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『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 5/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「『残された唯一の道』
さらなる絶望感に打ちひしがれ、作曲家人生をリタイアするという決意を
強くしたものの、いざその先の就職云々(しゅうしょく・うんぬん)に思いを
めぐらすうち、恐ろしいことに気がつきました。
ただの全聾者(ぜんろうしゃ)でしかない私には、どこにも職がないことです。

私は、あまりに音楽のためだけに生きすぎてしまっていたのです。
もし、聴覚障害がなければ、よしんば作曲家の道を退いたとしても会話が
できるのですから、どんなことでもできたでしょう。
これまでのアルバイトのようにして、仕事を見つけることもできたはずです。

しかし、全聾になったいま、そうした仕事を見つけることは極めて困難でした。

一方、私には絶対音感があり、全聾になってなお運良く作曲することが
できる――。
逆に、いまの私にできることは作曲だけだったのです。
そのとき私は、

「耳が聞こえなくなったからこそ、私には音楽しかなくなった」

という痛烈な逆説に思い至ったのです。

とはいえ、全聾者になったいま、これまでと同じように自分から積極的に
作品を売り込んだり、メディアに働きかけることは、どうしても聴覚障害を
売り物にしていると誤解されてしまいます。
それを避けてなお作曲家でありつづけるには、「作曲の隠者生活」を選択
するしかないと思いました。
あたかも隠者のように自分からは働きかけず、もし、私の音楽を求めて
くれる人が声をかけてくれたら、そのときには「山を下りて」ありがたく作曲
させてもらおう。

結果的にそれは、メディアから身を退くことを意味していました。」


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>「ただの全聾者(ぜんろうしゃ)でしかない私には、どこにも職がないことです。」


一つだけ道があるのですが、それは当ブログで述べている、
障害者雇用枠で雇ってもらい、単純絵労働をすることです。
音楽は諦めなければならないでしょう。

でも佐村河内氏は、障害者手帳の取得も拒んでいましたよね。
それでは、どこにも就職できないでしょう。

もしも、あなたも突発性難聴に襲われたなら、必ずこのような人生の岐路に
立たされてしまいます。

働き盛りの40歳以降になると、難聴になる確率が上がってくるそうです。
難聴になったり失聴してしまうと、精神的ショックを受ける人も少なくありません。
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by bunbun6610 | 2014-02-05 18:30 | 難聴・中途失聴

『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 4/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「それは幼少時によく演奏していたベートーヴェンの《月光》のメロディを
頭の中で流し、その旋律を五線紙に記譜していく、というものでした。
完成後に本物の楽譜と照らし合わせることで、自らの絶対音感を判断
してみようと考えたのです。
記譜を終え、そのスコアを楽譜と照合してみたところ、一音のミスもなく
完璧に記譜されていました。
少しだけ自信をつけた私は、管弦楽曲三十曲近くで次から次へとテスト
を重ねた結果、絶対音感がまったく衰えていなかったことを確認できた
のです。

――音が聞こえなくても作曲を続けられる!

そう確信したとき、初めて涙がこぼれました。

何とか作曲できる自信が持てるようになったころには、納期まであと
2ヵ月を切っていましたが、全聾(ぜんろう)となった私にはさらなる
過酷な試練が始まっていたのです。
それは、中途失聴者に起こりがちな、軽度より少し強い、いわば〈軽度上〉
の永続的な耳鳴りでした。
日を追うごとに耳鳴りの音量はどんどん巨大化し、全聾以前のそれよりも
激しくなっていきました。
それでも、持ち時間は限られていました。
全聾と激しい耳鳴りを考えれば、納得のいく作品に仕上げるには相当の
精神集中が必要とされることは容易にわかったのですが、それは困難を
極めました。
仮に耳鳴りの程度が同じであったとしても、外部の音が聞こえる状態での
耳鳴りと、外部の音がいっさい聞こえない静寂の中での耳鳴りとでは、
聞こえ方、感じ方がまったく異なるのです。
不快感や息苦しさは、全聾になってからのほうが圧倒的に増幅していました。
さらに耳鳴りは、分単位、ときには秒単位で突然大きな音量に変化する
という特徴を見せ始めていました。
頭の中にノイズなど存在しないのだ、と必死に自己暗示をかけながら、
ひたすら自身の内側に沸き起こる音楽にだけ意識を集中させるよう努め、
四苦八苦しながら作曲の筆を進めました。
睡眠時間を削り、少しでも作曲に費やす時間を捻出し、何とか納期ギリギリ
でスコアを提出することができました。

しかし、ほっとしたのも束の間、制作発表会までには二週間ほど余裕が
あったにも関わらず、その間、別のことが猛烈に私の頭を悩ませることに
なりました。
制作発表当日、テーマ曲の演奏終了後に、ステージ上で司会者と作曲家
の談話が行われることになったのです。

耳が聞こえないのに対談などできようはずもありません。

しかし、

「ほかのクリエーターすべてが対談を行うのに、大編成で生演奏まで披露
しておきながら、作曲家が抜けるのはありえない」

という理由で説得されては納得するしかありませんでした。

耳の障害をどうすればごまかせるのか。

私は打開策を求め、ありとあらゆる方法を模索してみましたが、答えなど
ありませんでした。
そのときの私はもはや誰とも会話のできない人間になっていたのです。
妻とでさえ、まともに会話ができません。
まず、相手に耳が悪いことを伝え、恐縮しながら筆談をお願いし、それに
先方が応じてくれて初めて会話が成立するのです。
当たり前ですが、耳が聞こえないとはそういうことです。
この先、誰とも会話しないで生きていくことは不可能です。
全聾者にそれは不可能です。
遅かれ早かれ知られてしまうことでした。

すべてをさらけ出す――。

私に残された道はそれしかありませんでした。」


===================================



>「絶対音感がまったく衰えていなかったことを確認できた」


ろう者と難聴者・中途失聴者者の違いがわからない健聴者が、よくいる。

「ろう者はしゃべれないのに、中途失聴者者は何でしゃべれるのか?」

と聞かれることがある。
違いは何かと言うと、一般的には「母語が違うから」といった説明法がある。
しかし、これだけではやはり、納得できていない健聴者も案外少なくない
ことに気づく。
私は、どのように説明すればより理解してもらえるのか、今も苦心している。

「難聴者や中途失聴者は両耳を手で閉じても、しゃべることができる。
当たり前じゃないか」

と説明してみたことがあったが、健聴者がろう者と比較すると、
理解できなくなる人もいるらしい。
そういう健聴者は、ろう者と中途失聴者者とをすぐ、
混同してしまうようなのだ。

何と言ったらよいのかわからないが

「聴力と、発語力は比例する」

と思っている健聴者もいるらしい。

自分のことを「全聾」とか「全く耳が聞こえません」と言うと、

「それではあなたはろう者ですね。
ろう者なら、どうしてそんなにしゃべれるのですか?」

などと聞き返されたりする。
それで返事に困ってしまう場合がある。

しかし、佐村河内氏の言う「絶対音感」が、その答えになるのだとわかった。
耳が聴こえなくなっても、まだ正確な絶対音感を持っているうちならば、
発音がきれいにできるのではないだろうか。
つまり、音声についての正確な記憶、イメージ力があるなら、
耳が聴こえなくなっても、それを使いこなすことはまだ可能だということだ。

もしも、音声の記憶がなかったり、失くしてしまったり、
イメージ力がなかったなら、それは再現のしようがない。
知らないものはできないのだから。



>「中途失聴者に起こりがちな、軽度より少し強い、いわば〈軽度上〉
の永続的な耳鳴りでした。」


耳鳴りに悩まされている難聴者や中途失聴者者は多い。
かなりのストレスになってしまい、健康悪化につながる。
不眠症になる人もいる。


>「制作発表当日、テーマ曲の演奏終了後に、ステージ上で司会者と作曲家
の談話が行われることになったのです。
耳が聞こえないのに対談などできようはずもありません。」


>「耳の障害をどうすればごまかせるのか。」

>「誰とも会話しないで生きていくことは不可能です。
全聾者にそれは不可能です。」



聴覚障害者が会社面接、職場、仕事で一番困るのが、このようなことだ。
ごまかすのに悩むこともある。
人と会うと障害が起こる。
しかし、それは耳が悪いから、という障害が最大要因なのではない。
コミュニケーション方法の違いで生じるのである。



===================================


「『悪夢のような光景』
私は『鬼武者』制作発表会で耳の障害が公になることを観念すると同時に、
ある重大な決意をしました。
今回の大編成によるメインテーマの作曲で、私は全聾になっても譜面上
での作曲は可能だと確信していました。
しかし、これまで聴覚障害を隠し通してきたのには、理由がありました。
一つは、耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。
それだけはどうしても避けたかったのです。
自分の作品はいっさいの同情なしに正しく評価されなければならない、
たとえそれが「クソだ」という評価であっても、です。
もう一つは「聴覚障害を売り物にした」という誤解も避けられないだろう、
ということです。

この二つの理由が、この先間違いなく、自らをひどくみじめな思いに陥らせる
であろうことはわかっていました。
・・・(中略)・・・
考えに考えたあげく、私は答えを導きだしました。――『鬼武者』
を最後に作曲家人生からリタイヤしよう、と。」



===================================



>「これまで聴覚障害を隠し通してきたのには、理由がありました。
一つは、耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。
それだけはどうしても避けたかったのです。
自分の作品はいっさいの同情なしに正しく評価されなければならない、
たとえそれが「クソだ」という評価であっても、です。
もう一つは「聴覚障害を売り物にした」という誤解も避けられないだろう、
ということです。
この二つの理由が、この先間違いなく、自らをひどくみじめな思いに陥らせる
であろうことはわかっていました。」


このために犠牲を払ってきたというのが、私には信じられなかった。
あまりに大きな犠牲を払ったと思う。
それは、この本をもっと後まで読み進めていけば、わかってくると思う。


===================================


「今朝家を出る前に、連れて行くべきか否か悩んだ弟の亨(とおる)の写真
のことを思い出したのです。
いったんは胸ポケットに収めたのですが、考え直して、結局〈音楽室〉に
置いてきたのでした。

「お兄ちゃんの曲の演奏会に僕を誘うんじゃったら、《交響曲第一番》のとき
にしてぇよね!」

と、最後の言葉を残して逝(い)った弟。

「もし、おまえが生きていたら、今日の演奏会にきたいといっただろうか?」

私は心の中でそう問いながらも、すぐに自分勝手な答えでその問いを
打ち消してしまいました。

「これを最後にリタイヤしようと考えている、弱っちい兄貴に会わずにすんだ。
おまえは今日こなくて正解だった」

と。
耳鳴りの音が減少するとともに、あの絶望感が静かに戻り始めました。
――これは偏執狂者(へんしゅうきょうしゃ)が見る悪夢なのか?
まだ吐き気が残る胸の中に絶望感がどっしりと定着したとき、私はあたりが
暗くなっていく感覚を確実に感じていました。
そして、うなだれて床に視線を落としたときです。
扉下の隙間に差し込まれた白いメモ書きが目に飛びこみ、私はドキリとしました。
紙にはこう書かれていました。

〔佐村河内さん、みんなが探しています〕

慌てて扉を開けると、私を確認して安堵(あんど)した様子のスタッフが3人
いました。

「なぜ私がこの中にいるとわかったのですか?」

と問うと、一人が

〔いくらノックしても返事がないから、佐村河内さんだと確信しました〕

と紙に書いてくれました。
それは耳が聞こえない人だ、ということを意味していました。
私を探していたのは、問題が発生したので指揮者が至急話したがっている、
という理由からでした。」


「『死んだ“作曲家”』
指揮者のもとに行くと、彼は楽譜のある小節を指差し、紙にペンで記しました。

〔この一小節は実際に鳴らして(演奏して)みると、一つのパートがほかの
楽曲群にマスキングされてほとんど聞こえなくなるのですが〕

「このパートは瞬間的なサブリミナル的効果をねらったものだけれども、
あなたの指摘も否定できない」

私はそう答えながら、まさかこの箇所の不具合を鋭く指摘してくるとは、
と内心思っていました。
じつは作曲中、この部分の実験的試みを行うべきか否か、一度悩んだのです。
しかし、あまりに時間がなかったので、頭の中で時間をかけてしっかり響きを
確認するということを怠ったまま、見切り発車的に記譜していました。

〔このパートが入ることで全体の響きが一瞬にごって聞こえるので、
これをカットしたバージョンを聴いてもらって気に入っていただけたら・・・〕

指揮者はそこまで書き、瞬時に顔を青ざめさせ、

「聴けないんでしたね。
すみません」

と謝罪しました。
私も瞬時に青ざめました。
しかし、それは不具合を指摘されたからではありません。
彼の指揮や提案はもっともなことでした。
私が青ざめたのは自分が、“死んだ作曲家”になっていた、と気づいたからでした。

現役の作曲家なら、通常自分で指揮をします。
あるいは指揮はしなくとも演奏に立ち会い、指揮者の感じた音のバランスを
自分の耳で確認し、違うと感じればその場で訂正し、あれこれオーケストラに
鳴らさせ、それを再び自分の耳で選別し、最も納得した響きを決定採用する
のです。

ところが、私にはその耳がない。
頭の中のオーケストラしか聴くことのできない私には、作曲後、実音に頼って
改訂するこができません。
だとすれば、私の音楽は作曲時においてすでに“完璧”でなければならなかったのだ!
 という思いが深く胸に突き刺さったのです。
死んでしまった作曲家は、自分の音楽を聴くこともできなければ、後世の指揮者が
感じた音のバランスに口出しすることもできません。
死人に耳なし、死人に口なしです。
死んだ作曲家に改訂は不可能なのです。

つまり、私の作品は完成した時点で、すでに死んだ作曲家の作品と同じなのだと
思いました。

私自身がまさに“死んだ作曲家”だったのだ、と気づいた瞬間でした。

結局は、録音時間も迫っており、私がその場で集中し、しっかり響きを確認して改訂
する時間がなかったため、問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」


「私は客席に戻りましたが、今度はスタッフの集まる一階席ではなく、誰もいない
二階席へと向かいました。
自分の創った音楽を自分で聴くことができない人間が、自分の音楽を堪能している
人間たちの中に身を置くことは、もはや耐えがたいことになっていたのです。」


「やがて録音も終了し、観客を入れて本番を迎えました。
私は本番演奏を舞台袖から見つめました。
虚無の目で・・・。
演奏が終わり、ステージへ呼び出されました。
当てられるスポットライトがまぶしく、ステージ上からは客席は暗くてよく見えません。
聞こえない私は、観客の拍手を想像して、形式通り頭を下げるほかありませんでした。
白状するならば、絶望感に包まれていたステージ上の私は、まったくの無感動でした。
その後、各クリエーターと司会者とのトークコーナーが始まりました。
やがて作曲家の番となり、私は筆談者を伴い、再びステージに上がりました。
司会者はまず私の耳の病気の説明をしたうえで、続けて、事前に頼まれて書いて
おいた〈作曲家の本作品への思い〉という私の短い原稿を朗読しました。
最後は筆談者の突きだした紙に書かれた〔終、お客さまにお辞儀を〕という指示に
機械的に従い、私の長い一日が終わりました。

こうして、夢にまで見た自作劇伴音楽(じさく・げきばん・おんがく)の、一流オーケストラ
による生演奏の場面は「悪夢の象徴」へと姿を変え、その一日は忘れがたい日として
深く胸に刻まれたのです。」



===================================



>「頭の中のオーケストラしか聴くことのできない私には、作曲後、実音に頼って
改訂するこができません。
だとすれば、私の音楽は作曲時においてすでに“完璧”でなければならなかったのだ!
 という思いが深く胸に突き刺さったのです。
死んでしまった作曲家は、自分の音楽を聴くこともできなければ、後世の指揮者が
感じた音のバランスに口出しすることもできません。
・・・(中略)・・・
つまり、私の作品は完成した時点で、すでに死んだ作曲家の作品と同じなのだと
思いました。
・・・(中略)・・・
結局は、録音時間も迫っており、私がその場で集中し、しっかり響きを確認して改訂
する時間がなかったため、問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」



>「自分の創った音楽を自分で聴くことができない人間が、自分の音楽を堪能している
人間たちの中に身を置くことは、もはや耐えがたいことになっていたのです」


>「その後、各クリエーターと司会者とのトークコーナーが始まりました。
やがて作曲家の番となり、私は筆談者を伴い、再びステージに上がりました。
司会者はまず私の耳の病気の説明をしたうえで、続けて、事前に頼まれて書いて
おいた〈作曲家の本作品への思い〉という私の短い原稿を朗読しました。
最後は筆談者の突きだした紙に書かれた〔終、お客さまにお辞儀を〕という指示に
機械的に従い、私の長い一日が終わりました。」



筆談ホステス』の著者・斉藤里恵氏(聴覚障害者)も、
講演の依頼を受けた。
佐村河内氏も、その斉藤氏の場合と同じような対談方法が
採用されたようです。(※)

この頃の佐村河内氏は、身体障害者手帳を取得していません。
彼自身、障害者福祉のことを調べていないし、
聴覚障害者への通訳(障害者自立支援法)のことなども、
まだ知らなかったようだ。


(※)
http://blog.goo.ne.jp/kazutou-s/e/02266a5f6c36e0c119e501eb43b510d0

『筆談ホステス』/ろう当事者木村晴美さんの感想
〔2010-02-17 11:52:18〕

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆ろう者の言語・文化・教育を考える◆ 
No.157 2010年2月17日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『■<文化> ドラマ『筆談ホステス』を見て』
には、次のように述べてある。

 「青森県の新成人を祝う行事に講師として招かれたとき、
自分の話は5分だけで、その後20分はあらかじめ用意されていた
質問に答える形で進められたそうだ。
もちろんすべて筆談である。」


 


通訳がなく、健聴者に一方的につくられたシナリオの通りにやるだけ、
というやり方は、健聴者にしてみれば

「聴覚障害者へ、できる限りの配慮をしてやったつもり」

であろう。
しかし、自分の存在感を感じることはできない。
自分だけ取り残されて、ものごとが進み、決定されてゆく。
そこには、たとえようもない己の非力を感じる。
結局、どうすることもできない佐村河内氏にも、
こう言っている箇所がある。

>「・・・問題箇所は指揮者に一任することにしました。
私はそのことをとても不甲斐(ふがい)なく思いました。」


仕方ないとはいえ、これは寂しいことだ。
自分のつくった曲を真の完成に導けないのは、
さぞ悔しい気持ちもつきまとうことだろう。

音声中心の世界では、聴覚障害者は疎外感、
虚しさを感じるばかりだ。
それが、ほとんどの聴覚障害者が味わってきた苦しみだとは、
健聴者には全く気づかない。
聴覚障害とは、そういうものなのだ。
まさに「関係障害」である。
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by bunbun6610 | 2014-02-04 18:30 | 難聴・中途失聴

『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 3/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「このころには右耳の聴力も次第に衰え、再び補聴器をつけるようになり、
私は人との会話が少なくてすむ道路清掃のアルバイトにつきました。
夕方6時から明け方までの肉体労働に携わり、「先行」と呼ばれる職種を
担当していました。
数時間遅れで同じルートにやってくるスイーパー(ゴミを吸引する大型清掃
車)の前を先行し、歩きながら竹ぼうきを使って国道の路肩のゴミを道路側
に掃きだしていく作業です。

一年間住み込みで働いたのですが、この職場では素晴らしい仲間たちと
めぐり合うことができました。
よくぞここまで集まったな、というほどの変わり者集団でした。
みなそれぞれに事情を抱えた人ばかり。
世間的に見れば、ほめられたものではありません。
女房子供に愛想(あいそ)をつかされて逃げられた「荒くれおやじ」、
再婚し新しい家族のために残業マニアと化した「頑張り屋のアニキ」、
ギャンブルで莫大な借金を抱えた「自称ダメ男」、
神秘主義とアニメをこよなく愛する「心優しい対人恐怖症男」・・・。

この愛すべき「変態おやじ」たちにささえられていたからこそ、きつい仕事も
続けることができたのです。
彼らは初めて、私の発作のつらさを理解してくれた人たちでした。
自分のつらさを知るぶん、他人のつらさを感じられる人たちでした。
発作で倒れてSOSを伝えると、仲間はすぐに無線で連絡を取り合い、
応援を寄こしてくれました。
ここの親方は口は悪かったのですが、本当に心の優しい人で、親方が病気を
理解してくれていなければ、長く仕事を続けることはとうてい無理だったと
思います。」


「食べ終わると、お決まりのおやじたちの苦労話を聞くのがとても楽しみでした。
一人ひとりのちっぽけな人間たちは、みなそれぞれに悲しくも壮大なドラマを
持っているのでした。
おやじたちは、ときおり私の音楽への思いを聞いてくれ、いつもこういうのです。

「俺たちが応援するから夢に向かって頑張れ、そして羽ばたけ。
でも、もし夢が破れても心配するな。
俺たちはいつでもおまえを受け入れるよ。
いつでも帰ってこい!」

社会の底辺とさえいわれる環境で、たくましく生きる彼らは本当に素晴らしい
仲間たちでした。
私は彼らから、人間の生々しい現実、飾り気のない優しさ、そして何より他人の
苦をわがことのように感じる尊さを教わったのでした。」



======================================




>「彼らは初めて、私の発作のつらさを理解してくれた人たちでした。
自分のつらさを知るぶん、他人のつらさを感じられる人たちでした。」




>「社会の底辺とさえいわれる環境で、たくましく生きる彼らは本当に素晴らしい
仲間たちでした。
私は彼らから、人間の生々しい現実、飾り気のない優しさ、そして何より他人の
苦をわがことのように感じる尊さを教わったのでした。」



なぜ多くの人が、佐村河内氏の音楽に感動したのだろうか。
その音楽はもしかして、人間らしい“ぬくもり”とかを
感じることができる音楽だから、なのでしょうか?

この箇所を読むと、そんなふうに想像できる部分だと思う。

聴覚障害者同士で心の交流ができる方法は、
実は音による方法では難しい場合が多い。
視覚による方法である。
残念だが、彼が全身全霊をもって創り出した音楽によって、
ではないのだ。

同じ障害を持つ人々からの、佐村河内氏への関心が高い
にもかかわらず、障害を乗り越えた彼の音楽を聴くことが
できないというのも、皮肉ではないか。

音楽は、健聴者のためにつくられる。
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by bunbun6610 | 2014-02-03 18:30 | 難聴・中途失聴

『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 2/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)





「『3年間の決意』
メンバーとの話し合いの末、そのバンドは解散する道を選びました。
私はさておき、彼らは情熱、技術ともに本当に素晴らしいバンドマン
でした。

まわり道をしましたが、こうして私はクラシック作曲家としての夢を
つかむため、打ち込みによる劇伴(げきばん)用音楽の作曲を再開
しました。
26歳のころのことです。

このころ、右耳は低下し始めた当初の聴力を保っていましたが、
左耳の聴力はさらにだいぶ落ちてきており、耳鳴りも変わらずに
続いていました。
私の両耳のステレオ感は、以前よりも悪い形で再び失われてしまった
のです。
いままで、売り込みを続けながら積みあげてきた自分の音楽が正当
に評価されるためにも、このことだけは誰にも知られたくありません
でした。
聴覚障害が知られてしまえば、今後自分が書く楽曲に同情票が
入ってしまうであろうことが簡単に予想できたからです。
それだけはごめんだ! という気持ちを強く抱いていました。

* * *

私はある朝、保険証片手に始発電車に飛び乗りました。
行き先は都心からなるべく離れた田舎町。
急行や特急電車を乗り継ぎ県境をまたいで3時間半、
ひたすら遠くへと向かいました。

私の珍しい名前では都心の耳鼻咽喉科に行けば、いつどこで
業界関係者に漏れ伝わってしまうかもしれない・・・。
誰にも知られたくないという不安感と異常なまでの潔癖性の性格が、
遠くまで足を運ばせていました。
降り立った駅近くで、耳鼻咽喉科の診療所を見つけて駆けこみました。

症状を詳しく説明すると、医師は聞きました。

「異常は何日前から起こりましたか?」

「左耳が2年前、右耳が去年」

と答えると、

「難聴を甘く見ておられましたね」

と医師はあきれたように笑い、

「すぐに診察したわけではないからはっきりとはいえないが、どちらの
耳も突発性難聴だった可能性が考えられます・・・」

と前置きしたうえで、こう説明した。
突発性難聴の根治率は、発症から一週間以内に診察を受けて即入院し、
酸素治療やステロイド剤の点滴などをすれば90%、10日で70%、
14日で50%、20日で40%。
それ以上治療が遅れると、いったん低下した聴力を回復させるのは難しい。
難聴は時間との闘いだったのだ、と。

「あなたの場合、根治率はゼロパーセントでしょう」

と告げられました。
ひどくショックを受け、動揺を隠せない私に医師は尋ねました。

「なぜ、すぐに病院に行かなかったの?」

自分には偏頭痛の発作があること、どちらの耳の異変も運悪く長く発作が
続いた時期に起きたことを詳しく説明すると、医師は気の毒そうな顔をした
あとで、さらに続けました。
その言葉に、私は完全に打ちのめされました。

「大変いいにくいことですが、あなたのようにきちんとした入院治療を
受けなかった方の場合、今後はさらに聴力が落ちていく可能性があります。
残念ですが・・・」

そして、医師は補聴器を勧めたのです。

「まず地方自治体の指定する専門医療検査機関へ行き、そこで詳しく検査
してもらいなさい。
厳密な検査の結果、『聴覚障害者』であると認定されたなら、自治体から
身体障害者手帳が交付されるので、それを受け取りなさい。
手帳があれば、補聴器はタダ同然で買うことができますよ。
手帳なしだと補聴器はとても高価になりますから」

とんでもない! と思いました。
誰が身体障害者と認めるものか!

帰りに「補聴器」という幟(のぼり)が立つ店に立ち寄り、価格を確認した
ところ、20万円から30万円もする高価なものでした。
いずれにしても、すでに左耳は相当聴力が落ちていました。

身体障害者手帳の交付を受けなければ補聴器は20万円、手帳の交付を
受ければ(障害が公〔おおやけ〕に認められれば)補聴器はタダ同然・・・。

その後、数日かけて考えた末、私は一つの決断を導きだしました。
肉体的苦痛を考えれば、私の持ち時間は長くはないのかもしれない。
現世では、顧(かえり)みられず終わってしまってももはやかまわない。
死後、誰かが自分の楽譜を見つけて演奏が実現し、人々に聴いて
もらえる音楽――そんな作品を書けるようになりたい。

そのためにも、詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり
極(きわ)め、クラシック音楽に必要な研究に没頭するための時間が欲しい。
それに要する期間を3年間と区切りました。
そして、音楽以外の勉強をしながら得たものを曲に反映し、打ち込みの
音楽で試していくためには、ステレオ感を得られる耳が欲しい。
どうしても補聴器が必要だと思いました。

私は妻にその決意を語り、初めて左耳の聴力低下のことを告白したのです。

「どうしてもやりたいことがある。
3年間だけ俺を食わしてくれないだろうか」

高価な補聴器を買うには妻の理解が必要でした。
私はこれまで聴覚障害を隠してきた理由を説明し、さらに今後も公(おおやけ)
に隠し通すためには、身体障害者であることを認めるわけにはいかないと
話したのです。
情けない頼みごととみじめな告白でした。

「補聴器を買ってもいいだろうか?」

「いいよ」

当時の二人には、とても高価なものだったのですが、妻はそれ以上何も
聞いてはきませんでした。
そして、こういって笑みを浮かべました。

「苦しい発作を抱えた身体とそんな耳で耐えていけるの?
でも、あなたが大丈夫というなら、私は平気です。
私は、あなたがしたいことをしてほしいだけだから」

この3年間は1秒たちとも無駄にはできない――。

私は、その決意を胸に深く刻みました。」



====================================





>「いままで、売り込みを続けながら積みあげてきた自分の音楽が正当
に評価されるためにも、このことだけは誰にも知られたくありません
でした。
聴覚障害が知られてしまえば、今後自分が書く楽曲に同情票が
入ってしまうであろうことが簡単に予想できたからです。
それだけはごめんだ! という気持ちを強く抱いていました。」



今の社会では、補聴器を装用している人もよく見かけるようになりました。
とはいえ、まだまだ、難聴を隠して生きている人は非常に多いのでは
ないだろうか。

佐村河内氏のような理由は、障害者としては珍しいと思う。
本をずっと読み進んでいくと、彼にもやはり、周囲の健常者から、
障害者として見られることに対する抵抗感を持っていたことがわかります。



>「行き先は都心からなるべく離れた田舎町。
急行や特急電車を乗り継ぎ県境をまたいで3時間半、
ひたすら遠くへと向かいました。
誰にも知られたくないという不安感と異常なまでの潔癖性の性格が、
遠くまで足を運ばせていました。
降り立った駅近くで、耳鼻咽喉科の診療所を見つけて駆けこみました。」



「難聴を本当にどうにかしたい」

と思うならば、この選択はありえないのではないか、
と思うくらい、私はびっくりしました。
もし悪い医者に引っかかってしまったら、騙されていたことも
十分にありえます。

本来なら、医療機関の情報収集を十分にして、厳選した病院へ
行くべきだと思います。

(しかし、実際は佐村河内氏も書いているように

「難聴治療は時間との闘い」

とも言われ、とてもそんな余裕はないのが普通であるようだ。)


私は幼少のときに、母に連れて行かれた耳鼻咽喉科医院に

「耳穴の中を掃除すれば治るから」

と言われて数ヶ月間、通院させられたこともあります。
医者に騙されたのです。
悪徳医師だと思って間違いないと思っています。
本当の難聴治療は、佐村河内氏がこの本で書いているように、
一刻も早い治療措置を行う必要がある、という。
私の場合も、すでに手遅れでした。

医者だけでなく、母までも、子供だった私の主張など信用せず、
この医者の言うことを、初めは信じていたのです。
無理もない。
普通は、どの親であっても、子供の言うことよりも、
専門の医者の言うことを信用するのが当たり前だろう。

しかし、数ヵ月後には通院費を払い続けるのがイヤになったのか、
母もうんざりしてきたようで、私は通院をやめさせられました。
それっきり、母は私の耳のことなど全く考えなくなってしまいました。

「あのときに、この医者が正しい診断をしてくれていたら」

という怨みが、私には今でも強く残っています。

私は、この医者の住所を今でも知っています。
この医者はどういうわけか、今では自宅の耳鼻咽喉科医院を
他の医者に貸していて、自分は遠くの大学病院の外来医師
として、勤めているという。

私がこの医院に診察してもらった当時は、院長の姓名を冠した
医院名だった。
しかし、今はその地域の名を冠した医院名に変わっている。
現在の院長は別人だ。

何かやらかしたからなのかもしれまんせん。
勿論、殺してやりたいほど憎んでいます。


ところで、この本を読んでいたら、佐村河内氏は被爆二世だと
いうことがわかりました。
それで、インターネットで探してみたら、
下のような事例もありました。
この方も、佐村河内氏と同じ、被爆二世なのだろうか?

 『音のない世界に住む武さんのブログ』



>「難聴を甘く見ておられましたね」

>「突発性難聴の根治率は、発症から一週間以内に診察を受けて即入院し、
酸素治療やステロイド剤の点滴などをすれば90%、10日で70%、
14日で50%、20日で40%。
それ以上治療が遅れると、いったん低下した聴力を回復させるのは難しい。
難聴は時間との闘いだったのだ、と。」



そのときになってから、突発性難聴を治せる病院を
調べ始めていたら、対応が遅れてしまうだろう。

「佐村河内さんは、たまたま運悪く、突発性難聴になった
のだから、しかたがない」

と思うだろうか。

だが、それがこの病気の現実なのだ。

突発性難聴になった人のうち1/3は回復できるが、
1/3は中途難聴者になり、
そして残りの1/3の人は失聴への過程を辿る、
と言われています。
軽く見ていると、取り返しがつかなくなり、
後に大変な苦労をするようになる病気です。

耳の病気で難聴になったコロッケさん(ものまねタレント)についての
記事もありますので、参考にしてみて下さい。(※)


(※)当ブログのカテゴリ;『難聴・中途失聴』の目次をご覧ください。


〔間連情報〕
岩波新書『音から隔てられて - 難聴者の声 -』
(入谷仙介、林瓢介/編者 1975年7月21日/第1刷発行
 株式会社岩波書店/発行所)


「耳治療が現段階ではむつかしい困難性にみちたものであり、
ただひとつ難病対策として取り上げられている「突発性難聴」に
しても、医学雑誌や関係資料を見ると、回復の可能性のある
のは発病後せいぜい1、2週間以内で、それ以外はすべて
手遅れという専門医学者のきびしい判定が行われており、
その大事な期間を、さすらいのうちに過ごしている多くの
同障害者のことが、辛くてならない。

難聴症状は聴力の低下や激しい耳鳴りを生じることによって、
子ども以外は早期発見は可能としても、早期治療をどのように
してするかということが、一つの大きな緊急課題である。
・・・発病後間もない時期に、適当な治療を積極的にうけて
さえいれば、私の聴力障害も今日よりもずっと軽くてすんだの
ではなかったかとの悔いも強い。」(P105~107)




>「「大変いいにくいことですが、あなたのようにきちんとした入院治療を
受けなかった方の場合、今後はさらに聴力が落ちていく可能性があります。
残念ですが・・・」

そして、医師は補聴器を勧めたのです。」



難聴を放っておいた難聴者のなかには、このように言われる
ケースも多いのではないか、と思います。
私もそうでした。
昔は、他になかったようです。


>「地方自治体の指定する専門医療検査機関」

この病院であればOK、ということではなく、
そこにいる「身体障害者認定医」による診断が必要です。
それ以外の医師ではダメですので、注意してください。



>「身体障害者手帳の交付を受けなければ補聴器は20万円、手帳の交付を
受ければ(障害が公〔おおやけ〕に認められれば)補聴器はタダ同然・・・。」



身体障害者手帳の交付を受ければ、障害者福祉のさまざまな
恩恵が受けられます。

「補聴器は両耳装用が効果的」

と言われますが、両耳だと普通の人には、かなりの高額出費に
なってしまいます。



>「詩、文学、世界史、西洋宗教学、哲学などを可能なかぎり
極(きわ)め、クラシック音楽に必要な研究に没頭するための時間が欲しい。
それに要する期間を3年間と区切りました。」



私は、健聴者と同じようにして音楽を聴くことはできません。
だから、佐村河内氏の音楽もわからないのですが、
多くの人の心を捉える秘密は、ここにあるのではないだろうか、
と思いました。
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by bunbun6610 | 2014-02-02 18:30 | 難聴・中途失聴

『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 1/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「交響曲をやりたい!

しかし、交響曲はひとりでは演奏できはしない。
ならば指揮者か?
極度な人見知りの私が、百人もの楽団員とわたり合えるとは思えない。
そうなると、交響曲とかかわる残された道は一つでした。
自分がそれを書く人になる!!
交響曲を書こう。
それを自分の遠い将来の目標にしよう。

私はその日から母の指導を離れ、はるか頂(いただき)にそびえる
《交響曲第一番》に向けて、ひとり歩み始めたのです。」


「しかし、アルバイトを続けていくうえで、私は大きな悩みのタネを
抱えていました。

高校二年生から始まった、あの偏頭痛(へんずつう)の発作です。
年二回、夏と冬にそれぞれ二ヵ月間。
ずっとサイクルは定着しており、毎日最低三回から五回の激しい
頭痛が起こります。
発症過程は高校時代から変わらず、最悪の頭痛時には悶絶という
言葉以外表現のしようがない状態となり、大量に発汗し、ときには
嘔吐し、平均で一時間ぐらい、最長では二時間近く続くこともある
のです。
病院を何軒訪ねても、「重度の偏頭痛」という同じ診断結果が出る
のみでした。

音楽の求道(ぐどう)に支障をきたす発作にはいつも悔しい思いを
させられましたが、生活を支えるアルバイトにおいてはもっと深刻な
問題でした。
発作で生じる問題を何とかしようと、あの手この手で理由をつけては
ごまかしてみたり、正直に事情を打ち明けて「発作の起きたときだけ
休ませてほしい」と頼んでみたこともありました。
最初のうちは「仕方ないなあ」と無理を聞いてくれていた雇い主も、
忙しいときに倒れてしまう私を見るたびに、あからさまなうんざり顔に
なっていくのがわかりました。
私は先方からクビを切りだされる前に、自ら身を引く旨を伝えるのを
習慣とするようになりました。

このような経験を重ねるうち、年に四ヵ月間の発作期間中は働けないし、
働いてもすぐに辞めざるを得ないことになるとわかったので、
それ以降は一つのアルバイトをしながら、発作期間明けに始められる
次のアルバイトの面接に行くといったことをくり返していたのです。

19歳のある時期には、アルバイトのつなぎがうまくいかずに家賃が
払えなくなり、ついにアパートを追いだされ、半年間の路上生活を送った
こともありました。
着替え、楽譜、五線紙だけをリュックに入れて、山手線に乗って終日
ぐるぐるとまわっていたこともあります。
夏には、開店と同時に路上生活の先輩方と一緒に、冷房の効いた
デパートになだれこんでいったこともありました。
偶然にも街でバッタリ出会った高校時代の先輩が警察官をやっていて、
勤務地である池袋の交番に宿泊させてくれたこともありました。
しかし、路上生活を送りながらも、音楽求道の手をゆるめることは
決してありませんでした。

若気(わかげ)の至りといえばそれまでですが、このような不安定な
生活も精神的にきついと感じたことはありません。
ただ仕送りを続け、「まっとう」以上につくしてくれていた両親の期待を
裏切った路上生活の行為には、強く胸を痛めていました。」



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この頃の佐村河内氏は、まだ難聴ではないようです。
偏頭痛に悩まされての体験だと思われます。
偏頭痛の症状が重くなるにつれて、症状の種類も増え、
後に耳鳴りや難聴にも悩まされるようになっていく、
そして失聴していくと、この本には記されている。


アルバイトをコロコロと変えるのは理由がある。
それは、難聴者の人生と似たところがあると思う。

私も、若いときは難聴を隠してアルバイト等を転々と
していたので、「私とよく似ているな」と感じる。
若いときの難聴が軽いうちならば、簡単にごまかして
雇ってもらえる。
そして、入社時の短い間ならば難聴は、ある程度までは
ごまかせる。
しかし、いつまでも隠しきれるというものではない。

圧倒的に多かったトラブルが、人間関係である。
働き続けるには、相当な厚かましい精神力(?)がなくては、
自分も苦悩に耐えられるものではなかった。
「聴覚障害」とか、身体障害者手帳も知らなかった。
親も、我が子の難聴を隠したがっていた。
今の時代のような考え方など、想像もできなかった。
だから、短期で辞めてしまう場合がほとんどだった。
いい加減といえばそれまでだが、それしかなかったのだ。

佐村河内氏も、当時の病気は違うけれども、同じような
苦悩があったと理解できる。
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by bunbun6610 | 2014-02-01 18:30 | 難聴・中途失聴