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警察署の保護室の中で、わかったこと

ロバート・レッドフォード主演の映画『ブルベイカー』
をご存知の方はおられるでしょうか?
刑務所での実話をもとに映画化した社会派作品です。

 →http://movie.walkerplus.com/mv7963/



CINEMA REVIEW 【斎藤智文】 [2012.03.27]
CINEMA REVIEW(39・完) 腐敗を糺す勇気、妥協しない正義感
「ブルベイカー」
Brubaker



ブルベイカーは、ある刑務所の新所長として、
就任することになりましたが、
その前に自ら囚人になりすまして刑務所に潜入し、
刑務所の不健全な実態を内部から知りました。
そして、たった一人で、ここの改革を始めた人です。

私の警察署保護室での初体験は、
ブルベイカーのそんな体験を、
自分もちょっとしたような感じでした。

ある日、私は電車の線路で飛び降り自殺を
図ろうとし、迷惑行為にもなったので、
警察署に保護されました。

そして、翌日まで保護室に入れられました。

冷たそうな部屋で、部屋の電燈は24時間
つきっぱなしです。
時計も何もない部屋で、
朝なのか昼なのか夜なのかもわかりません。
コンクリート製の壁と、強化プラスチック製の
全面透明の窓だけです。

保護室の中は、自分一人でいるのが
当たり前の環境なので、
私はそれまでの悩み事は何も考えません
でした。

不思議なもので、そこにいる限り、
私は今までのように、人間関係で悩むことも
ありませんでした。

孤独は、健聴者ならば誰でも嫌なはずです。

しかし私にとっては、まるで、
自分が聴覚障害者であることを
忘れられるような環境でした。

不思議なことに、ここにいるほうが、
会社にいるよりも居心地が良いと感じていた
のです。

山本譲司氏が書いた刑務所のことを
描いた本があります。


『累犯障害者』(山本譲司/著者)

http://www.amazon.co.jp/%E7%B4%AF%E7%8A%AF%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E8%AD%B2%E5%8F%B8/dp/4103029315

「「これまで生きてきた中で、ここが一番
暮らしやすかった……」
逮捕された元国会議員の著者は、
刑務所でそうつぶやく障害者の姿に
衝撃を受けた。
獄中での経験を胸に、「障害者が起こした
事件」の現場を訪ね歩く著者は、
「ろうあ者だけの暴力団」
「親子で売春婦の知的障害者」
など、驚くべき現実を次々とあぶり出す。
行政もマスコミも目を瞑る「社会の闇」を
描いた衝撃のノンフィクション。」



累犯障害者は

「刑務所の中のほうがいい」

と告白していますが、
私も保護室の中に入ったら、
その理由がわかりました。

社会で暮らしにくい障害者の気持ちは、
私にもわかります。
社会にいれば次第に圧迫感を受け続ける
ことになり、やがて罪を犯してしまいます。
そして刑務所に入りますが、
そこがそんなに辛いとは思わないのだろう。

むしろ、彼らにとっては刑務所の方がずっと、
居心地がいいのかもしれません。

皆厳しい規則に従って服役するのが
当たり前、そこでの生活は誰でも孤独なのが
当たり前なのだから、差別とか、不公平感
は全く感じないのかもしれません。

それで文句も出ないし、もしまたシャバが
苦しくなったら、また軽い罪を犯してでも、
ここへ戻ってくるだろう。
つまり、累犯障害者問題は社会問題なのだ。

その障害者が一方的に悪いからでは
ありません。
社会が障害者を受け入れないことにも
原因があるからだ。

しかし、健常者だったら「刑務所にいたい」
とは思わないだろう。
それまで自分が築き上げてきたもの
一切と別れなければならず、
家族ともほとんど会うことができない。
健常者ならば、生まれて初めて経験するような、
辛い孤独感を味わうことになる。

それでも、心の平安のために刑務所に入る
とはいえ、障害者も含めてどんな人にも、
ひとつだけ犯してはならない罪があると思う。
それは殺人だ。

相手を殺したら気が済むと思っていても、
他人の命は誰も償うことはできません。

刑務所で後悔し何らかの償いをしたくなっても、
その苦しみに耐えられるだろうか。
刑務所から出られなければ、償うという行為
さえ、できないとわかるだろう。

そして自分の気持ちは結局、
誰にも理解されず死刑になるのか、
という孤独にも苦しむのではないだろうか。


〔参考〕
障害理由に「刑猶予を」 窃盗事件公判で弁護側
 福岡地裁


他人のアパートに侵入し現金を盗んだとして
窃盗などの罪に問われた福岡県内の男の
被告(63)の初公判が23日、福岡地裁
(高原正良裁判官)であった。

被告は先天的に全く耳が聞こえず言葉も
話せない障害があり、過去にも同様の罪を
繰り返して19回の有罪判決を受け、
20年以上も刑務所に入っている。

今回の事件の捜査で新たに軽度の知的障害
があることも判明した。

深刻な障害がありながら、周囲の支援が
不十分で服役を繰り返す被告をどのように
処遇するべきなのか。

判決は6月13日に言い渡される。

起訴内容には争いがなく、検察側は

「障害を考慮しても前科が多い」

として懲役2年を求刑。

弁護側は

「被告は刑事司法と福祉のはざまで
こぼれ落ちた。
社会内で生活するため最善の方法を
検討すべきだ」

と執行猶予付きの判決を求め、
結審した。

被告は昨年9月に福岡市博多区の
アパートに侵入、現金3万円を盗んだ
として、今年3月に起訴された。

弁護側によると、被告は1人暮らし。
別に暮らす家族にも障害がある。
障害者の年金8万円を受給しているが、
福祉サービスは受けていない。

金銭管理ができず、別居の弟に任せて
おり、起訴された事件は現金が手元に
なくなったため起こしたという。

初公判は手話通訳人が被告にすべて
のやりとりを訳す形で進行。
被告は起訴内容を認め、質問には

「被害者にお金を返さないといけない
ことは分かる」

「仕事がしたい」

と手話で述べた。
しかし時折、手話通訳人の手話をただ
繰り返すだけで質問に答えられず、
審理が進まない場面もあった。

検察側は、傘を使い鍵を外す手口などに
触れ

「大胆で慣れた犯行。
相当期間刑務所に入所すべきだ」

と主張。

弁護側は

「責任能力は欠如していないが、
健常者と同じではない。
刑事施設での矯正は期待できず、
福祉施設への入所が必要。
なぜ罪を繰り返すのか、
社会全体で考える必要がある」

と訴えた。

2011/05/24付 西日本新聞

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by bunbun6610 | 2016-08-12 19:30 | Z1.クレジットカード会社

映画『Start Line(スタートライン)』(今村彩子/出演・監督)



映画『Start Line(スタートライン)』




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松森果林UD劇場~聞こえない世界に移住して~
『「コミュニケーションが苦手」な全ての人に送る映画
『Start Line』』
〔2016-06-28〕




印象的なシーンがある。
道中、パンクした自転車を修理している
人がいても

「聞こえない私は力になれないから」

と素通りした彩子さんに、

「できないって自分で決めつけている」

とぴしゃり。
たとえ力になれなくても、聞こえなくても、
一人より一緒の方が安心できるんだ、と。
それでも

「私なんかいない方がいいと思ってしまう」

と自分を卑下する彼女に、
もう一度言う。

「そんなことを君が決めてはいけない。
相手に聞いてから決めて!」。

テツさんファンになった瞬間だ。
その後ケンカとなり、目をそらす彩子さんに
対し怒ったテツさんが倒した自転車の
カメラが二人の様子をとらえる。

「怒っていても話さないと解決しない。
あなたが目をそらしたらそこですべてが
切れてしまう。
あなたが自分で世界を切っている」。

そう、音声言語での会話は目をそらしても、
相手の話しは聞こえてくる。
しかし視覚言語である手話は目をそらした
時点で遮断される。

「コミュニケーションができないのは
聞こえないせいじゃない」

というテツさんの冷静な論旨が、
コミュニケーションの本質を浮かび上がらせる。




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私も、コミュニケーションが非常に苦手だ。
今村氏とは違ったタイプだと思うが。

で、私の場合はよくケンカする。
相手が誰であっても、上司であってもだ。
かなり損する性格をしている。
能力は高くても、コミュニケーションが
ダメだからと、いつも最低評価を
与えられてしまう。

仕方がない。
すぐに変えられるわけではないし。

社会人として、私の致命的な欠点だ。
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by bunbun6610 | 2016-06-28 21:10 | ろう者世界

佐村河内ドキュメンタリー映画「FAKE」連日満員が意味すること

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1466593830318.html


佐村河内ドキュメンタリー映画「FAKE」
連日満員が意味すること


Excite Bit コネタ 2016年6月24日 18時01分

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続き、映画『FAKE』について語り合います。ネタバレあり。


■「マスコミがひどい」と「佐村河内はひどい」は別々の問題

藤田 飯田さんの記事によると、杖を持っていたり、地面を這いずり回っているようなかつてのNHKなどでのことがなくなっているとのことですよね。しかし、ぼくはこうも考えるわけですよ。NHKのディレクターの演出に、過剰に乗って演技した可能性もあるんだろうな、と。

飯田 違います。NHKスペシャルは震災のあとに放映されていますが、そこで描かれる症状の多くは2007年に刊行された自伝にすでに書いてあります。「ディレクターに乗せられた」可能性はありません。逆です。「佐村河内に乗せられた」んです。無数の演技や設定づくりは、佐村河内の意志で行われています。

藤田 多分、佐村河内さんとメディアが共犯関係で虚像を作ってきた、そしてそれが世に受けたということを、森さんは撮りたいのだろうし、それが暴露後も続いていると言いたいのだと思うのですよ。ぼくは、飯田さんが言うほど、森さんは乗せられていないと思った。共犯関係的な磁場がどのように形成されていくのかそれ自体を撮ろうとしているというか……。もちろん、その磁場に入れば、自分も無事では済みませんよ(笑)

飯田 乗せられていなくても「結果的にNHKスペシャルのディレクター古賀淳也さんと同じことをやってる(同じことになってる)でしょ?」というのが僕の言いたいことで、乗っているかどうかという内面は問題にしていません。
「マスコミはひどい」という話と「佐村河内はひどい」という話は別々の論点です。森さんが前者の問題提起をしたいのはわかります。でもマスコミがひどいからといって後者を不問にすることはできない。マスコミ批判のために佐村河内の主張や振る舞いを鵜呑みにするわけにはいきません。森さんはそのふたつを曖昧に混同している。
 ただ、佐村河内も弟を交通事故で亡くしているし、奥さんと二人で長らく極貧生活をしていて「売れない芸術家」に対する世間の冷たさも経験していた。それは事実です。そういう経験から、被災者や障害者に対して寄り添いたい気持ちも本当にあったでしょう。でも、だとしたらウソついて作曲家ヅラして近づかなければよかったのに、って思う。

藤田 弱者性や有徴を利用するテクニックは、人心操作でよく行われることですが(同情心や罪悪感をかきたてて、利用する)それをやっている人に近いようには見えるし、それが批難される理由もわかるんです。「そんなくだらない物語=FAKEで感動させられるぼくらの脳みそもチッポケだな」って、ぼくは半分自虐も込めて思うわけですが。

飯田 ふつう、ひとは「このひとは自分を騙そうとしている」「ウソつきだ」なんて前提からは入らず、善意で接しますから「ウソに騙される方が悪い」「ウソで感動するほうもどうかと思う」という言い方にはまったく賛同できません。
 僕だって雑誌かなんかから「インタビューしてきて」って言われて騒動の前に佐村河内に会っていたら、たぶん疑わなかった、見抜けなかったと思う。
あるいは「ちょっとおかしいな」と思っても、取材自体、記事自体をぶち壊しにするメリットもないから、スルーしていたと思う。『FAKE』でも時折「気のいいオッサン」の顔を見せるじゃないですか。深刻なだけじゃなくて、人を楽しませる会話ができる。騒動の前はああいう気さくさがもっとあったんだろうなと考えると、いきなり「ウソついてますよね?」なんてますます突っ込めないですよ。佐村河内はそういうことを見越してウソをついたり、他人を利用しているからタチが悪いんです。

藤田 でも社会にはそういう振る舞いをする人たちがいっぱいいますからね。善意だから良い、同情して騙されたから無垢な被害者だ、というわけでもないのだと思うのですよ。そのような素朴な倫理観では通用しない社会になっちゃったと言うべきかな。同情や罪悪感を捏造で喚起して他人を操作するエージェントが「この世界にはいる」ということを前提として、知識としてもっと広範に広がって、対処法とか周知されるといいなと思います。これは一般論としてですが。
『A』『A2』には客が入らず、『FAKE』は連日満員ということが意味するもの

藤田 森さんについてですが、実は不満もあるんです。
『21世紀を生き延びるためのドキュメンタリー映画カタログ』に寄稿した文章にも書いたのですが、彼は、マスメディアが嘘であると暴く。そこまでは良い。ネット右翼と心性が重なっている気がしないでもないが、それは良い。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』で、自身の作品も含めて、ドキュメンタリーも透明な現実を映していない、と言った。そこも良い。そうすると、しかし、何が本当かさっぱりわからなくなる。本当がなければ、全て嘘でもいいことになる。その問題の先をどうするかの答えは、本作にはなかった。

飯田 森さんは「ひとによって見えている真実は違う」ということを前提に生きるしかない、「見え方が全然違う」ということを理解していたらとひとはもっと寛容になれるはずだ、と思っているわけで、「何が本当か」問題を検証したいひとではないですよね。「ジャーナリストじゃない」って何回も言ってるし。

藤田 しかし、ちょっと話をずらしますが、そういう人間を、ぼくらの社会は、それなりの地位がある人たちでも「見抜けない」ということが一挙に問題化されてきましたね。佐村河内さん、小保方さんらは――真偽はぼくはまだ保留にしているのだけれど――そういう文脈で社会問題化された。これはどういうことなのでしょうか。そういう人が増えたのか。見抜く能力が上がったのか。問題化する社会的機運が高まっているのか。……連想するのは、やっぱり東日本大震災以降の、原発報道その他のことですよね。何が本当なのか、本当だったのか、騙されていたのか、それが揺さぶられていて、自信がなくなっているから騙されやすくなっているのかもしれないし、同時に騙す人に対する怒りや攻撃性も高まっているのかもしれない。
そう考えると、本作は『311』に続く、間接的な震災後映画なのかもしれません。

飯田 「見抜けるかどうか」「何が真実なのか。誰を信じるのか」ということよりもマスコミによるメディアスクラムとかネットでの炎上(集中攻撃)に対する批判をしたい映画では? と思いましたが、しかし、客の満員ぶりがその主題を裏切っていると思う。
『A』『A2』は「壊滅的に人が入らなかった」と森さんはよく言っています。今回は連日満員です。「オウムはみんな極悪な殺人集団だ!」というステレオタイプを否定したら人が全然入らなくて、佐村河内だと観に行くというのは、いったいどういうことなのか。明らかにオウムのほうが大きな社会的事件なのに。
 これはつまり、どちらにしても観る側に「叩きたい」気持ちがあって、それを期待しているから、そのハシゴを外される『A』『A2』は観に行かず、『FAKE』は観に行くということでしょう。

藤田 『FAKE』観たあとに、叩きたい気持ち、満足します? ……感動して、「作曲できるじゃないか!」「マスメディアがマスゴミだった!」「いい人だった!」ってなる人もいるんですよね?

飯田 客が入るかどうかということは「観に行くかどうか」の意思決定の話であって、観た「後」の評価の話ではない。

藤田 『A』のときは「叩きたい!」って動機で人が入らなかった?

飯田 森さんはそういうことを言っている。「オウムは善良なひとばっかりだ」なんて映画は観たくないと思ったから入らなかった、最初の5分だけでも観てもらえれば絶対おもしろいんだけど、そこまでたどりついてもらえなかった、って。
藤田 そうすると、飯田説だと「佐村河内はいい人そうだ」という宣伝をしていないから、本作は成功していると言えるのかな。公開してだいぶ立つユーロスペースで、土曜日の午後に行ったら、二つのスクリーンで上映しているのに満席でした。

飯田 だって予告編で「なんで作り話を?」とかって取材されてるカットが入っていたら、むくむくと湧くものがあるでしょう。反省して悩んでいるふうの表情もある。それはそれで「ああ、ちゃんと世間の批判を受け止めたのか」って溜飲が下がるからね。
 実態は全然そうじゃなくて「こうやって人を騙してきたのか!」ってびっくりする作品だったけども。別に僕は佐村河内や森達也を積極的に叩きたい気持ちはありません。でも、観たら「あれっ???」って思って笑っちゃうところがあちこちにあった。


■意外にも「食映画」でもある

藤田 ちなみに、ぼくが観た回で、映写が止まって、音だけになって、視覚を失って音に集中させる演出か!?って思ってたら、しばらくして明かりが点いて「映写機の故障です」ってアナウンスがあって、爆笑してザワザワしていた。この「故障」もフェイクの演出じゃないかと疑ってみんな喋ってた。面白い経験しましたよw

飯田 いろいろ言いましたが、まじめなだけじゃなくてふつうにおもしろおかしい場面もいっぱいあります。好奇心で観に行っても全然いいと思います。
「食映画」でもあってですね、『FAKE』を観た妻が豆乳を買ってきてハンバーグをつくったというわが家の深イイ話があります。

藤田 どうでもイイ話ですねw それはともかく、この映画は、自分で観て解釈しなくちゃ仕方がないので、この対談や飯田さんの記事も、参考としてご覧いただければな、と思います。




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by bunbun6610 | 2016-06-24 23:28 | 難聴・中途失聴

佐村河内守を追った森達也の映画「FAKE」は何が問題なのか

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1466591018229.html



佐村河内守を追った
森達也の映画「FAKE」は
何が問題なのか

Excite Bit コネタ 2016年6月24日 18時00分


ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回は佐村河内守を追った映画『FAKE』を扱います。ネタバレあり。


■オウムを内部から撮った『A』同様、今回もマスコミ批判の映画だが…

藤田 ドキュメンタリー監督の森達也さんが、ゴーストライター騒動で一世を風靡した佐村河内守さんとその妻・香さんを対象に撮った作品が『FAKE』ですね。森さんは、かつて、オウム真理教を扱った『A』『A2』や、東日本大震災の直後に現地に行った『311』などの共同監督作品がありますね。
 森さんの作品の特徴として、マスメディアで話題になった人物の「別の顔」「裏側」を見せることで、ぼくたちの、マスメディアに構成されやすい認識を異化するという側面があるのですが…… 今回も、その意味では、『A』『A2』に連なる作品でしたし、何故遺体をマスメディアを映さないのかという問題提起を突然する『311』と共通の問題意識の作品でしたね。
 真相を知ろうとする『A3』や、とりあえず被災地に行ってみる『311』、とはアプローチが異なっていて、むしろ『A』『A2』に戻った感じがしました。むしろ『職業欄はエスパー』に近いかも……

飯田 僕はYahoo!個人にウンチクも感想もあらかた書いてしまったのでまずはそちらを読んでいただきたいのですが……。
 素朴に「佐村河内にもいいところがあった」とか「ウソばっかりじゃなかった」ふうの反応をしているひとがいっぱいいて、びっくりしたんですよ。
佐村河内関連の本や映像をフォローしてきた人間からすると、むしろ、やっぱりウソつきでデタラメばかりで「弱者のフリをし、批判できないようにして相手を抱き込む」という手法を相も変わらず使い続けていることがボロボロとこぼれ出ているドキュメンタリーなんです。その無防備さが相当おもしろい。
 森さんが本心では佐村河内についてどう思っているのかは知らないしあまり興味もありません。ただこれは「佐村河内守からは世界がこう見えている」という主観を撮った作品であり、そういうスタンスに共鳴するそぶりを見せないと撮れなかったことは間違いない。よくぞ潜入してくれたと思っています。
 ちなみに記事の反応で新垣隆さんの公式アカウントから「驚きました。(スタッフ)」というリプライがあったのと、佐村河内のペテンを暴いたジャーナリストの神山典士さんから感想メールをいただき、今度お会いすることになったのが、記事公開後のトピックとしてあります。公開後に森さんサイドと神山さんはFacebook上でバトっていますが、神山さんによると森さんおよびプロデューサーがウソをついているところもあって(『FAKE』で佐村河内に騙されていた義手のバイオリニスト・みっくんや被災地の女の子にコンタクトを取ろうとしたが出てもらえなかった、と言い張っているそうですが、神山さんはそのふたりとも新垣さんともずっと連絡を取っているから、そんなことはありえないと断言できる、とか)、「ウソつきを撮ったひとたちもウソつきだった?」みたいな悪夢的な様相を呈しています。

藤田 森さんは、佐村河内さんの磁場には完全に入っていないと思いますよ。『A』などでその批判を受けていましたが、今回は『A』『A2』よりも遥かに距離があるし、自己言及もしている。フジテレビのバラエティの人が、佐村河内さんを出演させるときに、明らかに笑いものにしようとしているのに、真面目な番組にするかのように言うでしょう。TV局もフェイクを演じている。あれと同じことを、森さんは確信犯的にやっていると思う。自分がしていたことは「信じているフリかもしれない」と佐村河内さんに最後に言っているし。
 新垣さんがTVに出ているときに、森さん、「佐村河内さんが出てたらスタンスが違ったと思いますよ」という趣旨のことを言っていますし、新垣氏にこの映画の出演依頼をして断られたことも作中で明らかにしていますから。「面白くしようとしているだけ」というバラエティへの言葉は、半分自己言及のようにぼくには聞こえます。
『FAKE』という作品自体が、フェイクに満ちた作品で、どっちとも解釈できるように作られていて、油断できない作品ですよね。


■「本当は曲が作れた!」……だから何なの?

藤田 最後に、一見作曲が可能であったかのように見えるように作られていますね。飯田さんのご指摘の通り、カメラが回っていない瞬間に捏造することはいくらでも可能なので、本当に作曲していたのかは不明ですが。しかし、シンセサイザーというテクノロジーのおかげで、楽譜読めなくても演奏能力が高くなくても「作曲」はできるだろう、と観ることも可能である、という解釈も可能ですよね。それを否定したらDTMとかダメになってしまう。あの安っぽい、クラシックの音をフェイクで模した壮麗な音は、象徴的だと思いました。
 ぼくは感動しましたよ、ラストに、佐村河内さんが演奏するところに! シンセサイザーってすごいなぁと。ああいう壮麗で崇高っぽい音が鳴ると脳が自動的に感動するなぁ、脳のそういうスイッチ押してくるなぁ、と、技術に感動していました。
 ラストの演奏が「本当に作曲しているのか」も怪しい、怪しいけど、あの音と構図で観ると、感動してしまう。そのインチキな仕組みそれ自体を投げ出していると思いますよ。観客にも見抜くこと、どっちなのかわからなくなることを期待しているというか。

飯田 たしかに、音楽つくるソフトの「ガレージバンド」とか使えば誰でもそれっぽい曲はつくれる時代です。打ち込んでいたとしても「あれがそんなにすごいことか? 驚くことか?」と思う。神山さんも新垣さんも「ゲーム音楽時代には佐村河内がシンセで断片的に打ち込みをつくって、それをもとに新垣さんが作・編曲していた」ことは否定していないですからね。
 しかも森さんは「佐村河内は作曲できるか?」問題の何が問題だったのか全然わかっていない。「作曲のプロセスに密着してすべてを収め、作曲したという決定的な証拠を撮る」ことができなかったのが佐村河内を取り上げたNHKスペシャルの問題点だったんです。対して「AERA」や2000年代半ばのフジテレビ報道局のように、佐村河内に密着取材したけれども、「あやしい」と判断して企画をとりやめたケースもあります。
おそらく、楽器を手元に置かない佐村河内が作曲したと言える瞬間、つまり「楽譜に記す」という行為を絶対に撮らせなかったからだと考えられています。「曲づくりを引き受ける」「曲づくりで悩んでいる」シーンと「できあがった楽譜やトラックを見せる」「できあがった曲を聴く」シーンをつないだって、「作曲した証拠」にはならない。つまり、森さんは今回、自らの手でテープを回しっぱなしでシンセの打ち込みの全プロセス……がむりなら主要なプロセスの多くにきっちり張り付いて記録しなければ、疑惑を否定したことにはならなかった。でも森さんはしばらく佐村河内宅に通うことをやめていて、曲ができあがったという報告を受けてからまた行っている。これじゃあ、やってることはNHKスペシャルのディレクターだった古賀さんの二の舞、いや、それよりひどいですよ。佐村河内がいくらでもなんでもできるような余地を与えているんだから。話にならない。
 そうは言いつつも、僕もラストの曲は嫌いじゃないです。「佐村河内は本当にこういうムダに壮大な曲がつくりたかったんだなあ。だからオーケストラ使ってド派手にやりたかったんだ」って改めてわかった。クラウス・シュルツとか喜多郎系ですよね。
 ただね、佐村河内は自伝『交響曲第一番』ではこう書いていたんですよ。

「楽譜に記譜することこそが作曲、という気持ちはつねに変わりませんでした」と(幻冬舎文庫版83p)。

『FAKE』で彼が一生懸命「新垣とは共作だ」と主張し、シンセで新曲を作ったところで、楽譜に書いてないわけだから、かつて自分で言っていた作曲の定義とは違います。
「それでなんで『曲を作った』ことになると思ってるの? なんで『すみません、作曲の定義を変えました』って素直に言えないの?」と哀しくなりますね。


■奥さんの謎の表情が意味するものとは……?

藤田 森監督が、最後に、奥さんを撮れてよかったと言ったじゃないですか。その前の演奏シーンでの、奥さんのカットが決め手なのかぁ、と思うような言い方だったのですが、演奏中の奥さんの表情や、手の中で光っているものなどについて、どう解釈されました? ぼくは、あそこが一番腑に落ちないのです。演奏している佐村河内さんから目を逸らし、応援しているようでもない、あの表情や仕草が、何を示唆しているのか(示唆していると森監督は考えたのか)が読めないんです。「インチキがバレないかハラハラしてる」って感じですか?

飯田 それもあるかもしれないけど、別にまたバレても世間に対して失うものはそんなにないから……何かあるとしたら夫に対してでしょう。
「佐村河内にマインドコントロールされてる」と奥さんの母親は言っているそうです。そうなのだとしたら、何かされることを考えてビビっていたのかもしれない。ふたりだけでいるときにどんな関係なのかは、本当のところよくわかりません。
 親との縁を事実上切って佐村河内を選んだわけだから、サマナ(出家したオウム信者)みたいなものですね。そう思うと『A』『A2』からつながっている。

藤田 ぼくは医者でもなんでもないので、これは診断ではなく、あくまで印象ですが、いわゆる共依存関係に近い何かなのかもしれませんね。
その場合、どっちが主体として「マインドコントロールしている」のか、よくわからない。共依存って、サポート「する」側が、人助けをしている自分=価値のある自分を維持するために、相手をいつまでも弱者にしておこうとする傾向があったりします。

飯田 奥さんは18歳のときから佐村河内と30年以上つきあっているんだから、何も知らないわけないことだけは確実です。それは複雑な表情、複雑な気持ちになるということじゃないですか?
 新垣さんだって、佐村河内から最初のオファーを受けたのは弱冠25歳のときで、そのあと18年パートナーだったんです。長い物語なんですよ、この騒動は。

藤田 こんな表現がよければですけど、奥さんは「虚無」みたいな顔でしたよ……
 旦那さんが、疑惑を晴らすための曲を、作曲に復帰して作り終えたら、もうちょっと感動して音楽に聴き入りそうな感じがしたり、ハラハラして応援したり笑ったり泣いたりしそうなんですが…… あの虚無は、何の意味にも回収できなさそうなしこりとして、ぼくの中に残っています。


■何が問題なのかわかってない人が多いので整理しておくよ

藤田 佐村河内さんが……こういう言い方を勝手にすると、医者でもないのに診断して! と怒られたり訴えられたりするリスクがあると思うのですが、ぼくの印象では、パーソナリティ障害のクラスターBの人たちに近い印象を得ました。その人たちの特徴は、感情表現が過剰だったり、演技力があったりね、人はあの磁場の中で虚実がわからなくなっていくんだな……っていうのを、観客も体感させられると思います。

飯田 自己愛性パーソナリティ障害とか演技性パーソナリティ障害でしょうね。自分を大きく見せるために息を吸って吐くように虚言が出てしまう。
 そのナルシスティックで誇大妄想的なところが例の「指示書」や、全ろうで精神疾患で左腕は腱鞘炎が悪化して使い物にならないとか、10歳で母親から「もうピアノについて教えることは何もない」と言われる神童だったとか、「村上水軍の末裔だと思う」だとか、ゴテゴテに盛られまくった設定(100あったら99はウソ)を生んだ。それは一歩引いてみるぶんにはおもしろいし、悲哀を感じるところでもある。
 ただ、障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところはひどい。たんにゴーストライターを使っているだけならそこまで問題じゃなかったんだけど……。

藤田 「障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところ」みたいな嘘の部分は、ぼくには判断ができませんでした。やっぱり、ひどいんですか?

飯田 佐村河内が近寄っていったので有名なところでは義手のヴァイオリニストのみっくん、それからNHKスペシャルに出ていた、母親を津波で亡くした女の子がいます。よくウソがつけるな、って思います。
 ほかにも障害者施設にいっぱい行っていて、つねに自分の音楽、売り出し方に利用できそうなひとを探していたんですよ。詳しくは神山典士さんの『ペテン師と天才』に書いてあります。ちょっと施設を訪れただけなのにマスコミに対しては「すごく面倒をみている」みたいな見せ方をしたりね。

藤田 映画の中で、耳が聞こえない方が擁護されていたのはどう見ます? 感音性難聴(部分的には聞こえたりする)であるという診断書が何度も出てきますよね。

飯田 そもそも2002年に「全ろうだ」(聴力ゼロです)という診断書をもらい、障害者手帳を発行してもらっていたことが佐村河内の問題なんです。本人の主張では「その後、聴力が多少は回復した」そうですが、現代医学ではそんなことには説明がつかず(ありえないことであり)、高い確率で「全ろう」については詐病であったことがわかっています。
 佐村河内のせいで数多くの聴覚障害者が「こいつもお金がほしくて詐病してるんじゃないの? 簡単にごまかせるんでしょ?」と思われてしまった。それがまずいのです。
 なのに『FAKE』では「2014年に診断してもらって、障害者手帳は発行されるレベルではないが、難聴であることは事実です」「難聴のひとは誤解されやすい」という話に巧妙にすり替えが行われている。それに乗せられちゃってるなあ……と。
 しかも聴覚障害者の方と面会するシーンで、佐村河内は日光を浴びまくってるしサングラスもかけていない。でもウソがばれる前の彼は、日の光を浴びると耳鳴りがひどくてあまりにも辛いから外出は控えているし、部屋の中も真っ暗にしている、特殊なサングラスをかけている、と言っていたわけです。
「ウソをついていない」ことをアピールしたいシーンのはずなのに、「ウソをついていた」「話を逸らしている」ことが露呈してしまっていて「おいおい!」って思うシーンなんですよ、あれは。
 それで聴覚障害者の方に擁護をしてもらう。やっぱり利用しているように僕には見える。




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これは、昔から続いている、
世間の人たちの考え方と同じだと思う。
つまり

「先に悪いことをしたのはオマエだ。
そのオマエが今さら何を言っても、
我々も世間も、聞く耳は持たない」

ということだろう。
一度でも大きな犯罪を犯した者には、
立ち直る機会も与えないという、
冷酷な目線が感じられる。

ある本を思い出した。


『凶悪犯罪者こそ更生します』
(岡本茂樹/著者 株式会社新潮社/発行所)


本当の難聴者であっても、配慮は一切しない。
人権を剥奪するという“やり過ぎ報復”でも
まかり通ると思っている。
こんな世間、社会の恐ろしさ。

こんな側面を持つた社会で、障害者は本当に
生きたいのか。
いやそれは、誰も選べない。
人間は、社会にいないと生きられないだろうから。
選択の余地などないのだ。

このジャーナリストたちも、
ただいたずらに“人間不信”を増長するだけの、
恐ろしい人たちだと、私は感じる。

こんな話に付き合っていても、
誰も問題点の解決にはならない、ということだ。

映画の問題点の指摘はよくできているが

「レベルの低い対談だったな」

と思った。
手帳のない難聴者のことをわかっていない、
と思う。
それこそが問題点ではないだろうか。
だから、この討論は、“内容が薄い”のだ。
映画を観て、感じたか、感じなかったかの
違いが、健聴者と難聴者との間に、
きっとあるはずなのだ。






【追記】

音楽家 新垣隆オフィシャルサイト
『映画「FAKE」に関する新垣隆所属事務所の見解』
〔2016年7月8日〕



BLOGOS
『「残酷なるかな、森達也」- 神山典士(ノンフィクション作家)』
〔2016年06月06日 09:52〕

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by bunbun6610 | 2016-06-24 23:27 | 難聴・中途失聴

佐村河内氏ドキュメンタリー映画『FAKE』(森 達也/監督)公開中

ゴーストライター・聴覚障害者偽装疑惑騒動
以降、沈黙を続けている佐村河内氏を撮った
ドキュメンタリー映画が、話題になっているそうだ。


『佐村河内氏ドキュメンタリー映画6・4公開決定』
〔2016-03-09 21:46〕

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by bunbun6610 | 2016-06-24 20:53 | 難聴・中途失聴

映画『レナードの朝』

映画『レナードの朝』



『泣ける!!
”あたりまえ”のありがたみを
教えてくれる映画
「レナードの朝」』




久しぶりに映画『レナードの朝』を観てみた。

初めて観たのは、もうだいぶ昔なので、
この映画は古い作品だ。

その頃は、まだ自分が「障害者」だということを
自覚していなかった。
それで、普通の人と同じように、観終わっても

「感動のヒューマンドラマだった」

といった感想しかなかったように思う。

しかし、今は自分が障害者であることを強く
認識しているし、障害者問題も毎日考える
ようになっている。
私の今の状態は、ある意味ではだが、
レナードと似ていなくもない。
身体障害者として、社会から“役立たず”の
扱いを受けていて、単純労働マシンとして
働いて給料をもらって、単純な生活を毎日
送っている。
だが、パスカルの

「人間は考える葦である」

とはよく言ったもので、私の脳内は活発なの
かもしれない。

今、『レナードの朝』を観たら、改めて色々な
ことに気づかされた。
私は今、この原稿の一部分を、マクドナルドの
中で執筆している。
そこで周囲を見渡すと、様々な人たちがいるが、
ほとんどの人はスマホを見ている。
それ以外には雑誌や新聞や本を読んでいたり、
数字パズルみたいなものを解く作業をしている
人ぐらいである。
つまり皆、受動的に脳を使っているに過ぎない
ような気がする。
この中に今は、誰も自分自身について考えたり、
人生について考えることも、
主体的に考えたりする人はいないようである。

レナードは30年間眠り続けていた、ということ
らしいが(これは正確ではないだろうが)、
それでも意識はあったそうである。
彼の生涯は、まず幼少期までは健常者だった。
それが発病して、病気のため療養生活に入る。
それが重度化し、障害者になる。
そして入院し、セイヤー医師の薬物治療を受けて、
奇跡的にまた健常者に戻る。
しかし、それは短い期間のことで、彼の病気は
再発し、そして重度障害者へ戻されてしまうの
だった。

中途障害者にも“喪失の過程”を経験するが、
重度障害者から健常者に戻るという話は、
聞いたことがない。
こういう経験をした人も、稀だ。
だから奇跡なのだ。
レナードが素晴らしく、観る人に感動を与えたのは、
彼がその奇跡を生かしたからのように思えて
ならない。



レナード;
「先生、かけて」

セイヤー;
「どうした、何事だ」

レナード;
「皆に知らせるんだよ。
いかに、すばらしいか」

セイヤー;
「何が?」

レナード;
「新聞の記事を読めよ。
悪い事ばかり載ってる。
皆、生きることのすばらしさを忘れてる。
持ってるものの尊さを教えてやらなきゃ。
人生は喜びだ。
尊い贈り物だ。
人生は自由で、すばらしい!」

セイヤー;
「“我々は感謝の心を忘れてる”と。
仕事 楽しみ 友情 家族への感謝。
朝の5時までしゃべり続けた。
開放感からか、躁状態なのか。」

病院職員;
「愛では?」

セイヤー;
「そうだな。
確かに僕らは、生き方を間違ってる」



医師;
「何か話があるとか・・・・」

レナード;
「簡単な事です」

医師;
「何だね?」

レナード;
「普通の人間のように、自由に散歩を」

医師;
「散歩は自由だよ」

レナード;
「本当に? 一人で?」

医師;
「なぜ、一人で?」

レナード;
「犯罪者ではない。
誰かに危害を加えるわけじゃない。
なのに、一人での外出を禁じられてる。
あんた達が目覚めさせたのは人間で
物じゃない」

医師B;
「ロウ(レナード)さん、無意識的に
私達に敵意を持っているようね」

レナード;
「無意識を意識できるので?」

医師A;
「ノラ、よせ。
参考までに、一人で外出して何を?」

レナード;
「散歩して、いろいろ見て、人と話す。
どっちの方向へ歩くか、自分で決めたい。
あんた達と同じようにね」

医師A;
「それだけ?」

レナード;
「ええ」

医師;
「分かった。
君の望みを考慮して、我々の結論を
出そう」

セイヤー;
「大丈夫か?」

レナード;
「緊張したので、けいれんが・・・・。
結論は?」

セイヤー;
「治って、まだ日が浅い。
“もう少し観察して、診断を下すべきだ”と。
外の世界は病院の中とは違う。
何かあれば病院が責任を問われる。
結論は“ノー”だ」

レナード;
「あんたは何と?」

セイヤー;
「僕の意見は弱い」

レナード;
「賛成を?」

セイヤー;
「ああ・・・・。
安心するのは、まだ早い。
この引きつりも心配だ。
あの薬は実験段階だ。
もっと観察を・・・・」

レナード;
「さよなら」

セイヤー;
「どこへ?」

レナード;
「散歩さ」



一人で散歩に出ようとしたレナードは、
警備員や病院職員たちに、
強引に連れ戻される。

それから再び病魔に冒されるように
なった時、彼はこう言っている。



「病人は奴らだ!
奴らこそ治療すべきだ!
我々は最悪の経験を生きのびた。
連中は違う!
それを恐れてる!
おれ達から、ある事を学んだからだ。
答えの見つからない病気がある事を、
我々から学んだ。
それを分かりもせず、病気を治せると思うか?
なのに、それを認めたがらない。
問題は奴らだ。
おれ達じゃない!
奴らが悪いんだ!」

「病気と闘って、やっと戻ってきた。
30年だぞ。30年間闘い続けた。
今も闘ってる。 あんたは?
あんたに何がある。
孤独で、何もない生活。
眠ってるのは、あんただ!」



皆は、薬の副作用でおかしくなったとか、
性格が変わってしまったとか言っていた。
しかし、彼は全然、間違ってはいないし、
おかしくもない。
おかしいのは、むしろ健常者のほうだと、
観ていて思った。

これを観ると、障害者問題や、障害者運動
はどうして起こるのかが、よくわかる。


以前に、

『<働かない働きアリ>
集団存続に必要 働きアリだけは滅びる』
〔2016-02-16 23:02〕




を紹介した。

社会から見れば、レナードも、そして私も、
障害者の多くは、同様なのかもしれない。
しかし、そういう人が実は、他の人には
気づかないことに気づいていて、
何かとても重要なメッセージを社会に
向けて発信しているのかもしれない。
ただ、社会はその声を聞かないだけだ。
優先順位うんぬんで結局、いつもその声は
埋もれていってしまうのだろう。
きっと、たくさんのそんな声があるはずだ。
しかしそれでも、その声はそれで死んだの
ではない。
きっと、何かの役に立つ日が、いつか来る
のだろう。
その声を拾って活かす誰かとは、実は
「働かないアリ」のような人間だったりするの
かもしれないのだ。
だから、信じたい。
イエス=キリストの話にも、似たような話が
あったのを覚えている。



レナードとは違う病気だが、佐々木正さんという、
手術を繰り返して生き続けた障害者がいた。


『難聴者の先輩 (3)ガネーシャ氏(ハンドルネーム)』
〔2013-03-04 18:30〕

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by bunbun6610 | 2016-05-09 21:30 | 障害者問題・差別

佐村河内氏ドキュメンタリー映画6・4公開決定

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160309-00000018-nksports-ent


佐村河内氏
ドキュメンタリー映画
6・4公開決定


日刊スポーツ 3月9日(水)8時5分配信


14年にゴーストライター騒動で話題となった佐村河内(さむらごうち)守氏(51)のドキュメンタリー映画「FAKE(フェイク)」が完成し、公開日が6月4日に決まったことが8日、分かった。

【写真】「髪の毛は元美容師の妻に切ってもらった」と謝罪会見で話した佐村河内守氏

 「FAKE」は主に、騒動後の佐村河内氏を追った作品だ。撮影期間は、14年9月から今年1月まで。横浜市内の同氏の自宅でカメラをまわし、海外ジャーナリストから取材を受ける様子などを撮影している。14年3月に行った記者会見では、髪は短く、ひげもそった状態だったが、劇中では以前のトレードマークだったサングラスをつけ、長髪も復活。あごひげもたくわえている。インタビューなどは以前と同様に手話通訳を介して行われたという。時には身ぶり手ぶりで説明し、頬をたたいて音のリズムを表現することもあった。

 関係者によると、佐村河内氏は現在、ほとんど外出はせず、1日の大半を自宅で過ごしているという。働いているような様子はなく、静かな日常生活を送っているようだ。妻とも離婚していない。同作は全国各地、計30館前後のミニシアターで上映される見込みだという。

 監督を務めるのは、社会派のドキュメンタリー作家で、オウム真理教が題材の映画「A」で注目された森達也氏(59)。単独で新作映画を手掛けるのは01年公開の「A2」以来15年ぶりで、「単なるゴーストライター騒動をテーマにしているつもりはもちろんない」と話している。映画のクライマックスには「衝撃のラスト」が用意されているといい「視点や解釈は無数にある。1つではない。もちろん僕の視点と解釈は存在するけれど、最終的には(映画を)見たあなたのもの。自由でよい」と語った。



======================




森達也オフィシャル・ウェブサイト
http://moriweb.web.fc2.com/mori_t/





この映画には

「手帳のない難聴者のドキュメンタリー映画」

という切り口もありそうだ。
初めてなのではないだろうか、こういうのは。

昨年12月に公開された『レインツリーの国』は、
健聴者女優が演じて作った作品だが、
『FAKE』は手帳のない難聴者を、等身大に
映し出した作品だと言えそうだ。

そのレベルの難聴者は実生活で、どんな障害が
あるのか、わかるのかもしれない。
佐村河内氏は

「彼は聞こえていた」

と言っている新垣氏に激しく反論しているが、
それへの真実の答えを出そうとしているのでは
ないだろうか。


「聞こえていた」

というのは、聴覚障害者、特に難聴者を攻撃する
健聴者にとって、都合のいい言葉だ。
今度はそんな新垣氏の無知ぶりが、もしかしたら
暴露されてしまうのかもしれない。
難聴を、伝音性難聴でしか説明できないバカがいる
証拠だ。



〔関連記事〕


『佐村河内さん代作 新垣氏会見(1/2)』
〔2014-02-13 18:30〕






『佐村河内さん代作 新垣氏会見(2/2)』
〔2014-02-13 19:00〕





『<佐村河内氏>聴覚診断
 最も軽い6級に該当せず手帳返納』
〔2014-03-07 23:52〕





『「矛盾」「食い違い」多数…
 佐村河内氏と新垣氏の発言比較』
〔2014-03-08 00:06〕





『週刊文春の佐村河内氏批判について』
〔2014-03-14 21:31〕




【追記】(2016年6月14日)


ドキュメンタリー映画
『FAKE』
(監督・撮影; 森 達也)
http://www.fakemovie.jp/




『『マスコミがけっして伝えない佐村河内守氏会見の盲点』』
〔2015-12-18 20:00〕





【鑑賞後の感想】

副題;『人間社会の持つ暴力性とは何か』


「聴覚障害者にとっては、その障害そのもの
よりも、周囲から理解されないことが最も辛く、
この障害の怖い点である」


という話を、研究論文で読んだことがある。
このドキュメンタリー映画も、そんな面から
切り込んでいっている。
いい構成だと思う。

森監督はまずそこを撮り、視聴者にもその
辛さを感じ取ってもらうための場面が、
幾つも出てくる。

多くのマスコミによって広がった偏向報道に
よって、他の聴覚障害者へも迷惑をかけて
しまった罪悪感、苦しみ。
そして仕事を奪われ、人間関係を絶ち切ら
れた悲しみ。
それが聴覚障害による大ダメージなのだ。

自業自得という面もあるだろうが、マスコミ
のやり過ぎに思える。

佐村河内氏が言うマスコミの問題点とは、
公平な報道をしなかった点だ。
ABRという検査でも難聴を示す数値がある
にもかかわらず、この脳波による測定で聴こ
えるから聴覚障害者ではない、と勝手に断じて
報道したことによる、誤解である。
誤解でもこれは、謝罪しなければ大変な事に
なるということが、報道関係者にはわかって
いない。



『<佐村河内氏>聴覚診断
 最も軽い6級に該当せず手帳返納』
〔2014-03-07 23:52〕





みみ屋の診察室から。
『◆ 佐村河内氏の聴覚に就いての推論と問題点。』
〔2014-03-10 16:53〕


「純音検査:R:48.8dB L:51.3dB
語音明瞭度: R:71% L:29%
ASSR
ABR 40dB 60dB V波」





この映画では佐村河内氏本人だけでなく、
関係者も撮影してみたら、マスコミが報じな
かった真相が次々と見えてきた。
これは恐ろしいことだ。
よく言われる、マスコミの加害性。
何で神山典士氏が名誉ある大宅壮一賞を
授賞できたのだろうか。
授賞を取り消すべきだ。
書き方がセンセーショナルであれば、
内容の正確性はどうでもよいのだろうか。
それでは賞の価値が下がるだろう。

こんなことがあってもいいのかと思う。

「あの記者会見はおかしい」

「やり過ぎだ」

と、聴覚障害者は誰もが言っている。
だからこの件の取材になると、神山典士
氏は今でも逃げ回っているわけだ。


特に心の中で笑えたのは、新垣隆氏の
挙動だった。
彼のミニコンサート&書籍販売会に森監督
が行ったのだ。
新垣氏の目の前で本を買って、本人に
サインを求めた時、

「サインだけでなく、僕の名前も書いて」

と頼んで、自分の名前も見せた。
すると新垣氏の表情が急に固くなった(笑)。

しかも、サインをしている時、
手が震えていたのだ(笑)。

森監督はさらに、

「今度、正式に取材を申し込みますので、
よろしく」

と伝えた。
すると、新垣氏の笑顔はこわばっていた(笑)。

さらに後日、森監督が事務所に取材申し入れ
をすると、断られたという。

「やっぱりコイツ、確信犯だったんだな」

と思った。

新垣氏がテレビ出演で演奏し、最後のポーズで
「聞こえない」ポーズをしているのを観た時は、
本当に怒りのボルテージが上がった。
聴覚障害者だったら「許せない」と思っても、
当たり前だろう。

また、著作権問題についても、新垣氏は佐村
河内氏側の弁護士から逃げ回っているという。
佐村河内氏が作曲したことを示せる証拠が、
世の中に出てくるのを恐れているようだ。
これは「卑怯」というのではないだろうか?

ラストシーンでは佐村河内氏が自ら作曲・
演奏するシーンが観られる。
私には、彼の作った音楽を聴くことができない。
健聴者だけが味わうことができる至福かも
しれない。

最後に、森監督は

「(佐村河内夫婦)二人がいる姿を撮りたかった
のかもしれない」

と語っていた。
そうならば、重要な役割を果たしているのは、
やはり夫人である。
妻としてだけでなく、手話通訳者代わりとして、
あらゆる面で佐村河内氏を支えているシーンが
観られる。
この映画を撮ることができたのは、森監督の
誠意・熱意もあるが、やはり夫人がいなかったら、
なしえなかった。
それ以前に、佐村河内氏の存在をこの世で成立
させているのは、夫人だろう。



「『FAKE』は、愛と希望の傑作だ」
(脳科学者・茂木健一郎)





【外国人記者の正確な指摘に、佐村河内氏にも変化が・・・】
rino-diary テレビディレクター 岡田倫太郎です。
『映画「FAKE」を見てきました(ネタバレ注意・』
http://rokada.exblog.jp/22881926


「・・・・後半出てくるアメリカ人の雑誌記者が
非常に正しい突っ込みを繰り出して、
佐村河内さんがたじたじになるところが
本当にすっきりしました

Q 「どうやって自分のイメージを新垣に伝えたのか?」
Q 「伝えたイメージをもとに新垣が書いてきた音を、
どうやってチェックしたのか?」
Q 「指示書には概念的なことは書いてあるけど、
音楽的なことが全く書いていない。
音階はどうやって伝えたのか?」
Q 「新垣氏が作曲している証拠は山のように
あるが、あなたは鍵盤を人前で弾くことすら
しないじゃないか?
今目の前で鍵盤で弾いてみてほしい」

その通りだ!!!!

それが1時間50分の映画の 1時間35分のところで
出てくるのが正直ストレスではありました。

まあその結果、さらに森さんの一押しでああいう風に
なるわけでオチとしては良い落としどころだったと
思いますが、結局この映画は メディアスクラム
被害者とその妻の愛情物語だったというわけです。」



【真相は今でも隠されたままの、疑問点】
手帳外の軽度難聴で、しかも右耳の語音明瞭度が
71%もあって、あれだけ間近から話しかけられて
いるのに、聞き取れないというのは疑問だ、と思った。
「も」が「ぽ」と聴こえるというのは、佐村河内氏を今も
疑っている健聴者から見れば、可笑しくなっただろう。
ただ、そこで周囲の人が笑っていたのかどうかは、
聴こえない者として、その上、暗い場所にいる私には
わからない。


消えぬ疑問は、聴覚障害2級から手帳外になるまで
回復した理由についてだ。
誰も納得していないだろう。
つまり、

「最初の手帳申請時は健聴者か、あるいは本当に
難聴にはなったのだが、聾ではなかったのでは
ないか?」

という疑問である。

「佐村河内氏は聴覚障害2級取得時、偽りの申告を
していた」

という見方は決して少なくなく、今も消えていないだろう。


『厚生労働省
『第3回 聴覚障害の認定方法に関する検討会
議事録』(3/4)』
〔2015-06-29 19:30〕



【新垣氏との仲が急に悪くなった原因は?】
この映画を観て、推測したのは、なぜ佐村河内氏
と新垣氏との間に、突然トラブルが起こったのか?
 という問題。
佐村河内氏は

「理由がわからない」

と言う。

「筆談していた」

「彼はほとんどしゃべらなかった。
『この通りに作ればいいんでしょう』と言っていただけ」

と話している。
これは双方向のコミュニケーションではない。
その程度の会話ならば、実際、聴こえない者に
だってできるのである。
だから、

「新垣氏は自分の欲望に負けて、突然裏切った」

ということも考えられる。
ひょっとして、新垣氏もフェイクなのでは?
 という思いが、頭の中をよぎった。


【「神山氏もフェイク?」と疑った点】
森監督がプレゼンターを務めた授賞式の時、
神山氏は欠席した。
森監督は、代理の週刊文春の社員に

「今度取材に行きます」

と伝えたが、その後も、多忙を理由に何度も
断られたという。
神山氏も取材から逃げていたというのだ。
ひょっとして、神山氏もフェイクなのでは?
 という思いが、頭の中をよぎった。


【なせ、そんな大切なものが今頃になって?】
佐村河内氏直筆の『交響曲第二番』指示書。
曲を作るための第一手順書。
それがなぜか、

「トランクルームから出てきた」

とか。
そんなに大事なものを、なぜそんなに粗末に保管
していて、このタイミングで出てきたのか?
疑問だ。
書かれていた紙は、かなり新しそうだった。


【佐村河内氏は、本当に手話通訳が読み取れる
人なのか?】

佐村河内氏を側で支えている夫人の姿は献身的に
映っている。
しかし、隣にいる夫人は手話通訳もしているのに、
なぜか声で復唱もしている。
その様子が字幕にも出ていたから、私は不思議に
思った。
手話通訳を利用する立場の聴覚障害者から見ると、
非常に不自然だ。
本当に手話通訳が分かる聴覚障害者なのだろうか?
 と疑問に思う。
分かる者ならば、通訳者の声までは要らないのだ。
これは、2014年3月に見た記者会見の頃と、
全く印象が変わらない。


『佐村河内氏問題
 - 手話通訳を悪用した犯罪の可能性』
〔2014-03-18 21:26〕



しかし、だからと言って、これが断言できるわけでもない。
手話があまりよく分からない、つまり勉強中の難聴者
には、手話通訳を補助的に利用する人も、実際にいる。
どの程度聴こえる、聞き取れる難聴者なのかはよく
分からないが、佐村河内氏が聴覚障害を持っている者
であることには変わりない。
だから、このことはもう議論する意味はない。

ちなみに、手話の本は初歩的なものだった。
どこの本屋にでもあるものだ。
もっと専門的な手話辞典が出てこないのはなぜか?
手話を第二言語として学ぶ中途難聴者に手話通訳が
分かるようになるには、それぐらいの専門書は必要
なはずだ。


あるインタビューで、森監督は次のように言っている。

「そして彼(佐村河内守氏)は手話だけでなく口話が
できる。
だから口の動きだけで相手の話が分かるけど、
その口話も、親しい人ほどよく分かるので、
初対面の人はほとんど分からない。」

健聴者には信じられないかもしれないが、
夫人の隣で佐村河内氏に向ってしゃべっている
客の声は聞き取れないのに、なぜか夫人の声だけは
聞き取れる、というのは、感音性難聴障害では実際に
あり得るのである。
しかし、多くの健聴者は自分の耳と無意識に比較して
いるから「信じられない」と思うのだろう。
無理もないことだ。
単なる感音性難聴の性質だけではなく、言葉の聞き
取りに冗長性がどれぐらいあるかどうか、の問題でも
あるようだ。
例えば

「音声認識ソフトでも練習させれば認識力が向上する」

と聞いたことがあるが、それと同じだろう。
感音性難聴者の場合は、相手の声や話し方に慣れて
いるかどうかの影響は、非常に大きい。
つまり、耳で夫人の分かりやすい声を聞いて、
手話通訳は補助的に確認に利用している程度である
かもしれない。


『『「耳の不調」が脳までダメにする』
(中川雅文/著)』
〔2014-07-29 18:30〕




だから難聴障害とは、そういう障害であり、
健聴者には理解されにくい障害なのである。


『「FAKE」佐村河内守氏をなぜ映画に?
森達也監督が訴える「二分化への警告」』

The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎
投稿日: 2016年06月07日 13時50分 JST
更新: 2016年06月09日 18時11分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/05/movie-fake-mori-tatsuya_n_10316182.html




【視点、解釈は観客に委ねている作品。
もちろん、この映画自体が『フェイク』である
可能性も?】

おおよそ、メディア作品というものには、
ある視点に引き込もうとする力が必然的に
あると思う。
この作品だって例外ではなく、森監督も

「(その視点を)鵜呑みにするな」

と忠告している。
映画の宣伝に使われている「衝撃のラスト」
とは何だったのか?
撮影者は佐村河内氏のケツのほうからカメラ
を向けたまま、動かない。
しかも、そのシーンには撮影者の靴下が
ずーっと映るというおかしさである。
映画を観た人の誰もが

「ここでなぜ、佐村河内氏がシンセサイザー
で演奏しているシーンをちゃんと入れない
んだ?」

「佐村河内氏の音源であるという、
この決定的証拠映像をなぜ正面から
撮らないんだ?」

と思っただろう。

「ひょっとして、この映画もタイトル通り
『フェイク』なのか?」

と思った。
しかし不思議に「カネを返せ」とは思わな
かった。
撮った人にはわかるのだろうが、
あえてそれを伝えず、視点や解釈は観る人
に委ねているのかもしれない。




障害者問題につきまとう二分論
『バリバラ団の「がんばらなくていい!」に賛否両論』
〔2014-02-14 18:00〕


「「何かあったら困る」はしようがない。
当事者は許してくれるかもしれないけど、社会が許して
くれない」

・・・という理由があります」

山本;「う~ん、社会がね」

玉木;「社会って、誰?」

山本;「漠然としてますね」

玉木;「漠然としてる。
だからそれもイメージで、周りから怒られることが“社会”
だとすると、誰から怒られるのっていうことの整理とか、
あとは出す以上は商売やから、責任持って出すんやから、
どんな人であっても、責任あるわけであって、そこだけ
ちゃんとわかってもらったら」

ハヤブサ;「確かに。
でも最終的に訴訟になったとします。
裁判沙汰になった時に、それが責任の所在うんぬんで
もめますよね、当然ね。
その時に、それがマスコミにちょっと飛び火した時って、
必ずどちらかが、悪者にされる訳じゃないですか。
そうなると当然、一般的に考えたら、お店側が悪者ですよね。
一回、そうやって火が付いちゃったら、それはもう、
消せないですから。
それがやっぱり、いわゆる社会というものの怖さというか、
社会なんじゃないかなって、僕は勝手に思っちゃう」(※1)


(※1)参考情報
『乙武氏がレストランで入店拒否されたことで…。』
〔2013-05-21 23:08〕






【追記】(2016年6月21日)

〔参考資料〕


『ベートーヴェンは、本当に聴こえなかったのか?』
〔2015-04-29 09:33〕






『混同視が見られる、健聴者の説明』


『聴覚障害者でも、しゃべれる人がいる理由①』
〔2014-03-14 18:30〕


============================


http://ttensan.exblog.jp/20330506/

偽物ですね

 2014年 02月 08日


「全聾の人に会った事がある方はわかると
思いますが発音が崩れてしまうんです。
自分で発している声そのものがわからない
から当然なんです。

あれだけはっきりと発音できるのは
間違いなく聞こえているからです。

で、当然ながら障害者手帳を持っている
ということそのものが違法行為となるわけ
ですが、佐村河内のあの要領の悪さからして
当人が考えついたものではないと思います。」



============================





「正しく声を出してしゃべれるかどうか?」という問題と、
「言語獲得能力」は、正比例するとは限っていない。

言葉の発音力は、大体の言葉は正しく発音できるのに、
一部の言葉は正しく発音できない、というケースもある
のである。

日本語をうまくしゃべれないろう者は、音声日本語の
獲得が十分でない。
それでも、日本語で文章を上手に書くことができる人も、
中にはいたりする。
先天性聴覚障害者であるろう者の場合は、生まれつき
で言語獲得に障害をきたしていたので、言語獲得に
大きなハンディがあった、と考えることが出来ると思う。

『「耳の不調」が脳までダメにする』(中川雅文/著)
〔2014-07-29 18:30〕


健聴者だって、例えば知的障害者は健聴者だが、
文章を書くのが苦手な人がいたりする。
もちろん、健常者にだっている。
健常者と障害者を明確に分けることは難しく、
実際はグラデーションの世界だと言われるが、
聴覚障害も同じだと考えていい。

先天性難聴者も似たようなもので、ろう者ほどでは
ないが、ある程度のハンディがあった。

一方、大人になってから聴覚障害者になった、
中途難聴者や中途失聴者の場合は、言語獲得
はできていた。
言語獲得後に聴覚障害者になったのだから、
言葉はしゃべれるのが、むしろ当たり前だろう。
社会の中にいる聴覚障害者には、このような
グラデーションが必ずあるはずだ。


実際の例を出してみよう。

「彼は誰とでも、平等に接していた」


もしも、言葉がほとんどしゃべれない人だったと
したら、上の言葉は読めない人もいるかもしれ
ない。
発音できても、かなりおかしいかもしれない。

先天性難聴者の場合はこれを読めるが、
読み方を間違える人もいる。
さらには、発音を正しく覚えていない場合もある。
信じられないだろうが、「平等(びょうどう)」を
「へいとう」と読んでしまう人も、実際にいたのだ。
小学校で覚える漢字を、大人になっても正しく
読めなかったり、発音がおかしかったりする。

大人になってから聴覚障害者になった人の場合は、
上のようなミスはないだろう。
健聴者と同様に、日本語を流暢に話せる人が
多いのである。
新しく覚えなければならない言語を覚えることが、
難しくなるだけであろう。

実験的に様々な聴覚障害者を集めてサンプルを
取ってみれば、このようなグラデーションが、
必ず顕れるはずだ。
聴覚障害者の世界では皆、それを当たり前の
ように受け止めている。

ただ、健常者は健常者だけが集まる学校、
会社で育ったから、こういう事実を知らないだけだ。





【追記】(2016年6月30日)


サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ
『佐村河内守氏を描いた映画『Fake』を観てきた』
〔2016年06月22日〕


なるほど、そういうことか。
考えさせられる。
確かに、映画を観た人の数だけ、
視点は様々にある。
森監督はこういうことになるのを意図して、
この映画を製作したのだろう。
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by bunbun6610 | 2016-03-09 21:46 | 難聴・中途失聴

映画『カッコーの巣の上で』

映画『カッコーの巣の上で』をご存知だろうか。

「1975年度アカデミー賞・主要5部門を
独占した、不朽の名作」

である。


『カッコーの巣の上で』あらすじと結末ネタバレ



主演は名優ジャック・ニコルソンで、
ランドル・P・マクマーフィーを演じている。
ベン・キージーの原作を映画化した作品だ。

DVD作品の解説の最後に「感動のラストシーン」
と書いてあるが、感動というよりも、
すごく考えさせられる作品なのである。
特に、障害を持つ人だけでなく、障害者福祉に
関わっている方全ての人に観て、
そして考えてほしいことがある。

もともとは、マクマーフィーは健常者で、
ただ刑務所の強制労働を逃れるために、
精神病を装っていたようだ。
ところが、精神病院に入ってみると、
そこはマクマーフィーにとって、
あまりにも想定外だったようだ。

完璧な保護管理で、病院長からも厚い
信頼を受けているラチェッド看護婦長に
よって、病棟にいる精神病者は皆、
無気力化されてしまっていたのだった。
それに反抗し続けたマクマーフィー。
だが、その代償は・・・・。

マクマーフィーは堪らずに逃げ出そうと
するが、何度も失敗しただけでなく、
病院側のその対応として、異常な療法に
掛かる度、マクマーフィーも精神が病んで
いったようだ。

ある時、ビリーも一緒に脱走するつもりが
失敗してしまい、ビリーが自殺をしてしまう。
それに衝撃を受けたのは、マクマーフィー
だけでなく、この映画を観る側も驚いた
だろう。
見た目には、確かに自殺にしか見えない。
しかし、私の目には

「ビリーはラチェッド看護婦長に殺された
ようなものだ」

と思った。
激高(げきこう)したラチェッド看護婦長が、
ビリーを追い詰めてしまっていたことは、
間違いないと思う。
マクマーフィーも、そしてこの映画を観た人
の多くも、そう思ったのではないだろうか。

当然、納得できないマクマーフィーは、
ラチェッド婦長に襲いかかった。
暴力は良くないとはいえ、あれは当然の
“怒り”だったと思う。

だが、その報いとしてマクマーフィーは、
廃人のようにされてしまった。

それを冷静に観察していた、チーフという
入寮者がいた。
実は彼も、周囲を騙して入寮していた、
健常者だった。

映画のラストシーンでは、
チーフがマクマーフィーを哀れんで殺し、
一人で脱走する。
それがなぜ、感動的だというのだ?
あれは悲しいことだ。

ただし、これが意味していることは、
実は精神病者や障害者にとって、
非常に大きな意味を持っている
のではないだろうか。

「人間社会への反抗=悪」ではないのだ。
人間社会は、断じて“健常者だけ”のもの
ではない。
例え何と言われようと、何をされようと、
間違ったことに対しては障害者も自己主張
をし、社会を正していくべきだ。
それが真の社会人であり、「自立」だと思う。

こんなことをいつも考えている私もよく、
周囲や、会社から問題児扱いされている
ので、決してオススメはしないが・・・・。
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by bunbun6610 | 2016-02-21 22:43 | 障害者問題・差別

また聴覚障害があっても、若返りたいか?

たまたま昨日、
朝のテレビ番組で、
桐谷美玲、松坂慶子が出演する

テレビ朝日 金曜ナイトドラマ
『スミカスミレ ~45歳若返った女~』



という番組が紹介されていた。

物語は45歳も若返るという、とんでもなく、
うらやましい話。
誰もが一度は

「もしも、若返ることができたらいいな」

と思うだろう。
しかし、私は興味ない。
と言うよりも、若返ることにはむしろ反対だ。

若返るだけでは嫌なのだ。
耳が治らなかったら、若返っても、
あの辛い苦悩を繰り返すだけに決まっている
だろう。
聴覚障害者としての苦悩から逃れる方法など、
まだ全然見つかっていない。

幾らかでも諦めることが、
やっとできるようになった現在の方が、
まだましだ。

もしも、身体だけ若返ったとする。
そして今の精神的落ち着きがあっても、
若い時のような豊かな体験に、
自分は悠然として対応し、聴覚障害の辛さにも、
再び耐えることができるかどうか?
自分だけ抑えるのは、大変で疲れるように思う。

せっかくここまで来たんだから、
俺はもう若返るより、
早く死にたい。
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by bunbun6610 | 2016-02-06 07:15 | 聴覚障害者心理

映画『レインツリーの国』(有村浩/原作)

=========================


〔難聴者の恋愛・参考情報〕

『レインツリーの国』
(有村浩/著)


この小説では、女性のほうが難聴なのだが、
この女性は自分が難聴であることを隠しつつ、
恋をしている。

実はこの作品は、有村氏が実際に難聴者協会
の難聴者から取材して構成した作品で、
モデルがあるのだという。

今年11月に実写化するという情報もある。
難聴者を主人公にしたドラマや映画は珍しい。

http://raintree-movie.jp/



=========================




以上、

『ベートーヴェンは、本当に聴こえなかったのか?』
〔2015-04-29 09:33〕

より引用。



難聴の人は(年齢層別で大きく異なるが)
「100人に一人ぐらいの割合」、
高齢者ではもっと多くの割合でいるそうだ。

補聴器メーカーが、補聴器の潜在ユーザー数を
試算したところでも、推定600~2000万人
いるそうである。

そうした人たちにも身近なテーマの映画なのだから、
関心が高いと予想され、この映画はヒットしそうな
気がする。

原作は「歩み寄り」ということについて、
深く考えさせられる内容だったので、
健聴者の恋人同士の人も是非観てもらいたい、
と思う。

私は

「ところで、この映画、字幕は付くんですかね?
ホームページを見ても、情報を探すのが面倒くさい。
どうせまた、付かないんだろう。
なら、いつも通り、観に行かなくていい」

そう諦めているが。
原作は聴覚障害者にもバリアがない活字だったから、
売れたのかなぁ?

(携帯電話も、たまたまメール機能が聴覚障害者
にも使えたから、爆発的に売れた、と言われている。)

でも、難聴者をテーマにした日本映画なのに、
字幕がなくて難聴者には楽しめない映画なんて、
本気でやるのか、オイ!!


『日本映画は聴覚障害者差別映画』
〔2015-08-11 18:30〕




ちなみに下のサイトには、原作を読んだ難聴者
の読後感想や、実体験談等が書かれている。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/sports/30250/1163773144/l50


(2015年9月投稿記事)






【追記】(2015年10月6日)

この映画に、日本語字幕が付くことに決まった、
という。
おー、これは素晴らしい。

『レインツリーの国』
(2015年11月21日〔土〕公開)
『日本語字幕についてのご報告』
http://raintree-movie.tumblr.com/post/130597178217/日本語字幕製作についてのご報告

原作と同じく、東京都中途失聴・難聴者協会
の協力を得て映画製作し、字幕についても
検討してきた結果だという。

それなら、観てみるか。







【追記】(12月4日)

ヒロインの人見利香は中途難聴者で、
コミュニケーションには補聴器、読話、筆談を使う。
手話は使わないが、実は世の中でも利香のような、
手話を知らない聴覚障害者の方が、ずっと多いのだ。


『なぜ手話ができない聴覚障害者が多いのか?』
〔2014-07-19 18:30〕



補聴器は比較的小型タイプの耳掛け型を、
両耳に装用していたようだから、
中度難聴といった人物設定だろうと思える。

最初に見る利香と、最後に見る利香の全く
変わった表情が印象的だ。
これは映画だからの演出に過ぎないのかというと、
そうでもないような気がする。
下の記事を読んでみてほしい。



『聴覚障害者心理』
〔2011-09-26 23:48〕


【5.聴覚障害者心理の段階説、喪失の過程】

聴覚障害者心理は不安定で流動的な性質があり、
今のところ5段階説があるようです。

①「ショック期」 ②「あきらめ期」
③「再適応の芽生え」 ④「再適応の努力期」
⑤「再適応期」

この段階を、必ずしも①から⑤へ、スムーズに行くとは
限らないし、どうなるかはその人の運命だと思います。




この映画でも、そのプロセスが当てはまる。
つまり、実話に近い物語設定となっているのだ。

利香は伸と出会い、まず「再適応の芽生え」が生じる。
そして、伸の諦めない真心が、利香に「再適応の努力」
を促し、一緒に「再適応期」まで進む。
これは決して、利香だけが辿った軌跡ではなく、
伸も同じなのだ。
「関係障害」という性質を持つ聴覚障害の場合、
障害の克服には双方の努力が必要になる。
ここが、この映画の重要なポイントだろう。

映画の後半には、職場の上司が筆談コミュニケーション
のもどかしさにうんざりしていたが、
これも実際の障害者雇用では日常茶飯事のことである。
職場では決して、恋人同士のようには、
うまくいかないものだ。
私もよく上司に「優先順位がある」と言い訳され、
結局、合理的配慮などされずじまいになってしまう
ことは、うんざりするほど沢山経験している。
ほぼ実話と同じ、と言ってもいいだろう。




〔関連情報〕


元記事
『自伝に書かれた思い出もニセモノ
 …佐村河内氏の“偽り人生”』
〔2014-02-13 19:30〕
より、引用。



(※)『(障害による)喪失の過程』
東京大学教授・福島智氏。「喪失の過程」「再生の過程」
http://plaza.rakuten.co.jp/masami2008/diary/200806220000/




『基礎からの手話学』
(神田和幸,藤野信行/編著,福村出版,
1996年6月20日初版発行)



「a.聞こえない世界
聴覚障害者のパーソナリティの特徴としては、従来よりも精神的な固さ、
融通性のなさ、自己中心的であることなどが指摘されている。
しかし、いずれもコミュニケーションが十分行えないために、人間関係に
おける誤解や無理解から生じた場合がほとんどである。

耳が不自由な場合、音を通じて次に何が起こるかを予測することが困難
である。
問題が生じた場合でも、健聴者なら速やかに適切な助言や指導が得られ
るかもしれないし、常識や社会規範などの目に見えない抽象的事象も
言語を介して身につけられるが、それらが困難な聴覚障害者は絶えず
抑圧と不安のなかに身をおいているといえる。

たとえば、何かの集まりがあったとする。
少し遅れて会場に入ったが、あわてていたのでドアを強く閉めてしまった。
大きな音がしたが、本人は気にせず席に着いた。
そこで、まわりの人はどのように反応するだろうか。

おそらく、ひとこと謝るべきだ、何と非常識な人だと眉をひそめるだろう。
聞こえないことの意味を「非常識」の一言で片づけられてしまう怖さを
改めて考えさせられる。

とくに自分の良き理解者であるはずの家族や周囲の者とのコミュニケ
ーションが不十分な場合は、さらに混乱に拍車をかける。
当然、不安や不満も増大するであろう。

理解されにくいといえば、三木安正が教師を対象に「障害者の中から
最も気の毒な障害者はどれか」という調査をした結果がある。

結論からいえば、視覚障害者、肢体不自由者、精神薄弱者、聴覚障害者
の順であった。

これを三木は、教師がより悲劇的と感じた順に並べた結果であると
述べている。
見方を変えると視覚障害者や肢体不自由者はある程度、外見からも
障害の困難さが理解されるが、聴覚障害者は外見からはほとんど
理解されないということである。
誤解を受ける要因の1つもこのへんにあり、聴覚障害者の悩みや不安
は深刻である。」(P20~21)


「b.中途失聴者の心理
人生の途中で起こる失聴という事態が、その人の心理にどのような
影響を与えるだろうか。

障害そのものが人格に与える影響も無視できないが、自分の障害を
どのように受けとめるかが実は最も重要なことである。
言い換えれば自分が障害者であることをどの程度納得しているかが
ポイントになる。

キャロル(Carroll,T.J.)は中途失明者について「20の喪失」として
分かりやすくまとめている。
対象は異なるが、聴覚障害者にもあてはまると思われるので、
聴覚障害者に置き換えて紹介する。

(1)心理的安定の喪失(身体の完全さの喪失・残存感覚の信頼性の
喪失・環境把握の困難性・音のもたらす安らぎの喪失)

(2)生活動作の喪失(日常生活の困難性・行動力の減少)

(3)コミュニケーション手段の喪失(音によるコミュニケーションの喪失
 ・会話の容易さの喪失・情報入手の喪失)

(4)文化享受の喪失(音で楽しむことの喪失)

(5)職業・経済基盤の喪失(職歴、職業目標、就業の機会の減減少
 ・経済的安定の喪失)

(6)結果としての人格の完全さの喪失(自立性の喪失・社会的適切さ
の喪失・自尊心の喪失・豊かな人格形成の喪失)

これらは障害の違いや時代の違い、個人差などを考慮した場合に
必ずしもすべてがあてはまるとはいえない。
しかし、心理的安定の喪失をはじめとして中途失聴者が必ず直面する
課題であることにかわりはない。」(P21)


「c.中途失聴者の障害受容
中途失聴者は、障害を受けてから、それを受容し、再出発するまでの
間の心理的状況はさまざまであり、この心理的過程を4段階に分ける
ことができる(図1-2参照)。

第一段階は障害の発生から失聴宣言を受けるまでで、医療を中心と
した時期である。

第二段階は将来の見通しが立たず悶々とした日々を過す心理的葛藤
の時期である。
言うに言われぬ不安感、周囲の者に対する依存、そして劣等感にさいな
まれるもっとも辛く苦しい時期でもある。


第三段階は生きる意欲や目的を見出し新たな人生を踏み出す障害受容
の時期である。
この頃になると「読話訓練」、「聴能訓練」、「手話訓練」などにも積極的に
取り組むようになる。

第四段階は職業決定の段階で、既婚者であれば経済的基盤の確立が
成るか否かの瀬戸際に立たされる時期でもある。

すべての人が同様の過程をたどるとはかぎらないが、中途失聴者の
社会復帰までには数年を要するのが普通である。
」(P22)





【追記】(2015年12月12日)

難聴コンプレックス
利香は、中途難聴者に多い、一人ぼっちの難聴者だ。

健聴者から見たら

「すごい難聴コンプレックスだな」

と思うかもしれないが、同障者から見たら、
別に珍しくはない。

世の中に、伸のような人が、もっと増えてほしい、
と思う。


この映画には、至る場面で難聴者心理が
描かれていることは確かだ。
ただ、やはり映画だから、演出がやや大げさで、
現実より遥かに、悲壮感あり過ぎだと思った。
実際はもっと淡々として、それでいて難聴者の
心の中だけが辛い場合が多いものだ。
それが健聴者には全然、気がつかないのだ。


これは字幕無しで観て、その後に日本語字幕付き
(期間限定)で観た感想である。
両方の感想がごちゃ混ぜになっているので、
健聴者には読んでも理解しにくいかもしれないが、
やはり、日本語字幕はあったほうが良かった。




〔参考情報〕

『映画化レインツリーの国のネタバレ含む感想!
ヒロインに隠された秘密』



この映画は、伸がひとみ(利香)からのメッセージ
(メール)を読むシーン
(「字幕無し」では「音声」のみのセリフ)
が多い。

最初は「女の子の声」という字幕で出ている。
これはおそらく、西内まりやさんの声だろうから、
健聴者には

「この声がひとみ(利香)なんだろう」

と分かっただろう。
しかし、聴覚障害者には、その声がどんな声なのかは、
わからない人もいるわけだ。
つまり、健聴者と変わらない難聴者の声なのか、
それとも発音がおかしい聴覚障害者の声なのか、
わからないということになる。

そして、もし原作を知らない聴覚障害者が、
字幕の無いこれを観たら

「あ、今、伸がひとみからのメールを読んでいる
ところなんだな」

ぐらいにしか、思わないだろう。
その内容が何だかは、全くわからないのだ。

だが、そこにひとみの重要な告白、秘密がある
ことが、字幕付きを観て、初めて知った。
字幕無しでは、それを全て見落としてしまって
いたのだった。

伸と利香の初顔合わせは、とにかくチグハグだった。

普通は、相手(伸)がオススメする店なら、
よほど都合が悪くない限り、断らないだろう。
それなのにその店に入ってから、利香は

「混んでいる場所は苦手」

と言い出して、変更を求める。
そして、混んでいない店を探してわざわざ移るが、
そこでもひとみは、料理を食べ残してしまった理由
について

「辛いものが苦手」

と答える。
正直に答えたのだが、伸に気まずい思いをさせてしまう。

二人で映画鑑賞をした時だって、難聴障害のことは
言わないで、字幕付きに執拗にこだわった。
で、結局、どっちも観たくもない作品を我慢して
観るハメになる。
セリフがわからないと、後で感想を言い合えなく
なってしまうので、そこで聴覚障害のこともバレる
可能性がある。
だから利香は、字幕付きにこだわったのかもしれない。
全ては、利香が隠し通そうとしてきた難聴障害から
起きた問題だった。
そして、それがバレる決定的契機になったのが、
エレベーターでのことだった。




(1)初対面の待ち合わせでなぜ、
静かな本屋でヘッドフォンをしている?
おそらく、理解されにくい難聴障害を隠すため
だったのだろう。


(2)コミュニケーションの時に、ルールを強要する?
また、あるシーンでは、初デートの会話場所に、
席が空いていても、利香は混雑した場所を避ける。
そして、健聴者にとっては聞き取りやすい、
静かな場所でも、コミュニケーションをする時、
相手に様々な注文(話し方のルール)をつけるので、
伸は面食らってしまう。
そういう点は、健聴者から見れば

「何だ? コイツ」

「面倒なヤツ」

で、関わりたくなくなる存在だろう。


(3)ある時は健聴者、ある時は難聴者、
そして、ある時はろう者?

自分に都合のいい話しか聞かない、
高慢な性格と勘違いされやすい、感音性難聴者。
特に職場では、人間関係に大きく響いてしまいやすい。

「カラオケボックスのような場所では
聞き取りやすくなる」というのは本当だ。
このように難聴障害によっては、
環境条件で克服可能な場合だってある。

エレベーターに乗った場面などは、
ろう者と同じ状況だった。
両耳に補聴器をしていても、わからない場合だってある。

私のケースでも、例えば、すぐ後ろに自動車が
ついてきたのに気がつかなかった、という経験がある。

『静かになったクルマの音は・・・』
〔2015-06-15 18:30〕


感音性難聴の度合いにもよると思うが、
利香の場合は、おそらく30年ほど前の国産補聴器を
使っていた時の事例に、容易に当てはまるような気が
する。
つまり、事実ではあったが、それほど古い事例を、
今の映画に使っているように思えたのだが。

昔の国産補聴器は、ノイズがひどく、ボリュームを
上げればノイズ音も簡単に上がっていた。
エレベーターのブザー音は高音のジリジリと切れた
ような音がするので、高音が苦手な利香には、
ブザー音が強いノイズに埋もれてしまい、
聞き取りづらかったのかもしれない。
すると、それが何の音なのか分からない場合
だってある。
それが、自分の身に危険が迫っているような
場合でも。

あるいは、音声が聞こえなかったのが問題
だったのかもしれないが。
色々な人が何かブツブツと言っていたが、
そんな時に特定の音声を聞き分けることは
難しくなるのも、感音性難聴障害だ。


(4)後ろからわざとぶつかられた時
自分の存在自体を消す、否定してしまうかのような
生き方(強い自己否定感)

健聴者と難聴者を同等に扱うことを否定してしまう
生き方

自分が傷つきたくない、
他人に迷惑をかけたくない、

難聴障害は、どうせ説明しても理解してくれない
という、諦めの思い。

この3つの思いで、心理的不安定であることが、
健聴者にはわからない。
自分の好きな人が目の前にいても、
自分の気持ちを打ち明けられない、コミュニケーション
ができない、という状態にいることは、正直、
かなり辛いことだ。
自分を隠して生きる。
しかし、本当の利香は、本心を自身のブログ
『レインツリーの国』で明かしている。
この強い自己矛盾が、難聴者特有の世界に思える
かもしれない。

娯楽映画作品としてなら、ここでエキサイトした
ケンカになったほうが、観客受けするストーリーに
なったかもしれない。
しかし、原作、脚本とも、難聴者をありのままに描く
ことを考えたようだ。
この作品は、難聴の当事者団体も関わって、
製作されている。
健聴者は善悪の判断をするが、難聴者はそうではなく、
障害を隠すことと、トラブルが起きてしまった場合は、
諦めることに徹しようとする。
ここは、その難聴者心理を見せている場面だといえる。
このような曖昧さが、真に理解し合える人間関係の
構築を、一層困難にしてしまうことも少なくない。


(5)職場で
職場の上司にとって、障害者雇用促進法で雇用され、
配属されてきた聴覚障害者は、厄介な存在だ。

健聴者は、世の中にはいろいろな聴覚障害者が
いることを知らないし、理解しようともしない。
字幕が無かった時は、委託上司の村川が利香を
襲った理由が何なのか、あまりよくわからなかった。
推測では当たっていたが、字幕付きを観て、
やっとハッキリと分かった。
聴覚障害者だからといって、皆しゃべれないとは
限らない。

ミサコの話し声が、利香には聞き取りにくかった
のだろう。
それで、ミサコも誤解しているようだ。
しかし、誤解なのか、それとも恋のライバル意識
からの策略なのかは、観ているほうには分かりにくい
ものだ。

特に、知らない人との、外でのコミュニケーション
での悩みで、条件によっては1対1でのコミュニケー
ションなら、ほぼ問題ないが、
他に誰かが割り込んでくると、
会話が止まってしまうシーン。
3人以上での、放射状コミュニケーションには、
利香は非常に弱いようだ。
皆と一緒にやるのが苦手だから、
協調性がないとも見られやすい。


私も、職場の上司にはよく

「あなたはなぜ、他のスタッフと話をしないのですか?」

と言われる。

上司は、このような放射状のコミュニケーション
場面になると、私が聞き取りづらくなり、
誰も気づかずに孤立してしまうということを
知らないのである。
それでも説明はするが、結局、それでも分からない人
が多いのが現実だ。
伸のような人は、なかなかいないのだ。


上司の

「これからは残業はしなくていいよ」

という配慮に対し、利香は最初、筆談ボードに

「大丈夫です」

と書くが、上司の待つ顔色を見て
(あるいは、もしかしたらこの時は聞こえたか、
察したのかもしれない)

それを消し

「わかりました」

と書き直す。
「筆談が面倒」だと思っている上司と判断し、
本音のコミュニケーションはやめ、
そうしてしまったのではないか?
とも思えた。
自分が「わかりました」と言えば、
それでもう終わるのだから、上司は助かる。
これはむしろ、利香の上司への配慮だ。

ところで、このシーンではどうして、
しゃべれる利香まで、わざわざ筆談ボードに
書いて上司に伝えているのか、
健聴者の読者にはわかるだろうか?


『バカがいつまでも聴覚障害者差別をしている時代に』
〔2013-04-03 18:00〕




『音声言語世界の中で生きる、
ろう者の現実と、手話が持つ可能性』
〔2014-08-25 18:30〕



やっぱり健聴者中心の社会なのだから、
聴覚障害者にとって、声のパワーはとてつもなく
大きく感じる。
それに(合理的配慮が)押しつぶされないように
するために、あえて声を使うのをやめる方法を
選択する場合だってある。

特に会社の中で、上司とのコミュニケーションでは、
聞き間違いや聞き漏らしがないようにするため、
筆談でしてもらうことは、私もよくある。
利香にとって、上司の声が聞きづらいと感じていた
ならば、なおさら声での会話は避けるのが当たり前
だろう。
自分がしゃべってしまうと、相手の健聴者も筆談を
忘れてしやべってしまう人が、世の中にはうんざり
するほどたくさんいる。
それで、あえて口でしゃべるのをやめてしまうのでは
ないだろうか。
実際に私も、場面や相手によっては、そうしているのだ。

「ああ、この人はしゃべれないんだな」

と思ってもらったほうが、健聴者はお情けでちゃんと
書いてくれる。
そのほうが、トラブルにならないから。
聞き取れる自信がない時、情報を正確に知りたい場合は、
書いてもらうようにするしかないのである。

職場での問題に悩み、言いにくい。
私も、このブログでしか、正直には言わない。

言いやすい人がいるとすれば、それは同障者か、
障害をきちんと理解してくれている、
ごく一部の健聴者(手話・要約筆記通訳者など)
だけである。
会社のコンプライアンス・ホットラインにも、
労働組合にも、決して言わない。
信用していないのだから、当たり前のことだ。


(6)障害の受容
補聴器をしていると、ジロジロと見られるから、
男女とも長髪にして、隠す場合が多かった、
というのも、昔の話で、今はあまり抵抗感も
なくなってきた。
昔は目立たない肌色ばかりだったのが、
今ではカラーも豊かになり、
スケルトンまで出ている。
ネイルアート、デコレした補聴器まであり、
それらは逆に派手に見せている。


【5.聴覚障害者心理の段階説、喪失の過程】
を書いた心理学者は健聴者だろうから、
その視点で「再適応期」と書いている。
しかし私の体験から言えば、「再適応期」という
言葉は好きではないし、少なくとも自分には
あまり馴染まない説明だと思う。

「新しい自己の創生期」と言ったほうが合う、
と思う。
映画で最初に見た時の利香と、
最後のほうで見た時の利香の表情の違いは、
そのためだと思う。

これは、障害を持つようになった人に限らず、
健常者でも、古い自己を棄て、新しい自己を獲得
する(矢内原伊作『自己について』参照)、
というサイクルを、誰もが持っているはずで、
人間ならば持つべきものだと思う。
それには、他者との関係性において、お互いに
成長する存在だという点が見逃せない。
そのことにおいて、聴覚障害者は今の社会では
まだまだ、決して軽いとは言えないハンディを
抱えている、と言えないだろうか。
この映画を観ただけで、そこまで気づくのは難しい
かもしれないが。




同情と、優しさは違う。
甘えることと、寄り添うこととは違う。
愛とは、寄り添うことだと、
最後に利香は語っている。




投稿日; 忘れた(2015年9月)
更新; 10月6日
再更新; 12月4日
再々更新; 12月12日
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by bunbun6610 | 2015-12-12 00:22 | 難聴・中途失聴
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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610
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