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朝礼サボリで注意を受ける

いつも通り、朝の朝礼をサボって、9:05に入室したら、
Oさんから注意を受けた。

「今後、9:00以降に入室した場合は、遅刻とみなします」

と。
私がOさんに

「手紙の件は、あなた宛にしたのだから、あなたが直接答えて欲しい」

と伝えたところ、Oさんは

「会社の上席と確認中。あなたは外部と相談したいのならそうして」

と言われた。
これでは本人同士の話し合いにはならない。
さらにOさんに

「今朝の「9:00厳守」の指示は、誰の命令ですか?」

 と聞いたら、Oさんが

「私です」

と答えた。
私は

「9:00に入らない私が悪いが、私にも言い分はある」

と言ったら、Oさんが

「ホワイトボードに書いて」

と言うので、書いて詳しく話した。

「〔1〕社会、会社、健聴者の常識はわかるが、
   自分は●●年もこういう状態で我慢して生きている。
   その精神的苦痛もわかってほしい。

〔2〕9:00は今後守るが、これで問題解決ではない。
  会社コンプライアンスも不十分なので、伝えて改善を要望したい。

〔3〕直属上司は特に、部下の障害者とのコミュニケーションをとりつつ、
  臨機応変に対処して欲しい。
  上席経由ではなかなか、解決しないことを、
  私は7年の経験でも知っている。

〔4〕アンケートはOさん個人に対するもの。
  それなのになぜ会社上席へ回すのか」

いずれの質問にも、Oさんからすぐに返事はなかった。
どうせ、またほとんど無視だ。
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by bunbun6610 | 2013-10-08 18:30 | Z1.クレジットカード会社

オステリア・イル・チッチョーネ

Osteria Il Ciccione (オステリア・イル・チッチョーネ)

 東京都板橋区大山東町52番11号 サンローズ小林 半地下階

ランチタイムでコースなんて・・・と迷いましたが、
大好物の骨付き仔羊肉につられて、
入ってみることにしました。

料理が出てくるのがスピーディで

「料理する手際がいいんだな」

と感心しました。
ということで、ここはランチ・タイムでもコースを食べる時間が
とれます。
店の外の黒板に本日のメイン料理などが書かれてあるので、
それ次第では、コースもいいと思います。


 【Cコース】 1700円

  ・本日の盛り合わせ前菜
  ・本日のパスタ(オイル系またはトマト・ソース系のいずれか)
  ・本日のメイン料理
  ・パン
  ・コーヒーまたは紅茶


メニューは他にもパスタ・ランチ(900円~)、
ワンプレート・ランチなどがあります。



本日の盛り合わせ前菜
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プチ・パン
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本日のパスタ
『黒オリーブ、ケッパー、アンチョビのトマトソース』
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本日のメイン料理
『骨付き仔羊肉のグリル』
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本日のパスタ
『ミートソース』
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by bunbun6610 | 2013-10-07 18:00 | 食べ物

『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 3/3

『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・エレン・グロース/著 佐野正信/訳)
(1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行所)

【著者】
ノーラ・エレン・グロース=1952年生まれ。文化医療人類学者。

【訳者】
佐野正信=1959年静岡県生まれ。8歳のとき、ストマイにより失聴。
翻訳家。杉並区聴覚障害者協会理事。


「ハンディキャップが文化によって生み出されるものである以上、
われわれはみな、それに対して責任を負っている
――著者のこの指摘には大きな意味がある。
・・・読む者に感動と勇気を与える書」
(『ヴィレッジ・ヴォイス』)


「申し分のない論証と真に迫った描写・・・聴覚障害者の立場に
たつ説得力のある調査報告」
(『サイエンティフィック・アメリカン』)


「差別はいつでもどこにでも存在していた
・・・この仮説の正当性に疑問をさしはさむ」
(『クォリティティヴ・ソシオロジー』)




http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN4-8067-2220-0.html

http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/2220n.html

http://www.thesalon.jp/themagazine/culture/post.html

http://idea-labo-beta.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

http://blog.livedoor.jp/aonoharuka/archives/1660360.html


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歴史的にみた聴覚障害
ヴィンヤード島の社会で見られた聴覚障害に対する態度は、
同じ時期に本土で見られた偏見や誤情報とはきわだった対照
をなしていた。
アメリカのろう者は、今でもろう者という社会の構成員に対する
差別の遺産と闘い続けているが、島のろう者が経験したことは、
そういうアメリカのろう者が経験していることと比べても、かなり
ちがったものなのである。

詳細に立ち入る気はないが、聴覚障害に対する現在(いま)の
私たちの態度をはっきりさせるために、以下でろう者の歴史を
ざっと振り返ってみることにしよう。

1890年、ジレットは次のように書き、読む者を力づけた。

『かつて、ろう者がけだもの同然と見なされ、白痴として分類され、
それ相応に扱われた時代があった。
ありがたいことに、そうした時代は過去のものとなり、現在では、
ろう者は社会的に人なみの扱いを受けるのがふつうになっている』

とはいえジレットは、次のようにいいそえるのを忘れなかった。

社会には、ろう者について実質的に何ひとつ知ろうとしない
という態度が数限りなく存在するが、そうした態度の根絶は、
ほとんど不可能と思われる
』〔※1〕

たしかにこの『実質的に何ひとつ知ろうとしない』という態度は、
なかなか改めがたいものであったと思われる。
『つんぼなど、しょせん半人前の人間ではないか』
――南北戦争の将軍ベンジャミン・F・バトラーが発したこの
無思慮な言葉など、その典型的な一例といえよう。〔※2〕

実際、聴覚障害に対する大方の態度は、ときには中世さながら
であったようである。
教育を受けた後でも、ろう者には成人市民としての権利や義務
が認められない場合が少なくなかった。〔※3〕
教育を受ける機会は、奪われはしないまでも、制限されるのが
ふつうだった。
19世紀におけるアメリカの一般的なろう者観は、国勢調査の
分類方式にもはっきりとあらわれている。
この中で『ろう者』は、きわめて侮辱的な、広い意味での『欠陥人』
として分類されていたのである(合衆国連邦政府国勢調査)〔※4〕。
今日でさえ集団としてのろう者は、大きな健聴社会から隔離された
ままである。
これはろう者自身がそれを選択したためでもあるが、また同時に、
健聴者の側に偏見と無知が残っているためでもある。
健聴者はろう者を『肉体的、社会的、言語的に異常な者』〔※5〕
と見なすことが少なくない。
こうした態度は、何世紀にもわたる誤情報と誤解に根ざしたもの
なのである。


「聴覚障害にかかわる文献記録の中で、判明している最古のものは、
先天性のろう者の権利を制限したバビロニアの法典である。
次いで古いのが、紀元前6世紀以降に書かれた旧約聖書のレビ記
である。
同書でモーセは、信者に向かって、ろう者を呪うことをいさめているが
〔レビ記19章14節〕、これはおそらく、当時そのようなことをする者が
あとをたたなかったためであろう。
それから400年後に、タルムード〔ユダヤ教の口伝律法(ミシユナ)
とその注解(ゲマラ)の集大成〕の編者たちが押しつけた法律は、
他の市民に認められた法的な権利や義務の多くを先天性のろう者
には制限し、その身分を子供や知恵遅れの人なみにしてしまうもの
だった。〔※6〕

ヒポクラテスと大プリニウスは、聴覚障害の心理的な側面、とくに
意思疎通のはかりにくさにある程度の関心を払った。
とはいえもっと広い影響力をもったのは、アリストテレスとその同時代人
のろう者観である。
アリストテレスは、発話は思考と教育の主たる伝達手段であるから、
耳がきこえない者は学習が不可能となり、いかなる種類の教授も
無益に終わると考えた。
アリストテレスのこの考え方は、ローマの学者に受け継がれ、やがて
古代ローマ世界の常識となる。〔※7〕

ルクレチアは、こんな詩をつくっている。

『ろうに教えん術(すべ)もなし
思いも知恵もおよばざる』〔※8〕

紀元6世紀、聴覚障害についての常識はユスティニアヌス法典
〔ローマ法大全〕に継承された。
同法典では、先天性のろう者と言語習得後に失聴した者とが
厳然と区別され、前者の法的権利は厳しく制限されていた。〔※9〕
やがてこの法典は、中世の数多くの法体系の規範となる。
かくして言語と知能とを結び付けたアリストテレスの説は、
さらに中世へと継承される。
作者が聖職者であるとないとを問わず、中世の著作に実質的
な変化が見られないのは、このためである。
たとえば聖アウグスティヌスは次のように書いている。

『生まれながら耳がきこえぬことにより、信仰の道に入るのは
不可能となる。
何となれば、生まれついてのろう者は、言葉をきくことも身に
つけることもできぬからである』〔※10〕

ろう者にものを教えることができないと思われていたので、
イギリスのヨーク大主教ベヴァリーのジョンが、ろうの青年に
それと識別できる声を出させるのに成功したとき、ビート
〔7世紀から8世紀にかけての、イギリスの聖職者・歴史家
・神学者〕はこれこそ奇跡であるとほめたたえた(他の者もこれに
同意したにちがいない。
というのは、この手の奇跡を重ねることで、ベヴァリーのジョンは
大主教の地位にのぼりつめたからである)。
こうした先天性のろう者は、結婚や政治にかかわる発言や
遺産の相続を認められない場合が多かった。
ヨーロッパの多くの地方でおこなわれていた遺産の長子相続も、
ろう者の長男に対しては、まったく認められていなかったのである。
〔※11〕」


「18世紀はろう教育の発展期であり、1760年代に、パリ、
ライプツィヒ、エディンバラでろう学校が設立されるにおよんで、
その絶頂期を迎えることになる。
とはいえ長きにわたってつちかわれた偏見は、たやすく消え去る
ものではなかった。
たとえば国立ろうあ学校の前身にあたる学校の設立者であり、
ろう教育の指導者でもあるド・レペ神父は、

『立派な聖職者たちが、ふとした折に、神学上の理由から
公然とろう教育を非難する』

こともあったと書いている。〔※17〕
フランスの哲学者コンディヤクは、ろう者には記憶力がないの
だから、当然、判断力もないのだと、ずっと主張し続けていた。」


18世紀から19世紀にかけて、ヴィンヤード島の住民は、
こうしたもろもろの影響をいっさい受けなかった。
学術論文や大衆雑誌は、ろう者にできることとできないことを
めぐって喧々囂々(けんけんごうごう)たる議論を繰り広げて
いたが、かりに島民の中にこのことを知る者がいたとしても、
それがヴィンヤード島や知り合いのろう者と関係があるなどと
考える者は、たぶん一人もいなかったであろう。

今日、アメリカのろう者が直面している問題の多くは、18世紀
から19世紀にかけての、聴覚障害とろう者に関する偏見に
根ざしている。

保障された権利と機会を比べても、健聴者ろう者のあいだには、
依然として大きなひらきがある。〔※25〕
失業や不完全就業の蔓延(まんえん)によって、ろう者は知識や
才能をじゅうぶんに活かせないでいる。
教育施設や教育法の改善は遅々として進まないし、教育の
現場においても口話か手話かの論争が再燃し、ろう者やその
家族を巻き込んでいる。

健聴者の世界とろう者の世界のあいだには大きな壁が立ち
はだかっているが、近年、この壁を突き破ろうとする試みが
いくつかなされている。
中でもとくに力が入れられているのは、ろう児を公立の不通校
に入れて健聴児と交流させる、メインストリーミング〔日本では
統合教育、あるいはインテグレーションということが多い〕と
呼ばれる試みである。
ろう者といっしょに活動している人間やろう問題に取り組んで
いる専門家は、この試みにこぞって熱いまなざしを向けている。
とはいえメインストリーミングの対象となるのは、子供だけである。
成人で構成されたろう社会の場合、ヨーロッパでもアメリカでも、
その大部分は、それぞれが独立した共同体として存在し続けて
いるのである。

こうした社会的言語的隔離には、健聴文化とは多くの点で異なる。
下位ろう文化(デフ・サブカルチャー)を生み出す効果があることも
忘れてはならない。(★著者注解)
多くのろう者は、手話を使ったり、ろう学校の同窓であったり、
ろう者同士で結婚したり、ろう関係の団体に入ったりすることで、
ろう者としての結束が強まると考えているのである。
ろう者の権利拡大運動の高まりによって、ろう者が日常的に
出くわさなければならない誤情報や偏見も、多少はその数が
減りつつある。
『ろう者』や聴覚障害について知っているつもりになっていることの
多くは、歴史上の誤りに根ざしており、たしかな根拠をもつものでは
ないのだ――このことを社会が認識すれば、わたしたちはより完全
な平等に向けて、新たなる一歩を踏み出すことができるだろう。



(★著者注解)――近年、下位ろう文化について多くの研究がなされて
いるが、この下位ろう文化は、必ずしも一枚岩(いちまいいわ)の存在
とはいいがたい。
重度の聴覚障害をもつろう者だからといって、すべてがすべて、
自分をその構成員と見なしているわけではない。
あるいはまた、健聴者の中には、ろう者と結婚したり、家族に
ろう者がいたり、ろう者に関心をもったりしたせいで、下位ろう文化に
どっぷりと身をひたしている者もいる。
結局、下位ろう文化は、異分子で構成されていると見た方があたって
いるだろう。
実際、大きな集団では、聴力損失の程度、教育や職業、人種的
・民族的・宗教的・性的好みなどのちがいによる明確な結び付きが
見られるのである。――著者注解。」


あの人たちにハンディキャップはなかった
「障害者を社会の主流(メインストリーム)に組み込むことの長所と
短所について、医療、法律、社会福祉の専門家が白熱の議論を
たたかわせている今日、ヴィンヤード島で見られた情況、つまり
250年以上にわたり、ろう者が全体の中の一部となって、あたう
限り共同体にとけ込むことを促され、また求められもしたという
情況は、ますますその重みを増しているといってよい。
ヴィンヤード島におけるこうした聴覚障害に対する態度が、いつ
いかなる形で始まったのかを特定するのは、今となっては不可能
である。
きこえないほかは五体満足な人間を共同体が数多く受け容れようと
したのは、そうした人間の残された能力を無駄なく活かそうとしたから
ではないか――こう考えるのは、一応、筋が通っている。
だが人間というものは、そういつも理屈通りに行動するわけではない。
ここでも右のような理由はあてはまらないと思われる。
実際には多くの社会が、たいした理由もなく障害者から目をそむけ、
かれらに烙印(ステイグマ)を押しているのである。
アメリカの社会など、その典型といってよい。

ヴィンヤード島において、そしておそらくもっと早い時期にはケント州の
ウィールド地方において、こうした聴覚障害に対する態度は、たぶん
歴史上のさまざまな要因が、これまでに類例のない仕方で結び付いた
結果、形づくられていったのであろう。
もとよりこれは、ろう者を取りまく健聴者が、計算ずくでそうしたのでは
なかったと思われる。
まわりの健聴者たちは、ろう者の集まりを、それと識別できる独立した
集団としてさえ見ていなかったのである。


ヴィンヤード島で見られた聴覚障害に対する適応には、二つの要因が
不可欠であったように思われる。
第一の要因は、聴覚障害をもたらす遺伝的性質が、個人や隔離された
家族によってではなく、入植者の一群によって伝えられたということである。
このため、またその遺伝的性質が(劣性であったので)一見、住民の
中に無差別に発生するように思われたため、聴覚障害はどの家族に
あらわれてもおかしくないものと見なされることになった。
実際ある時点では、島の家族の大半に聴覚障害が発生していたほど
なのである。
聴覚障害がこれほど頻繁にあらわれていなければ、先天性のろう者が
受け容れられるということもなかったかもしれない。

もう一つの同じくらい重要な要因は、この共同体が、遺伝的性質とともに
大西洋のかなたからもってきたと思われる手話を使っていたことである。
聴覚障害を受け容れ、ろう者を気遣いと好意とで迎えるだけでは、ろう者
はじゅうぶん日常生活にとけ込むことができない。

ヴィンヤード島で最初のろう者がたやすく人びとの中に入っていけたのは、
かなり洗練された手話体系がすでに存在していたからなのだろう。
おそらくこの手話をさかのぼっていけば、ケント州のウィールド地方に
たどりつけるはずである。
ヴィンヤード島の聴覚障害にどのような遺伝的由来があるにせよ、
入植者の来島で、もとからあったパターンが固定されることになった
(そしてどうやら、強化されることになったようである)。
世代をへるにしたがい、ろう者の数はふえていったが、それと歩調を
合わせるように、手話の使用半径も広がっていった。
そうして、いつしかケント出身でない家族でさえ、手話を使うようになって
いた。

ジェーン・R・ハンクスとL・M・ハンクス・ジュニア〔※1〕 の提示した
社会モデルを使って、次のような仮説がたてられなくもない。
ヴィンヤード島でろう者が成功したのは、この島から小規模で、技術が
複雑に発達しない社会であったのが、一因なのではないか。
そのような社会なら、ろう者でもたいていの仕事はこなせるだろうから。
二人はその共著の非西洋社会の障害者について概説したこ箇所で、
集団の協調が競争に優先し、構成員一人ひとりの生産性がほぼ同一で
あるような小規模で比較的平等な社会の方が、障害をもつ人間にとっては、
社会参加が容易で、物理的な保護も受けやすいのではないかと述べている。
二人によれば、そのような社会では成功をランク付けする基準がほとんど
作られないので、障害者も受け容れやすくなるのだという。
こうした考え方は、小規模な社会における障害について研究する場合なら、
興味深く有益であるかもしれないが、ことヴィンヤード島に限っては、
あてはまならいように思われる。

島のくらしは島外のようにあわただしく進展しなかったし、今もって進展して
いないが、いかに想像力をたくましくしても、この社会が競争より協調を
重んじる平等な社会だったとは、とうていいえそうにないのである。
たしかにいつでも援助や支援の手は差しのべられたが、きこえるきこえないに
かかわりなく、島民はまず、自活や扶養の責を担っていた。
請求書や借金や税金の支払いをしたり、農産物や魚を売ったり、公職に
立候補したり、政治活動に参加したり、馬の売買(ホース・トレーディング)
の駆け引きで知恵をしぼったりすることで、島民たちは、現代の競争社会
のただなかに投げ込まれていた。
一部のろう者は金持ちになった。
大部分のろう者は、かつかつのくらしだった。
残りの少数のろう者は家計が苦しかった。
こうした情況は、かれらの健聴の家族と何ら異なるところがなかったのである。



「次のような事例はさらに重要である。
たとえばアメリカの社会全体のように、障害者の側だけに適応の負担
のすべてを押しつけてしまうのではなく、一つの社会が、まがりなりにも
障害者に適応できたという事実は、障害をもつ者の権利と義務について、
重要な問題を提起する。
ヴィンヤード島の経験は、ハンディキャップという概念が、気まぐれな
社会的区分であることをはっきりと示している。
その概念が普遍的なものではなく、単なる定義の問題であるとすれば、
おそらくそれは再定義され得るし、現在使われている『ハンディキャップ』
という用語で要約されている文化的先入観の多くも、取り除かれ得る
のである。
ヴィンヤード島から引き出すことのできる最も重要な教訓は、共同体が
障害者を受け容れる努力をおしまなければ、障害者はその共同体有益
な一般構成員になり得るということであろう。
万人に適応するために、社会は多少なりとも、自発的に変わっていかなければ
ならないのである。


障害への文化適応は広く理解されなければならない。
その際、相手が異文化に属しているということをしっかり頭に入れておく
必要がある。
学者たちは異文化を研究しているというのに、自文化の価値観を実地
調査の場にもち込み、調査の途上で出くわす障害者を仔細に観察しようと
しない場合が多かった。
多少の例外はあるものの〔※2〕、逸脱や障害者に関する研究は、
そのほとんどが西ヨーロッパと北アメリカを主な対象としている。
それらの大半は制度化された型通りの情況、たとえば特定の国家政策
とのからみから障害者の集団を取り上げたものであった。」


「私はヴィンヤード島の事例は、けっして類例のないものだとは思わない。
聴覚障害は世界中の共同体で存在してきたのだから、いろいろな対処法
が考え出されてきたはずである。
さまざまなタイプの共同体からさらに多くの情報を集めてみないと、はっきり
したパターンを提示できそうもないが、少なくともヴィンヤード島の経験によって、
健聴者の世界がいつでも同じように聴覚障害に対応するわけではないことが
明らかにされたのではないか。



「今日ではヴィンヤード島のろう者のことを思い出せる者はごくわずかである、
手話で話せる者となると、それに輪をかけて少なくなる。
それでも中には、二、三の手話を今でも使っている者がいる。
80代後半のある男性は次のようにいう。

『おかしなことに、ここらに昔から住んでいる家族は、今でも昔のくせが
抜けません。
話をしていると、つい手が動いてしまうんです。
もちろん相手には通じてないんですが』

また別の人は次のようにいう。

ここらには、今でも身振りで話す者がいます。
身振りを使うのは、せいぜいあの男くらいだろうと思っていると、
これがけっこう別の男も使ってたりするんです。
つんぼがこの島に残してくれたものは、けっして少なくないと思います。


とはいえ島のろう者と、初期の島内生活のさまざまな面についての記憶は、
大部分の島民の頭から急速に薄れつつある。
私が調査を始めたのは1979年のことだが、当時、大半のインフォーマント
は高齢者で、これまで何十年ものあいだ、島のろう者についてたいして考えた
こともない人たちばかりであった。
それからわずか6年しか経過していないのであるが、本書で語られた事実や
エピソードの多くをもう一度集めなおせといわれても、それはできない相談と
いわねばならない。
この調査を始めて2年とたたないうちに、インフォーマントの半分以上がこの
世を去ってしまったからである。
こうした高齢の島民たちは、島のろう者が残した遺産について語ってくれた
わけだが、かれらの話には注意深く考察するだけの値打ちがある。
だれ一人聴覚障害をハンディキャップと受け取らなかったという意味で、
ろう者にハンディキャップは存在しなかったのだ――これこそ、島のろう者に
ついていえるもっとも心に残る事実であろう。

この点について、ある女性はこんなふうに語っている。

あの人たちのことで、特別どうのこうのと考えたことはありません。
ほかの人とまったく同じでしたから。
でもそうだとしたら、この島ほどくらしやすいところも、ちょっとなかったんじゃ
ないでしょうか


まったくその通りだと思う。」

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by bunbun6610 | 2013-10-05 19:00 | 手話

<ヘイトスピーチ>差別か表現の自由か 街宣訴訟7日判決

http://www.excite.co.jp/News/society_g/20131005/Mainichi_20131005k0000e040170000c.html


<ヘイトスピーチ>差別か表現の自由か
 街宣訴訟7日判決


毎日新聞社2013年10月5日 07時43分 (2013年10月5日 08時01分 更新)


2009年12月に京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の校門前で
街頭宣伝をした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元メンバー
らを相手取り、学校を運営する京都朝鮮学園(京都市右京区)が、
学校の半径200メートル以内での街宣禁止と計3000万円の損害
賠償を求めた民事裁判の判決が7日、京都地裁(橋詰均裁判長)で
言い渡される。
街宣活動がヘイトスピーチ(憎悪表現)にあたるかの法的判断を問う初の
訴訟で、判決が注目される。【松井豊、栗田亨、曽根田和久】


 裁判で、在特会側は

「朝鮮学校を日本からたたき出せ」

「何が子どもじゃ、スパイの子どもやんけ」

「キムチくさい」

などという拡声機を使った街宣について

「表現の自由」の範囲内で、「保護される論評」と主張した。

 一方、朝鮮学校側は、子どもたちはおびえ、民族教育事業が妨害されて
いるとして、民族的出自を理由にした差別街宣を「ヘイトスピーチ」と判断
した上で賠償するよう求めている。

 原告側弁護士は

「自ら変えられない民族的出自に対する差別発言を、欧州を中心に
多くの国が犯罪としている『ヘイトスピーチ』と裁判所が判断すれば、
日本国内でもヘイトスピーチ禁止法創設議論が勢いづく可能性がある」

と指摘する。

 また、原告の朝鮮学校側は在特会の街宣によって、国際人権規約など
に基づいて保障されている民族教育権が侵害されたと主張しており、
これが認められれば、朝鮮学校を高校無償化の対象外とする政府の
対応の正当性が問われることになる。

 この街宣を巡っては、在特会メンバーら4人が威力業務妨害と侮辱罪
などで起訴され、京都地裁で11年4月に有罪判決を受け、その後、
全員の有罪が確定している。

    ◇

 故中沢啓治さんが自らの体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧
制限で注目された松江市教委事務室に昨年5月1日、今回の裁判の被告
の一人で元在特会幹部の西村斉氏(44)の姿があった。

学校図書館からの撤去を求めた当時松江市在住の男性の申し入れに
同行した西村氏は、旧日本軍の行為を描く場面などについて

「子どもへの精神的テロだ」

などと抗議した。

「学校の図書については指導しない」

とする職員と、西村氏らの間で押し問答が35分ほど続き、その映像が
インターネットで流された。

 対応した市教委幹部は

「面談には非常に圧力を感じた。
職員を非難する電話が2週間ほど鳴りやまず、業務に支障が出た。
ほとんどは県外からだった」

と振り返った。

市教委は昨年12月、独自に検討して閲覧制限を始めたが、批判が
集中して今年8月に制限を撤回。
その後、西村氏らは再度の申し入れを市教委に行った。

 在特会に代表されるヘイトスピーチデモや街宣を実施する団体は、
今も教育現場をターゲットにしている。

先月8日には、東京・新大久保で東京韓国学校をターゲットにデモを
実施。
関西でも、韓国への修学旅行を計画する滋賀県内の高校に対し、
7月ごろからインターネット上で「韓国行き阻止」を掲げる書き込みが
始まり、同校にはネットを見た外部からの問い合わせが続く。
9月には、学校近くで在特会幹部が

「反日の国に子どもたちを行かせてよいのか」

などと街宣。
同校は、急きょ保護者説明会を開き、修学旅行は安全が確保されて
いることなどを説明したという。

 【ことば】ヘイトスピーチ(憎悪表現)

 人種や国籍、性別など特定の属性を有する集団をおとしめたり、
差別や暴力行為をあおったりする言動を指す。
ネオナチ運動に対処するため1960年にドイツで制定された
民衆扇動罪や、

「人種差別の扇動に対しては法律で処罰すべきだ」

と宣言した国連の人種差別撤廃条約(69年発効、日本は95年に加入)
を背景に、各国が規制に乗り出しているが、日本に規制はない。



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在特会が行ったヘイトスピーチを

「表現の自由」の範囲内で、「保護される論評」と主張」

している、というが、これはおかしいと思う。
「表現の自由」にしても、この事例はひどい濫用だ。
これが許されるのならば、障害者も被害を受けかねない。
在特会は負けるだろう。

自分たちのやっていることは棚に上げて、
『はだしのゲン』を「子どもへの精神的テロだ」というのも、
誰が見てもおかしい。
そう言っているほうが、おかしいのだ。

自民党参議院議員の片山さつき氏らも、在日朝鮮・韓国人
の特権を終わらせようとかっていう活動をしているらしいが、
当選した背景には、こういうヘンな人たちの支持者が多い
のかもしれない。



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【10月8日追記】



http://mainichi.jp/area/news/20131008ddp041040028000c.html

朝鮮学校授業妨害:街宣損賠訴訟
 ヘイトスピーチ「違法」判決
 「安心して学べる」
 保護者ら評価の声


毎日新聞 2013年10月08日 西部朝刊

京都の朝鮮学校前で「在日特権を許さない市民の会(在特会)」
が行った街宣活動について、7日の京都地裁判決は

人種差別に当たる

と明確に認定した。

東京や大阪で在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ(憎悪表現)
が繰り返される中、朝鮮学校関係者から

「これで安心して学べる」

と評価の声が上がった。

 法廷には原告の支援者や朝鮮学校の保護者らが詰めかけ、
傍聴席は満席に。
裁判長が主文を読み上げた後、法廷の外で支援者らが笑顔で
握手を交わした。

 原告側は判決後、京都弁護士会館(京都市)で記者会見を
開いた。
京都朝鮮学園の孫智正(ソンチジョン)理事長(56)は

「朝鮮学校に通う子供に向けられたヘイトスピーチの悪質性を認めた。
日本社会に広がるヘイトスピーチ的な言動を抑止する点でも有効だ」

と語った。

 当時5年の長女が通学していた保護者会長(当時)の女性(45)は

「判決を聞き、涙が止まらない。
事件は朝鮮人として生きる私たちの日常を踏みにじった

と目を潤ませた。
女性はその後に開かれた報告集会でもあいさつに立ち、

「日本社会の中で私たちが胸を張って生きていける土壌があるのだと
感じて胸が熱くなった。
互いに手を取り合って未来ある子供たちを育てていきたい」

と話し、保護者ら約10人が立ち上がり、支援者らに「ありがとうございます」
と頭を下げた。

 一方、在特会の八木康洋副会長は判決後、硬い表情で

「我々の行為が正当と認められず非常に残念。
控訴するかどうかは判決文を精査して考えたい」

と悔しさをにじませた。【松井豊、岡崎英遠、花澤茂人、寺岡俊】

 ◇街宣中止は当然−−新大久保
 在特会がデモを繰り返す東京の新大久保。

「朝鮮人をたたき殺せ、という汚い言葉に嫌悪感を抱いていた。
街宣中止命令は当然です」。

40年以上も生花店を営む篠崎カツ子さん(71)はデモを思い出し、
顔をしかめた。

 韓国アイドルのファンで新大久保を訪れた東京都在住のアパレル
店勤務の女性(25)は

「このままでは海外で日本の印象が悪くなると心配だった」

と判決を歓迎。

「それでもなくならなければ法律で規制するしかない」

 一方、地元商店街の日本人店主(46)は

「新大久保に新しく参入する韓国人経営者の店はマナーが悪いことも
多く、領土問題で在特会の主張に納得できる部分もある」

と話す。
それでも

「冷静な言葉で訴えるべきで、差別はいけないというのは大前提だ」。




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【10月21日追記】


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131021-00000033-jij-soci


在特会側が控訴
 =ヘイトスピーチ訴訟


時事通信 10月21日(月)11時11分配信


朝鮮学校周辺でのヘイトスピーチ(憎悪表現)をめぐる訴訟で、
「在日特権を許さない市民の会(在特会)」は21日までに、
街宣活動の禁止と約1200万円の損害賠償を命じた京都地裁
判決を不服として大阪高裁に控訴した。
控訴は19日付。

 京都地裁は7日の判決で「街宣は人種差別に該当し違法」と
認定し、京都市内の京都朝鮮初級学校の半径200メートル以内
の街宣禁止と1226万円の支払いを命じた。

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by bunbun6610 | 2013-10-05 09:43 | 人権、差別

『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 2/3

『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・エレン・グロース/著 佐野正信/訳)
(1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行所)

【著者】
ノーラ・エレン・グロース=1952年生まれ。文化医療人類学者。

【訳者】
佐野正信=1959年静岡県生まれ。8歳のとき、ストマイにより失聴。
翻訳家。杉並区聴覚障害者協会理事。


「ハンディキャップが文化によって生み出されるものである以上、
われわれはみな、それに対して責任を負っている
――著者のこの指摘には大きな意味がある。
・・・読む者に感動と勇気を与える書」
(『ヴィレッジ・ヴォイス』)


「申し分のない論証と真に迫った描写・・・聴覚障害者の立場に
たつ説得力のある調査報告」
(『サイエンティフィック・アメリカン』)


「差別はいつでもどこにでも存在していた
・・・この仮説の正当性に疑問をさしはさむ」
(『クォリティティヴ・ソシオロジー』)




http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN4-8067-2220-0.html

http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/2220n.html

http://www.thesalon.jp/themagazine/culture/post.html

http://idea-labo-beta.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

http://blog.livedoor.jp/aonoharuka/archives/1660360.html



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・・・島のろう者の肉親に、健聴者の手話を理解するに際して
何か問題がなかったかをたずねてみた。
かれらの記憶では、ろうの近親がその点に関して不満をいったり、
意見を述べたりすることはなかったという。

本来の手話は独自の文法、統語法、慣用構造をもっている。
島の健聴者の中には、ピジンの手指体系、つまり指文字を多用
することによって手話を英語の文法構造に合わせた混成言語の
体系を用いていた者もいたかもしれない。
ピジン手話をあらわしてはいたが、ヴィンヤード島の手話が
用いられたときには、それを読み取っていた者もいたかもしれない。
というのは、読み取りの能力は正確な表現より身につけやすい
場合が多いからである。
島外では、ピジン手話は成人の健聴者がもっともよく用いる
手指コミュニケーションの形式である。〔※3〕
成人健聴者が手話を習得するとき、最初に身につけた話し言葉の
文法形式の影響を受けるのがふつうだが、ヴィンヤード島の健聴者
の場合、幼児期に手話を覚えることが多かったので、このような
影響はあまりなかったのかもしれない。
インフォーマントの多くは、手話の語順が英語とは違っていることや、
一つの手話で『さまざまなもの』をあらわせることに気付いていた。


『ここいらの人間は、日ごろ顔を合わせる機会が多かったので、
手話を素速くあらわすことができました。
手話はたくさんの内容を短く縮めてあらわせます。
たった一つの単語で、一つの文章をまるごとあらわすことさえできる
のです


また多くのインフォーマントが、ろう者とろう者が話す場合と、
健聴者とろう者が話す場合とで、手話の種類や語順に差はないと
証言した。
島外のろう者には、健聴者と話すときに、アメリカ手話(ASL)を
使わないで、英語的手話(サインド・イングリッシュ)(英語を手話に
逐語訳したもの)に切り換える者がいることを考えると、これは意味
深長な事実といわねばならない。
島ではせいぜいのところ、手話が得意でない者と話すときに、
『日ごろ接する機会のあまりない者と話す場合のように』、
ろう者がゆっくり手話をあらわすというのが、唯一例外といえる例外
なのであった。



手話と英語の二言語併用法(バイリンガリズム)は、この共同体
では日常生活のすべての面にいきわたっていた。
意思の疎通にかかわるあらゆる情況で、手話が欠かせなくなって
いた
のである。
インフォーマントたちは、島のろう者が自由に加わっていたことを、
こぞって証言している。

チルマークに出かけたりすると、そこで何人もつんぼの姿を見かけ
ました。
あまり大勢いるので、だれもその存在を気にかけなくなっていたの
ですが、まだ幼かった私は、その場のやりとりを見ているのが
おもしろく、一体、何を話しているのかと、好奇心をうずかせたもの
です。
親睦の集まりか何かがチルマークで開かれたりしますと、みなそこに
集まり、あの人たち〔ろう者たち〕も他の人たちと変わることなく、
いっしょになって興じていました。
あの人たちは――いいえ、私たちは、みな心ゆくまで
楽しんでいたのです。」

「また別のインフォーマントは次のように回想している。
『ええ、タウンのたまり場には、たいてい連中も顔を出しました。
私たちは毎日のようにチルマークの郵便局にいって、届いた物を
受け取っていたのですが、そこで連中と顔を合わせることは、
少なくありませんでした』

ニューイングランドの小さなタウンの多くがそうであったように、
チルマークでも、雑貨店を兼ねた郵便局はうわさやニュースや
ゴシップの集まる場所となった。
人びとは夏は表のポーチに腰をおろし、冬はだるまストーブの
まわりに輪を作った。
私が話をした人の多くは、ろう者がその中に加わっていたことを
はっきりと覚えていた。
80代後半のある老人は次のように回想する。

腰をおろして郵便物が届くのを待ちながら、私たちはよく話に
花を咲かせたものです。
そんなときは、ろう者もいっしょでした。
みんないっしょでした。
ろう者は仲間として一座に加わっていたのです。
漁師やら、農夫やら、いろんな人がいました。
ろう者も、私たちと同じように、何か変わったことがないか知り
たがりました。
話が始まると、みなが話についていけるように、たいてい口話と
手話が同時に使われました。
きこえる者よりきこえない者の方が多い場合には、もちろん全員が
手話を使うこともありました。それが一つの作法みたいになっていた
のです。

また別の男性は次のようにいう。

『何人かが集まっていて、その中にろう者がいるとき、そのろう者は
話し合いの輪に加わるもの、冗談や話題についていくのも、まったく
意のままにできました。
いつも一座にとけ込み、仲間はずれになることなど、
いっさいなかったのです』

この男の妻は次のように回想する。

そこでは郵便物を受け取ったり、塩漬けの豚肉を半ポンド買ったり
してました・・・。
毎晩、人が集まってました。
中にはろう者もおり、手話を使い、きこえない者同士で話しをする者、
きこえる者に話しかける者、人さまざまでしたが、
片方だけが一方的に話すということはありませんでした。
それがふつうのことだったのです。
小さな子供も・・・手話を知ってました。
大人が話を打ち切って子供に手話で話しかけ、クスクス笑っている
光景もよく目にしたものです。」


「また別の人は次のように回想する。

手話を覚えたのは子供のころです。
タウンの人間はみんな手話を知ってました。
ええ、そうです。
あの人たち、とくに男の人は、毎晩、郵便局に集まってました。
6人から8人はいたでしょうか。
分け隔てなどまったくありません。
みんな手話を知ってましたから。
みんながあの人たちと話をしました。
それは、しゃべれる人間と話すのと、何のちがいもなかったのです。




「ある女性は島西部出身の親戚のことを話してくれた。
かれらは健聴者で、まわりにろう者の近親は一人もいなかった
という。

『あの人たち、よく手話を使って話をしてましたが、意識して使って
いたのではなく、ちょうど知らぬ間に頭をかいているのと同じように、
知らぬ間に手が動いていたようです。
すっかり体が覚え込んでいたみたいで、話をするときは、
手話になったり、口話になったり、それは目まぐるしいものでした


また別の男性は、郵便局や浜辺にいけば、いつでも手話を目撃
できたといい、次のような話をしてくれた。
『あのころは今みたいに、一日中浜辺に出ていたのですが、
浜に集まって大勢でワイワイやっていると、家の中の問題とか、
おおっぴらには口にできない問題とか、そういったことが話の種
になることがありました。
で、そんなときは、みんなピタッと口を閉ざし、向きなおっておもむろ
に手話を使い始めたわけです』」


「離れて話をするとき、手話の方が使いやすいと思えば、
つんぼの者もそうでない者も、しばしば手話を用いる。
見やすい位置や頭上に両腕を振りあげることで、ノース氏〔ろう者〕
と夫人は、たとえば人の声がまったく届かないほど離れていても、
お互いの意思を伝え合うことができるのである。」


「次は『ボストン・サンデー・ヘラルド』紙(1895年)からの抜粋。

チルマークでは、家の裏口で、毎日世にも珍しいパントマイムが
繰り広げられる。
たとえばこんなふうに――。
人里離れた農家にくらしていて、いちばん近い隣の家まで200
メートルあったとしよう。
どちらの家も男たちはみな漁師で、こちらは小型の望遠鏡を手に
している。
朝の8時に戸口のところに立つ。
相手も戸口のところに立っている。
望遠鏡を手にして、うけに入っていたロブスターの数とか、
とりとめのない女のうわさ話とかを手話で伝える。
伝え終わると、今度は望遠鏡を手にした相手が、手話で答える
のに目をこらすのである。」


「漁師たちは氷が張る前の海に船を出したが、そうした船上で
手話が使われることもあった。
ある男性は次のように回想する。

『ヴィンヤード海峡やゲイ・ヘッドの沖合で、うけをたぐり込んでいて、
船がちりぢりになってしまうと、漁師たちは、どのくらい、うけに
かかっていたかなど、やりだすんです。
みんな健聴者だったのですが、船と船との距離が開きすぎていて、
叫んでも声が届かなかったのです』

島外から移ってきた別の男性は、始めて手話を目(ま)の当たり
にした時のことを、次のように語っている。

義父〔健聴者〕は海上で弟〔これも健聴者〕の船とすれちがうと、
〔手話を使って〕話をしました。
そのやりとりを初めて目にしたのは、バイト号という名の船に
乗せてもらい、義父と二人で初めて、――あるいは二度目に、
ヴィンヤード島を訪れたときのことです。
『ほら、あそこにゼノがいる』――そういったかと思うと、義父は
ロブスターを何匹捕まえたとか、この糸のかかりはよいが
あの糸のかかりはよくないとか、そんなことを向こうの船に
向けて告げ始めました。
相手との距離は、ゆうに100メートル、いや150メートルは
あったでしょう。
二人とも〔頭の上の〕ここらへんまでまっすぐ手をのばし、
お互いが読みとりやすいようにしてました。」


「島外出身のある女性は次のように証言する。

『夫はある専業の漁師といっしょに、漁船や遊覧船で海に
出てましたが、この方は入港のとき、海岸に立っている人に
向かって、その日どのくらい漁獲があったか、手まねで伝えて
おりました』

島では漁業がさかんになるずっと以前に、手話が常用される
ようになっていたようだから、島の手話はとくに海上生活の
利便をはかるものとして発達したのではなかったらしい。
したがって船、漁具、魚介類などをあらわす手話は、後になって
からつくられたと見るべきだろう。
そうはいっても、手話がきわめて有効な海上の意思伝達手段
であったのはまちがいなさそうで、陸上のみならず海上に
おいても、手話は日常的に用いられていたと思われる。

英語と手話を併用する共同体では、手話を使っているかどうかが、
共同体の構成員であるかどうかの目安となるが、これは
ヴィンヤード島の場合も同じだった。
島民たちは島外の人間を話題にする際に手話を用いることで、
部外者とのあいだに一定の距離をおくことが少なくなかった。」


結婚
「ヴィンヤード島では、ろう者が結婚するのに何の妨げもなかった。
適齢期に達したろう者の約80パーセントが結婚したが、これは
島の健聴者の結婚率とほぼ同じである。
19世紀において、アメリカ全体のろう者の結婚率がほぼ
45パーセントであったことを考えれば、島の結婚率の高さが
わかるであろう。〔※8〕
80パーセントという数字は、今日のアメリカのろう者の結婚率と
比べても高率なのである。

ヴィンヤード島では、1816年以前に生まれたろう者の
73パーセントが結婚したが、そのうち相手が同じろう者だったのは、
わずか35パーセントにすぎなかった。
これは19世紀末の全国平均が79パーセントであったことを考えると、
かなりの低率である。〔※9〕
シャインとデルクの見積もり〔※10〕 によると今日のアメリカでは
ろう者の結婚の80パーセントは夫婦ともろう者であり、7パーセント
はどちらか一方が難聴者〔軽度の聴覚障害者〕であるという。
おそらくこの共同体が英語と手話の二言語を併用していたために、
その構成員である健聴者とろう者の結婚が、島外よりありふれたものに
なったのだろう。
加えて島のろう者は、島外の同時代のろう者よりも早婚だった。
当時の島外のろう者が20代後半まで結婚せず、〔※11〕
また現代のろう者もそのころまで結婚しないのに対し、島のろう者の場合、
男性は平均22歳、ジル余生は平均20歳で結婚した。
これは島の健聴者が結婚する年齢と実質的に同じだった。
再婚率もろう者としてはきわだって高かった。
夫婦のどちらか一方が亡くなると、たいていのろう者は再婚し、
老いてから後家になった場合を別にして、一年も二年もやもめぐらしを
続ける者はまれだった。
再婚や再々婚はいうにおよばず、再々々婚さえおこなわれることが
あった。
島のろう者たちは、新しい連れ合いを見つけるのに、たいして苦労
しなかったようである。
17世紀から18世紀にかけて、離婚は極端に少なかった。
この間に離婚した島民はごくわずかであり、その中にろう者は一人も
含まれていない。
19世紀の後半になっても、離婚は相変わらず少なく、不道徳なものと
見なされることが多かったが、このころ島では、二組のろうの夫婦が
離婚している。
本土でくらすろうの夫婦の場合、耳のきこえないことによる
社会的経済的圧力が、結婚生活にいっそうの緊張をしいるため、
離婚率は島よりずっと高かった。〔※9〕」


家族
「島ではどの時代でも出生率が異常に高かった。
健聴とろうの夫婦に生まれた子供の数を比較できる統計は、
19世紀の中期から後期にかけてのものしかない。
この期間のマサチューセッツ州の既婚者には、平均で4.11人
の子供がいたのに対し、〔※9〕 同時期のヴィンヤード島の
既婚者には、平均で6.1人の子供がいた。
島のろう者の場合、島全体の平均よりごくわずかに少ない
平均5.9人の子供がいたが、これは人口の少なさを考えると、
統計上無視できる差異である。
島のろう者に生まれた子供の数は、ろう者の全国平均と
比べると、いっそうきわだった数値となる。
全国レベルで見ると、たとえば1880年代には、おそらくは
晩婚や経済的制約のためであろうが、ろう者と健聴者の夫婦
には、平均で2.6人しか子供がいなかった。〔※9〕
これは健聴者同士に生まれた子供の平均出生数の半分にしか
ならない。
ろう者同士が結婚した場合、子供の数は、微減ながらこれ以下
となる。
20世紀の後半に入ってからも、ろう者同士の夫婦およびろう者
と健聴者の夫婦の出生率は、健聴者同士の夫婦の出生率より
依然として低いままである。〔※10〕
ヴィンヤード島では、ろう者とろう者が結婚した場合と、ろう者と
健聴者が結婚した場合とで、出生数に統計上の差異は認められ
なかった。
島のろう者の出生率を高めるのに、社会的要因が大きく寄与して
いたことはまちがいあるまい。
共同体に完全にとけ込めたおかげで、社会的にも経済的にも
恵まれた立場にあった島のろう者は、島外のろう者より早い時期
に結婚して、〔※5〕 大家族を養うこともできたのである。」


くらし向き
「ヴィンヤード島の水準からすれば富裕といえるろうの男女のうち、
資産を受け継いで金持ちになった者も、わずかながら存在する。
とはいえ大半の者は、忍耐と倹約という昔ながらの北部人の
処世訓を守って、その地位を築き上げていった。
ナサニエル・マンは、さほどの資産家ではないろうの両親のもとに
生まれた。
父親はナサニエルがまだほんの子供のころに他界し、母親の
蓄えもすぐ底をついた。
成人して、ナサニエルは漁師兼酪農場の所有者となった。
1924年にこの世を去ったとき、チルマークに広大な土地を所有
していたナサニエルは、25万ドル以上の資産を有する大金持ち
としてその名をはせていた。
ナサニエルのろうの兄、片腕のジェディダイアは、一応金持ちと
見られてはいたが、弟ほどの資産家とはいえなかった。
家計のやりくりに苦労したろう者も何人かおり、中でも未亡人や
病気持ちの老人のおかれた情況はきびしかった。
それでもそうしたろう者たちは、老齢や病気や災難などのために
蓄えをはたいてしまったり、働けなくなったりするまで、自給自足
のくらしを維持しようとした。
タウンの貧民救済農場の名簿には、ろう者の名前は一人も記載
されていない。
アメリカ全体では、ヴィンヤード島とは対照的に、ろう者のくらし
向きはよくなかった。
19世紀になると、ろうのアメリカ人の中には、植字や機械操作
などの専門技術を身につける者もあらわれたが、それでも
たいていのろう者の平均所得は、健聴者のそれを大幅に
下まわっており、健聴者と比べてケタはずれに多くのろう者が
ワリの合わない仕事に甘んじていた。〔※14〕
こうした情況は今日のアメリカでも変わっていない。
現在でも、ろう者の平均所得は、健聴者のそれと比べて、
男性の場合30パーセント低く、女性の場合40パーセント低い
のである。」


政治参加
「アメリカ合衆国とマサチューセッツ州の法律は、成人ろう者
の参政権、選挙権、被選挙権を否定しなかった。
とはいえ19世紀以前は、ろう者の政治参加を認めるべきでは
ないとするのが大勢だったため、ほとんどのタウンや市では、
これが議論の的となることが少なくなかった。
ヴィンヤード島では、そのような形でこれらの権利が制限される
ことはなかった。
ろう者は積極的にタウンの政治に関与しただけでなく、民兵
としての登録もおこなった。
成人ろう男性のすべてが選挙権、被選挙権を与えられていた
らしいし、中には、政治に深くかかわったろう者もいたようである。
たとえば数名のろう者が、石壁の見回り役、教育委員会委員、
公道監視官などの公職につき、繰り返し再選されている。
また何年にもわたって、数名のろう男性が、貧民救済農場管理
委員会の委員に任命されたり、選出されたりしている。
タウンの記録にはろう者が行政委員会(タウンの運営委員会)
の委員をつとめたという記述はない。
とはいえ同じ行政委員が15年も20年も続けて再選されるのが
通例であったから、ろう者であるなしを問わず、その中にわり込む
のはなかなか困難だったようである。」


法的義務
「ジョナサン・ランバートが初めてヴィンヤード島の土地を購入
した1694年から、島の最後のろう者がこの世を去った1951年
まで、島のろう者は、一人を除いて、全員があらゆる法的な義務
と権利を認められていた。
ろう者であっても、土地の購入や契約書の署名が可能であったし、
本人名義の供託や遺書の作成もできたわけである。」


社会生活
島のくらしのあらゆる面についてそうであったように、人間関係の
面でも、ろう者と健聴者を区別した者はいなかった。
どのインフォーマントも、ろう者だけがかかわっていた社会活動を
一つとしてあげていない。
各種各様のろう者クラブや活動が多くのろう者に触れ合いの中心
となっている本土とちがって、ヴィンヤード島では、ろう者も健聴者も、
いっしょに島内活動に加わっていたのである。

それは単に、島の健聴者が、ろう者を自分たちの中にあたたかく
迎え入れたというだけではなかった。
ろう者の方でも、健聴の家族や友人や隣人から離れて、独自の活動
を始めようとはしなかったようなのである。
ろう者がろう者しか仲間として認めなかったとしたら、そのろう者は
配偶者、きょうだい、親友、隣人、子供たちを仲間から除外せざるを
えなくなり、そうした人たち全員を傷つけてしまうことになったはずである。
島のろう者のあいだにはかなり親密な友情があったが、ろう者としか
付き合わない人間や、付きあいの範囲がほとんどろう者だけに
限られている人間は、皆無といってよかった。

友情をはぐくむ基盤となったのは、ろう者であるとないとを問わず、
ともに育った人間や近くでくらしていた人間だった。
島のろう者が、ハートフォードで知り合った島外のろう者と、ずっと
関係を保ち続けていたということもなさそうである。
さらに島のろう者は、本土のろう者にとっては重要な社会的きずな
であるろう者の州組織や全国組織にも加入しなかった。
わかる範囲でいえば、島のろう者は、自身を他と異なる社会集団
とは見なしていなかったのである。

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by bunbun6610 | 2013-10-04 18:00 | 手話

『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 1/3

『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・エレン・グロース/著 佐野正信/訳)
(1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行所)

【著者】
ノーラ・エレン・グロース=1952年生まれ。文化医療人類学者。

【訳者】
佐野正信=1959年静岡県生まれ。8歳のとき、ストマイにより失聴。
翻訳家。杉並区聴覚障害者協会理事。


「ハンディキャップが文化によって生み出されるものである以上、
われわれはみな、それに対して責任を負っている
――著者のこの指摘には大きな意味がある。
・・・読む者に感動と勇気を与える書」
(『ヴィレッジ・ヴォイス』)


「申し分のない論証と真に迫った描写・・・聴覚障害者の立場に
たつ説得力のある調査報告」
(『サイエンティフィック・アメリカン』)


「差別はいつでもどこにでも存在していた
・・・この仮説の正当性に疑問をさしはさむ」
(『クォリティティヴ・ソシオロジー』)




http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN4-8067-2220-0.html

http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/2220n.html

http://www.thesalon.jp/themagazine/culture/post.html

http://idea-labo-beta.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

http://blog.livedoor.jp/aonoharuka/archives/1660360.html


これが国連・障害者権利条約の批准、そして目的達成への
カギになるのはもちろん、聴覚障害者の就労問題も
解決する、重要ヒントにもなっていると思います。

もうすでに過去の事実だが、
もしも、現代社会がこの島のように進歩したならば、
国連・障害者権利条約の役割も終わることだろう。
それが理想社会の到来なのだと思います。

障害者問題の解決は、障害者も含めた経済活動も
活発になることを意味し、経済全体を好転させるだろう
と思います。

ボランティアも障害者福祉もいらない社会なんて、
それこそ聴覚障害者にとってだけではなく、
健聴者にとっても理想ではないでしょうか。

また、手話学習者にとっても、ろう者の手話を
覚えるにはどうすればよいのか、知るきっかけを
得られるかもしれない。


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訳者あとがき(訳者注解)
「・・・本書の訳語にいわゆる『差別用語』が用いられている点について、
少し触れておきたい。
正直いって、deaf and dumb や deaf-mute と『つんぼ』や『おし』が、
ぴったり対応しているとは思わない。
だがこの場合、『ろうあ者』などとしたら、原語のイメージを伝えていない
のは明らかである。
島民が現在の一般的なアメリカ人にとっての侮辱語を平気で使っている
のだという事実を読者に隠してしまうのは、訳者個人の『差別用語』観は
別にして、翻訳家としての義務怠慢だと考える(蛇足ながら、訳者は
聴覚障害者である)。


また『つんぼ』や『おし』とバランスをとる意味で、他の障害についても
意図的に『差別用語』とされる訳語を用いた箇所がある。

人によっては――とくに当事者によっては、本書が障害の遺伝問題を
おおっぴらに扱いすぎていると感じるむきもあるかもしれない。
しかし著者は、偏見をあおるために本書を書いたのではない。
むしろその逆である。
基本的に遺伝問題は、変に隠し立てをするより、科学的で正確な知識を
キチンともつことが大切ではないかと思う(個人のプライバシーをまもるのは、
また別の問題である)。」




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「マーサズ・ヴィンヤード島は、マサチューセッツ州南東部の
大西洋岸から8キロほど沖合いに浮かぶ島である。
1640年代に北部人(ヤンキー)の開拓者が対岸のケープゴッド
から移住したこの島は、ほとんどの時代で農業、漁業を主産業
とする、生活水準のさほど高くない土地だった。
だがこの隔離された島には、よそでは見られない特徴があった。
この特徴によって、ヴィンヤード島は今日的な意義をもつことになる。

島では300年以上にわたり、先天性のろう者の数が飛び抜けて
高い比率を示した。
これは遺伝性の聴覚障害が原因だった。
アメリカにやってきたイギリスの初期開拓者のもたらした遺伝子が、
結婚を通じて子々孫々に伝えていったのである。
とはいえ初期開拓者の小さな核集団が、島とか高山に挟まれた
谷間とかのような、比較的外部から遮断された土地でくらすという
ことなら、ほかにも事例がないわけではない。
人類学者が同族結婚と呼び、遺伝学者が『創始者効果』と呼ぶ
この婚姻形態は、すでに世界中の多くの共同体で報告されている。

それではヴィンヤード島に限って見られた特徴とは何かといえば、
それはこうした遺伝の発生に対して、社会的、に適応してみせた
ことである。
ヴィンヤード島では、300年以上にわたり、健聴者が島の手話を覚え、
実生活の場でそれを用いていた。
島の健聴児の多くは、ちょうどメキシコとの国境沿いでくらす今日の
アメリカの子供が英語とスペイン語を覚えてしまうのと同じように、
英語と手話という二言語を完全に併用しながら大人になっていった。


ろう者の社会生活や職業生活を制限しているのは、聞こえないという
障害ではなく、まわりの健聴世界との間に立ちはだかる言葉の壁なのだ

――ろう者がしばしばこう発言しているのを考えると、ヴィンヤード島で
見られた情況には大きな意義があるといえよう。
そのような壁が取り除かれたとき、どのような情況が生じるのだろうか。
ろう者は、そしてまたほかの障害者は、社会が万人に適応しようとした
場合、自由に社会にとけ込めるのだろうか。

ヴィンヤード島は、こうした問いかけに対する答えを見つけるのに
うってつけの場所である。

そしてここ10年間、障害者の権利拡大運動が世界中で大きな盛り上がり
を見せていることを考えると、現在ほど、こうした問いかけをするに
ふさわしい時期もない。

障害者や障害者の集団が、障害者の多くは、肉体や感覚や精神の障害
から生じるのではなく、障害者のまえに立ちはだかっている壁
――つまり人間関係や障害者観や法律の壁から生じるのだということを
声高に主張している。

かれらのいい分はこうである。

『少しだけこちらに合わせてください。
そうすれば社会のお役に立てますから』。

今や障害者の問題は、医学とリハビリテーションの領域から市民権の
領域にその射程を移し変えている。

障害をもつ市民が社会にとけ込もうとしたとき、本当に社会の側では、
そうした情況に適応したり、そうした情況から何かを引き出したりできる
のだろうか。
ヴィンヤード島の住民が300年間にわたって経験したことは、この問いかけ
について考える手がかりを与えてくれるはずである。
それは私たちすべての将来とじかに関わる『自然の実験』だったのだから。」


「遺伝性聴覚障害については、これまで約70のタイプが確認されている。〔※1〕
これらのうちの半数強は、色素性網膜炎、皮膚や外耳の異常、白皮症、
甲状腺腫、腎炎、心臓病等の異常と関係し、特異の症状郡を形成している。〔※2〕
これら以外の遺伝性聴覚障害のタイプは非特異的であり、関係する
疾患をもたない。〔※3〕
つまり聴力損失を除けば正常といってよい。
ヴィンヤード島の聴覚障害も非特異的であったのではないかと思われる。
この障害をもった人びとは一見みな正常で健康そのものに見えたが、
あらゆる周波数の音域で音を識別することができなかった。
古い写真を見ると、こうした人たちの外耳はまったく正常であるように
見える。
判明している島のろう者について、私はカルテや死亡記録を数例発見
したが、それらの中に、単一の死因とか特異的な遺伝性障害と関係
する長期的疾患とかを示すものは、一つとして存在しない。〔※4〕
遺伝のパターンは、その特質としては劣性のものであったと思われる。

島で先天性のろう者として生を受けたすべての子供の85パーセントが、
父も母も健聴である両親から生まれている。
聴覚障害が直系の子孫に発生した場合、しばしば二世代か三世代
――六世代というのも一例ある――の間隔をおいてあらわれているが、
これは劣性遺伝に見られる特徴である。
男女の発生率はほぼ同じである、私がこれまでにようやく確認できた
ろう者の数は、男性が29名、女性が34名であった。
このほか、名簿にろう者と記載されている子供を9名確認しているが、
この子供たちについては性別を明らかにする記録がみつかっていない。」


「島のタウンの中でもっとも隔離の度合いの激しいチルマークでは、
19世紀の半ばまでに、健聴者とろう者の比率は25対1になっていた。
60人ほどの島民がくらすチルマークのある小居住区などは、その比率
が何と4対1であった。
18世紀から20世紀にかけて平均人口わずか300人たらずのタウンで、
先天性のろう者が全部で39人も判明しているのは驚きである。」


「ヴィクトリア朝〔1837年~1901年〕の科学では、遺伝的性質は
父〔母〕から子、子から孫、といったように、直系の子孫に受け継がれる
と考えられていた。
父〔母〕、祖父〔祖母〕、あるいはもっと隔たった直系の先祖がろう者でない
ならば、ろう児が遺伝によって障害を受け継いだなどとは考えられなかった。
これ以外の、おじ、おば、姪、甥、近縁、遠縁のいとこなどといった縁者
との結び付きは、かりにその人物がろう者であったとしても、はなから
問題にされなかった。
せいぜいのところ、聴覚障害は『血筋』によって生じるのだというぐらいが
関の山だった。
〔※16〕

ダーウィンでさえ、うまく説明できないでいた。

『つんぼは数人がまとまって同一家族の中にあらわれることが多く、
またいとこなど他の縁者にあらわれることも多いが、それにもかかわらず、
親の方がつんぼである場合が少ないのは不思議な現象といわねばならぬ』

これは1868年にダーウィンが書いた一文である。
その結論部分はこうなっている。

『現在のわれわれの知識では、このような事例は、すべて理解不能として
おくのが無難であろう』〔※17〕
科学者たちが家族の遺伝パターンを理解する手がかりを得たのは、
1900年にグレゴール・メンデルの劣性遺伝の考え方が知られるように
なってからである。
ベルはヴィンヤード島で聴覚障害がどう遺伝されていたのかを理解して
いなかったが、聴覚障害が遺伝とつながっていることには確信があったらしく、
ろう児の生まれる可能性がある以上、ろう者同士の結婚はみあわせるべき
だと主張した。

聴覚障害がヴィンヤード島の島民のような一つの個体群の中で高い
発生率を示すとすれば、寄宿制学校にろう児を囲い込むのは、ろう者同士
の結婚を助長させ、一つの純粋品種、つまり先天性のろう児という『変種』
を生み出してしまい、つまるところ、いたずらに問題を複雑にするだけの
結果しかもたらさないのではないか――ベルはこう警告した。

ろう者は族内婚を差し控えるべきだとした学者は、何もベルが初めてでは
ないが、〔※18〕 このようなベルの所説は、世間一般の人にこの問題を
考えるきっかけを与えるとともに、その後ろう社会でえんえんと続くことに
なる論争の引き金にもなった。

ベルがヴィンヤード島で集めた情報は、『人類にろう者という変種が形成
されたことについての回想録』と題する名高い研究論文の核心をなすもの
であった。
その後20世紀にいたるまで、優生学者たちは、ほぼ全面的にベルの
データに依拠して、アメリカのろう者はむやみに結婚すべきではないとする
論文を発表し続けた。
ろう者の中には不妊手術を施される者もいたが、その際、本人には無断で、
あるいは本人の意思を無視して、手術がおこなわれることも少なくなかった。

にもかかわらずこうした学者たちの大半は、ベルが結論を導く際に依拠した
データに疑問を投げかけようとはしなかった。

ベルのノートはつい最近入手できるようになったが、これを読むと、
劣性遺伝の性質に関するメンデルの理論を知らないために、
家族に聴覚障害が発生する問題について、まったく見当ちがいの結論を
出してしまっているのがよくわかる。
調査には細心の注意を払うベルのことだから、ジグソーパズルのピースが
一つ欠けているのに気づかなかったわけではない。
私はノートのあいだに、一枚のメモ用紙がはさまっているのを見つけた。
聴覚障害のあらわれそうな家族に、4人に1人しか先天性のろう者がいないのは
なぜなのだろう――そこにはこんな自問が書かれていた。
高校で生物を習った人間ならだれもが知るように、メンデルの劣性遺伝の
性質は4人に1人(25パーセント)の確率で各子孫にあらわれるのである。



島民は幼児期に手話を習得した。
健聴児やろう児の手話習得法をたずねると、どのインフォーマントも、
子供は英語を覚えるときと
同じように、成長とともに自然に手話を覚えてしまうのだと答えた。
家の中でろう者といっしょにくらしていると、『見よう見まねで手話を覚えて
しまう』のだという。
これは大勢の人が証言するところである。

たとえばろう者を母にもつある女性はこんなふうにいう。

『深く考えたことはないのです。
自然に身についてしまいましたから』

また別の年配の男性によると、ろうの父と健聴の母をもつ健聴のいとこ
〔女性〕は、話し言葉よりもさきに、手話を覚えてしまったという。

『あれは英語ができないうちから、手まね〔デフ・アンド・ダム〕ができたんだ。
ほんの小さいころに覚えてしまったと、よくきかされたよ。
・・・耳のきこえる母親とは話せないのに、〔父親の方とは〕話が通じるんだ。
みんなこの話をよくしてたな』

これまでの調査によると、幼児期に手話と接触したろう児は、少なくとも
健聴児が言葉を使い始めるのと同じ時期に、手話を使い始めるという。
調査によっては、手話を使う能力の獲得が発語能力の獲得より数ヵ月先行
する例もある。
ろう児の語彙習得率は、そのろう児が手話使用者であれば、健聴児の習得率
と実質的に一致し、5歳ごろまでにどちらも1000語以上の語彙を習得する。

これに対し、口語だけを教え込まれ、手話と接する機会をもたなかったろう児
の場合、5歳までに習得する機能語彙は、わずか数十語にとどまることが
少なくない。
ろうの親をもつ健聴児の、手話と英語の習得については、これまでの研究から、
両言語の同時習得は容易であることが明らかになっている。
〔※2〕」


ろうの家族のいる家ではもちろん、ろうの家族のいない家でも、親は子供に
手話の手ほどきをした。

上手に手話を操るためには、たえず手話を使い続ける必要があった。
次はある老女の回想である。

『小さいころは、もちろん手まねや指文字をたくさん知っていましたが、
Mさんに『クリスマスおめでとう』を伝えようと思い、はたと当惑してしまいました。
『クリスマスおめでとう』の手話をまだ知らなかったのです。
そこでMさんの奥さまは耳のきこえる方だったのですが、そのあらわし方を
教えてくださいました。
こうしてMさんに『クリスマスおめでとう』を伝えることができましたが、
そのときのMさんの喜びようといったら、それはもうたとえようもないほど
だったのです』

それからこの女性は、現在70代後半の息子に、どのように手話を教えたかを
話してくれた。

『仔猫』、『犬』、『赤ちゃん』などの手話を教えてあげたのは、あの子が3歳
くらいのときです。
そのころ、耳のきこえない方で、雑貨店に顔を出し、人の出入りを見ている
のが好きな方がおりました。
ある日のこと、あの子といっしょにその店に行きましたところ、その方の姿を
みとめましたので、あの子に向かって

『さあ、あそこにいるTさんに「こんにちは」をしていきなさい』

と命じたのです。
あの子がそのままあいさつにいきましたので、私はさらに、あれこれ、猫とか
犬とかあらわしてごらんなさい、といいました。
そうしたら、まあ、Tさんの喜んだこと、こんなちっちゃな子が手話でいろいろ
話したものですから、それはもうたいそう喜んでくださいまして、さらにいくつかの
手話をあの子に教えてくださったのです。
あの子はそうやって手話を覚えました――私たちもみなそうやって手話を
覚えたのです。

インフォーマントの中に、きちんと手話を習った者は一人もいなかった。

『それは、どういったらいいんでしょうか、たぶん本能のようなものだったと
思います。
・・・手話を覚えないわけにはいかなかったのです。
いつでも、それを目にしてましたから』


島西部の住民はかならず手話を覚えなければならなかった。

『手話はぜひとも身につける必要がありました。
だれもが手話を知ってました。
・・・手話を知らないでは、ここのくらしが成り立たなかったのです』



「次は島西部のおばを定期的に訪ねていた、エドガータウン出身のある婦人
の回想である。

おばはつんぼの人と同じように、手まねができました。
〔島西部には〕つんぼの人が大勢住んでいて、たいていの人が手まねを使って
いました。
・・・私自身、みなが手まねの使い方を知っているのは当然だと思っていたようです。
手まねで話し合っている光景はごくありふれたものだったので、あまり人の
注意をひきませんでした。
そのころの島の人は、ほとんどが手話の使い方を知っていたのです。



「1931年、『ヴィンヤード・ガゼット』紙のコラムで、島のお年寄りの何人かを
選んで、その略歴が紹介されたことがある。
取り上げられた島民の一人はろう者であった。

ノース氏が子供だったころ、チルマークにはつんぼがかなりくらしており、
身近に同障の者をもたぬまま生まれた場合とくらべて、氏も気なぐさみを
感じることが多かったと思われる。
氏のきょうだいには、つんぼだけでなく、完全に話せてきこえる者もいく人か
いた。
ほかに大人や子供のつんぼが大勢おり、その数の多さのためだろう、
チルマークで手話を使いこなせぬ者は、ごくわずかしかいなかった。

大人になってからこの地域に移り住んだ人たちでさえ(そのほとんどは
古くから島西部でくらしている家族に嫁いだ人たちである)、
手話を覚えるのに労を惜しまなかった。



「1920年代末にチルマーク出身の男性と結婚し、現在70代後半のある
女性は、次のように語っている。
結婚してから、チルマークで手話を覚えました。
うちの人が教えてくれたのです。

うちの人はチルマークの育ちで、そこのつんぼの人とはみな知り合いでした。
それで私も会話を楽しめるくらいには、手話ができるようになったのです。
・・・〔系統立てて手話を習ったのかどうかという問いに対して〕いいえ、あの人
の教え方は・・・何といったらいいんでしょうか、ほんのときたま、ごくたまに、
いろんな手話を教えてくれるというだけでした。
時間を決めての勉強とか、そういう形ではありません。
ただ話ができるようになればいいという、それだけのことだったのです。
手話を覚えたいと思ったのは、手話のやりとりを見ているのがおもしろく、
私もいっしょに話してみたいと思ったからです
――だってそうでしょう、あの人たちも、お隣りさんだったんですから
』」


手話がごく自然に習得されていたことは次のような話をきくといっそう
はっきりする。
これは1930年代の初めにチルマークに嫁いだ女性の証言である。

そうですね、手話を習ったのは、ええっと、だれからでしたっけねえ。
たぶん、お隣りのアビゲイルからだったと思います。
アビゲイルに教わるまで、手話は知りませんでした。
私は北で生まれ、それから結婚して、チルマークに移りました。
チルマークに移って、すぐ手話を覚えたのです。
タウンではみんな手話で話していたので――みんなある程度手話を
知っていたので、これは私も覚えなければと考えたわけなのです。



「断定はできないにしても、島の健聴者はろう者と意思の疎通を
はかるのに不自由はしなかったと思われる。
島のろう者に読話のできる者は皆無だったようで、意思の疎通は
すべて手話でなされた。

何人かのインフォーマントは、日常会話で用いられないような
特殊な単語が出てくると、話が通じにくくなる場合があったと
証言している。
そんなとき島の健聴者は、もっと適当な手話表現をさがし、
あくまでも手話でその単語をあらわそうとするのがふつうだった。
ときには指文字を知っている者がその単語の綴りを一字一字
あらわすこともあったが、インフォーマントの中で指文字を
知っている者は半数以下であり、指文字を多用する者となると、
ほんのごくわずかしかいなかった。
指文字使用者の多くが指文字を『本来の』手話と思い込んでいた
のは興味深い。
このような見方は、20年前まで本物の手話に押されていた
烙印(ステイグマ)と軌を一にするものと見てよいだろう。」


「島の外のもっと広い社会では、健聴者は筆談でろう者と話をする
ことが多かったが、島の場合、筆談をおこなうことはなかったらしい。
17世紀から18世紀にかけて、ヴィンヤード島のろう者が文字を
読めたかどうかはわからない。
19世紀には、1人を除いてすべてのろう者が英語の読み書きが
できた。
これはおそらく、第二言語として学校で身につけたものと思われる。
ろう者の書いた手紙が数通残っているが、これらを読むと、英語を
書く力がじゅうぶんあったことがうかがい知れる。
たぶんろう者の多くは、必要があれば筆談で健聴者と意思の疎通を
はかれたはずだが、実際のところ、ろう者が筆談をするのを見覚えて
いる者はいなかった。
ほとんどのインフォーマントは、島のろう者の筆談を目撃したことは
いっさいないと証言した。

たとえばあるインフォーマントは、次のように語っている。

私の記憶では、だれも筆談はしていなかったと思います。
当時はまだ子供でしたが、それはたぶんまちがいないと思います。
それでもいわんとすることは、じゅうぶん通じていました。
そういう仕方が、当たりまえになっていたのです


島のろう者が筆談をしていたのではないかという証言が一つだけある。
近所に住んでいたろうの女性についてのある男性の記憶なのだが、
夫が夏の避暑客相手に牛乳と木材の販売をしていた関係で、
この女性は、島外から来た客人とうまく話せなくなった場合に備えて、
黒板の断片と一本のチョークをよく裏口に用意しておいたという。
島西部の共同体では、たえず手話が用いられていたので、
そこにくらす人たちは、だれでもすんなりと意思の疎通がはかれた
ようである。
そうですね、〔健聴者で〕手話が上手な者、上手でない者が何人ほど
いたか、本当のところ、記憶があいまいなんです・・・。
たいていの者は、手話を読み取るのも、あらわすのも、不自由して
なかったと思います。

あの人たちは、みな文章が読めましたが、手話を使えばこちらの
いいたいことは伝わりました。
通じなくて困ったという話はきいたことがありません。
そういう話は、まずなかったと思います。

ええ、手話はできましたし、あの人たちともうまくやってました。
私だけでなく、たいていの者がそうだったのです。

私は指文字は習いませんでした。
まあ、とにかく、かなりの人間が手話を知っていたのです。」

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by bunbun6610 | 2013-10-03 18:00 | 手話

「汚染水対策が優先課題」=東電申請に厳しい声―柏崎原発の安全審査・規制委

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131002-00000067-jij-soci


「汚染水対策が優先課題」=東電申請に厳しい声
 ―柏崎原発の安全審査・規制委


時事通信 10月2日(水)12時32分配信

原子力規制委員会は2日の定例会合で、東京電力が
柏崎刈羽原発6、7号機(新潟県)の再稼働に向けた
安全審査を申請したことについて、事務局の原子力
規制庁から報告を受けた。

田中俊一委員長は

「法令に基づいて受理するが、福島第1原発の汚染水
問題が喫緊の課題であることをまず認識してもらう必要
がある」

と指摘。

「汚染水問題が万が一にもおろそかになってはならない」

と厳しい姿勢で臨む方針を示した。

 中村佳代子委員も

「事故の後始末を見る限り、東電が放射性物質に対する
ノウハウや知識を持っているとは思えない。
そういった会社が放射性物質を取り扱う原発について
申請を出すことに、驚きの念を感じざるを得ない」

と批判。

更田豊志委員も

「あれはあれ、これはこれと言うわけにはいかない。
東電は十分な汚染水対策を行い、リスクを抑える活動が
優先されるべきだ」

と述べた。


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全くその通りだと思う。
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by bunbun6610 | 2013-10-02 21:34 | 原発問題

健聴者も手話を使っていた島 - ヴィンヤード島

副題;『ろう者差別がなかったヴィンヤード島』


手話が公用語(二言語併用法)になっていた島が、
アメリカにあった。

この島のろう者と健聴者には、
一般社会のような“言葉の壁”などなかったのです。

現代では、こういった集団が模擬的にならある、
と思います。
そこも今や壊滅的な状況ではありますが、
たとえば日本の手話サークルではないでしょうか。

ろう者がお客様としてたまにやって来る程度
に過ぎなくなりましたが、
昔はもっと多くのろう者が来ていました。

手話サークルは、もともとは健聴者も難聴者も、
ろう者の手話を学ぶところでした。

この事例を、日本に長期滞在中で日本文化にも詳しい、
外国のろう者に聞いてみると

「日本のように、健聴者や難聴者も手話を学び、
手話講習会や手話サークル、テレビ番組でも
手話の勉強があるというのは、世界的にも
非常に珍しい例だ」

と話しました。


ただ今は、残念ながら近年はろう者と健聴者との間に、
ズレが出来てきてしまっているようですが・・・。

障害者福祉としての「手話通訳」(中間型手話)と、
聾文化における「ろう者の手話」(“日本手話”)は違う、
と認識されるようになってきました。

両者は違います。



〔参考情報1〕 「ウィキペディア」より。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E8%A9%B1

『世界の手話』を参照。

「マサチューセッツ州にあるマーサズ・ヴィニヤード島には
ヴィニヤード手話(ヴィニヤードサインランゲージ)と呼ばれる、
独自の手話がある。
この島は米本土に近いが、以前はなんらかの理由で本土との
交流が少なく、半ば隔離され閉塞された環境だったため、
近親婚が行われ、元来からの聴覚障害遺伝子が拡大し聾者が
多く出生した。
これに伴って独自の発展をとげたのがこの島独自の手話である。

この現象はいわば「自然のもたらした言語学的、社会学的実験」
であった。
ここでは家族、親族の中に必ずろう者がいるという特殊な社会的
条件から、聴者も流暢に手話を使い、しばしば音声語と手話は
併用されていた。

彼らにとって手話は特別な物ではなかった。
歴史的調査をする研究者が

「当時その話をしてくれたのは聞こえる人でしたか?
聞こえない人でしたか?」

と質問しても、当人達は相手がろう者か聞こえる者だったかさえ
思い出すことができないほどだった。
彼らにとって「聞こえないこと」は偏見や差別の原因とはならなかった。
ろう者はコミュニティーの一員として確固とした立場を保っており、
市長や社長に就任する者もいた。
この島では使用言語の優位性に基づく差別がなかった[要出典]。

こうした独自の手話が自然発生した例には、ほかにもニカラグアの
全寮制ろう学校で誕生したニカラグア手話、ろう者が非常に高い
割合で生まれる村落で自然発生したアル=サイード・ベドウィン手話
とアダモロベ手話などがある。」




〔参考情報2〕
『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・E・グロース/著 佐野正信/訳
1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行)

「ヴィンヤード島に限って見られた特徴とは何かといえば、
それはこうした遺伝の発生に対して社会的に適応して
みせたことである。
ヴィンヤード島では、三百年以上にわたり、健聴者が島の
手話を覚え、実生活の場でそれを用いていた。
島の健聴者の多くは、ちょうどメキシコとの国境沿いでくらす
今日のアメリカの子供が英語とスペイン語を覚えてしまうのと
同じように、英語と手話という二言語を完全に併用しながら
大人になっていった。

ろう者の社会生活や職業生活を制限しているのは、聞こえない
という障害ではなく、まわりの健聴世界との間に立ちはだかる
言葉の壁なのだ――ろう者がしばしばこう発言しているのを
考えると、ヴィンヤード島で見られた情況には大きな意義が
あるといえよう。

そのような壁が取り除かれたとき、どのような情況が生じるの
だろうか。

ろう者は、そしてまたほかの障害者は、社会が万人に適応
しようとした場合、自由に社会にとけ込めるのだろうか。

ヴィンヤード島は、こうした問いかけに対する答えを見つける
のにうってつけの場所である。
そしてここ十年間、障害者の権利拡大運動が世界中で大きな
盛り上がりを見せていることを考えると、現在ほど、こうした
問いかけをするのにふさわしい時期もない。障害者や障害者
の集団が、障害者の問題の多くは、肉体や感覚や精神の障害
から生じるのではなく、障害者のまえに立ちはだかっている壁
――つまり人間関係や障害者観や法律の壁から生じるのだと
いうことを声高に主張している。

かれらのいい分はこうである。

『少しだけこちらに合わせてください。
そうすれば社会のお役に立てますから』。

今や障害者の問題は、医学とリハビリテーションの領域から
市民権の領域にその射程を移し変えている。
障害をもつ市民が社会にとけ込もうとしたとき、本当に社会の
側では、そうした情況に適応したり、そうした情況から何かを
引き出したりできるのだろうか。
ヴィンヤード島の住民が三百年間にわたって経験したことは、
この問いかけについて考える手がかりを与えてくれるはず
である。
それは私たちすべての将来とじかに関わる『自然の実験』
だったのだから。」
(『はじめに』より)

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by bunbun6610 | 2013-10-02 18:30 | 手話

不滅の手話 - ヴィンヤード島


『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



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「『失われた言葉、失われた文化』
ろう文化独自のパワー。
聴こえる世界と対等なろうの世界の存在。
この考えを立証する現象を、私たちは歴史の中に
みることができる。

アメリカ東海岸の大西洋沖にあるマーサズ・ビンヤード島
では、約250年間、耳が聴こえないことのほうが
あたりまえだった。

最初にろう者の漁師、ジョナサン・ランバートが
ここに移り住んだのが1694年。
彼は、劣性遺伝として聴覚障害をもっていた。
その後孤立した島での結婚が何世代も続き、
子孫にろう者がたくさん生まれるようになった。
特に、チルマークやティスパリーと呼ばれる村では、
普通では考えられないほどろう者がたくさんいて、
たとえば19世紀の中ごろのチルマークでは、
25人に一人がろう者だった。
その中のさらに小さな地域では、4人に一人が
ろう者だったというデータさえ残っている。

文化人類学者ノラ・エレン・グロースが記した
『皆が手話で話した島
(Everyone Here Spoke SignLanguage)』
(佐野正信訳、築地書館)によれば、ここでは、
聴こえる人の文化と聴こえない人の文化がごく自然に、
うまく融合していた。
いったいどんな生活を送っていたのか。

まずこの島では、聴こえない人が家族にいなくても、
地域全体が手話を使っていた。
ろう者とのコミュニケーションの手段としてのみ
使われたというのではない。
たとえば耳の聴こえる漁師が漁船で漁をしているとき、
遠く離れた漁船とのコミュニケーションをはかるのにも
使われたし、教会内での会話にも使われた。
聴こえる人たちが会話をしているところにろう者が
くると、すぐに皆手話で話しはじめた。

1952年、このマーサズ・ビンヤード島で最後の
ろう者の住民が亡くなったといわれる。
けれどもその30年後、脳神経科医オリバー・サックス
がここを訪れとき、聴こえる高齢者の住民は、
依然として手話で民謡を語り、会話をしていたという。

サックスが会ったなかで一番年をとっていた女性の
ひとりは90歳代だったが、

「時々とても平和で夢心地の気分になって」

まるで編み物をしているように両手を動かし手話を
使っていたらしい。

「その娘が私に言うには、母親は考えごとをするとき
手話を使うらしい。
決して編み物をしているわけではない」

とサックスは書いている。

「聞くところによれば、あの最高齢の女性は、
眠っている最中でもベッドの上で、かけぶとんの内側に
話しかけるかのように手話を使っていたという。
夢も手話でみていたというのだ」

ともある。

マサチューセッツから少ししか離れていない、
大西洋に浮かぶこの島では、
耳の聴こえる人とそうでない人の間に、
言葉の上でも社会生活の上でも障壁がなかった。
ろう者は、政治から教会の催しまで地域のいろいろな
活動に積極的に参加していたし、結婚率80%というのも、
聴こえる人の率と同じだった。

19世紀末、アメリカ全体のろう者の結婚率はわずか
45%だったのと比べるとかなりの割合だ。
また、両者ともひと家族平均6人の子どもがいた。
1880年代、全米レベルでは、ろうと健聴の夫婦には、
平均2.6人の子どもしかいなかった。
さらにこの島では、ろう者はそうでない者と同じような
仕事につき、同じような収入を得、PTA活動から
高速道路の調査官、軍隊まで、生活の諸側面で活躍
していた。」




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by bunbun6610 | 2013-10-01 18:00 | 哀れみはいらない