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蒼穹 -そうきゅう-

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映画『ブルベイカー』

映画『ブルベイカー』

知られざる塀の中の世界。
悲しき囚人たちに自由の光を注ぐため、
その男はやってきた。

製作年/劇場公開年; 1980年
監督; スチュアート・ローゼンバーグ
原作; トーマス・0・マートン、ジョー・ハイアムズ
主演; ロバート・レッドフォード


http://eiga.com/movie/48980/


http://www.weblio.jp/content/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%BC





「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、
神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。」
(創世記1章1-3節)
『聖書』(新共同訳/1987,1988)




これは天地創造の有名な話だが、
カトリック教徒・犬養道子氏によると、
他にも関連する意味があるそうだ。
新約聖書の部分でわかるそうなのだが、
「闇」とは、サタン(悪魔)とその勢力を象徴している、
という。
闇の中に神の言葉が入り、光ができた、
ということらしい。

預言者だかイエスの弟子だか忘れたが、
神の栄光を示して欲しい、と神に望んだことがある、
という。
それに対して神は

「神の光とは、闇の中に輝く
蝋燭の光のようなものだ。
私はそれで十分だ」

というふうに言われたそうだ。
勿論、人々はその答えに満足できなかったが。
周囲はサタンとその勢力によってつくられている闇だが、
それでも決して滅ぼすことができないひとすじの光、
それが神の強さなのだと、犬養氏の著書で知った
ことがある。

その話とこの映画は、非常によく似ているのだ。
間違いなく、リンクする。
だからおそらく、監督のスチュアート・ローゼンバーグは、
聖書をイメージして、この映画を作ったのだろう。
物語の最後をハッピー・エンドまで描かなかったのも、
それが理由だと思う。

映画を観ていても、誰もブルベイカーの急進的なやり方
に賛成する者は、おそらくいなかっただろう。
監督はなぜ、観る人に、こんなに苦しくなるような
映画に、あえて作ったのか。

ブルベイカーのやり方に反発する勢力によって犠牲となり、
死人が何人も出たのは、どうあっても彼の責任だ。
それでも、ブルベイカーの片腕として働いてきた
クームスが、最後に言った言葉

「あんたに言いたいことがある。
正しかった」

には、胸にジーンと来るものがある。
「正しい」とは、言い換えるなら「信頼」なのだろうか。

そしてブルベイカーが解雇後に、リリアンに言った言葉、

「真実は、政治とは別のものだ」

にも、観る人誰もが心打たれるだろう。

ブルベイカーは追放されたが、光はなお、
多くの囚人たちの胸に生きていた。
そして、彼らはついに、ブルベイカーの助けなしに自立し、
ウェークフィールド刑務所を憲法違反として、
裁判を起こした。
その結果、彼らは勝ったのである。

この生き方に、私も強い影響を受けている。
私も「向こう見ず」「変人」なのは、この映画の影響だ。
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by bunbun6610 | 2017-02-26 13:35 | 雑談

『東宝のバカタレへ!
 『土竜の唄』の日本語字幕上映は?!』
〔2017-01 -10 21:02〕



『映画『土竜の唄 香港狂騒曲』』
〔2016-12 -24 08:53〕





少し、10年以上前、実際にあったコミュニケーションを
回想して書いた話から、始めよう。
だからこれからは、古い話も含まれる。


聴覚障害者;
「日本映画を観たくても、日本語字幕がないから面白くなくて、
観ないのですが。
聴覚障害者には日本語字幕が必要です」

映画館;「障害者の方には、障害者割引がございます。
また、日本語字幕付き上映も、期間限定でございます」

聴覚障害者;「車椅子客には車椅子スペースが常に
映画館の中にあって、健常者と同様にいつでも
日本映画を楽しむことができる。
誰かと一緒に観に行くにも、障害とならない。
でも、聴覚障害者はそうはなかなかできるものではない。 (※)
東京ディズニーランドだって、私は行ったことがないから
知らないけれど、聞いた話によれば、
障害者も健常者と同料金だと聞いている。
理由は、全ての障害者に対しても、
健常者と同様に扱う『合理的配慮』を実施することで、
訪れた人すべての人が楽しめるように保証している
らしい。
聴覚障害者も例外でなく、音声解説のある場では
ガイドブックが用意されているという。

我々は、哀れみによる割引をしてもらいたくて、
映画館に来るのでない。
障害者割引なんかいらないから、聴覚障害者も
日本映画を楽しめるように、日本語字幕を付けてほしい。
そうすべきだ」


(※)実際の細かい話は、映画『レインツリーの国』を参照。
実話を元にして製作された映画だからである。


『映画『レインツリーの国』(有村浩/原作)』
〔2015-12 -12 00:22〕


その後も、この某映画館との交渉の過程で、他から、
「日本映画の字幕付きフィルム」は希少品なので、
全国の劇場で使い回しするため期間上映になる、
という情報を知った。

それから約10年経ち、販売用・レンタル用DVDには
日本映画にも日本語字幕が付くように変わった。
なぜDVD作品には日本語字幕が最初から付けられる
ようになったのかというと、理由があるのだという。
DVD作品の場合は、購入者が自宅で楽しむ目的で
作られたものだ。
だから、自宅でなら個人で自由に設定して、使える。
「字幕オン・オフ」も、「言語」も自由に設定できるので、
問題ないというわけだ。
外国人にも使える、ということだろう。
自分が他言語を使ったことはないからわからないが。

それともう一つ、DVDと劇場上映とでは条件が違う
理由があることも知った。
映画館か、それとも調査した聴覚障害者の説明なのかは
忘れたが、本当の理由は

「日本語字幕がじゃまになる」

という、健聴者客の苦情が原因なのだという話を聞いた。

(日本語字幕がバリアフリーのためだということに、
健聴者客がまだまだ理解していなかった可能性がある)

それで、映画館で上映する場合は、一部劇場、
期間も限定という条件で、やっと日本語字幕付き上映
が認められるようになった、という経緯がある。
これは推測ではなく、本当の話だと聞いた。

では聴覚障害者の立場から聞くが、

「字幕が邪魔なのはどうしてか?
洋画を観る時は、日本語字幕が付いているだろう。
それは邪魔ではないのか?
それは、もし付いていなかったら、
むしろ困るものではないだろうか?」

答えは簡単だ。
日本映画に日本語字幕が付かないのは、
健聴者のワガママが原因だ。
他にも、映画製作会社がコストを安くしたいから、
付けたくない、という理由もあるだろう。
だが、そのコスト差についても、
ある聴覚障害者団体の調査では、
微少に過ぎないと聞いているから、
これもまた健聴者のウソつきもいいところだろう。
だから健聴者は、聴覚障害者の敵なのだ。
嫌われて当然なのだ。



『日本映画は聴覚障害者差別映画』
〔2015-08 -11 18:30〕

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by bunbun6610 | 2017-01-14 10:05 | バリア&バリアフリー

『映画『土竜の唄 香港狂騒曲』』
〔2016-12-24 08:53〕




東宝のバカタレへ! 『土竜の唄』の日本語字幕上映は?!

「●難聴者用日本語字幕版は、一部劇場にて期間限定で上映します。」

正月過ぎても、日本語字幕の上映日時がわからん!
劇場場所も分からん!
「一部劇場」って、一体どこの劇場を調べりゃいいだよ!
このクソッタレ東宝がぁぁぁ~~~~!!





【追記】(2017年1月21日〔土〕)
映画の場合、当日の朝にならないと、
確定上映時間が確認できないみたいだ。
最悪だと、朝起きて確認したら、
もうその日の日本語字幕付き上映チケットが
販売終了になっていた、という場合もある。
とても知人を誘って一緒に観に行く気にはなれない。
それが聴覚障害者に限っては、
販売不振にもつながるのかもしれない。


2017年1月21日(土)
青森県
TOHOシネマズおいらせ下田
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
SCREEN6 17:35~  (1回のみ)



2017年1月21日(土)
秋田県
TOHOシネマズ秋田
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
SCREEN4 20:10~  (1回のみ)



2017年1月21日(土)
宮城県
TOHOシネマズ仙台
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
SCREEN3 9:50~  (1回のみ)



2017年1月21日(土)
山形県
ソラリス・フォーラム山形
土竜の唄 香港狂騒曲
※21日~フォーラム山形上映
※●印は日本語字幕付上映
2h08
●11:50
(1回のみ)




2017年1月21日(土)
TOHOシネマズ新宿
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
8:30~ (1回のみ)



2017年1月21日(土)
TOHOシネマズ錦糸町
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
17:35~  20:30~  23:20~ (3回あり)



2017年1月21日(土)
TOHOシネマズ西新井
土竜の唄 香港狂騒曲 (日本語字幕付き)
MOGURANOUTA HONG KONG KYOSOKYOKU / JAPANESE
[上映時間: 128分]
18:50~  (1回のみ)





『土竜の唄』(高橋のぼる/原作)の漫画は見ていたが、
映画版は初めて観た。
私は日本映画を通常観ないが、日本語字幕が付くことを
知ったからである。


本当は新宿に行きたかったが、やはりここは早朝上映1回
きりで終わっていたので、錦糸町の映画館に行った。
行ってみると、土曜日夜ということもあってか、
カップル客が多く、館内は結構客が入っていた。
別に日本語字幕付きだからといって、この上映時間を
避けている人がいるようには思えなかった。
錦糸町は都内だけでなく埼玉、千葉方面からのアクセスにも
便利なデートスポットということもあって、
客入りが良かったのかもしれないが。

劇場(スクリーン)内に入ると、ポップコーンを持って入って
来る客が何人もいる。
それを見て、すぐに映画『ゆずり葉』(早瀬憲太郎/監督)を
思い出した。


全日本ろうあ連盟60周年記念映画
『ゆずり葉 - きみもまた次の君へ -』


主人公のろう者・木村敬一(庄崎隆志)が一人で映画館内で、
上映中にポップコーンをバリバリ食べていたので、
周りの客が迷惑をしていたシーンだった。
そして敬一が健聴者客から音声で文句を言われるのを
見て、手話サークルに通う(?)健聴者の田中早苗
(今井絵里子)が、

「この人、耳が聞こえないんだと思います」

と声掛けする。
そのシーンは、そこまでだったと思う。
マナーの悪さを注意した健聴者が、
なぜ言われなければならないのか、
理解に苦しむかもしれない。
一方、だからといって、責められる敬一をかばう者も、
誰もいない。
面倒なことに関わりたくないからだろう。
私は、そのシーンを最初に観た時は

「だから何なの? どうすればいいの?」

と思った。

今は本編上映前に鑑賞マナーについてのお知らせがある
ので、聞こえない人にもわかる。
しかし、昔はそんな合理的配慮もなかった、といことを、
この映画で知らせたかったのかもしれない。
そんなことを、私はいつも、映画館でポップコーンを持つ
客を見る度に、思い出すのだった。

聞こえない人であっても、音のマナーを守るのは当然、
もしそれを破るならば、叱責を受けるのも当然、だろう。
ただ

「それだけで終わりならば、あまりに一方的過ぎる裁定だ」

と思うのは、私が強情だからだろうか?

いや、それが決して強情ではないと理解されるようになった
から、昔と違い、今はこうして鑑賞マナーが誰にでもわかる
ように、本編開始前に説明されるようになったのだと思う。


さて本題だが、原作の決め台詞を残して、ストーリーを原作
から大きく変えてしまった、という印象をぬぐえない。
お笑い仕様あり、お色気仕様もあり、そして真面目なところも
ありで、エンターティンメントならではの娯楽映画に仕上がって
いる。

ただやはり、少し原作からそぎ落とし過ぎた感じがする。
原作では、敵対者が次々とパピヨンに惚れて味方になっていく
場面があり、そこが感動的だったのだが、映画版ではそれを
そぎ落としてしまっていた。
やはり、原作のままでは主人公(菊川玲二)を食ってしまうほど、
パピヨンの魅力が強すぎるからだろうか。
この映画を観終わってから思ったのは、

「男の価値ってのは、見た目や職業、幾ら財産を持っているか
ではなく、心に持っているモノで決まるもんだな」

ということ。

あなたの隣りにいるカレシは、どういうモノを持っているだろうか。
世界中でカレシとあなたの二人だけになっても、
あなたはカレシの行動、生き方を信じ続けていけるだろうか。

旧約聖書に登場する、アダムとイブの話(※)を知っているだろう。
もし、信じることができなくなれば、あなた方もああなるのだ。

(※)蛇(サタン=悪魔)がイブに近づき、そそのかして神の命から背かせ、
イブを利用してアダムをも神の命から背かせたという、
有名な話。
原罪説。

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by bunbun6610 | 2017-01-10 21:02 | バリア&バリアフリー

当ブログでも紹介した、大人気漫画『土竜の唄』
の映画版が、また上映されている。

映画『土竜の唄 香港狂騒曲』

この映画の上映に伴い、様々な障害者に対しても、
合理的配慮が実施される。

聴覚障害者向けのバリアフリー上映もある。

「●難聴者用日本語字幕版は、
一部劇場にて期間限定で上映します。」


http://www.toho.co.jp/theater/?no=243

ただ、希望の映画館の情報を見たが、
字幕版上映日がまだ1回もない。
来年の、正月過ぎになるのかも・・・・・。

字幕付きがいつ上映されるのかわからないようでは、
肝心の聴覚障害者にさえ、頭の片隅にも残らない
情報でしかないのではないか。
後でレンタルDVDになってから、
家で観ても良さそうなものだが。
せめて

「○月×日~○月▲日の期間に上映予定」

とかの情報ぐらいは設定しておいてほしいものだ。
ウェブページならバリアフリー情報の専用ページ
だって簡単に作れるのではないか。
東宝はもっと頭を使え、頭を!
バリアフリー対策を考えるメンバーに障害者がいないから、
そんなマヌケなことになったんじゃないのか?

そんなふうだから

「障害者バリアフリーになんか力を入れても、
カネにならないから」

と部長に言われるんじゃないのか?
売上に貢献できない理由を、障害者のせいにするなよ。
健常者の無能が根本原因だろ。

『映画館の日本映画に日本語字幕がないことへの"怒り”』
〔2016-12 -02 20:00〕




物語は、香港が舞台だから、藍虎(ランフー)と
牛麟(ニュウリン)が出てくる、あのシーンか!
特に、日浦と菊川の二人が会長の娘救出のために、
大活躍する物語だ。



〔関連記事〕

『日浦匡也(通称「クレイジー・パピヨン」)
 ―漫画に見る、私の障害者ヒーロー』

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by bunbun6610 | 2016-12-24 08:53 | バリア&バリアフリー

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160902-00000121-jij-soci



松山善三さん死去
=映画監督・脚本家、
91歳


時事通信 9月2日(金)17時53分配信


「名もなく貧しく美しく」

「典子は、今」

など社会派の作品で知られる映画監督で
脚本家の松山善三(まつやま・ぜんぞう)
さんが8月27日午後8時41分、
老衰のため東京都内の自宅で死去した。

 91歳だった。
神戸市出身。
葬儀は近親者で済ませた。
喪主は養女の明美(あけみ)さん。

 1948年に松竹入りして木下恵介監督
に師事し、「荒城の月」で脚本家デビュー。

55年に女優の高峰秀子さんと結婚。

61年、聴覚障害者の夫婦の暮らしを描いた
高峰さん主演の「名もなく貧しく美しく」で
初監督を務めた。

 サリドマイド症の被害者本人が出演した
81年のセミドキュメンタリー映画「典子は、今」
は、障害者の社会参加を描き話題を呼んだ。
他の監督作に「ふたりのイーダ」「虹の橋」など。

 小林正樹監督の「人間の條件」シリーズの
他、「乱れる」「恍惚(こうこつ)の人」、
一般公募に名乗りを上げて選ばれた
「人間の証明」など数多くの映画脚本も手掛けた。



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by bunbun6610 | 2016-09-05 23:13 | ろう者世界

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160828-00000069-mai-soci



<NHK>
「障害者を感動話に」
方程式批判


毎日新聞 8月28日(日)22時3分配信



NHKのEテレの情報バラエティー番組「バリバラ」で
28日夜、

「検証!『障害者×感動』の方程式」

と題した生放送があった。
「清く正しい障害者」が頑張る姿を感動の対象にする
ことを「感動ポルノ」と表現し、「感動は差別だ」との
障害者の声を伝えた。
同時間帯は日本テレビ系で障害者の姿を伝える
チャリティー番組「24時間テレビ」が放送中だった。

 番組では、自身も障害者で「感動ポルノ」の言葉で
問題提起した豪州のジャーナリスト兼コメディアン、
故ステラ・ヤングさんの「障害は体や病気よりも、
私たちを特別視してモノ扱いする社会の方」との
発言を紹介した。

 出演者は「笑いは地球を救う」と書かれたそろいの
Tシャツ姿。
難病の大橋グレース愛喜恵さんを主人公にした
模擬ドキュメンタリーも流した。
生活の大変さや障害者になった衝撃、明るく前向きな
姿を強調。
本人の実感や意思を無視して「感動ポルノ」に仕立て
られるさまを示した。
大橋さんは今回の24時間テレビにも出演した。

 「障害者の感動的な番組をどう思うか?」と健常者と
障害者100人ずつに聞いた調査では、
「好き」は健常者が45人に対し、障害者は10人。
健常者の好きの理由は

「勇気がもらえる」

「自分の幸せが改めて分かる」

など、障害者は

「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」

だった。
英BBCが障害者を英雄や被害者として描くことが
侮辱につながるとしたガイドラインを20年前に
策定したことも紹介した。

 出演した脳性まひの玉木幸則さんは番組内で

「(障害者と健常者が)同じ人間として怒ったり
笑ったり、思いを重ねることがホンマの感動。
一方的な感動の押しつけは差別だ」

と話した。

 「バリバラ」は「バリアフリー・バラエティー」の略。
2012年に始まり、障害者の性や結婚、高齢化
などを当事者らが本音で語る場を提供してきた。
「笑い」の要素も大きく、障害をネタにする当事者も
出場する、お笑いコンテスト「SHOW-1グランプリ」
も開催。
今春からは障害者のほか性的マイノリティーなどに
対象を広げ、生きづらさを抱える当事者の声を
伝えている。

【鈴木英生】




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「感動ポルノ」か。
こりゃ、面白い解説だ。
健常者が上から目線で障害者と自己を比較し、
優越感に浸る。
障害者で視聴者を感動させるテレビは、
そのための道具。
感動モノの障害者テレビ番組や映画は、
健常者の自慰思考のオモチャというわけか。

スポンサーも自社イメージアップの道具にする。
何もやろうとしない障害者にもお恵みが入る。
結果、皆幸せになる、という勘違いだ。


「愛は地球を救う」だと?
笑わせるな。
そんなものが、本当の愛だと思っているのか?

障害者の実際の意識とは関係無しに、
健常者が勝手に「感動した」「勇気をもらった」
と言って騒ぎ、せっせと働いて募金をしたり、
税金を払ったりしているのだ。
そのお金のお陰で、障害者は食っていける。
確かに、それしかないよな。
だが、それが「成熟した社会」だと思っていたら、
それこそ大間違いじゃないのか?

障害者の実際は差別がある為に働けず、
文句も言えずにそんな社会に従わざるを
得なくなっているだけだということもわからずに。
全くお見事なバカっぷりだこと・・・・。

24時間テレビとは違い、痛快な内容だった。




〔関連情報〕

『24時間テレビを「感動ポルノ」と痛烈批判
  NHK障害者番組バリバラに絶賛の声』

Excite Bit コネタ 2016年8月29日 16時35分
ライター情報:和泉涼







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http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160824/Taishu_24108.html

衝撃の内幕!?『24時間テレビ』の「タブー」を暴露!
日刊大衆 2016年8月24日 07時00分 (2016年8月26日 14時33分 更新)


(一部引用記事)

では、最後に番組内における感動のコーナーに目を向けてみたい。

障害者や被災した子どもが出演するコーナーでは、あざとい演出が批判された過去がある。「03年には、番組に出演した、手足に障害を持つ子どもの父母らの会が“今後はもう協力しない”“事実は曲げないでほしい”と日テレに猛抗議。行き過ぎた演出に、不信感を抱いたようです」(芸能ライター)


 13年には震災で被災した子どもたちを“富士登山”にチャレンジさせたが、「人混みを避けるためか、マイナーで過酷なコースを登らせ、風雨で子どもたちの姿がレンズから消えるほどの悪天候なのに、登山を断行。テレビ的に“苦労を乗り越えた!”という画が欲しかったんでしょうが、演出のためなら子どもの命を危険にさらしてもいいと考えていると勘違いされかねない映像でした」(前同)


 芸能ライターの三杉武氏は、こう苦言を呈す。「番組が始まった当初は、もっとチャリティ色が強かったんです。でも、タレントやCMスポンサーが群がることで、おかしな方向に向かっている気がします。看板番組として安定した今こそ、知名度は低くても日頃からボランティアに勤しんでいる方を取り上げるなど、“チャリティの原点”に戻るべきときですよ」


 今夏は“民放の王者”にふさわしい、感動的なチャリティ番組に期待したい。



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〔参考情報〕



『障害自体は哀れむべきものでも悲劇でもない』
〔2011-10 -16 10:21〕




『価値のある「かたわ者」になれ?』
〔2011-11 -28 00:14〕




『障害者は哀れみの対象』
〔2012-01 -12 21:50〕




『変わらなければいけないのは社会』
〔2012-02 -07 22:44〕




『心の叫び (3)『愛は静けさの中に』』
〔2014-11 -03 18:30〕






LITALICO(りたりこ) 発達ナビ
『「障害者の感動ポルノ」を巡る議論で、
私たちが見落としていること 』

イシゲスズコ/著者
〔2016/09/03 更新〕

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by bunbun6610 | 2016-08-29 20:00 | Eテレ『バリバラ』

ロバート・レッドフォード主演の映画『ブルベイカー』
をご存知の方はおられるでしょうか?
刑務所での実話をもとに映画化した社会派作品です。

 →http://movie.walkerplus.com/mv7963/



CINEMA REVIEW 【斎藤智文】 [2012.03.27]
CINEMA REVIEW(39・完) 腐敗を糺す勇気、妥協しない正義感
「ブルベイカー」
Brubaker



ブルベイカーは、ある刑務所の新所長として、
就任することになりましたが、
その前に自ら囚人になりすまして刑務所に潜入し、
刑務所の不健全な実態を内部から知りました。
そして、たった一人で、ここの改革を始めた人です。

私の警察署保護室での初体験は、
ブルベイカーのそんな体験を、
自分もちょっとしたような感じでした。

ある日、私は電車の線路で飛び降り自殺を
図ろうとし、迷惑行為にもなったので、
警察署に保護されました。

そして、翌日まで保護室に入れられました。

冷たそうな部屋で、部屋の電燈は24時間
つきっぱなしです。
時計も何もない部屋で、
朝なのか昼なのか夜なのかもわかりません。
コンクリート製の壁と、強化プラスチック製の
全面透明の窓だけです。

保護室の中は、自分一人でいるのが
当たり前の環境なので、
私はそれまでの悩み事は何も考えません
でした。

不思議なもので、そこにいる限り、
私は今までのように、人間関係で悩むことも
ありませんでした。

孤独は、健聴者ならば誰でも嫌なはずです。

しかし私にとっては、まるで、
自分が聴覚障害者であることを
忘れられるような環境でした。

不思議なことに、ここにいるほうが、
会社にいるよりも居心地が良いと感じていた
のです。

山本譲司氏が書いた刑務所のことを
描いた本があります。


『累犯障害者』(山本譲司/著者)

http://www.amazon.co.jp/%E7%B4%AF%E7%8A%AF%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E8%AD%B2%E5%8F%B8/dp/4103029315

「「これまで生きてきた中で、ここが一番
暮らしやすかった……」
逮捕された元国会議員の著者は、
刑務所でそうつぶやく障害者の姿に
衝撃を受けた。
獄中での経験を胸に、「障害者が起こした
事件」の現場を訪ね歩く著者は、
「ろうあ者だけの暴力団」
「親子で売春婦の知的障害者」
など、驚くべき現実を次々とあぶり出す。
行政もマスコミも目を瞑る「社会の闇」を
描いた衝撃のノンフィクション。」



累犯障害者は

「刑務所の中のほうがいい」

と告白していますが、
私も保護室の中に入ったら、
その理由がわかりました。

社会で暮らしにくい障害者の気持ちは、
私にもわかります。
社会にいれば次第に圧迫感を受け続ける
ことになり、やがて罪を犯してしまいます。
そして刑務所に入りますが、
そこがそんなに辛いとは思わないのだろう。

むしろ、彼らにとっては刑務所の方がずっと、
居心地がいいのかもしれません。

皆厳しい規則に従って服役するのが
当たり前、そこでの生活は誰でも孤独なのが
当たり前なのだから、差別とか、不公平感
は全く感じないのかもしれません。

それで文句も出ないし、もしまたシャバが
苦しくなったら、また軽い罪を犯してでも、
ここへ戻ってくるだろう。
つまり、累犯障害者問題は社会問題なのだ。

その障害者が一方的に悪いからでは
ありません。
社会が障害者を受け入れないことにも
原因があるからだ。

しかし、健常者だったら「刑務所にいたい」
とは思わないだろう。
それまで自分が築き上げてきたもの
一切と別れなければならず、
家族ともほとんど会うことができない。
健常者ならば、生まれて初めて経験するような、
辛い孤独感を味わうことになる。

それでも、心の平安のために刑務所に入る
とはいえ、障害者も含めてどんな人にも、
ひとつだけ犯してはならない罪があると思う。
それは殺人だ。

相手を殺したら気が済むと思っていても、
他人の命は誰も償うことはできません。

刑務所で後悔し何らかの償いをしたくなっても、
その苦しみに耐えられるだろうか。
刑務所から出られなければ、償うという行為
さえ、できないとわかるだろう。

そして自分の気持ちは結局、
誰にも理解されず死刑になるのか、
という孤独にも苦しむのではないだろうか。


〔参考〕
障害理由に「刑猶予を」 窃盗事件公判で弁護側
 福岡地裁


他人のアパートに侵入し現金を盗んだとして
窃盗などの罪に問われた福岡県内の男の
被告(63)の初公判が23日、福岡地裁
(高原正良裁判官)であった。

被告は先天的に全く耳が聞こえず言葉も
話せない障害があり、過去にも同様の罪を
繰り返して19回の有罪判決を受け、
20年以上も刑務所に入っている。

今回の事件の捜査で新たに軽度の知的障害
があることも判明した。

深刻な障害がありながら、周囲の支援が
不十分で服役を繰り返す被告をどのように
処遇するべきなのか。

判決は6月13日に言い渡される。

起訴内容には争いがなく、検察側は

「障害を考慮しても前科が多い」

として懲役2年を求刑。

弁護側は

「被告は刑事司法と福祉のはざまで
こぼれ落ちた。
社会内で生活するため最善の方法を
検討すべきだ」

と執行猶予付きの判決を求め、
結審した。

被告は昨年9月に福岡市博多区の
アパートに侵入、現金3万円を盗んだ
として、今年3月に起訴された。

弁護側によると、被告は1人暮らし。
別に暮らす家族にも障害がある。
障害者の年金8万円を受給しているが、
福祉サービスは受けていない。

金銭管理ができず、別居の弟に任せて
おり、起訴された事件は現金が手元に
なくなったため起こしたという。

初公判は手話通訳人が被告にすべて
のやりとりを訳す形で進行。
被告は起訴内容を認め、質問には

「被害者にお金を返さないといけない
ことは分かる」

「仕事がしたい」

と手話で述べた。
しかし時折、手話通訳人の手話をただ
繰り返すだけで質問に答えられず、
審理が進まない場面もあった。

検察側は、傘を使い鍵を外す手口などに
触れ

「大胆で慣れた犯行。
相当期間刑務所に入所すべきだ」

と主張。

弁護側は

「責任能力は欠如していないが、
健常者と同じではない。
刑事施設での矯正は期待できず、
福祉施設への入所が必要。
なぜ罪を繰り返すのか、
社会全体で考える必要がある」

と訴えた。

2011/05/24付 西日本新聞

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by bunbun6610 | 2016-08-12 19:30 | 就労後の聴覚障害者問題Z1



映画『Start Line(スタートライン)』




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松森果林UD劇場~聞こえない世界に移住して~
『「コミュニケーションが苦手」な全ての人に送る映画
『Start Line』』
〔2016-06-28〕




印象的なシーンがある。
道中、パンクした自転車を修理している
人がいても

「聞こえない私は力になれないから」

と素通りした彩子さんに、

「できないって自分で決めつけている」

とぴしゃり。
たとえ力になれなくても、聞こえなくても、
一人より一緒の方が安心できるんだ、と。
それでも

「私なんかいない方がいいと思ってしまう」

と自分を卑下する彼女に、
もう一度言う。

「そんなことを君が決めてはいけない。
相手に聞いてから決めて!」。

テツさんファンになった瞬間だ。
その後ケンカとなり、目をそらす彩子さんに
対し怒ったテツさんが倒した自転車の
カメラが二人の様子をとらえる。

「怒っていても話さないと解決しない。
あなたが目をそらしたらそこですべてが
切れてしまう。
あなたが自分で世界を切っている」。

そう、音声言語での会話は目をそらしても、
相手の話しは聞こえてくる。
しかし視覚言語である手話は目をそらした
時点で遮断される。

「コミュニケーションができないのは
聞こえないせいじゃない」

というテツさんの冷静な論旨が、
コミュニケーションの本質を浮かび上がらせる。




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私も、コミュニケーションが非常に苦手だ。
今村氏とは違ったタイプだと思うが。

で、私の場合はよくケンカする。
相手が誰であっても、上司であってもだ。
かなり損する性格をしている。
能力は高くても、コミュニケーションが
ダメだからと、いつも最低評価を
与えられてしまう。

仕方がない。
すぐに変えられるわけではないし。

社会人として、私の致命的な欠点だ。
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by bunbun6610 | 2016-06-28 21:10 | ろう者世界

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1466593830318.html


佐村河内ドキュメンタリー映画「FAKE」
連日満員が意味すること


Excite Bit コネタ 2016年6月24日 18時01分

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続き、映画『FAKE』について語り合います。ネタバレあり。


■「マスコミがひどい」と「佐村河内はひどい」は別々の問題

藤田 飯田さんの記事によると、杖を持っていたり、地面を這いずり回っているようなかつてのNHKなどでのことがなくなっているとのことですよね。しかし、ぼくはこうも考えるわけですよ。NHKのディレクターの演出に、過剰に乗って演技した可能性もあるんだろうな、と。

飯田 違います。NHKスペシャルは震災のあとに放映されていますが、そこで描かれる症状の多くは2007年に刊行された自伝にすでに書いてあります。「ディレクターに乗せられた」可能性はありません。逆です。「佐村河内に乗せられた」んです。無数の演技や設定づくりは、佐村河内の意志で行われています。

藤田 多分、佐村河内さんとメディアが共犯関係で虚像を作ってきた、そしてそれが世に受けたということを、森さんは撮りたいのだろうし、それが暴露後も続いていると言いたいのだと思うのですよ。ぼくは、飯田さんが言うほど、森さんは乗せられていないと思った。共犯関係的な磁場がどのように形成されていくのかそれ自体を撮ろうとしているというか……。もちろん、その磁場に入れば、自分も無事では済みませんよ(笑)

飯田 乗せられていなくても「結果的にNHKスペシャルのディレクター古賀淳也さんと同じことをやってる(同じことになってる)でしょ?」というのが僕の言いたいことで、乗っているかどうかという内面は問題にしていません。
「マスコミはひどい」という話と「佐村河内はひどい」という話は別々の論点です。森さんが前者の問題提起をしたいのはわかります。でもマスコミがひどいからといって後者を不問にすることはできない。マスコミ批判のために佐村河内の主張や振る舞いを鵜呑みにするわけにはいきません。森さんはそのふたつを曖昧に混同している。
 ただ、佐村河内も弟を交通事故で亡くしているし、奥さんと二人で長らく極貧生活をしていて「売れない芸術家」に対する世間の冷たさも経験していた。それは事実です。そういう経験から、被災者や障害者に対して寄り添いたい気持ちも本当にあったでしょう。でも、だとしたらウソついて作曲家ヅラして近づかなければよかったのに、って思う。

藤田 弱者性や有徴を利用するテクニックは、人心操作でよく行われることですが(同情心や罪悪感をかきたてて、利用する)それをやっている人に近いようには見えるし、それが批難される理由もわかるんです。「そんなくだらない物語=FAKEで感動させられるぼくらの脳みそもチッポケだな」って、ぼくは半分自虐も込めて思うわけですが。

飯田 ふつう、ひとは「このひとは自分を騙そうとしている」「ウソつきだ」なんて前提からは入らず、善意で接しますから「ウソに騙される方が悪い」「ウソで感動するほうもどうかと思う」という言い方にはまったく賛同できません。
 僕だって雑誌かなんかから「インタビューしてきて」って言われて騒動の前に佐村河内に会っていたら、たぶん疑わなかった、見抜けなかったと思う。
あるいは「ちょっとおかしいな」と思っても、取材自体、記事自体をぶち壊しにするメリットもないから、スルーしていたと思う。『FAKE』でも時折「気のいいオッサン」の顔を見せるじゃないですか。深刻なだけじゃなくて、人を楽しませる会話ができる。騒動の前はああいう気さくさがもっとあったんだろうなと考えると、いきなり「ウソついてますよね?」なんてますます突っ込めないですよ。佐村河内はそういうことを見越してウソをついたり、他人を利用しているからタチが悪いんです。

藤田 でも社会にはそういう振る舞いをする人たちがいっぱいいますからね。善意だから良い、同情して騙されたから無垢な被害者だ、というわけでもないのだと思うのですよ。そのような素朴な倫理観では通用しない社会になっちゃったと言うべきかな。同情や罪悪感を捏造で喚起して他人を操作するエージェントが「この世界にはいる」ということを前提として、知識としてもっと広範に広がって、対処法とか周知されるといいなと思います。これは一般論としてですが。
『A』『A2』には客が入らず、『FAKE』は連日満員ということが意味するもの

藤田 森さんについてですが、実は不満もあるんです。
『21世紀を生き延びるためのドキュメンタリー映画カタログ』に寄稿した文章にも書いたのですが、彼は、マスメディアが嘘であると暴く。そこまでは良い。ネット右翼と心性が重なっている気がしないでもないが、それは良い。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』で、自身の作品も含めて、ドキュメンタリーも透明な現実を映していない、と言った。そこも良い。そうすると、しかし、何が本当かさっぱりわからなくなる。本当がなければ、全て嘘でもいいことになる。その問題の先をどうするかの答えは、本作にはなかった。

飯田 森さんは「ひとによって見えている真実は違う」ということを前提に生きるしかない、「見え方が全然違う」ということを理解していたらとひとはもっと寛容になれるはずだ、と思っているわけで、「何が本当か」問題を検証したいひとではないですよね。「ジャーナリストじゃない」って何回も言ってるし。

藤田 しかし、ちょっと話をずらしますが、そういう人間を、ぼくらの社会は、それなりの地位がある人たちでも「見抜けない」ということが一挙に問題化されてきましたね。佐村河内さん、小保方さんらは――真偽はぼくはまだ保留にしているのだけれど――そういう文脈で社会問題化された。これはどういうことなのでしょうか。そういう人が増えたのか。見抜く能力が上がったのか。問題化する社会的機運が高まっているのか。……連想するのは、やっぱり東日本大震災以降の、原発報道その他のことですよね。何が本当なのか、本当だったのか、騙されていたのか、それが揺さぶられていて、自信がなくなっているから騙されやすくなっているのかもしれないし、同時に騙す人に対する怒りや攻撃性も高まっているのかもしれない。
そう考えると、本作は『311』に続く、間接的な震災後映画なのかもしれません。

飯田 「見抜けるかどうか」「何が真実なのか。誰を信じるのか」ということよりもマスコミによるメディアスクラムとかネットでの炎上(集中攻撃)に対する批判をしたい映画では? と思いましたが、しかし、客の満員ぶりがその主題を裏切っていると思う。
『A』『A2』は「壊滅的に人が入らなかった」と森さんはよく言っています。今回は連日満員です。「オウムはみんな極悪な殺人集団だ!」というステレオタイプを否定したら人が全然入らなくて、佐村河内だと観に行くというのは、いったいどういうことなのか。明らかにオウムのほうが大きな社会的事件なのに。
 これはつまり、どちらにしても観る側に「叩きたい」気持ちがあって、それを期待しているから、そのハシゴを外される『A』『A2』は観に行かず、『FAKE』は観に行くということでしょう。

藤田 『FAKE』観たあとに、叩きたい気持ち、満足します? ……感動して、「作曲できるじゃないか!」「マスメディアがマスゴミだった!」「いい人だった!」ってなる人もいるんですよね?

飯田 客が入るかどうかということは「観に行くかどうか」の意思決定の話であって、観た「後」の評価の話ではない。

藤田 『A』のときは「叩きたい!」って動機で人が入らなかった?

飯田 森さんはそういうことを言っている。「オウムは善良なひとばっかりだ」なんて映画は観たくないと思ったから入らなかった、最初の5分だけでも観てもらえれば絶対おもしろいんだけど、そこまでたどりついてもらえなかった、って。
藤田 そうすると、飯田説だと「佐村河内はいい人そうだ」という宣伝をしていないから、本作は成功していると言えるのかな。公開してだいぶ立つユーロスペースで、土曜日の午後に行ったら、二つのスクリーンで上映しているのに満席でした。

飯田 だって予告編で「なんで作り話を?」とかって取材されてるカットが入っていたら、むくむくと湧くものがあるでしょう。反省して悩んでいるふうの表情もある。それはそれで「ああ、ちゃんと世間の批判を受け止めたのか」って溜飲が下がるからね。
 実態は全然そうじゃなくて「こうやって人を騙してきたのか!」ってびっくりする作品だったけども。別に僕は佐村河内や森達也を積極的に叩きたい気持ちはありません。でも、観たら「あれっ???」って思って笑っちゃうところがあちこちにあった。


■意外にも「食映画」でもある

藤田 ちなみに、ぼくが観た回で、映写が止まって、音だけになって、視覚を失って音に集中させる演出か!?って思ってたら、しばらくして明かりが点いて「映写機の故障です」ってアナウンスがあって、爆笑してザワザワしていた。この「故障」もフェイクの演出じゃないかと疑ってみんな喋ってた。面白い経験しましたよw

飯田 いろいろ言いましたが、まじめなだけじゃなくてふつうにおもしろおかしい場面もいっぱいあります。好奇心で観に行っても全然いいと思います。
「食映画」でもあってですね、『FAKE』を観た妻が豆乳を買ってきてハンバーグをつくったというわが家の深イイ話があります。

藤田 どうでもイイ話ですねw それはともかく、この映画は、自分で観て解釈しなくちゃ仕方がないので、この対談や飯田さんの記事も、参考としてご覧いただければな、と思います。




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by bunbun6610 | 2016-06-24 23:28 | 難聴・中途失聴

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1466591018229.html



佐村河内守を追った
森達也の映画「FAKE」は
何が問題なのか

Excite Bit コネタ 2016年6月24日 18時00分


ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回は佐村河内守を追った映画『FAKE』を扱います。ネタバレあり。


■オウムを内部から撮った『A』同様、今回もマスコミ批判の映画だが…

藤田 ドキュメンタリー監督の森達也さんが、ゴーストライター騒動で一世を風靡した佐村河内守さんとその妻・香さんを対象に撮った作品が『FAKE』ですね。森さんは、かつて、オウム真理教を扱った『A』『A2』や、東日本大震災の直後に現地に行った『311』などの共同監督作品がありますね。
 森さんの作品の特徴として、マスメディアで話題になった人物の「別の顔」「裏側」を見せることで、ぼくたちの、マスメディアに構成されやすい認識を異化するという側面があるのですが…… 今回も、その意味では、『A』『A2』に連なる作品でしたし、何故遺体をマスメディアを映さないのかという問題提起を突然する『311』と共通の問題意識の作品でしたね。
 真相を知ろうとする『A3』や、とりあえず被災地に行ってみる『311』、とはアプローチが異なっていて、むしろ『A』『A2』に戻った感じがしました。むしろ『職業欄はエスパー』に近いかも……

飯田 僕はYahoo!個人にウンチクも感想もあらかた書いてしまったのでまずはそちらを読んでいただきたいのですが……。
 素朴に「佐村河内にもいいところがあった」とか「ウソばっかりじゃなかった」ふうの反応をしているひとがいっぱいいて、びっくりしたんですよ。
佐村河内関連の本や映像をフォローしてきた人間からすると、むしろ、やっぱりウソつきでデタラメばかりで「弱者のフリをし、批判できないようにして相手を抱き込む」という手法を相も変わらず使い続けていることがボロボロとこぼれ出ているドキュメンタリーなんです。その無防備さが相当おもしろい。
 森さんが本心では佐村河内についてどう思っているのかは知らないしあまり興味もありません。ただこれは「佐村河内守からは世界がこう見えている」という主観を撮った作品であり、そういうスタンスに共鳴するそぶりを見せないと撮れなかったことは間違いない。よくぞ潜入してくれたと思っています。
 ちなみに記事の反応で新垣隆さんの公式アカウントから「驚きました。(スタッフ)」というリプライがあったのと、佐村河内のペテンを暴いたジャーナリストの神山典士さんから感想メールをいただき、今度お会いすることになったのが、記事公開後のトピックとしてあります。公開後に森さんサイドと神山さんはFacebook上でバトっていますが、神山さんによると森さんおよびプロデューサーがウソをついているところもあって(『FAKE』で佐村河内に騙されていた義手のバイオリニスト・みっくんや被災地の女の子にコンタクトを取ろうとしたが出てもらえなかった、と言い張っているそうですが、神山さんはそのふたりとも新垣さんともずっと連絡を取っているから、そんなことはありえないと断言できる、とか)、「ウソつきを撮ったひとたちもウソつきだった?」みたいな悪夢的な様相を呈しています。

藤田 森さんは、佐村河内さんの磁場には完全に入っていないと思いますよ。『A』などでその批判を受けていましたが、今回は『A』『A2』よりも遥かに距離があるし、自己言及もしている。フジテレビのバラエティの人が、佐村河内さんを出演させるときに、明らかに笑いものにしようとしているのに、真面目な番組にするかのように言うでしょう。TV局もフェイクを演じている。あれと同じことを、森さんは確信犯的にやっていると思う。自分がしていたことは「信じているフリかもしれない」と佐村河内さんに最後に言っているし。
 新垣さんがTVに出ているときに、森さん、「佐村河内さんが出てたらスタンスが違ったと思いますよ」という趣旨のことを言っていますし、新垣氏にこの映画の出演依頼をして断られたことも作中で明らかにしていますから。「面白くしようとしているだけ」というバラエティへの言葉は、半分自己言及のようにぼくには聞こえます。
『FAKE』という作品自体が、フェイクに満ちた作品で、どっちとも解釈できるように作られていて、油断できない作品ですよね。


■「本当は曲が作れた!」……だから何なの?

藤田 最後に、一見作曲が可能であったかのように見えるように作られていますね。飯田さんのご指摘の通り、カメラが回っていない瞬間に捏造することはいくらでも可能なので、本当に作曲していたのかは不明ですが。しかし、シンセサイザーというテクノロジーのおかげで、楽譜読めなくても演奏能力が高くなくても「作曲」はできるだろう、と観ることも可能である、という解釈も可能ですよね。それを否定したらDTMとかダメになってしまう。あの安っぽい、クラシックの音をフェイクで模した壮麗な音は、象徴的だと思いました。
 ぼくは感動しましたよ、ラストに、佐村河内さんが演奏するところに! シンセサイザーってすごいなぁと。ああいう壮麗で崇高っぽい音が鳴ると脳が自動的に感動するなぁ、脳のそういうスイッチ押してくるなぁ、と、技術に感動していました。
 ラストの演奏が「本当に作曲しているのか」も怪しい、怪しいけど、あの音と構図で観ると、感動してしまう。そのインチキな仕組みそれ自体を投げ出していると思いますよ。観客にも見抜くこと、どっちなのかわからなくなることを期待しているというか。

飯田 たしかに、音楽つくるソフトの「ガレージバンド」とか使えば誰でもそれっぽい曲はつくれる時代です。打ち込んでいたとしても「あれがそんなにすごいことか? 驚くことか?」と思う。神山さんも新垣さんも「ゲーム音楽時代には佐村河内がシンセで断片的に打ち込みをつくって、それをもとに新垣さんが作・編曲していた」ことは否定していないですからね。
 しかも森さんは「佐村河内は作曲できるか?」問題の何が問題だったのか全然わかっていない。「作曲のプロセスに密着してすべてを収め、作曲したという決定的な証拠を撮る」ことができなかったのが佐村河内を取り上げたNHKスペシャルの問題点だったんです。対して「AERA」や2000年代半ばのフジテレビ報道局のように、佐村河内に密着取材したけれども、「あやしい」と判断して企画をとりやめたケースもあります。
おそらく、楽器を手元に置かない佐村河内が作曲したと言える瞬間、つまり「楽譜に記す」という行為を絶対に撮らせなかったからだと考えられています。「曲づくりを引き受ける」「曲づくりで悩んでいる」シーンと「できあがった楽譜やトラックを見せる」「できあがった曲を聴く」シーンをつないだって、「作曲した証拠」にはならない。つまり、森さんは今回、自らの手でテープを回しっぱなしでシンセの打ち込みの全プロセス……がむりなら主要なプロセスの多くにきっちり張り付いて記録しなければ、疑惑を否定したことにはならなかった。でも森さんはしばらく佐村河内宅に通うことをやめていて、曲ができあがったという報告を受けてからまた行っている。これじゃあ、やってることはNHKスペシャルのディレクターだった古賀さんの二の舞、いや、それよりひどいですよ。佐村河内がいくらでもなんでもできるような余地を与えているんだから。話にならない。
 そうは言いつつも、僕もラストの曲は嫌いじゃないです。「佐村河内は本当にこういうムダに壮大な曲がつくりたかったんだなあ。だからオーケストラ使ってド派手にやりたかったんだ」って改めてわかった。クラウス・シュルツとか喜多郎系ですよね。
 ただね、佐村河内は自伝『交響曲第一番』ではこう書いていたんですよ。

「楽譜に記譜することこそが作曲、という気持ちはつねに変わりませんでした」と(幻冬舎文庫版83p)。

『FAKE』で彼が一生懸命「新垣とは共作だ」と主張し、シンセで新曲を作ったところで、楽譜に書いてないわけだから、かつて自分で言っていた作曲の定義とは違います。
「それでなんで『曲を作った』ことになると思ってるの? なんで『すみません、作曲の定義を変えました』って素直に言えないの?」と哀しくなりますね。


■奥さんの謎の表情が意味するものとは……?

藤田 森監督が、最後に、奥さんを撮れてよかったと言ったじゃないですか。その前の演奏シーンでの、奥さんのカットが決め手なのかぁ、と思うような言い方だったのですが、演奏中の奥さんの表情や、手の中で光っているものなどについて、どう解釈されました? ぼくは、あそこが一番腑に落ちないのです。演奏している佐村河内さんから目を逸らし、応援しているようでもない、あの表情や仕草が、何を示唆しているのか(示唆していると森監督は考えたのか)が読めないんです。「インチキがバレないかハラハラしてる」って感じですか?

飯田 それもあるかもしれないけど、別にまたバレても世間に対して失うものはそんなにないから……何かあるとしたら夫に対してでしょう。
「佐村河内にマインドコントロールされてる」と奥さんの母親は言っているそうです。そうなのだとしたら、何かされることを考えてビビっていたのかもしれない。ふたりだけでいるときにどんな関係なのかは、本当のところよくわかりません。
 親との縁を事実上切って佐村河内を選んだわけだから、サマナ(出家したオウム信者)みたいなものですね。そう思うと『A』『A2』からつながっている。

藤田 ぼくは医者でもなんでもないので、これは診断ではなく、あくまで印象ですが、いわゆる共依存関係に近い何かなのかもしれませんね。
その場合、どっちが主体として「マインドコントロールしている」のか、よくわからない。共依存って、サポート「する」側が、人助けをしている自分=価値のある自分を維持するために、相手をいつまでも弱者にしておこうとする傾向があったりします。

飯田 奥さんは18歳のときから佐村河内と30年以上つきあっているんだから、何も知らないわけないことだけは確実です。それは複雑な表情、複雑な気持ちになるということじゃないですか?
 新垣さんだって、佐村河内から最初のオファーを受けたのは弱冠25歳のときで、そのあと18年パートナーだったんです。長い物語なんですよ、この騒動は。

藤田 こんな表現がよければですけど、奥さんは「虚無」みたいな顔でしたよ……
 旦那さんが、疑惑を晴らすための曲を、作曲に復帰して作り終えたら、もうちょっと感動して音楽に聴き入りそうな感じがしたり、ハラハラして応援したり笑ったり泣いたりしそうなんですが…… あの虚無は、何の意味にも回収できなさそうなしこりとして、ぼくの中に残っています。


■何が問題なのかわかってない人が多いので整理しておくよ

藤田 佐村河内さんが……こういう言い方を勝手にすると、医者でもないのに診断して! と怒られたり訴えられたりするリスクがあると思うのですが、ぼくの印象では、パーソナリティ障害のクラスターBの人たちに近い印象を得ました。その人たちの特徴は、感情表現が過剰だったり、演技力があったりね、人はあの磁場の中で虚実がわからなくなっていくんだな……っていうのを、観客も体感させられると思います。

飯田 自己愛性パーソナリティ障害とか演技性パーソナリティ障害でしょうね。自分を大きく見せるために息を吸って吐くように虚言が出てしまう。
 そのナルシスティックで誇大妄想的なところが例の「指示書」や、全ろうで精神疾患で左腕は腱鞘炎が悪化して使い物にならないとか、10歳で母親から「もうピアノについて教えることは何もない」と言われる神童だったとか、「村上水軍の末裔だと思う」だとか、ゴテゴテに盛られまくった設定(100あったら99はウソ)を生んだ。それは一歩引いてみるぶんにはおもしろいし、悲哀を感じるところでもある。
 ただ、障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところはひどい。たんにゴーストライターを使っているだけならそこまで問題じゃなかったんだけど……。

藤田 「障害者や被災者に近づいていって何人も利用したところ」みたいな嘘の部分は、ぼくには判断ができませんでした。やっぱり、ひどいんですか?

飯田 佐村河内が近寄っていったので有名なところでは義手のヴァイオリニストのみっくん、それからNHKスペシャルに出ていた、母親を津波で亡くした女の子がいます。よくウソがつけるな、って思います。
 ほかにも障害者施設にいっぱい行っていて、つねに自分の音楽、売り出し方に利用できそうなひとを探していたんですよ。詳しくは神山典士さんの『ペテン師と天才』に書いてあります。ちょっと施設を訪れただけなのにマスコミに対しては「すごく面倒をみている」みたいな見せ方をしたりね。

藤田 映画の中で、耳が聞こえない方が擁護されていたのはどう見ます? 感音性難聴(部分的には聞こえたりする)であるという診断書が何度も出てきますよね。

飯田 そもそも2002年に「全ろうだ」(聴力ゼロです)という診断書をもらい、障害者手帳を発行してもらっていたことが佐村河内の問題なんです。本人の主張では「その後、聴力が多少は回復した」そうですが、現代医学ではそんなことには説明がつかず(ありえないことであり)、高い確率で「全ろう」については詐病であったことがわかっています。
 佐村河内のせいで数多くの聴覚障害者が「こいつもお金がほしくて詐病してるんじゃないの? 簡単にごまかせるんでしょ?」と思われてしまった。それがまずいのです。
 なのに『FAKE』では「2014年に診断してもらって、障害者手帳は発行されるレベルではないが、難聴であることは事実です」「難聴のひとは誤解されやすい」という話に巧妙にすり替えが行われている。それに乗せられちゃってるなあ……と。
 しかも聴覚障害者の方と面会するシーンで、佐村河内は日光を浴びまくってるしサングラスもかけていない。でもウソがばれる前の彼は、日の光を浴びると耳鳴りがひどくてあまりにも辛いから外出は控えているし、部屋の中も真っ暗にしている、特殊なサングラスをかけている、と言っていたわけです。
「ウソをついていない」ことをアピールしたいシーンのはずなのに、「ウソをついていた」「話を逸らしている」ことが露呈してしまっていて「おいおい!」って思うシーンなんですよ、あれは。
 それで聴覚障害者の方に擁護をしてもらう。やっぱり利用しているように僕には見える。




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これは、昔から続いている、
世間の人たちの考え方と同じだと思う。
つまり

「先に悪いことをしたのはオマエだ。
そのオマエが今さら何を言っても、
我々も世間も、聞く耳は持たない」

ということだろう。
一度でも大きな犯罪を犯した者には、
立ち直る機会も与えないという、
冷酷な目線が感じられる。

ある本を思い出した。


『凶悪犯罪者こそ更生します』
(岡本茂樹/著者 株式会社新潮社/発行所)


本当の難聴者であっても、配慮は一切しない。
人権を剥奪するという“やり過ぎ報復”でも
まかり通ると思っている。
こんな世間、社会の恐ろしさ。

こんな側面を持つた社会で、障害者は本当に
生きたいのか。
いやそれは、誰も選べない。
人間は、社会にいないと生きられないだろうから。
選択の余地などないのだ。

このジャーナリストたちも、
ただいたずらに“人間不信”を増長するだけの、
恐ろしい人たちだと、私は感じる。

こんな話に付き合っていても、
誰も問題点の解決にはならない、ということだ。

映画の問題点の指摘はよくできているが

「レベルの低い対談だったな」

と思った。
手帳のない難聴者のことをわかっていない、
と思う。
それこそが問題点ではないだろうか。
だから、この討論は、“内容が薄い”のだ。
映画を観て、感じたか、感じなかったかの
違いが、健聴者と難聴者との間に、
きっとあるはずなのだ。






【追記】

音楽家 新垣隆オフィシャルサイト
『映画「FAKE」に関する新垣隆所属事務所の見解』
〔2016年7月8日〕



BLOGOS
『「残酷なるかな、森達也」- 神山典士(ノンフィクション作家)』
〔2016年06月06日 09:52〕

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by bunbun6610 | 2016-06-24 23:27 | 難聴・中途失聴