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飲み会での筆記通訳

通訳や、1対1での筆談の場合は、
話し手の気持ちが伝わる表記が多いのですが、
筆記だと、どうも違います。

もしかしたら、通訳は話し手の気持ちを
代弁できるのかもしれないし(※)、
筆談は話し手自身が書いているので、
気持ちが表れる場合が少なくありません。

しかし、筆記の場合は、筆記者が

「田中さんが『※※』と言っていたよ」

と簡潔に伝達するのみという、
淡々とした事実表記に終わっている
ような気がするのです。


『※※』の一例が「飲み足りない」(筆記)だった場合があります。
実際の言葉はもっと長いもので、例えば

「チッ! もう終わりかよ。
飲み足りないなぁ。
もっと(酒を)出せ!!(部長の方をチラッと見て)」

と言っていたとします。
しかし、筆記文を読む聴覚障害者には、言葉のニュアンスとかは
全然伝わってきません。
それでも、聴覚障害者には
「皆笑っているのに、(自分だけその理由がよく分からないのは)
どうしてだろう?」
と疑問に思うわけです。
それは、周囲の状況を見ているので、勘でわかるのです。

しかし、あくまでも勘は勘です。
勘に頼りすぎて自己判断するあまり、失敗した経験
(間違えて失礼に当たることになってしまった場合)も、
山ほどあります。
だから、会話の結果だけでなく、過程や理由がわからなければ、
むやみに笑ったりできないのです。

それでも、無反応では無愛想だと思われるのが心配なので、
皆が笑えば自分も笑うという「微笑み障害」なんか演じていたり
していました。
これも本当はイヤでしたが、他にどうしようもなくて、
ガマンするしかありませんでした。


読者の方も、もし、こんな事例だとすると

「田中さんが『飲み足りない』と言っていたよ」

という筆記文だけでは、原文にある話し手の気持ちを
十分に感じとることができますか?

原文の通りならば、皆が笑っていた理由がわかります。
ですから、聴覚障害者もそれを知ることができれば、
心底、笑えます。

しかし、

「田中さんが『飲み足りない』と言っていたよ」

だけでは、具体的な点まではわからず、
面白さも伝わってこないので、
聴覚障害者だけはやはり笑えないと思うのです。
飲み会での筆記では、おそらく、こんな問題が結構あるのだろうと、
私は思っています。


筆記文は、話している時間に比べたら、
あまりにも短いものです。
肝心の『※※』だって、話し手の言葉通りでないと明らかにわかるし、
それは未来形、現在形、過去形というようなことばかりが強調されて
見えるような気がします。

それに、誰々が言った、ということがわかるときには、
もう全然違う話になってしまっていて、
読んだことについての言い返しは難しくなるものです。
要するに、音声会話のリズムについてゆけない、という、
これも虚しい結果になります。

それだからといって

「自分は参加しても、面白くない」

と言ったら失礼なので、そのまま1時間、2時間と
ずっとガマンして、単調な文章を見ているだけに
なってしまいます。
それはちょうど、ほとんど無口な人とか、
単純な話しかしてくれない人を相手に、
時間を過ごしているようなものになるのです。

つまらないし、自分も平等に飲み代を払っているのだから

「いっそのこと、自分の分だけ先に食べて飲んで、
さっさと帰りたい」

という気持ちに駆られます。

「いや、でもそんなこと、できないだろ」

「この聞こえない状況では、なかなかそれを言い出せる
タイミングがわからないし…」
(マナーとか、場がシラケてしまうのを恐れて…)

「筆記してくれる人に、後で気まずくならないだろうか?」

「いや、ここまで来て、こんなことを考えるくらいだったら、
最初から出なきゃ良かったんじゃないか?」

こういった心の中の葛藤、自己嫌悪に苦しむ飲み会に
変わっているのです。
基本的に、筆記通訳をしてくれる配慮が悪いわけではないのだけれど、
聴覚障害者だって同じ人間ですから、毎回そのような飲み会では
満足できないのは当たり前なのではないでしょうか。

それに、そのような飲み会にすると、2回目には参加者が減ります。
なぜかは知らないのですが、おそらく、上司から

「今度の飲み会の、聴覚障害者への筆記はキミがやって」

と言われるのを、健聴者は嫌がるからではないでしょうか。

これは、私の想像の範囲に過ぎませんが。

だから私としては、飲み会での筆記配慮はありがたい気持ちどころか、
気が重たくなるのです。
結局「それなら出ないほうがいい」ということにするのです。

一方、自分で通訳者を用意して参加する場合は、
問題ないと思われるかもしれません。
でもこれだって実際は、状況によっては、
使えない場合もあります。

飲み会のような、よく混沌とした会話が起こる場では、
通訳があっても、それをみんなで上手に使いこなさなければ、
やっぱり聴覚障害者は、通訳を見ているだけになってしまう
場合もあるからです。
これは、下の三宅初穂氏の言葉を思い出してみて下さい。

「4つ目、これは健聴者のコミュニケーションの問題です。
そもそも、通訳者がどんなに努力をしたとしても、
解決の図れないことがあります。
その場にいる人すべてがこの場のコミュニケーションを
成立させるという意思を持たない限りは、
コミュニケーションは成立しないということです。」


※ 当ブログ『聴覚障害者への情報保障の問題点』(2011-10-19 23:00)も参照。

(※)利用者である聴覚障害者には、原文がわからないので、
どの程度までわかるのかは、実際のところ、考えようもありませんが。


ところで、聴覚障害者に適した情報保障の方法に、
もう一つ、特殊な例があります。

通訳というより、講演会で使われる情報保障として、
「要約筆記(パソコン使用含む)」の他に、
下の『パソコン文字通訳』というのがあります。
これは、要約筆記通訳とは異なります。

『文字通訳 キャプショニング・ペガサス』
 →http://pc-captioning.jugem.jp/

この場合は、言語・原文を忠実に再現したテープ起こしに限りなく
近い通訳文になっているようです。
通訳スピードも申し分のない速さで、健聴者も驚嘆の声を上げていました。

勿論、これは聴覚障害者にも、かなり評判が良く、
聴覚障害者を雇用している企業や、自分の仕事で使う聴覚障害者も
いるそうです。

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by bunbun6610 | 2011-10-31 22:29 | 情報保障・通訳

ADAと『障害者の経済学』

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html


次の文は、当ブログのカテゴリー『障害者の経済学』とも、関連している話だと思います。

「私はホテルを出た。すぐ近くにあるアメリカ政治の中心、連邦議事堂を見上げると、タクシーを待つ列に加わった。
すると偶然私の後ろに、スーツ姿の青年が、明るいオレンジ色の車椅子に乗ってやって来た。
タクシーはすぐそこに二台停まっている。ホテルのドアマンが、私のために一台目のタクシーに合図をすると、二台目のステーションワゴン風のタクシーも一瞬こちらに向かう様子を見せた。が、この車は突然Uターンして一気にスピードをあげ、瞬く間に議事堂の方向に走り去ってしまった。
すでにタクシーに乗っていた私は、車椅子の青年が気にかかって後ろをふりかえった。彼は別のタクシーを待っている様子で、怒っているようには見えない。たったいま起こったことは日常茶飯事なのだろうか。感情が害された様子もなく、全く気にしていないふうにさえ伺えた。
私は、多発性硬化症協会から表彰された男性を思い出した。世界で最も近代的な都市の真ん中にいるのに、交通手段がないという理由ですぐ目の前にある通りを渡れなかった彼だ。
青年をおいて去っていったタクシーの運転手は、車椅子をたたんでトランクに入れる煩わしさが嫌だったのかもしれない。
だとしたらあのオレンジの車椅子の彼は、タクシーなしでどうやって仕事場や家にたどりつけるのだろうか。ワシントン運行のバスの中でリフトが設置されているのはほんの一握りだ。また、地下鉄はアクセスがよいとされているが、それもエレベーターはよく故障するし、ワシントン市全域は走っていない。ということは、交通手段のアクセスが整備されていなければ、家庭生活にしても、仕事にしても、彼の生活の行動範囲はだいぶ制限されてしまう。それに、仕事があって初めて日常のアクセスも問題にされる。
彼のような人が行き場をなくせば、国の社会保障制度に頼るようになる。ということは、社会は、障害者に、働くことではなく福祉制度に依存することだけを期待しているのだろうか? もしそうだとすれば、そもそもそういう人たちに適切な教育を提供しようという発想が生まれるだろうか?



【2011年11月5日追記】
 『―障害者の権利意識の向上は、より公正な社会へ変える―』

タクシーに関して、車椅子障害者に対する差別的行為で
社会問題になったことが、日本でもあります。
それはもう、20年以上前の出来事ですが。

その「許せない」と思われた行為は、
新聞の読者投稿欄に掲載され、
反響を呼んだのがきっかけでした。

投稿者はおそらく、当事者(障害者)ではないと、
私は感じています。

本人が書いた内容には見えなかった、ということもありますが、
やはりその頃は、障害者が健常者への差別行為を公に指摘したり、
自分の権利を主張するようなことは、
無いに等しかったからです。

それよりもう少し前には、
障害者の実生活を描いた映画『典子は今』

(→http://movie.goo.ne.jp/movies/p17087/story.html)

が、多くの健常者から感動を呼んでいました。

両腕が使えない典子さんが、普通の人と同じように事務系の仕事をし、
自立生活を営んでいるところを描いた
ドキュメンタリー映画だったと思います。
(もし、違っている解説でしたら、スミマセン)

けれども、
『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)
の訳者(秋山愛子)あとがきには、次の記述があります。

「…車椅子の彼女はひたすら恐縮していた。『すみません。すみません。すみません。もういいですから』。彼女の言った一字一句は覚えていないが、『これ以上皆さんにご迷惑をおかけしたくない。私さえあきらめればいいのですから』というニュアンスが感じられた。
私は思わず怒った。『なんでそこまで皆に謝る必要があるの? バスの機械が壊れているだけよ。謝る必要ないよ!』私の頭からは湯気が立ち上っていたに違いない。」


これが、日本の障害者の現実でした。
日本の障害者たちは健常者が押しつけてきた考え
(障害者はこう生きるべき、という考え)の抑圧から
解放されていないようで、ひたすらガマンし、
自己努力して障害を克服し、周囲の健常者に迷惑をかけないように
生きるべき、というのが美徳とされていた時代でした。

そんな時代に、健常者の差別行為を怒った人も、
やはり障害者本人ではなくて、その介助者
(つまり、健常者ですが、家族か友人の方かもしれません)
だったのではないか、と私は思っています。

さて、その方の投稿文の内容ですが、
記憶が曖昧なので、だいぶおおざっぱにしか書けませんが、
次のような感じでした。

「私(健常者で、おそらく家族か友人の人)は、
車椅子障害者と一緒にタクシーに乗ろうとしましたが、
運悪く、意地悪な運転手さんが乗っているタクシーでした。

車に乗り込むとき、

『何だよ! 車椅子障害者かよ!
こっちは忙しいんだ!
もう、 いやんなっちゃうな。
乗るなら早くしろ!』

などと言われながらも、私たちは悔しさをガマンし、
タクシーに乗り込みました。

乗車中にも悪口を言われ、そして着いて降りるときにも、
また同じことを言われました。
私は、このタクシー運転手の言ったことは、
許せないことだと思います」

新聞でこれを読んだ人たちが、新聞社に抗議文を出し、
続けて、それも載るようになりました。

警察にも「この運転手のやったことは、犯罪だ」と伝えられ、
容疑者探しが行われました。
手がかりがほとんどないので、見つかりませんでしたが。

その頃は聴覚障害者も、私の知人ですが、タクシー運転手に
冷たい態度をとられたことがありました。
「タクシー券」という、障害者が使える福祉割引券があるのですが、
タクシー運転手に「面倒だから使えません」と言われた、
という話でした。

タクシーに関しては、昔は他にも、
障害者に対して、いろいろな差別的事例があっただろうと思います。

今では、こんなことを見たら、障害者のほうも
黙ってはいないかもしれません。

終章『障害者運動はアメリカをどう変えているか』は、圧巻です。

障害者の権利意識の向上は、社会全体に存在する不公正を
是正する原動力になるでしょう。

お互いに言い合える関係は面倒というより、
むしろいいことなのです。

健常者も障害者に対して、ハレモノに触るかのような
接し方はしなくていいのです。
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by bunbun6610 | 2011-10-29 21:36 | 哀れみはいらない

通訳と筆談、筆記との違いについて

【お断り】
この稿は、あくまでも個人的に、試しにまとめてみた
記述です。
要約筆記については、勉強したこともありませんので、
これは自分の経験から、思ったことを書いているに
すぎません。

聞こえない人、また要約筆記通訳を利用した立場
からのものなので、話し手の原文は勿論、
全く知りませんし、
原文と通訳文との比較も、したことがありません。
(それは基本的に不可能なことです)

個人的で、大ざっぱな考え方で申し訳ありませんが、
最近、通訳と筆談、筆記のことが
しばしば出てくるようになっているので、アップする
ことにします。

【用語の個人的な定義】
まず、後で混乱のないように、ここで言う「通訳」「筆談」
「筆記」という語句の、それぞれの定義(これも個人的
なものです)をしておきます。
これは、私の考える場合の、ここだけでの限定的な
定義ですが。

『通訳』…下記ホームページにある派遣センターで、
聴覚障害者が用いることができる手話または要約筆記
・パソコン通訳が、主なものです。
 →http://www.tokyo-shuwacenter.or.jp/



(また、例外的な方法としては、プロの
文字通訳集団「ペガサス」というのもあります。

 → http://captioning.main.jp/ )


『筆談』…通常は健聴者の話し手が、聞こえない人に
伝えるために、自ら書いている方法。
聞こえる人同士が話すときには当然、この筆談は
ありません。

主に健聴者と聴覚障害者が1対1で会話をする場合
に用いられるようです。
実際は会話より、仕事についての一方的な指示、
説明のときに使われる場合が多い。
同じ日本語とはいえ、音声語とは異なることに、
これから注意深く考えてみて下さい。


『筆記』…職場でよくあるのが、通訳を使わず、
話し手の話すことを、誰か(同僚、先輩や上司)が
聞き取り、紙に内容を簡単に書いている方法です。

見ると、メモ書きに近いものから、人により、
いろいろになると思います。
これも、職場では聴覚障害者に情報を伝える方法
の一つになっています。

ノートテイクと似ていますが、書く人により、かなり
のバラツキがあります。
練習と経験を積んだボランティアの人もいますが、
プロの人はいません。
逆に、素人、書くのが苦手な人が書くことになって
しまうケースは、かなり多いです。


ケース1.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
パーティー、冠婚葬祭の場など。


【通訳】その場の雰囲気がわかる(見た目の状況
だけでなく、周りのコミュニケーションの雰囲気が
わかる)。
通訳はどんなときも、可能な限り通訳をしてくれます。
この場合の「可能な限り」とは、
訓練された要約筆記者の書く能力を最大限使って、
要約筆記通訳をする、という意味になると思います。
(要約筆記を勉強したわけではありませんが)


【筆談】相手により、ある程度は書く人もいます。
時間がかかるので、忙しい時などは書かれない
場合が多く、相手にされない場合が多くなります。


【筆記】その聴覚障害者に話しかける場合以外には、
書かれることはほとんどありません。


ケース2.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
パーティー、冠婚葬祭の場など。


【通訳】周りの人が、どんな言葉遣いをしているのか
わかります。
(言葉のマナー、TPOを学び、それを自分も実践する
ことは、自分もその場の音声コミュニケーションに
混じるには、重要である)


【筆談】相手により、省かれることもしばしばです。
細かな言葉までは、なかなか書いてくれません。

【筆記】書かれないか、たとえ書かれるとしても簡素化
され、箇条書きのような書き方が多いので、
音声のような言葉遣いはされない場合が多いです。

ケース3.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
また、会社面接や講演会など、幅広い場で。


【通訳】話の内容が詳細で、流れがよくわかるので、
自分の対応をきちんと考えられます。


【筆談】特に健聴者同士の話し合いの後では、
理由や原因は書かれなかったり、
そそくさに書かれるだけなので、結果だけ伝えられる
だけ、の場合が多いようです。
相手のしてくれることが、実は命令調のようにも
思えてしまう。


【筆記】情報不足のため、自分も簡単になりがち。
分からないことが多いのに、深く考えることは、
むしろ危険だと判断しやすい。


ケース4.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
幅広い話し合いの場で。


【通訳】話の内容が詳細で、流れがよくわかるので、
その人のことについて、詳しく知ることができ、
自己判断ができる。
相手の人格も判断できる。


【筆談】まず「この人は筆談してくれる人だから」
という思いから、人格をフェアに判断できないような
気がします。
悪い人には思いたくないし、相手の人格に疑問視し
ても、ガマンする場合が多い。


【筆記】自分を人格と見ていないような扱い方をされて
いる場合が多く、その人の人格がわからない書き方が
多い。
(そもそも、そんな筆記で判断するほうが論外という
気がする)


ケース5.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。


【通訳】誰の音声発言でも書く(通訳を行う)。
皆の話していることに関心が持てて、思考が働く。


【筆談】自分が相手でない場合には、書かれない。
自分だけ疎外されてしまう。


【筆記】全く書かれない。完全に疎外されてしまう。


ケース6.)
会社面接。討議の場など。
特に、自分も遠慮のない意見を言うべき場で。
自分の主体性を発揮すべき場で。


【通訳】プロの通訳者がいれば、何も心配せず、
自分らしく意見を言える(自己実現、主体性の発揮)。


【筆談】筆談では、時に「書いてやっているのに」という
気持ちが伝わってくる相手の言い返しを聞くこともあり、
自分の人権が相手と対等になっていないような気がする。


【筆記】筆記は、コミュニケーションにならない。
もともとこれは、コミュニケーションではない。


ケース7.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
仲間づくりの場で。


【通訳】コミュニケーションの仲間に、聴覚障害者も
入ってゆける。
コミュニケーションに割り込みできる。
これをキッカケにして、人間らしい人間関係の構築が
初めて可能になる。
(ただ、要約筆記では放射状の音声会話について
ゆけるわけではなく、限界がある)


【筆談】いろいろな人がいるので、コミュニケーション
の仲間に入ることは難しい。


【筆記】コミュニケーションの仲間に入ることは難しい。


ケース8.)
セミナー、講演会の場で。また、会議など。


【通訳】話し手の魅力、その反対の欠点もわかる。
通訳は、それをすべて、素直に書く。
だから、仲良くすることもケンカすることも自由である。
(ただし、ケンカするために通訳があるのではない。
通訳を生かして何をするのかは、自分次第である。)


【筆談】筆談してもらう相手と、ケンカはできない。


【筆記】仲良くもケンカもない。お互いに、無関心に
なりがち。


ケース9.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
また、対等関係で話し合いたい場合。


【通訳】筆談のように、一方的な押しつけはされないで
済む。
相手を冷静に見れる。


【筆談】筆談だと「書いてくれているんだから」という
有り難味があるので、その人を過大評価してしまう。
(そういう意味でも、だまされやすい)


【筆記】自分に格差があるという状況では、むしろ、
相手を過小評価してしまっているかもしれない。


ケース10.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。


【通訳】聴覚障害者のなかには、健聴者の長々しく、
そのうえ、何を言いたいのかわかりにくい筆談には、
嫌気がさす人もいると思います。
しかし要約筆記では、相手がそんな話し方でも、
結論がわかりやすい。

また、筆記よりもはるかに内容が詳しいので、
相手の話を聞く間、暇つぶしをして待つのではなく、
相手の話し方にも関心が持てるようになる。


【筆談】結論がわかりにくい筆談をする人もいる。


【筆記】何を言いたいのか、わかりにくい場合がある。


ケース11.)
集会など、コミュニケーションが目的の場。
屋外でのコミュニケーションなど、ノートテイク利用の場合
など。


【通訳】通訳は聴覚障害者と相手との意思疎通を
目的としている。
そのために、可能な限り、臨機応変に対応する場合
もある。


要約筆記の本来の仕事ではないようですが、
話し手の説明によっては、イラストを使用する場合
もある。
(書き言葉だけでは伝えることが難しくなる場合で、
カメラ講座とか図解を交えた方がわかりやすい場合)

屋外では筆談も筆記も全くされなくなってしまうが、
要約筆記はしてくれる。


【筆談】筆談はとにかく、書くことに慣れていない人
も含めて、健聴者が日本語で書いて伝えることに
執着しがち。

しかし、書くのが大変、面倒と思う人には、感情の
コントロールが出来ずに汚い字や、拙い文を書く
人もいて、意思疎通にならない場合もある。

しかし、通訳がいると、そのような健聴者でも
落ちついて話すことができ、後は通訳してくれるので、
聴覚障害者も理解しやすい。


【筆記】たとえ健聴者には、筆記で十分伝えられると
思われていることでも、簡素すぎて、受け手に重要
と判断されなかったり、心に響かない手法(筆記)に
なってしまうと、聴覚障害者には捨て去られてしまう。

それは、捨て去ってしまった聴覚障害者のほうが
悪いのか、よく考えてみてほしい。

以上


要約筆記通訳は、話し言葉をそのままには書きま
せんが、話の内容がわかるように要約されています。
これと筆談、筆記の違いがわかる方法として、
次の書籍も参考になると思います。

『中途失聴者と難聴者の世界』(山口利勝/著)より。

 →http://books.google.com/books/about/%E4%B8%AD%E9%80%94%E5%A4%B1%E8%81%B4%E8%80%85%E3%81%A8%E9%9B%A3%E8%81%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C.html?id=-AgnNwAACAAJ

 →http://takapan.web.fc2.com/hon/h_cyutonan.html

 ・P62~63を参照。
 ・P79を参照。
 ・P120を参照。

「要約筆記では物足りない」と言った難聴者もいました
が、音声情報と比べて明らかに情報量が少ない要約
筆記でも、失聴者にとっては、貴重な情報源です。

健聴者には、幾ら話しても、ちゃんと聞いていない人も
多いですよね。

しかし私の場合は、それよりもはるかに少ない情報量
と言われる要約筆記だけで、
必要な情報はわかると思っています。

また後に、上の筆記通訳の問題点を、私の体験談で
述べてみたいと思っています。
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by bunbun6610 | 2011-10-27 22:07 | 情報保障・通訳

合理的配慮の実施が「可能な限り」では…

下記のブログに、掲載してありました内容から一部引用させていただきました。

 →http://blog.goo.ne.jp/hearingrabbit/e/a3244eccc4477f64122cd709a4b589b6

テーマ『改正障害者基本法 「可能な限り」(衆議院内各委員会議事録)』
(2011-10-24 01:13:34)


(1)「『可能な限り』は合理的配慮の実施に「過度の負担」以外の
口実を与えるものになりかねない。」

(2)「コミュニケーションの支援も、あらゆる主体があらゆる障害者の
適切な意思疎通の手段を確保できる訳ではないにしても、
最初から「出来る限り」という恣意的な判断の入り込む余地を作っては
力の大きい行政や企業、雇用主などの論理が優先されてしまう。」

                                  (ラビットさん)




以下は、私の述べることです。
(1)は当然、誰が限界を判断するのか? という疑問が出ますよね。
その限界も、どこまでとするのが適切なのか、
公正に判断しなければなりません。
でも、誰がするのでしょうか?
それが、合理的配慮を提供するほうが一方的に決めるだけなのでは、
従来と変わりないのではないでしょうか?

また、
(2)にしても、合理的配慮の実施に『出来る限り』の文言が入っていると、
これが障害者にとってバリアになりうる、と思います。

「可能な限り」
これは、私たち障害者の権利保障を完全履行してもらうには、
やっかいな言葉です。

私は当ブログで、障害者が自身で持つ障害のほかに、
障害者を取りまいている健常者が意識的あるいは無意識的とに関わらず、
つくり出している障害(間接差別)があるということを、
今までにずっと述べてきました。
国連・障害者権利条約が問題にしているのがこれです。
その後者にもなりうるのが、この「可能な限り」という文言だと、
私は自分の体験から思うのです。

なぜならば、「可能な限り」という言葉には、
「健常者側は努力しなければならない」意味合いは確かに含まれていますが、
障害を持つ人たちの側から見ると

 「それって、具体的には、どこまでが妥当だと言うの?」
 
 「例えば『筆談で対応します』〔※1〕と言われれば、
それを受けている聴覚障害者は苦情を言えないの?」

という不安を掻き立てられます。


〔※1.筆談、筆記と通訳の違いは、後で述べます。〕

これを曖昧にし、それぞれの解釈のしかたでよい、としてしまうと、
この条約の効果も疑問視されるようになると思います。

非常に多くのケースで、健常者から

「私たちもこれだけ努力しているんだから、
あなたもそれを理解し、歩み寄る〔※2〕ことが必要ですよ。
でなければ、これからは、みんなの理解も得られなくなってしまいますよ」

と言われてしまう可能性が大になります。


〔※2.「歩み寄る」の意味は、「妥協し、ガマンしなさい」という
ことだと思われる。〕


ここの議論は重要であり、全ての障害者が注視していなくてはならない
ところなのではないでしょうか。

まだよく考えていないのですが、聴覚障害者の場合は、
実際にどこでも、情報保障や通訳などの合理的配慮が得られるのかが、
最大の関心事ではないでしょうか。
働く場であっても、です。
未だに、会社研修にも通訳がない、というのが当たり前の状況なのですから。

例えば、どうしても健聴者側が合理的配慮を行えない、
その正当な理由〔※3〕があると聴覚障害者も理解できる場合は、
今後も多いと思います。


〔※3.「手話・要約筆記通訳費が出せない」など〕

しかし、それだからといって、通訳なしで参加しなければならないとなると、
聴覚障害者だけに辛いものがのしかかります。
そして、これは継続されやすく、聴覚障害者の心を蝕むことになるのです。
そしてそれが
「あらゆる差別の根本原因となっていく」
という私の証言(当ブログ)を忘れてはならない、と思います。

そこへ、本来は派遣できない手話・要約筆記通訳を会社に
どうしても派遣してほしい、と聴覚障害者が強く望んだ場合には、
その救済がきちんとなされるべきだと思います。

その方法として、聴覚障害者と会社、そして公金による負担割合を決めて、
それで通訳が使えるようにする、ということはできないものだろうか?〔※4〕
本人の負担割合も、障害者の収入状況にも応じて、決めるのがよいと思います。


〔※4.本来は費用問題で通訳の可否を決める問題ではないが、
会社の事情も考えると、全額会社負担は重すぎると思うので、
負担割合のことは無視できないのではないか?〕


当ブログ『シナジー効果がもたらすもの』(2011-07-21 20:25)
でも述べているように、このほうが多くのメリットがあると、
私は考えています。

しかし、聴覚障害者団体はおそらく、有料実施の案には反対でしょうか。

けれども、何であってもそうですが、利用者も費用負担するということは、
利用者の意識を変え、通訳の質も高めることになると思います。
それは、社会全体にとって、プラスなのではないでしょうか。

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by bunbun6610 | 2011-10-24 20:30 | 国連・障害者権利条約

障害イコール恥という感覚

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)
 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html


「けれども高齢者の多くは障害者権利運動とのかかわりを避けて通ってきた。
障害者の一生なんてみじめでこれっぽっちの価値もない。
こういう世の偏見とともに生活し高齢になったからだ。
障害者という烙印が自分たちに押されてしまったら自立が奪われる。
多くの高齢者はこう恐れているのだ。
障害者も高齢者も、施設などに住まず最大限の自立を実現したいという
気持ちを持っているのではないだろうか。
もしそうだとすれば、両者は本来的に強力な同盟関係を結べるはずだが、
そのためにはまず、障害イコール恥という感覚が取り除かれるのが先決だ。


私の話になりますが、
聴覚障害者の主な団体は、ろう者を主体とする
(財)全日本ろうあ連盟
  (→http://www.jfd.or.jp/)と、

中途失聴者・難聴者を主体とする
(社)全日本難聴者・中途失聴者団体連合会
  (→http://www.zennancho.or.jp/)

があります。

この両団体は、それぞれ傘下組織の団体を持っています。

この両団体の事情をある程度でもご存知の方には
おわかりだと思いますが、同じ聴覚障害者団体でありながら、
不仲説が依然として残っています。

互いに憎み合っているわけではないと思いますが
「ソリが合わない」だとか言われ、
両者が一緒になることはありません。

そういう事情をご存知の方ならば、
上のシャピロが言った言葉の状況もわかると思います。

私も先天性聴覚障害者です。
後天性聴覚障害者、とりわけ老人性難聴者とは、
全くソリが合いません。
当ブログのカテゴリー『聴覚障害』でも述べてきているように、
先天性と後天性だけでも、何から何まで違ってきてしまうものです。

向こうの人はこちらに全く合わせられないので、
こちらが全部、向こうに合わせなければならず、
疲れてしまうだけです。

老人性難聴になった方たちは、以前は健聴者であり、
先天性聴覚障害者を差別していた立場の人たちでした。
そのこともあり、その方たちが聴覚障害者になったからといっても、
同情などする気にはなれないものです。

それに、後天性の方には、障害を受け入れず、
「自分は『障害者』と言われたくない」という人も
たくさんいます。
誰だって障害者になる可能性があるのは、当たり前なのに。

向こうも、努力してもこちらになじめるわけでもないので、
一緒になる気などないと思います。

だから、無理に歩み寄って、一緒になる必要はないと思います。

この場合、お互いに「歩み寄る」よりも、
「ダイバーシティ」(多様な人間を尊重し合う社会)のほうが、
お互いにとってメリットが大きく、デメリットが小さいのではないか、
と思います。

そういう社会を実現する、という意味でのタッグ・パートナーを
組むのが理想ではないかと、私は思います。
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by bunbun6610 | 2011-10-22 19:27 | 哀れみはいらない

第40回 板橋区民祭り サンバカーニバル

第40回 板橋区民祭り サンバカーニバル(10月16日〔日〕)

浅草サンバを「今年も見逃してしまった!」
と残念がっていたところに、
板橋区の区民祭りで偶然、見つけることができました。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/040/040038.html

下の写真は、志村銀座商店街の『サンバカーニバル』です。
生で見ると、スゴイです。

来年こそ、浅草サンバカーニバルも見たいです。

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by bunbun6610 | 2011-10-22 18:55 | 祭典

手話通訳の双務性

会社にいる聴覚障害者に、自分の情報保障をどうしてもらっているか、
聞いてみました。

私も含め、4人の聴覚障害者がいて、他にも難聴者がいるのですが、
難聴者とは会ったこともなく、状況も分からないので、
私も含めた4人の聴覚障害者の場合を話します。

皆、朝礼や仕事についての説明は筆談で、それ以外にはほとんど筆談もない、
という点は一致しました。
つまり、会話がなくてストレスが溜まる、という状況は皆同じ、
というわけです。

また、今度行われる労働組合主催の職場集会ではどうするのか、
それぞれの立場から話を聞いてみました。

Aさん(ろう者)
「手話通訳がつけば出席するけど、ないから出なかった。
自分で頼むのも大変。」

Bさん(ろう者)
「筆記してくれるというので、手話通訳はなくたっていい。
私はそれで充分です。
手話通訳をつけて、という要望が必要とは思いません」

Cさん(ろう者)
長期欠勤中だが、以前に聞いたときは、Cさんも
「手話通訳はいらない。自分はいつも欠席するから」
と話していました。

今『We Love コミュニケーション』の署名・パンフレット普及運動中ですが、
当事者のほうは一体、どうなってしまっているんでしょうね、この現状では。

Bさんはさらに、こう言いました。

「私は聞こえないので、健聴者とろう者に情報格差があるのは
当たり前だと思っています。それは仕方がない。

でも、どうしても自分が知りたいと思ったら、
上司に聞いて、筆談してもらいます。
筆談してくれない人もいるので、その時は筆談してくれる人にお願いして、
書いてもらっています。
自分がいつもアテにしている人がいて、その人にお願いして、
書いてもらっています。
だから、職場にわざわざ、手話通訳は要らないと思います」

さて、読者のあなたは、これを読んでどう思うでしょうか?
それを、真の信頼関係と見るでしょうか?
それとも、障害者の依存傾向の心理と見るでしょうか?


もう一つ、思うことがありました。
「手話通訳の双務性」というのをご存知でしょうか?

実は、Aさんにんだけ
「もし、あなたが組合に対し、意見を言いたい場合には、
あなたは筆談したり、メールで組合に、内容を正確に伝えられますか?」
と質問したことがありました。
そして、その答えは「できない」でした。

手話通訳は、組合からAさんに情報を伝える場合に必要なだけでなく、
Aさんから組合が意見などを聞く場合にも必要になるので、
組合が
「筆記で伝えるから、手話通訳は要らないです」
として済む問題ではない、ということです。
つまり通訳とは本来、双方向のコミュニケーションを実現するためにあるのです。

しかし、健聴者とは一方的なもので、こういうことも、全く無視しています。
それが、今の聴覚障害者のおかれている現状なのです。

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by bunbun6610 | 2011-10-20 20:36 | 情報保障・通訳

聴覚障害者への情報保障の問題点

ある街のイベントに出かけてみました。
会場の舞台には、何かやっていて、
隅のほうには手話通訳者が立っていました。
「手話通訳付きか! 何だろう?!」
そう思って、すぐ空いている席に座り、観てみました。

その手話通訳を見て、内容は理解できたのですが、
イベントの会場であるために、私の座っている席からでは、
前に人の往来が激しく、、また、ちょうど手話通訳者を観る視線上に
人が立ち止まっていたりして、手話通訳を見るのも大変でした。

もし、障害者団体の講演会だったら、
このようなことはまずないと思います。

主催団体にもよりますが、手話通訳の場合は、
講演者の横だったり、斜め後方だったり、少し離れた所か、
アトラクションだと舞台の隅にいる場合もあります。
さらに、大型スクリーンで、
その手話通訳を拡大映像化している場合もあります。

これだけの配慮があれば、どこの席に座っている人も、
手話通訳が見えるからです。

中途失聴・難聴者協会の場合は、
手話の他に文字スクリーンを用意しています。
普通はこれを左右どちらかの隅に設置していますが、
なかには舞台のど真ん中に設置するところもありました。

聴覚障害者団体の主催ではなく、
例えばJD(→http://www.jdnet.gr.jp/)や
DPI日本会議(→http://www.dpi-japan.org/)などの場合は、
情報保障の技術者がコーディネートをサポートしているのか(多分ですが)、
部屋の最前列の、左右どちらかの隅に、
手話通訳や文字スクリーンを設置していて、
その前の数列を聴覚障害者の優先席にしている場合が
多いようです。

そんなわけで、聴覚障害者への情報保障のあり方は、
団体ごとには違うようです。
しかし、それでも聴覚障害者に、
それがきちんとなされるように配慮されている、
という点は同じです。

しかし、先ほどに紹介したような、
一般の人が企画した街のイベント会場では、
手話通訳がつけられても、
それをきちんと見れるようには配慮されていないのですね。
せっかくなのに残念なことです。

テレビの内閣府官房長官の記者会見でも、
ようやく手話通訳がつけられるようになりましたが、
それも上のことと同様の問題が出ています。
手話通訳がつけられたにもかかわらず、
各テレビ局が画面に入れないで放送してしまっている問題です。

テレビではどうしてそうなったのかというと、
あるバリアフリー委員の話では
「テレビ局に、撮り方までは強制できない」
ということだそうです。

鈍感な健聴者には分からないと思いますが、
あのテレビ放送のあり方は、本当にひどいもんだ。
極端に言えば、全世界に日本の恥をさらしているようなものです。
聴覚障害者への人権侵害を、堂々と見せていることになるのですから。
それを目の前で見ている内閣府が何も対策をとらないというのだから、
日本政府だって恥だ。

こんなふうでは、国連・障害者権利条約の批准には絶対に応じられない、
と思います。

同じようなことが、街のイベントでも言えるのだろう、と私は思いました。
聴覚障害者が手話通訳を見る視線上に、
一般の人が邪魔になってしまっていたとしても、
その人が悪いとは言えないものです。

しかし、あえて言えば、この配慮の足りない情報保障を
改善しなかったことこそが、問題だったのでしょう。
これは、聴覚障害者への人権侵害です。

このことを考えていて、私は三宅初穂氏の論文
(→http://www.ritsumei-arsvi.org/publications/read/id/238)
を思い出しました。

「4つ目、これは健聴者のコミュニケーションの問題です。
そもそも、通訳者がどんなに努力をしたとしても、
解決の図れないことがあります。
その場にいる人すべてがこの場のコミュニケーションを
成立させるという意思を持たない限りは、
コミュニケーションは成立しないということです。」


これは通訳をつければ、それで解決する、という問題ではないんですよね。
そのことを、読者の皆さんも、これから一緒に考えて
行動していっていただきたい、と思っています。

さらに、この一般人の街のイベントと、
障害者団体との違いを見比べてみて、
読者の皆さんは何か気づかれましたか?

当ブログ『障がいは、特別なものではない』(2011-10-13 21:22)
を思い出しませんか?

まだまだ、障害者から学べることも、きっとあるはずです。

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by bunbun6610 | 2011-10-19 23:00 | 情報保障・通訳

大正百年を巣鴨で遊ぶ

10月8、9、10日開催のイベントですが。

 →http://sugamo.or.jp/feature/

道を歩く人に大正期の服装の人が見えて、
タイムスリップしたような気分になれましたね。

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by bunbun6610 | 2011-10-17 23:54 | 祭典

障害自体は哀れむべきものでも悲劇でもない

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html

「ところが障害者に対する偏見や、社会の彼(女)らに対する期待の低さ、そして全く時代遅れの福祉制度は依然として残っている。このため障害者が自立に向けて努力してもなかなか達成できず、彼(女)らの新しい大志は社会に気づかれなくなっている。大きな誤解さえ生んできた。
障害者の生きてきたさまざまな現実と、自己認識の変化。これを、障害のあるなしに関係なく多くの人々に伝えたい。そしてそのことで大きな誤解を解きたい。私はそう思ってこの本を書いた。
障害自体は哀れむべきものでも悲劇でもない。それよりも、障害者に対して社会が作り出した神話や恐れの気持ち、そして固定観念こそが、障害者の生活を困難にしてきた。こう訴えてきた障害者権利運動の台頭に私は注目したつもりである。」

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by bunbun6610 | 2011-10-16 10:21 | 哀れみはいらない


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by bunbun6610

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