ?!
人を操ってたのはどっちだ?!
さあ、話してみろ! 話すんだ! 話せ!」

(サラがついに、ジェームズを押し飛ばして、
奇声を上げた)

サラ;(声で叫ぶ)「行って! こんな声よ!」

(サラは壁に顔を伏せて泣き出したが、すぐ部屋を出た。
初めてサラの声を聞いたジェームズはショックだった
ようで、そのまま動かなかった。
サラは、家を出て行き、母の元に帰った)




この映画字幕は映画用邦訳だし、そもそも全部の手話が
字幕になっているわけではない。
手話も、アメリカ手話だ。
しかし、全部の手話に字幕が付かなくても、大体の意味は
わかる。
(ただし、上のセリフ表示は字幕部分のみにした)


この後、二人は別居状態になり、ジェームズは「聴こえない」
ということを理解しようと疑似体験などをしてみるが、
やはりできない。
というよりも、それは違うと思うが。


テレビドラマ『愛していると言ってくれ』でもあったが、
健聴者はどうしても

「声で伝えて欲しい
(声で聞きたい)」

という気持ちが出てしまう。
そこは、この映画でも描かれている。

ならば、ろう者ならば、やはり手話なのだろうか。

難聴者や中途失聴者だって、よく

「大事なことは筆談で伝えて欲しい」

と言う場合がある。

大事なことなら、そうしてほしいのは、
それぞれの母語・コミュニケーション方法を持つ
人間として、当然のことだろう。


映画のラストシーンは

「どこかにあるかな?
ぼくらの出会える場所が・・・
沈黙の世界ではなく、音もない世界が」

ジェームズの問いかけに、サラは答えた。

「心の中に・・・」

と。
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by bunbun6610 | 2014-11-03 18:30 | 聴覚障害
手話ドラマの中でも

『愛していると言ってくれ』

は、不朽の名作だと言われている。
いや、手話ドラマだけでなく、恋愛ドラマの中でも
最高傑作の部類に入るらしい。


このドラマの脚本家・北川悦吏子氏は、
女性をろう者役にすると予想していたようだ。
テレビドラマで視聴率をかせぐには、そのパターンが
王道なのだそうだ。

ところが、男性役・豊川悦司のアイデアもあって、
豊川がろう者役を演じることになった、という。
その思惑が大当たりし、女性視聴者のファンが一気に
増えたらしい。(※)


(※)詳細は

『愛していると言ってくれ』
(北川江悦吏子/角川文庫)

アマゾン
http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8C%97%E5%B7%9D-%E6%82%A6%E5%90%8F%E5%AD%90/dp/4041966027

角川書店
http://www.kadokawa.co.jp/product/199999196602/


参照。



手話指導は、コーダの手話通訳者・パフォーマーとして有名な、
あの丸山浩路氏が担当した、という。

http://www.kouji-maruyama.com/spage/sprof.htm


手話は、昔から、そして今でも

「学んでみたい」

という人は、女性が圧倒的に多い。
当然、豊川が手話ブームの火付け役にもなったのだろう。

そのブームによって、難聴者や中途失聴者という、
手話には全く興味がなく、むしろ蔑視していた聴覚障害者
でさえ、手話に対する見方が大きく変わっていったらしい。

そんなことはどうでもいいが、このテレビドラマから、
そうした社会現象が生まれたことは事実だ。


このドラマの中で、視聴者が感動した場面というのは、
いろいろあると思う。

その一つに、晃次(豊川悦司)が声を出すシーンがある。
愛しい恋人・紘子(常盤貴子)が、共に過ごした街を
去ろうとする。
その姿を懸命に探す晃次。
晃次がやっと紘子を見つけた時は、紘子が今すぐにでも、
電車に乗ってしまう瞬間だった。
それを晃次が何とか止めようとする。
健聴者なら、声をかければいいのだから、簡単だ。
だが晃次は、もう声を出したことがなかった。
不明瞭な声ながらも、彼女の名を懸命に叫ぶ。
紘子と離れたくないがために出た、晃次の声だった。
それが奇跡に思えて、多くの視聴者は、
このシーンに感動したのだろう。



「駅まで探しに来て、晃次は息をついた。
さすがに、もういない、とあきらめかけていた。
電車に乗るために晃次はホームへの階段を上がって行った。
線路をはさんだ反対側のホームに電車が滑り込んで来る。
それに乗ろうとしている人影をふと見ると、
それは、探し続けていた紘子だった。

自分がここにいることを知らせようと晃次は
ポケットのコインを探ったが、電車が邪魔して
彼女に当たりそうもない。
紘子は今にも、電車の中に消えようとしている。
今、今ここで紘子をつかまえなければ、本当に一生
会えなくなる。
明日には彼女は仙台へ戻ってしまうのだ。
自分の手の届かないところへ、永遠に・・・・。

晃次は迷った。
どうしようかと迷った。
最後の手段は、ひとつだけだ。
もう一秒の猶予もない。
紘子の姿が、電車に消えようとした瞬間、晃次は、
大声で叫んでいた。
「紘子―――!!!」」

『愛していると言ってくれ』
(北川江悦吏子/角川文庫) 319ページより、引用。

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by bunbun6610 | 2014-11-02 18:30 | 聴覚障害
一般財団法人 全日本ろうあ連盟
創立60周年記念映画
  『ゆずり葉』



この映画のストーリーには、ろう者の実話も、
幾つか入っているという。

ろう者・敬一(庄崎隆志)の恋人・早苗(今井絵理子)
が倒れ、急いで病院まで運ぶシーンがある。
敬一は、電話が出来なかったためだ。

緊急時でも、聴覚障害者がコミュニケーション障害で
心配になることは、私も

『聴覚障害者への救急医療を考える 『命よりも大事なコミュニケーション』』
〔2014-10-07 18:30〕

で述べている。

ゆずり葉の、あのシーンでは

「もし、耳が聞こえていて、早く救急車を呼べたなら、
早苗の命は助かっていたのかもしれない」

と思わせるような物語だった。

早苗の両親も

「敬一のせいで、こんなことになったんだ」

とでも言いたげな様子だった。

このあたりは

『肉親の障害者差別』
〔2014-10-12 18:30〕


を読んでもわかるだろう。
だから誰だって、結婚に反対する。

それが“普通”だ。
“普通”とは、正しいとか悪いとかは関係なしに、
マジョリティ側の原理だ。

しかし、それが“世の光”であるとは限らない。
むしろ、それは闇だろう。
新約聖書にある、イエスを頑なに処刑させようとした
ユダヤ民衆のように。


25年ほど前の話である。
Sさんという、ろう者がいた。
Sさんと私は、手話サークルで出会った。

私はそこで手話を学んでいて、その頃はまだ手話が
ほとんどできなかった。
サークルの手話通訳学習は全くわからなかった。

しかし、ろう者にもそういう人が何人かいて、
そういう人たちは手話サークルの学習から離れていき、
お互いに「わからない者同士」として一緒になっていた。

Sさんの手話は、日本語対応手話ではなく、
日本手話だった。
それで、よけいにわからなかったのだが、
二人で対面式の会話をしたときだけは、
不思議と内容がわかった。

そのSさんが、急に入院してしまった、という。
Sさんは同じろう者の妻と、健聴の実母と、
コーダの息子さんと一緒に暮らしていた。

実母も息子さんも、手話ができるわけではなかった
らしいが、Sさんや奥さんの言いたいことは何となく
わかるらしかった。

Sさんが入院した理由は、胃潰瘍だった。
しかし、診断した時はすでに手遅れで、結局、
胃は全部切除した、という。
それから半年だか一年後に、Sさんは亡くなられた。

このような「手遅れだった」という話は、
昔のろう者の生活実態の中には、よくあったらしい。

今の若いろう者は、話せる人も多いようだから、
こういう悲劇は少なくなったのだろうが。

Sさんが手遅れになったのは、一体なぜだったの
だろうか。

Sさんはヘビースモーカーだった。
そして、手話サークルへ来ても、自分の居場所が
ないと思っていた感じがする。
いつもストレスを溜めていて、職場とかでの差別を
話していては、不満をぶちまけていた。
そういう性格だからなのか、家族の人すら、
相手にしたくなかったのではないか。

私はその頃、まだ若かったので、そういう不満を
真剣に考えることはなかった。
でも、40~50代になってくれば、会社の障害者差別
に対する怒りは、すさまじいものとなってくる。

それは心だけでなく、身体にも必ず悪影響を及ぼした。
これは経験しなければ、わからないことだろう。

男性の人生で、最も力を発揮し始める時期というのは、
おそらく40~50才代だろう。
しかし、その時期になっても、障害者はお荷物扱い
されてしまうのである。
ようやく人生の集大成をつくれる時期だというのに。
その怨念は、すさまじいものがある。

読者にも、私のこのブログを読んでいて、
それがわかるはずだ。


Sさんはなぜ、もっと早く病院へ行って、
診てもらわなかったのだろうか。

なぜ家族の誰も、もっと早く気づかなかったの
だろうか。
彼の心の叫びは、誰かに聞こえたか?
いや、聞かれなかったのではないだろうか?

この記憶も、私が『聴覚障害者の就労後問題』を書く、
大きな理由になっていると思う。

手話通訳は社会に広がりつつあるが、
この問題の解決はどうなのだろうか。

今時、死ぬ人はいなくなったのかもしれない。
しかし、心が立ち直れなくなってしまった人は、
きっといることだろう。
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by bunbun6610 | 2014-11-01 18:30 | 聴覚障害
就労後の聴覚障害者問題E


副題;『障害者雇用 - 出勤するだけで、給料がもらえる職種』
『好きな日に仕事をし、好きな日に休める障害者“特別”勤務制度』


6月■日

消費税増税前の、駆け込み需要が終わってからは、
断然、仕事量が減った。
障害者に入る仕事も、やはり減った。

Aさんは最近、休む日が増えてきた。
理由は何だかよくわからないが、Aさんはもともと、
ワガママな性格なので、天候が悪い(大雨、強風、
猛暑、極寒など)日は、まず出勤しない。
だから、梅雨で天候が不安定な最近は、やはり欠勤
が多いのだ。

しかし

「それだけで、最近こんなに仕事を休むだろうか?」

と思えるような状況になってきた。

決して、体調とかの問題ではない。
その証拠に、仕事は休んでも、その日の夜の飲み会
には必ず出てくるのだから。
それほどなのだから、きっとAさんは今の会社も、
人も、大好きなはずだと思う。

それは、Aさんに居心地の良いようにしてもらっている
から、ということも、大きな理由だろうと思う。

だが、欠勤が多いというのは、困ったことだ。
誰が困っているのかというと、私一人だ。

Aさんが休んだ日は、勿論、障害者の仕事は全て、
私一人でやってきた。
だが、最近はそれだけではない。
Aさんが出勤している場合でも、上司は優先的に、
私にやらせるように指示している。
そうすると、仕事が少なくなった今では、私ばかりが
仕事をやらされていて、Aさんは何もしないでいる日が
多くなってきた。

仕方がないので、Aさんは事務所内で適当に暇つぶし
をしているか、居眠りとかしている。
数時間も時間が過ぎていくと、自然消滅し、そのまま
退社している。
これまでも述べているように、かなりの“特別扱い”なのだ。

Aさんだけではない。
こんな障害者は、うちの会社には他にもいるのだ。

私は、この現状を見て、ある話を思い出した。



ロッカー永田のページ 『障害者差別とは』


炎のジョブコーチ
『「0か1」、「1か100」のこだわり』
〔2013/12/19(木) 午後 11:26〕




Kili's ~yourroom~
『デジタル表記の見えない障害』
〔2014/01/26 21:11〕




本当に、これらの通りだと思ったのだ。

健常者の考え方は、どうしてこんなに、柔軟力が
ないのだろうか。



『セント・オブ・ウーマン / 夢の香り』


という映画がある。
主人公フランクと、Aさんが似ている。
どちらも、元は優秀な健常者だったが、障害者に
なり、落ちぶれていく。
カウンセリング専門者によると、以前は優秀だった
元健常者、特に男性に多いタイプだそうだ。
彼もやはり、健常者時代から染み付いた「0か1」
「1か100」思考から、なかなか抜け出せないのだろう。



私が疑問に思ったのは


「それでは、障害者を会社で遣うのは、“さじ加減”が
必要だということなのだろうか?
そうだとしたら、それは誰にだって、健常者と呼ばれる
人にだって、あるのではないだろうか?
その“さじ加減”が難しい、というのだろうか?
その“さじ加減”とは、何なのか?」


障害者の個性に合わせて対応していく、ということは

「他の人から“特別扱い”と見られかねず、健常者との
差別になるから」

と思っているらしい。
しかし、必要な「合理的配慮」までも勝手に「差別」と決められ、
禁じられてしまったら、障害者はたまったものではない。

障害者はいつまでたっても、健常者の奴隷のままだろう。

確かに、どうやってそれを決める(調整する)のかが、
健常者には考えあぐねているようだ。
しかし、それにしても、AさんやBさんのような“特別扱い”は、
幾らなんでも変だと思う。

それに、聴覚障害者の場合は、例外だと思われているようである。
理由は

「聴覚障害者は、耳が不自由であること以外は、健常者と
全く変わりない」

と思っているからだろう。
それが、この格差になっているのだ。

同じ給料で働いているというのにこれでは、聴覚障害者だって
不満に思って当然だ。
それに、聴覚障害者は仕事をたくさん与えられるといっても、
肉体労働、単純労働ばかりだ。
雑用でも、聴覚障害者にやらせたほうが仕事が速いから、
そうなってしまうのだろう。

他の障害者は、たとえ雇っても、現場力として追いつけない。

しかし、全体的に見て、こういう障害者雇用というものは、
いかがなものだろうか、と思う。
仕事を与えられない障害者だって、これでは経験を積めないし、
たとえ転職活動をしてみても、どこも面接で落とされるだろう。
それで、会社にいつまでもだらしなく、居直っているしか
なくなるのだ。

このことから、障害者はやはり“永遠の子ども”としか見なされて
いないのだ。
会社の健常者の中には

「障害者って、(お客様だから)いいね」

と、皮肉交じりにこぼす人もいる。

しかし本当は、これは立派な“障害者差別”だ。
だから障害者は“逆差別”をするのだ。
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by bunbun6610 | 2014-06-27 18:30 | 就労後の聴覚障害者問題E
 副題;『障害者雇用は健常者が「障害者用につくった、見えない牢獄」』

私の職場には、3人の障害者が障害者雇用で働いています。
Aさん(内臓障害、うつ病)、Bさん(脳性マヒ障害)、
そして私(聴覚障害)です。

仕事の内容は、これまで述べてきたとおり、
障害や病気の内容に応じ、人それぞれです。


『職場内障害者授産施設 (3)うつ病障害者? 病前性格のワガママ障害者?』
〔2013-09-04 18:30〕




『職場内障害者授産施設 (4)過剰すぎる「特別扱い」』
〔2013-09-05 18:30〕




上の記事を読んで、Aさん、Bさんの障害や病気に対する
配慮はあると、読者の皆さんも思うかもしれません。
仕事内容は健常者と違うだけではなく、
障害の種類・程度でも違います。

私は聴覚障害者ですから、通訳はないものの、
仕事を頼まれる場合の筆談ならあります。
あとは、必要に応じて、大事な話だけならば、
それも筆談で行ってくれます。
ですから、情報・コミュニケーションの障害は
ないものとされています。
(本当は、健常者のこの見方は違うのだが)

仕事内容での配慮は全くないと思います。
配慮と言うよりは、障害者差別があるのです。
それは私だけでなく、AさんもBさんも同じでしょう。
職場には女性差別もあり、健常者同士でも
差別はあります。

実はAさんはかつて、この部署で一番上の地位についていた、
元健常者なのです。
その元エリートがなぜ、こうも堕落したのか、私もよくわかりません。
でも、私も転落していったほうの障害者だから、推測はできます。
障害者心理を考える、参考になるものに『セント・オブ・ウーマン』(※)
という映画があります。

(※)
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id13006/



この映画の主人公フランクは、非常に高い地位に就いていた
元軍人でした。
自分の過失で失明し、退役したようです。
興味深かったのは、彼の荒れっぷりです。
あれだけ荒れるほど、彼が失ったもの、障害が彼に与えた
打撃は大きかったと言えると思います。
(障害者心理「喪失の過程」)

でも、障害はしょうがない。
それよりも彼の心底が本当に渇望してやまなかったものは、
普通の障害者と同じだったと思うのです。
普通の(人には普通にできていた)生活が、
障害者になってしまうと、なかなかできないものに
なってしまうのです。
それが社会のほうにも、原因があるわけです。

その経験のない健常者には、Aさんの障害者心理など
わからないでしょう。
『セント・オブ・ウーマン』の解説でも、ある健常者は
主人公を「気難しい人」と捉えていますが、
そういう理由ではなくて、障害者心理が彼を自殺
しようとするまでに追い込んだのだと思います。
それに気がつかないから、誰も彼の自殺を
止めることはできないと思います。
フランクのような寂しさは、いまだに多くの障害者
の心の中にあるのではないかと思う。
私にもあるし、Aさんとて、例外ではないと思う。


Aさんほどのエリートがなぜ、障害者雇用なのかというと、
障害や病気があるからなのです。
健常者からの理由はそれだけです。

でも決して、Aさんに障害があるから、Aさんのそれまでの
仕事の能力まで失われたわけではありません。
今いる部署の全員が、実は役員も部長も含めて、
Aさんの後輩なのです。
だから、指導や助言などは出来ると思う。
となると、社会が、障害者に“障害”というレッテルを
貼ったことが問題なのだろうと思います。
それは、本人が持つ「障害」とは意味が違う。
社会が与えた「差別」が原因なのです。
それはAさんの心理に、少なからず影響を与えたに
違いない。

今でも、Aさんは会社の中で差別的状況があると感じると、
逃げるように他の人から離れていきます。
それは、差別を受けた者だけが直感でわかることです。
だが、それも健常者にはわからない。
健常者と障害者は、身体だけではなく心も違ってくる。

皆が集まって話をするたびに、逃げるAさんの姿を見るたび

「ああ、今日もまた逃げていっているな」

と思う。

聞こえない私には、何の話かは聞こえないので
あまり気にしないが、聞こえるAさんは昔の自分を
思い出すようで、気になってしまうようだ。
しかし、その輪の中には入れなくなった。
障害や病気がなかったならば、Aさんは今頃
役員として、そこの中心にいたことだろう。
ところが、Aさんは転落し、後輩たちに次々と
追い越されてしまった。
周りの健常者の誰もが、Aさんを特別扱いするのは、
そういう事情もあるからだ。

世の中には、長嶋茂雄終身名誉監督という珍しい
障害者がいます。
長嶋自身、また社会の誰も、長嶋を障害者だとは
認めていないかもしれません。
彼の過去の栄光を、誰も忘れてはいません。

だが、過去の栄光があるから、長嶋は障害者になっても、
特別な存在なのかもしれません。

あの有名な作曲家・佐村河内守だって、誰も聴覚障害者
だと見ていないでしょう。
能力があれば、その能力が社会で高く評価されたならば、
その人が障害者だということはどうでもよくなる。

サラリーマンの世界は違うようだが。

だからといってなのか、障害児教育までも、そのように
なることを障害児たちに強要してきたようだ。
昔の聴覚障害児教育でも、口話教育(同時に手話弾圧)
があったはずだ。
障害者が社会にとけ込むこととは、一方的に、
健常者へ合わせるように努力すべきだとされてきた。
社会の責任・負担でもあるはずが、それを障害者や
家族に全面的に押し付けてきたのだ。
だが、それでは障害者問題は永久に克服できないのだ。
小山内さんの本を読んでも、それが十分わかったと思う。


ごくわずかな確率でしか成功しない、突出した能力を持つ
障害児を育成しようとするあまり、落ちこぼれた多くの
障害児は施設に押し込めてしまう。
あるいは家族にだけ押し付けて、社会から隠してきた。
当然、ごく稀に成功した、健常者が優秀と評価する
障害者だけが世の中に出て、注目を浴びる。
反対に障害者の大部分を占める、そうでない障害者は
隠居生活になってしまう。
その人たちが長生きし、幸せな人生だったといったような話を、
誰が聞いたことがあるだろうか。

障害者問題は見えなかった。
いや、健常者が隠してきたから、見えないのが当然だった。

職場内障害者授産施設、すなわち障害者雇用の実態は、
健常者には決して見えないだろう。
その実態は、障害者を見えない檻の中に閉じ込めているに等しい。

健常者は、きっと

「檻だって?
会社の中に、そんなものあるはずがあるものか。
証拠もないのに、そんな被害妄想みたいなことを言うな」

と言うだろう。
そんな“見えない障壁”の意味がわからぬ者に
言っても無駄だ。


時々、健常者だけでなく、軽・中度難聴者までもが、
障害者に対して、無理解なことを言う。
軽・中度難聴者には、障害者手帳が取得できなくて、
就職することも困難な人たちがたくさんいるからだろう。

私の正直な感想も交えて書くが。


「障害者って、いいよね。
障害年金はもらえるし、障害者福祉制度もいろいろ
あるし、会社でも特別扱いされているんだから。
健常者も障害者手帳のない難聴者も、
今はみんな大変だよ」


「障害者って、まるで“箱入り娘・息子”だな。
困ったことは何でもしてくれて。
会社に勤めていても、あんな苦労知らずとは」


「あんな眠そうな仕事をしているだけで健常者と同じ
賃金だなんて。
障害者って、給料ドロボーじゃないのか?」


「法律のおかげで雇われた障害者は、まるで、
VIP障害者だな」


「これじゃあ、障害者天国だな。
『ダメ障害者天国』と言ったほうがいいだろう。
政府はあんな障害者雇用なんか進めて、
日本の会社をダメにする気か」


健常者の怒りはもっともだ。
事実なんだから、正直に言って結構だ。
障害者に向けて、もっと言ってもいいくらいだろう。
失礼なことではない。
本当に失礼なのは、ヘンな特別扱いをして遠慮するほうだ。
ただし、批判的な目を障害者にばかり向けるのは
おかしいのではないか、と思う。

小山内さん流にこういってみたら、どう答えるだろうか?

「じゃあ、あなたもそこに入りたいですか?」


実態を見たことがあるならば、おそらく、誰も入りたくは
ないでしょう。
私は今まで、生き生きと働いている障害者を見たことがない。
仕事が出来る、優れた障害者さえ、ほとんど見たことがない。
私自身

「あなた以上に出来る障害者を、今まで見たことがない」

と言われて来たのだから、自分の感じていることは
客観的な見解だろう。

障害者への批判も大いに結構なことだと思う。

でも、それだけでなく、なぜこうなるのかを、考えてほしい。
障害者がやる気がないのは、本当に彼らだけに
責任があるからだろうか。
会社の障害者雇用こそが、問題の根本原因なのだから。


私が思うのは、日本の障害者雇用促進法は失敗だ。

最近のEテレ『バリバラ』でも

『作業所 工賃アップ大作戦! (1)、(2)』
(9月6日(金)、13日(金)放送)

で、外部のプロの観察で、作業員(障害者)のやる気が薄いのは、
作業所のスタッフにも責任があることが
自覚されるようになってきました。

何でもそうだろうけど、どうせ失敗するからとやらせないでいたら、
誰も成長しないでしょう。

会社の障害者雇用だって、まさにそうなのだと思います。
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by bunbun6610 | 2013-10-09 18:30 | 就労後の聴覚障害者問題E

映画『リンカーン』

映画『リンカーン』


リンカーンは、私も尊敬する人物の一人です。

アメリカの歴史にリンカーン大統領がいなかったら、
オバマ大統領もいなかった。

リンカーンがいたから、後にキング牧師が
黒人の公民権運動を起こすことができた。

そしてそれは、後に続く全米障害者運動を起こした、
障害者たちにも影響を及ぼした。(※1)


(※1)
当ブログ・カテゴリー
『哀れみはいらない』記事参照。




奴隷制廃止を巡っての南北戦争が
こんなにひどいものだったとは、
知りませんでした。


この映画のストーリーには出てこないけれども、
ワシントンのろう者の大学(ギャローデット大学)(※2)も、
1864年にリンカーン大統領の署名によって
創設された大学です。



(※2)当ブログ
『米国・ギャローデット大学でのろう運動』
[ 2013-03-05 18:00]

参照。



映画にはスティーブンス(白人)という、
障害を持つ共和党議員が登場していましたが、
真実なのだろうか。

議会で採決されると、彼は奴隷制廃止修正案の
原本を持ち帰り、妻(黒人)に見せていましたが、
これも真実なのだろうか。

アメリカ合衆国大統領になったルーズベルトも、
実は障害者でした。

映画は単に障害者が出ている、というだけでなく、
スティーブンスの働きも描かれています。

いつか手話で話すろう者が、
もっと当たり前のように映画やテレビに登場するかもしれない。


後で思い出しましたが、この前テレビで観た独眼竜・伊達政宗も、
障害者ということになるなぁ。

障害者だから伊達家当主になるのは無理だ、
と言われたが、その逆境も跳ね返して、
東北の英雄になった。

自分を殺害しようとした母を救ったその心には、
己の障害が影響しているのかも知れない、
と思いました。
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by bunbun6610 | 2013-04-22 18:30 | 雑談
BS258チャンネルで、
『スイッチ~運命のいたずら』という題名のドラマか何かで、
聴覚障害者役が登場人物に入っているらしい。

http://www.dlife.jp/lineup/drama/swichedatbirth_s1/


http://dramadaisuki2009.blog68.fc2.com/blog-category-288.html


ある方のブログで少しだけ読ませていただいたのですが、


「どうにかして相手に自分の考えを伝えたい。
相手が何を言っているのかを知りたい。

会話とは本来、こうあるべきものですよね。
相手の言わんとするところをじっくりと聞いて、
また、自分も相手に言いたいことを分かってもらおうとする。
一方的に言いたいことだけを伝え、聞きたいことだけを聞くのではない。

まるでジェスチャー・ゲームのようだとベイは言っていたけれど、
それでいいんですよ。
何をどうしようと問題ではない。
要は本心が伝えられれば良いのだから。」



この感じ方はいいなぁ、と思いました。

口話(読話)にも手話にも筆談にもこだわらない、
本当にお互いの立場を考えた、
お互いのために伝わるコミュニケーション方法を一緒に考えてやっていく、
という姿勢が。

それがあれば、世界中の人とだけでなく、
健聴者、ろう者、難聴者、中途失聴者のそれぞれが
解決できる問題って、多いと思うんだけれども…。

ところが現実は、その誰もが、自分たちの垣根をつくってしまう。

ほとんどは、お互いに通じる言語が違うからといって、
関わろうとしない。
まるで、バベルの塔の話みたいになって…。
しかし、それは言語、コミュニケーション方法の違い
だけの問題ではありません。
心の問題でもあったりするのです。
だから

「自分も、このブログは果たして、このままでいいのかなぁ?」

と反省も込めて、思うことがあります。

読者も少なくなさそうなのですが、
特に障害者問題で短いコメントをやりとりしたりするのは、
実はとても難しいような気がするのです。

それに、本当に記事数も目的も多い、
非常に特殊なブログなので、
しょうがないと思うのですけれども。



〔参考記事〕
『ろう者スタッフによるカフェ運営(東京都文京区本郷)』
〔2012-02-01 20:27〕

『健聴者も聴覚障害者を理解しようとするには、勇気が必要』
〔2012-02-07 22:54〕
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by bunbun6610 | 2012-10-20 19:39 | 聴覚障害者心理
ビューティフルレイン

美雨は圭介と話し合った末、夏休みの間だけ、
沼津のおじいちゃんとおばあちゃんの家にいることにしていた。
ところが、状況を見ていて、本当はそうではないと知った。
自分だけに本当のことを知らされていない美雨は、
機嫌が悪い。
圭介は美雨に謝り、本当のことを話す。
自分の病気のことも。

美雨はそれでも、沼津行きに納得しない。
アカネは美雨に説得したが、
それに対する美雨の反応、答えに、逆に驚いた。

当たり前だろう。
何人もの大人がなかなか決断できない、最良の選択肢を、
美雨は何の迷いもなく言い切っていたからだ。
それだけ美雨の心は純真だ。

美雨は

「父ちゃんと一緒にいることが幸せ」

だと言う。
さらに、

「(治らない病気の)父ちゃんと一緒にいて、辛くはない。
だから、これからもずっとそうしたい」

とも言う。

美雨は、圭介が亡き妻・妙子と約束したことを
知っているのかわからないが、
それはまるで美雨を通して

「どんなことがあっても、約束通りにして」

と、圭介にうったえているように思えた。

しかしそこへ、妙子との約束を守りたい、という理想と、
今のうちにしか出来ないかもしれない、
現実を直視した理性的判断との間で迷う圭介には、
決断を急がなければならない、というあせりが出ていた。

美雨の言葉に心打たれたのか、圭介の周囲にいる職場の人々が、
自信をなくしていた圭介の背中を積極的に押すように思えた。
そして皆が、本当の幸せとは何かということに気づいていく。

そうした姿は、これから超高齢化社会を迎える日本の、
理想的な社会のありようを提示しているのかもしれません。

誰もがなる可能性のある病気、障害、痴呆症の人の介護を、
誰か一人に、あるいは家族だけに押し付けるのではなく、
社会全体の人々で分担し、少しずつ助けてゆけば、
この問題は乗り越えてゆけるのかもしれません。
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by bunbun6610 | 2012-09-03 19:10 | 雑談