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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140429-00000009-mai-soci


<てんかん>福岡労働局が高卒就職で
開示要請  雇用側懸念で


毎日新聞 4月29日(火)10時44分配信


◇厚労省が是正指導 2012年

 厚生労働省の地方機関・福岡労働局が2012年7月、翌春に高校
卒業予定の就職希望者に

「てんかんの生徒は主治医の意見書をハローワークに提出」

するよう、福岡県を通じて各高校に文書で依頼していたことが分かった。
雇用における差別的な取り扱いを禁じた職業安定法などに触れる疑い
があり、厚労省は福岡労働局を指導した上で、同年10月に全国の
労働局に再発防止を通知した。

 てんかんを巡っては11年4月、栃木県鹿沼市で、てんかんの持病を
隠して運転免許を不正取得した男がクレーン車を運転中に発作を起こし、
はねられた小学生6人が死亡した(男は懲役7年が確定)。

12年4月には京都市東山区の祇園で軽ワゴン車が暴走し、観光客ら
7人と運転していた男性が死亡、京都府警は男性が持病のてんかん
発作で事故を起こしたとして容疑者死亡で書類送検した。

福岡労働局によると、事故を受け求人側企業から

「生徒の面接時にてんかんの有無を確認していいか」

などの質問が多数寄せられたという。

 このため福岡労働局は同年7月17日、てんかんを含め企業から
質問や要望の多い項目について回答をとりまとめた文書を職業
安定課長名で作成して県と県教委に通知し、各高校長への周知を
依頼。

「持病がある生徒、障害を持つ生徒を一律に選考から排除すること
はあってはならない」

とする一方、

「てんかんの生徒については保護者の同意のもと、精神障害者保健
福祉手帳所持の有無にかかわらず、主治医の意見書をハローワーク
に提出し、早期の職業相談を」

などと求めた。


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〔関連記事〕

当ブログ

『元運転手らに賠償命令=母親も責任、
1億2500万円―クレーン車事故・宇都宮地裁』
〔2013-04-24 22:09〕





『テーマ「てんかん」 “てんかん”を知っていますか』
〔2013年11月15日(金)9:00放送〕


Eテレ『バリバラ』でも、てんかんの当事者が就労困難の
悩み(問題点)を告白していた。
障害者も求職活動をするハローワーク(公共機関)までも

「ここは働くことのできる健康な人が来るところです」

と言い、追い返された、という。
信じられない話が、今でもあるというのだ。

聴覚障害者も、よく紹介を渋られるケースがあるので、
同じような思いをしているが。(※)


(※)詳細は

『聴覚障害者にできない仕事』
〔2012-05-02 11:56〕


参照。




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【追記】(5月5日)

おかしいと思う。

下の記事で述べているように、ハローワークは障害を隠して
会社の採用面接に臨む方法(クローズ)と、障害を打ち明けて
面接に臨む方法(オープン)がある、とアドバイスしている
のである。
それも「ただし、自己責任でやって下さい」と言う。


『難聴者の会社面接対策(3) 「オープン」と「クローズ」』
〔2011-07-07 20:55〕



つまり、障害者にはクローズで臨む権利もあったわけだ。

もちろん、それでは後で問題が発覚し、その障害者雇用は
決して長続きしないが。

そもそも、ハローワークのやっていることが、矛盾していない
だろうか。



さらに、ハローワークの職員だけ見ることが出来る、
コンピュータ情報が存在する。
採用側はこれを自由に書くことが出来るし、職員はこれを
見て、相談で対応している。
障害の種類によっては応募が不可になる場合があるが、
それはこうした事情からである。


『ハローワーク求人票の「裏情報」に思うこと』
〔2012-05-03 09:59〕




民間の障害者就職斡旋会社も、例えば下のような事例がある。
障害者雇用なのに、「面接では、なるべく障害を隠せ」とでも
言わんばかりのアドバイスが出てきたことには、驚いた。
障害者雇用枠での就職活動でも、正論を言っても何もならない。

結局、みんな就職のためならば、やらざるをえず、
というより、やるべきなのだろう。


『難聴者の会社面接対策(2) サーナの面接アドバイス』
〔2011-07-06 20:37〕



ついでに、当ブログで一番有名な記事

『身体障害者手帳のない聴覚障害者(難聴者)は、
どうやって就職するのか?』
〔2013-01-16 18:00〕


これもですよね。
障害者手帳がなければダメならば、
難聴をごまかして、就職試験に臨むしかない。


あのクレーン事故は、そうした社会の矛盾が生み出した
事件なのだと思う。

さあ、重大な責任者たる厚生労働省さんよ、
この問題を一体、どうするのかね?
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by bunbun6610 | 2014-05-03 01:08 | 障害者問題・差別
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




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「『希望の光』(P41~45)
ボルチモアへつくと、チザム博士(はくし)が、しんせつにむかえてくださいました。
このかたが、父のきいていた眼科の名医だったのです。
しかし、さすがの名医も、わたしの目をどうすることもできませんでした。
けれども博士は、わたしを教育することはできるから、ワシントンにおられる
アレキサンダー=グラハム=ベル博士に相談するよう、父に教えてくださいました。
ベル博士は、もちろん電話の発明家として有名ですが、目の見えない人や、
口のきけない人の話しかたについても、いろいろ研究なさっているかたです。
「博士にご相談になれば、目が見えない子や耳のきこえない子どもがいく学校や、
先生についても、きっといろいろ教えてくださるでしょう。」
チザム博士は、父にそういってくださったのです。
わたしたちはそのおことばに力をえて、そのまますぐに、ワシントンにむかいました。
父は、わたしの目がもうなおらないといわれ、すっかりふさぎこんでいました。
それに、はたしてベル博士が、じぶんたちのことなど心配してくださるだろうかと、
もう不安がつのるばかりのようすでした。
でもわたしは、父のそんなくるしみなどゆめにも知らず、ただ、また汽車にのって
旅行がつづけられるというので、うちょうてんになっていました。

ベル博士も、それはやさしいかたでした。
わたしは、だれよりもさきに、それがわかりました。
博士は、わたしをひざの上にだきあげてくださいました。
わたしが博士のとけいをいじっていますと、博士はすぐに、そのとけいを鳴らして
みせてくださいました。
それに、なによりもうれしかったことは、わたしの手まねのことばをわかって
くださることでした。
わたしはいっぺんにベル博士が大すきになりました。
この博士とのめぐりあいこそ、わたしが、やみから光の世界へ、孤独から
愛の世界へはいることができたとびらとなったのです。
もちろんそのときには、そんなことをゆめにも思っておりませんでしたけれども。
ベル博士は父に、あのディケンズが「アメリカ雑記」に書いたハウ博士のつくられた
パーキンズ学院のことを話してくださいました。
そしていま、ハウ博士のあとをついで、その学院の院長をしているアナグノスという
かたに手紙を書き、わたしを教えることのできる先生がおられるかどうか、
といあわせるようにといってくださいました。
父はベル博士のおことばにしたがって、さっそく、アナグノス院長に手紙をだしました。
すると、半月ほどして、返事がまいりました。
てきとうな先生が見つかったという、しんせつなうれしい知らせでした。
これが1886年の夏のことです。
そして、サリバン先生がわたしのところへきてくださったのは、あくる年の3月
になってからのことでした。
こうしてわたしは、あの「旧約聖書」にある、イスラエルの民をみちびいて
エジプトをぬけだしたモーゼが、シナイ山(さん)で神の霊にふれたように、
「知識は愛であり、光であり、のぞみである。」という神の声をきくことができた
のでした。」(P41~45)


「あくる朝、(サリバン)先生はわたしを、ごじぶんのへやにおつれになって、
一つの人形をくださいました。
あとで知ったことですが、それは、あのパーキンズ学院の、目の見えない
子どもたちからのおくりものでした。
それに、その人形は、ハウ博士の教えをうけてりっぱな洋裁師になられた
という、ローラ=ブリッジマンさん(※)がこしらえたという着物をきていました。
わたしがしばらくその人形であそんでいますと、サリバン先生は、そっとわたし
の手をとって、手のひらに「D(ディー)、O(オー)、L(エル)、L(エル)(ドール
――人形のこと)」という字を、ゆっくり書いてくださいました。
もちろんわたしは、それがことばをあらわす字だということは知りませんでした。
でも、この手のひらでするゆびのあそびがおもしろくて、まねをしているうちに、
とうぜんじぶんでも、それが書けるようになりました。
わたしはすっかりうれしくなって、二階からかけおり、母のところへいって、
母の手のひらに、さっそく「人形」という字を書いてみせました。
つづいてわたしは、「ピン」「ぼうし」「ちゃわん」、それから、「すわる」「立つ」
「あるく」などということばをおそわりました。
しかし、それもやはり、ただ先生のなさることをまねするだけのあそびで、
それがなんの意味だかも、文字というものだということも、ぜんぜん知らな
かったのです。
だいいち、すべてものに名まえがあるということすら知りませんでした。」
(P47~49)

※ローラ=ブリッジマン・・・(おさないときに病気になり、視力・聴力、
そして臭覚までもうしなったのですが、ハウ博士というかたの教育をうけて、
のちにはりっぱに洋裁で身をたてた人〔P37~38〕)


「しかしわたしは、わからないことを毎日なんどもくりかえされるので、
すっかりいらいらしていました。
あたらしいせとものの人形をつかむなり、ゆかになげつけてしまいました。
こなごなにくだけた人形をかわいがることを知らなかったのです。
くだけちった人形を、先生が暖炉のわきによせるのを知ると、なんだか
せいせいした気持ちでした。」(P49~50)


「わたしたちは、すいかずらのあまいにおいにさそわれて、すいかずらが
からまった井戸のある小屋にいきました。
だれかが水をくんでいました。
先生は、わたしの手をとってさしだし、ポンプからあふれでるつめたい水に
さわらせました。
そして、もういっぽうのわたしの手をとって、その手のひらには、はじめは
ゆっくりと、だんだんはやく、「水」という字を、何回も書きつづけられました。
わたしは、いっぽうの手でつめたい水をかんじながら、もういっぽうの手の
ひらの、先先生のゆびのうごきに、じっと全身の注意をそそいでいました。
とつぜん、わたしは、なにかしらわすれているものを思いだすような、
なんともいえないふしぎな気もちになりました。
こうして、わたしははじめて、手にかかるつめたいさわやかなものが「水」
というものだということを知りました。
はじめて、ことばというものを知ったのです。
わたしをじっとおさえていた、あの目に見えない力がとりのぞかれ、くらい
わたしの心の中に、光がさしてくるのがわかりました。
井戸をはなれたわたしは、手にふれるものの名まえを、かたっぱしから
先生にたずねました。
もっともっと、すべてのものの名まえを知りたい一心でした。
手にふれるものなんでもが、新鮮に、いきいきとかんじられました。
家にもどると、ふと、さきほどゆかになげつけてこわした人形のことを思い
だしました。
そっと手さぐりで暖炉のそばへいくと、そのかけらをひろいあつめました。
それをつぎあわせようとしましたが、だめでした。
目になみだがいっぱいたまりました。
じぶんがどんなにひどいことをしたか、わかったからです。
そしてはじめて、ほんとうにかなしくなりました。
その日は、たくさんのことばを学びました。
「父」「母」「妹」「先生」など、いろんなことばをおぼえればおぼえるほど、
この世の中が、あかるくたのしくなってくるようでした。
その晩、わたしはベッドにはいってからも、きょうはじめて知ったよろこびを、
一つ一つ、もういちど思いおこしていました。
この世の中に、じぶんほどしあわせな子どもはいないにちがいないと思い
ました。
そして、あしたがまちどおしくなりました。」(P50~52)




「『「愛」という言葉』(P58~65より一部抜粋した文)
すると(サリバン)先生は、わたしをしずかにだいて、
「わたしは、ヘレンを、愛していますよ。」
と、ゆびで話してくださいました。
「『愛』ってなんですか。」
わたしはたずねました。先生は
「それはここにありますよ。」
というように、わたしのむねをゆびさしておっしゃいました。
そのときはじめて、わたしは、心臓の鼓動に気がつきました。
でも、わたしはそれまで、手でふれることのできるもののほかは
知らなかったのですから、先生のおっしゃることは、どうしても
わかりませんでした。
わたしは先生が手にしているすみれのにおいをかいでから、
半分はことばで、半分は手まねで、

「愛って、このあまい花のかおりのことですか。」

とたずねました。

「いいえ。」

そこで、またわたしはしばらく考えました。
わたしたちの上に、あたたかい太陽がかがやいていました。
わたしはそのあたたかさのくる方向をゆびさして、

「これが愛ではないのですか。」

とたずねました。
すべてのものをあたため、成長させる太陽ほど、うつくしい
ものはないように思えたからです。
しかしサリバン先生は、やはり首をよこにおふりになりました。
わたしはとまどってしまいました。
これがミモザ、これがすいかずら・・・というように、先生はこれまで、
なんどもわたしの手にふれさせて教えてくださいました。
それなのに、先生は、「愛」を見せてくださらないのでしょう。
わたしはふしぎでなりませんでした。
それから一日、二日たってからのことです。
わたしは、大きさのちがうビーズ玉を糸にとおすことを教えてもらって
いました。
大きいのを二つとおすと、つぎに小さいのを三つ、というふうに、
つりあいのよいようにとおしていくのです。
いくらやっても、わたしはすぐにまちがえました。
そのたびに、先生はわたしのまちがいを、こんきよく、しんせつに
教えてくださいました。
それでもまだ、わたしはまちがえてしまいました。
(どうしたらいいのかしら。)
わたしはしばらく手を休めて、考えこんでいました。
すると、サリバン先生は、わたしのひたいに、ゆびで、「考える」と、
お書きになりました。
わたしは、はっとしました。
いまじぶんの頭の中におこっているふしぎなはたらき、それが「考える」
ということなのだなと、はじめて気がついたのです。
手にさわることのできないもの、かたちでいうことのできないものにも、
名まえがあるのだということが、はじめてわかったのです。
長いこと、わたしはじっとしていました。
ひざの上のビーズのことを考えていたのではありません。
(あの「愛」というのも、この「考える」と同じような、かたちのない、
手にふれることのできないものではないかしら。)
わたしは、そんなことを考えていたのでした。
その日は朝から、空はどんよりとくもって、ときどき雨さえふって
いました。
ところが、そのとき、きゅうに南国のかがやかしい太陽が、ぱっと
さしこんできたようでした。
わたしはもういちど、先生にうかがってみました。

「これが『愛』ではないのですか。」

すると、先生はちょっと考えるようにしてから、

「そうね、『愛』というのは、太陽がでてくるまえに、空にあった雲
のようなものよ。」

わたしには、いっそうわからなくなりました。
すると、先生はすぐに、もっとやさしいことばで、つづけてください
ました。

「雲は、さわることはできないでしょう。
でも、雨はかんじますね。
そして、雨がふると、草木や、かわいた土が、どんなによろこぶかも、
ヘレンは知っているでしょう。
『愛』もさわることはできないもの。
でも、その『愛』が、すべてのものにそそがれるとき、そのやさしい
よろこびは、かんじることができるものよ。
『愛』がなければ、しあわせもないし、きっと、あそびたくもなくなって
しまうわ・・・。」

先生のおっしゃることが、はじめてよくわかりました。
わたしは、じぶんの心と他(た)の人々の心とのあいだに、目に見えない、
さわることのできない、うつくしい糸がむすばれていることがわかった
のです。」(P62~65)


「わたしが二つ、三つのことばをつづれるようになると、サリバン先生は
さっそく、文字をうきぼりに印刷した、ほそ長い厚紙をくださいました。
それは、ものの名や、はたらきや、性質をあらわした単語でした。
それをならべて、みじかい文章がつくれるようになっているわくも、
いっしょにいただきました。
わたしは、わくの中に文字をいれて文章をつくるまえに、まず実物で
文章をつくりました。
たとえば、「人形」「あります」「ベッド」「の上に」という紙をとりだして、
「人形」は人形の上に、「ベッド」はベッドの上におきます。
それから人形をベッドの上におき、そのよこに、「ベッド」「の上に」
「あります」という紙をならべるのです。
こうしてわたしは、一つ一つの単語から文章をつくり、文章とじっさいの
意味とをむすびつけてみるのでした。
先生のお話によりますと、ある日わたしは、じぶんのしているエプロンに、
「少女」ということばをピンでつけて、おしいれの中にはいり、おしいれの
たなに、「おしいれ」「の中に」「います」ということばの紙をならべたり
したそうです。
このあそびほどおもしろいあそびはありませんでした。
へやの中にあるものをかたっぱしからつかって、わたしは毎日何時間も、
先生と、こうしたたのしい勉強をつづけました。」
(P66~67)


「こんなちょうしですから、わたしは、いわゆる「勉強」という気はすこしも
しませんでした。
みんなたのしいあそびのように思っていました。
サリバン先生は、どうしてわたしのしたがっていることや、よろこぶことを、
あんなによくわかってくださったのか、いまから考えてもふしぎなくらいです。
やはり、長いあいだ、目の見えない人たちといっしょにくらしてこられた
からでしょうか。
また先生は、すばらしい詩人でした。
先生は、まえに教えたことをおぼえているかどうかためすために、
問題をだすようなことは、けっしてなさいませんでした。
あまりわたしが興味をもちそうにない、理科の専門的なことばなどは、
ほんのすこしずつすこしずつ、それもかならず、ごく身近な問題として、
具体的に教えてくださいました。
ですから、むずかしいことでも、わたしは知らないままにおぼえていました。
わたしたちの教室は、家の中ではなく、いつも森や、しばくさの上でした。
ですから、そのころの勉強の思い出には、まつ葉のかすかなやにの
においや、のぶどうのかおりがしみています。
わたしの勉強には、いろんなものが参加してくれました。
うるさくなきつづけるかえる、きりぎりすやこおろぎ、わた毛につつまれた
ひな鳥、それに野の花、すみれ、新芽をふきだした果樹・・・。」
(P67~68)

「「だれが水に塩をいれたの?」」(P86)

「『話しかた』
わたしが口で話をすることを学びはじめたのは、ボストンにでてから二年
たった1890年の春のことでした。
どうにかして人にきこえる声をだしたいという気もちは、その以前から
ありました。
わたしは、かた手でじぶんののどをおさえ、かた手でくちびるのうごきを
さわりながら、よく、わけもわからない声をだしていたものです。
じぶんののどばかりではありません。
なんでも音をだすものがおもしろく、のどを鳴らすねこや、ほえている
いぬをさわるのが大すきでした。
また、歌をうたっている人ののどにも手をやってみましたし、だれかが
ひているピアノの上に、手をおくのもすきでした。」
(P99)


「お友だちの話によると、ないたり、わらったりは、ふつうの子とおなじ
ようにしていたそうです。
まえにもいいましたように、「ウォーター(水)」だけは、「ウォーウォー。」
と発音していましたが、それもサリバン先生が教えてくださるように
なったころには、ほとんどききとれないくらいにしか、発音できません
でした。
そして、ゆびで話をすることをおぼえてからは、もうまったく、
口をつかわなくなってしまったのです。
まわりの人たちが、わたしとはちがう方法で話をしていることは、
かなり以前から気がついてはいました。
そして指話法(しわほう)では、どうしてもまんぞくしきれないものは
かんじていました。
友だちも、わたしにわるいと思ってでしょうか、わたしと話すときは、
かならずゆびをつかいました。
ですから、口で話をするくふうをする機会もありませんでした。
それでも、わたしはあきらめていたのではありません。
わたしが口で話す練習をはじめるようになったのは、ぐうぜんの
ことからでした。
この年の春、ローラ=ブリッジマンの先生で、ちょうどノルウェーや
スウェーデンを旅してこられたラムソンという先生が、わたしを
たずねてきてくださったのです。
そして、ノルウェーの女の子で、わたしとおなじように、耳もきこえ
なくて、目も見えない身でありながら、勉強して、りっぱに話ができる
ようになった子どもの話をしてくださったのです。
先生はただ、わたしをはげますために、こんなお友だちもありますよと、
かるい気もちでお話しになったのだと思います。
ところが、わたしはその話をきくと、もう、いても立ってもいられなくなりました。
「先生、わたしにも、すぐその勉強をさせてください。」
と、いっしょうけんめいおねがいしました。
ラムソン先生は、あまりきゅうにわたしがおねがいしだしたので、
ちょっとおどろかれたようですが、やはりボストンにあるろう学校、
ホレス=マン学校の校長先生、サラ=フラー先生のところへつれて
いってあげましょうと、やくそくしてくださったのです。
その年の3月26日、わたしはフラー先生のところへつれていって
いただきました。
フラー先生は、やさしい先生でした。
話をきくと、その場で、じぶんが教えてあげようといってくださいました。
フラー先生は、わたしの手をとって、じぶんの顔のところへもっていき、
声をだすときの舌やくちびるにさわらせてくださいました。
わたしはそれをいっしょうけんめいまねて、一時間のうちには、
M(エム)、P(ピー)、A(エー)、S(エス)、T(ティー)、I(アイ)の、
六つの発音ができるようになりました。
先生はその日から、十一回、わたしのために授業をしてくださいました。
そして、じぶんの口ではじめて、
「きょうはあたたかいです」
ということばができたのでした。
それはもちろん、とぎれとぎれの、どもりながらの発音だったにちがい
ありません。
でも、それはまさしく人間のことばだったのです。
しかし、十一回のみじかい勉強では、ただ発音の基本を学んだだけでした。
わたしの話すことばは、フラー先生とサリバン先生にはわかっていただけ
ましたが、そのほかのかたには、わたしが話している百分の一もわかって
いただけなかったにちがいありません。」(P100~104)

「フラー先生の勉強がおわると、あとはまた、サリバン先生といっしょに、
くりかえしくりかえし練習をつづけなければなりませんでした。
サリバン先生は、一つでも発音がうまくできないと、わたしといっしょに、
何時間でも、できるまで練習をつづけてくださいました。
わたしはなんども、うまくできなくて、
(ああ、やっぱりだめなんだわ。)
そう思うときがありました。でも、つぎのしゅんかん、こんどうちに帰ったら、
母や妹と、口で話ができるのだと考えなおして、また勇気をだして、
できるまでつづけました。
こうして努力しているうちに、ゆびで話すより、口で話すほうがやさしく
思えるようになりました。
それからわたしは、できるだけゆびをつかうことをやめました。
ただ、人の話をきくときには、あいての人のくちびるに手をあてて話をする
より、ゆびのほうがはやいので、サリバン先生も、ほかのいく人かの友だちも、
そのあとも、ずっと指話法(しわほう)でわたしに話しかけてくださいました。」
(P104~105)

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by bunbun6610 | 2014-05-02 20:00 | 聴覚障害
http://blogs.yahoo.co.jp/uchayamamingkun2000/MYBLOG/yblog.html


『名語録/ウィリアム・アーサー・ウォード』
(炎のジョブコーチさん)
〔2014/4/30(水) 午後 11:25〕


英国の哲学者ウィリアム・アーサー・ウォードのことばです。
(たまたまFMラジオで耳にしました)

ジョブコーチ支援にも通じるいい言葉です。
対象者や職場の方へ火をつけられる支援を目指したいですね。


普通の教師は、言わなければならないことを喋る。

良い教師は、生徒に分かるように解説する。

優れた教師は、自らやってみせる。

そして、本当に偉大な教師というのは、生徒の心に火をつける。




================================




なるほど。
民間企業の人事部障害者担当者や、障害者配属部門で働いている
先輩社員にとっても、これはいいアドバイスになると思う。

また、当ブログで5月連載開始した

『『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)』

にも、あの名家庭教師サリバン先生が登場する。
サリバン先生には、「良い教師」と「優れた教師」の二つの側面が
あるのではないだろうか。
ヘレンに無理強いは一切せず、それでいて静かな熱意を持った方
だと思う。
他にも、ヘレンに大きな影響を与えた、素晴らしい方々が登場する。
5日連続ですが、是非、読んでいただきたい。


ついでにですが、当ブログの下の記事にも「優れた教師」の事例がある。

『障害者雇用で見える、デキる上司と、デキない上司の違い』
〔2014-04-11 18:30〕

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by bunbun6610 | 2014-05-01 20:23 | 就労後の聴覚障害者問題B
『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




正直、ヘレン=ケラー氏のことは、ほとんど何も
知らなかった。

盲ろう者の会でも

「盲ろう者というと、みなさんはよく、
有名なヘレン=ケラーのことを思い出すかも
しれません。
しかし、そのような恵まれた例は少ない。」

というふうに言われる。

特例的な人だというふうなのだ。

それと、ヘレンには「心の清い、聡明な人」という
イメージがある。
なぜか、障碍者というイメージがしないのだ。
それはヘレンがもともと、そういう素質のあった
人で、なおかつ、サリバン先生という、
優秀な家庭教師にも恵まれていたからだ、
と思っていた。

しかし、この本を読むと「それだけではなかった」
ということがわかる。

世の中では、あまりにもサリバン先生の功績が
有名になってしまっていないだろうか。
特に、ろう者社会からは「手話弾圧者」として
有名になってしまったベル博士(※)についての、
ヘレンの思いというのは、正反対のように
なっている。

(※)アレクサンダー=グラハム=ベル博士


ヘレンの場合、普通の盲ろう者とは育った
環境が違っていたから、そうなったのだろう。


心の清らかな障害者というのは、健常者は
深く心打たれると思うが、それは障害者に
とっても同じだ。

二十世紀の障害者で二人挙げるとすれば、
私はヘレンと、エレファントマン(ジョン・メリック
という男性らしい
)だろう。


日本人なら、金子みすゞ を選ぶかもしれない。


曲がった心を持ってしまった私には、
あの詩のように思うことはできないが、
それでも憧れることは確かだ。



==========================



ヘレン=アダムス=ケラー年表(一部省略有り)

1880年(明治13) アラバマ州タスカンビアに生まれる。
1883年(明治15) 病気で失明、耳もきこえなくなる。(1歳)
1886年(明治20) ベル博士に会い、パーキンズ学院
を紹介される。(6歳)
1887年(明治20) アン=マンズフィールド=サリバン
先生が、家庭教師としてやってくる。(7歳)
1888年(明治21) パーキンズ学院に入学。
1890年(明治23) サラ=フラー先生に発声法を学ぶ。(10歳)
1894年(明治27) ライト=ヒューマソンろう学校に入学。(14歳)
1896年(明治29) ケンブリッジ女学校に入学。(16歳)
1900年(明治33) ラドクリフ大学に入学。(20歳)
1931年(昭和6) 第一回世界盲人大会に出席。(51歳)
1936年(昭和11) サリバン先生死去。(56歳)
1937年(昭和12) 日本にくる。各地で講演。(57歳)
1948年(昭和23) 日本にふたたびくる。(68歳)
1952年(昭和27) フランスからレジオン=ド=ヌール勲章
をおくられる。(72歳)
1955年(昭和30) 三度目の日本訪問。(75歳)
1968年(昭和43) ウェストポートの自宅で死去。(87歳)




「人生におけるまれな不幸、見えない、きこえない、
口がきけないという、三つのくるしみをせおいながら、
しかも、『わたしは幸福です。』といいきれる人も、
また、まれでしょう。
ヘレン=ケラーが『二十世紀の奇跡の人』といわれる
のもとうぜんです。」
(P217 『解説 愛とまごころの教育』〔保永貞夫〕より引用)





「そして、あのうっとうしい二月に、おそろしい病気が
やってきて、わたしの二つの目と、二つの耳を、
永遠にとざし、生まれたばかりの赤んぼうとおなじ状態
に、つきおとしていったのです。
その病気は、急性の胃と脳髄の充血だということでした。
お医者さまは、その高いねつをみて、とてもたすかる
みこみはないと、はじめからきめていました。
けれどふしぎなことに、ある朝早く、ねつはでたときと
おなじように、とつぜん、わけもなくひいてしまいました。
その朝の家族のよろこびようったらありません。
そして、だれひとり、お医者さまでさえ、わたしが一生、
見ることも、きくこともできないからだになっていようとは、
気がつかなかったのでした。
わたしはいまでも、おぼろげながら、この病気のようすを
記憶しているように思います。
目をさましさえすれば、母はいつもそこにいて、
わたしのくるしみをなぐさめようと、いろいろにして
くれました。
また、くるしいゆめうつつにも、あんなにすきだった光が、
日一日とかすんでいくのを知ったときのかなしいおどろきは、
とうてい、わすれることはできません。
それからのちは、だんだん、光も音もない世界にもなれて
しまい、かつて見聞きすることができたということも、
あのわたしの先生――サリバン先生があらわれて、
わたしのとざされたたましいをときはなってくださるまで、
すっかりわすれておりました。
けれども、わたしのしょうがいのさいしょの19か月の
あいだに心にやきつけられた、広いみどりの野、
光にみちた空、木や花のささやきは、けっしてわすれる
ことはできません。」(P15~17)


「病気がなおってしばらくのあいだのことは、
よくおぼえておりません。
ただ、いつも母のひざの上にこしかけていたことと、
母が、なにか用事で立ちあがると、その着物のすそを
つかんで、どこへでもいっしょにいったことだけは、
わすれません。
しかし、そのうちにわたしは、手さぐりで、もののかたち
やうごきを知るようになりました。
やがて、じぶんの意志を人につたえることがひつように
なり、かんたんな身ぶりであいずをするようになりました。
首をよこにふれば「ノー」、うなずけば「イエス」、
ひっぱるのが「きてちょうだい」、おすのが「いってちょうだい」
です。
パンがほしくなると、パンを切って、バターをぬるまねを
しました。
アイスクリームがほしくなると、冷凍庫をうごかす身ぶりを
しました。
これはときどき、ほかのものをつくってほしいこととまちがえ
られましたので、「つめたい」ということをしめすために、
身ぶるいをしました。
母のほうでも、わたしにいろんなことをわからせるのに、
ずいぶん苦労しましたが、やがて、母のしてほしいことは、
なんでもわかるようになりました。
母がわたしになにかとってきてほしいと思ったときは、いつもすぐに
わかって、二階へでも、台所へでも、どこへでも走っていきました。
ほんとうに母の愛のこもった知恵のおかげで、わたしの長い長い夜も、
けっしてくらいばかりではありませんでした。」(P17~18)


「わたしは、じぶんが、ほかの人とちがっていることを知りはじめたのは、
いつのころだったでしょうか。
それは、はっきりとはおぼえていませんが、サリバン先生がきてくださる
よりは以前のことでした。
母や友だちが、ほかの人とお話をするときには、わたしのように手まね
でなく、口をつかって話すのだということに気がついたのも、そのころの
ことでした。
わたしはなんども、話しあっているふたりの中にはいって、ふたりの
くちびるにさわってみました。
しかし、それがなんのことなのか、さっぱりわかりません。
わたしもいっしょうけんめい、くちびるをうごかしてみました。
もちろん、ことばになるはずがありません。
わたしはだんだん、いらいらした気持ちになり、しまいには、ふたりの
あいだでじたんだをふみ、人をけとばし、大声でわめきちらして、
あげくのはてには、その場になきくずれてしまうのでした。
そんなわたしにも、じぶんがわるいことをしたということはわかって
いたようです。
乳母のエラは、わたしがけるといたがりましたし、わたしはじぶんでも、
かんしゃくをおこしたあとは、すこしもたのしくなく、いつもかなしく
後悔しました。
かといって、かんしゃくをやめることはできませんでした。」
(P20~21)

「ほろほろちょうは、人目につかないところに巣をつくりますが、それを
さがすのが、わたしは大すきでした。
「マーサ、ほろほろちょうのたまごをさがしにいきましょうよ。」
口ではいえませんから、両手でにぎりこぶしをつくって、それを地面に
おく身ぶりをします。
それは、草むらにあるまるいもの、つまりたまごのことなのです。
マーサは、いつもすぐにわかってくれました。
たまごが見つかったときのうれしさったらありません。」(P24)


「わたしはかっとなって、ゆりかごにとびつくなり、それをひっくりかえして
しまいました。
運よく母がそれを見ていて、おちかける赤んぼうをだきとめてくれました
からよかったものの、もしそうでなかったら、妹は死んでいたかもしれません。
このように、目と耳をうばわれていたわたしは、やさしいことばや、なんでも
ないちょっとしたしぐさからしぜんに生まれてくる愛情というものを、ほとんど
知ることができなかったのです。
けれども、のちになって、ことばというものをあたえられてからは、たとえ、
妹がわたしのゆびで話すことばを理解しなくても、わたしもまた、妹の
かたことがわからなくても、ふたりはいつも手をつなぎ、どこへでもいっしょに
でかけるようになりました。」(P35~36)


「しかし、年とともにわたしは、だんだん、じぶんの思うことを、もっとたくさん
人につたえたいとねがうようになっていきました。
わずかなわたしの手まねや身ぶりでは、じゅうぶんにわかってもらえない
ことがふえてきたのです。
わたしはもどかしくて、すぐにかんしゃくをおこしてしまいました。
これほどなさけない気持ちはありませんでした。
それは、なにか目に見えない力が、わたしをじっとおさえているような、
いたたまれない気持ちです。
わたしはその力をはらいのけようと、必死にもがきました。
そんなとき、母がそばにいてくれると、わたしは母の両うでの中で、
力いっぱいあばれ、しまいには力つきて、なきくずれてしまうのです。
そのときのみじめな気もちったらありません。
そんなかんしゃくを、毎日毎日、毎時間毎時間おこしつづけるように
なりました。
父も母も、これにはほとほとこまりぬいたようでした。
しかし、わたしたちのすむ近くには、盲学校も、ろう学校もありません。
かといって、タスカンビアのような、こんなへんぴなところへ、耳がきこえ
なくて目が見えない子を教えにきてくれるものずきな人も、見つかりそう
にありませんでした。
それに、だいいち、かんしゃくをおこしたがさいご、まるでけもののように
あばれまわるわたしを、はたして教えることができるかどうか、友だちや
親類のものは、それを心配していました。」(P36~37)


「この大きなビーズをひきぬいて、それをおばにさしだしました。
「これを人形にぬいつけてちょうだい」
わたしはおばに、いっしょうけんめいあいずをしました。
おばははじめ、わたしがなにをしてくれといっているのか、ちょっとわから
ないようすでしたが、
「わかったわ。このビーズを、お人形さんの目にしてほしいというのね。」
というように、わたしの手をとって、目にあててくれました。
わたしは、「そうだ、そうだ。」と、いっしょうけんめいにうなずいてみせました。」
(P40)



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by bunbun6610 | 2014-05-01 20:00 | 聴覚障害