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逆差別

「逆恨み」という言葉なら、健聴者もたまに聞くのではないか、
と思いますが、「逆差別」という言葉は、
健聴者の皆さんはあまり聞いたこともなく、
「自分には関わりがない」と思われているかもしれません。


「逆差別」は、思いではなく行為となってしまっている以上、
それがあるだけで、無関係ではなくなります。

しかし、健聴者が聴覚障害者から逆差別を受けていることに
なっていても、それがどうしても許せないというほどに、
ハッキリと気づきにくいものです。
それは、 間接的差別だからです。

それは、健聴者が何気なくしていることを聴覚障害者のほうが
差別と思っていても、どうしても許せないというほどには、
なかなか思えてこないのと同じなのかもしれません。


「あれはちょっと、、良くないんじゃないかな?」

そう思えても、案外、なかなか言いだせなくて、結局

「まぁ、しょうがないか」

で済ませてしまう。

日本人的寛容精神がすぐに働いて、
問題の見方を曖昧模糊にしてしまうことは、
日常茶飯事ではないかと思います。

そうして、それがいつのまにか、日本社会の常識となって
しまったのでしょう。

常識になってしまったら、もう差別とは決して思わなくなるのです。
これは案外、自然的ですが、当事者(聴覚障害者)にとっては
恐ろしいことだと思います。


逆差別は、存在します。

健聴者が聴覚障害者に対して、無意識にしている多くの
差別行為に対して、逆に聴覚障害者もそれをしていることは
「逆差別」です。

あえて名前をあげませんが、聴覚障害者対象の講演会で
講演をされた、筑波大学の心理学博士から聞いた話です。

具体的な例で言うと、一部のろう者が、
手話講習会やサークルの場で、
手話通訳者の健聴者や難聴者、中途失聴者などが
一般的に用いている手話を「手話ではない」と批判し、
自分たちの使う手話だけが「手話」だと、主張しています。

そこまでなら言論思想の自由の範囲でしょう。

しかしそれだけではなく、

「健聴者に日本語で手話を教えても、手話を覚えない。
だから、音声なしで教えたほうが、健聴者は覚えられる」

と言い、日本語による説明はなし、手話だけで話し、
手話を勉強させる、という、ろう者独自の指導法に
こだわっています。

これが博士は『逆差別』だと言っていました。
(私としては今、博士のこの主張の是非は置いておくとします)

博士は、その場で、モニタリング調査をしたデータを出しました。
そのデータによると、実際は日本語音声を用いて手話を教えた
人のほうが、手話を早く覚えた人の割合は高かった、というのです。
(きわめて当たり前のことかもしれませんが、
博士はこれを証明するために、わざわざデータを出しました)

それだけではなく、逆差別をするろう者のほうが、言語を広く
バランスよく獲得できていないことを示すパネルも、
いくつか紹介していました。

そうであるならば、そうしたろう者が手話を教えたりするほうが、
ある意味では疑問かもしれません。

そして博士は、ろう者のこのような現状を、

「昔の差別が生んだ『逆差別』」

と結んだのです。

昔の手話禁止、音声日本語のみでの学校教育が徹底された差別が原因だ、
ということです。
そして、そうした教育を受けて育った人たちが、今度は逆にやっている
のだというのです。

差別はこのように、結局は差別しか生みませんでした。
その力は、社会を内部から分裂させてしまう破壊力を持っています。

障害者雇用における差別も、同じことになる可能性はあります。
しかし、みんなで差別のない社会にすれば、こうした逆差別だって、
きっとなくなるのです。


こうした逆差別について思うことには、言語的差別があると思います。

逆差別といっても、ピンとこないので、言語的差別と言いかえたほうが、
わかりやすくなるのかもしれません。

健聴者が音声言語一辺倒であったように、それに合わせることが
できないろう者は、手話一辺倒になっていったのは当然、と思います。

健聴者のそれも、ろう者のそれも、単に言語が違うから、
という問題なのでしょうか?

もしもそれだけのことであるのなら、ろう者は「差別だ」と言わなかったはずです。

ただ言葉の世界が違うから、だけではなく、
そこに何の配慮もなされてこなかったから、
差別とみなされるのだと思います。

手話は言語ではないからといって、無視されてきました。

しかし、手話が言語でないというのなら、彼らの文化は
どうやってできたと説明するのでしょうか?
手話は、少数派言語と考えればよかったのではないか、
と思います。

そのようなことは、文字表記による情報保障・通訳を必要とする
中途失聴者・難聴者に対しても、同じことではないでしょうか。

中途失聴者や難聴者が使う日本語対応手話をよく

「手話ではない」

と攻撃する人もいますが、盲ろう者の触手話にも
「手話」という名がつけられています。

それは厳密にはろう者の「日本手話」とは異なっていますが、
それは障害の違いゆえに、全く同じにはできないからです。

それでも、これも違うからといって「手話ではない」と攻撃する
のでしょうか?

こういうことも、厳密に考えると逆差別になるのではないか、
と思います。

「言語の違い」と、「言語の違いを利用した差別」との
見分け方は非常に難しいと思いますが、こうしたことにも注意
しなくてはならないのではないか、と思います。

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by bunbun6610 | 2011-08-06 23:49 | 聴覚障害

健聴者にだまされたこと (2)

就労前の聴覚障害者問題(N社

やっと採用通知が、夜中にFAXで届きました。

通知書には、

「入社日前に、研修を受けるように」

との指示があり、私は要約筆記通訳を会社に
用意してしてもらうよう求めました。

しかし、その日が迫っても、会社から返事が
ありませんでした。

そこで、私はハローワークへ行って、
会社とこの件の仲介になってもらうように
頼みました。

ハローワークは了承し、私の代わりに会社へ
電話し、研修に要約筆記通訳はつくかどうか、
確認しました。

そのとき、会社は

「研修には筆談も交えて説明するので、
要約筆記通訳はいりません」

と答えました。

それを聞いた私は、本当にその話を
信用してよいのか疑問でしたが、
その通りにすることにしました。

そして研修当日、会社の会場へ行くと、
大勢の健聴者と一緒でした。
そして、私に対応する筆談をする人は
おらず、ただ見ているだけの、
2時間半の研修を終えたのです。

その後、研修を受けたことを証明する
認め印を押させられました。

なぜかというと、これは医療食品関係の
倫理上、業界全体で受講必須と決められて
いる研修だったからです。


こういういい加減な研修を禁止させ、
違反した場合は警告または罰則を適用
するぐらいの法律が必要だと思います。

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by bunbun6610 | 2011-08-04 00:41 | 就労前の聴覚障害者問題A

健聴者にだまされたこと (1)

『健聴者にだまされたこと (1)』
〔2011-08-04 00:39〕

就労後の聴覚障害者問題(Q社

2011年8月■日

会社で、聞こえないということを都合よく
利用されるのは、
聴覚障害者には日常茶飯事です。

しかし、

「あいつはどうせ聞こえない」

健聴者はそう思ってやっていても、
聞こえない人には健聴者の表情を
見ればわかること、
状況で本音を推測できることは、
たくさんあります。

ただ、聴覚障害者は、思っているだけでは、
差別を訴えたりする裁判にしても、
勝てないだけです。
聴覚障害者でも裁判は起こせますが、
確実な証拠をつかめないと、
やはり勝てないのです。

それでも、過去に聴覚障害者が、
差別を理由に裁判を起こした例があります。
その聴覚障害者は、どんな差別的事由から
裁判を起こしたのか、私は知りませんが。

ジョブサーナからも聞かされたことがありました。

 →http://www.job-sana.com/info_0726/?cid=jsyh000001

以下が、サーナの大まかな説明でした。


「ある会社に勤務していた聴覚障害者が、
情報保障を求めたが拒否されたので、
裁判を起こした。
会社は裁判をいやがる。
だから、そういうことがあると、
聴覚障害者を雇用しようとしなくなる
可能性がある。
だから、情報保障は求めないほうが
いい。」


これがサーナの会社面接アドバイスでした。


結局、今の状況では、オープンでもクローズ

(→当ブログ
『難聴者の会社面接対策(3) 「オープン」と「クローズ」』
〔2011-07-07 20:55〕
参照)

でも配慮がほとんどないのは同じです。

ですから、会社に入るためには、面接段階は
とにかく、このようにするのが常識と考えた
ほうがよいと思います。



それでは、聴覚障害者が会社でだまされた
事例を紹介します。

ある日、Q社に2人(Aさん、Bさん)の
聴覚障害者が入社しました。

Aさんはろう者で手話ができますが、
Bさんは手話があまり得意ではありません。
その入社日のことです。

入社日には早速研修があり、健聴者も6人ほど、
Aさん、Bさんも交えて、一緒に行うことに
なりました。

研修生が全員そろって着席し、
研修が始まりました。

講師は音声で説明しているのですが、
AさんとBさんは耳が聞こえないため、
話の内容がさっぱりわかりません。

「またこうなるのか」

と、Aさん、Bさんも少しウンザリした表情を
見せ合いながらもガマンして、時々、
周囲を見回したりして気分を変えよう
としました。

前を見ると、どうもそこに座っている女の子が、
他の人とはちょっと違っていました。
時々、たどたどしい手話をやっているのです。

「何だ? この人???」

とBさんは、研修説明をしている講師よりも、
そっちのほうに目が引きつけられてしまいました。
それで、目の前の女の子に(手話で)尋ねて
みました。


Bさん;「この会社、手話サークルはあるの?」

その人;「いえ、私はここではなく、CS社の社員です。
CS社では社内手話講習会も手話サークルもあります」

Bさん;「で、CS社のあなたが、何でここに?」

その人;「今日、Q社の社内研修に聴覚障害の方が
来られるので、応援に頼まれました」

手話だからこそ、研修中にもこんな話のやりとりが
できるのです。
もちろん、Aさんも見ていました。

このやりとりをしたBさんは唖然としました。
CS社の手話サークル員が、Q社の研修に
手話通訳者として来ている、
というワケだからだ。

聴覚障害者への情報保障を、そんなものでいいと
思っているなんて、
怒りを通り越して呆れました。

このようなことは
『(仮)情報コミュニケーション法』で、
禁止できないものだろうか?

 →http://blog.goo.ne.jp/houantaisaku

→当ブログ
『『(仮称)情報・コミュニケーション法』って、何だ?』
〔2011-04-27 21:43〕



「どうせ入社日の1回だけしかやらないのだから、
これでいい」

と会社は思っているのでしょう。


実は、Bさんは研修内容がわからないのが心配で、
事前に会社に

「自分で要約筆記者を頼み、連れて行きたい」

と申し出ていました。
しかし、会社からは断られていました。

理由は、前述したように、会社としてできるだけ
の配慮はしているので、

「通訳を頼まなくても大丈夫です。
こちらで筆談をして説明しますから」

と言われていました。

ところが、当日になってみると、
こういうことになったのです。

こんな不快な思いをさせられている例は、
世の中にはまだまだたくさんあると思います。

いずれまた、これと同様の事例を紹介してみます。
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by bunbun6610 | 2011-08-04 00:39 | C.クレジットカード会社

健聴者の無理解

私がまだ難聴だった頃、手話通訳者にこんなことを言われたことがあります。

「難聴者はしゃべれるから、(ろう者よりずっと)いい」

「難聴者は言いたいことがあれば、自分で言える。
でもろう者は言えない。
だから、ろう者のほうが大変だよ。」

これは健聴者がほぼ100%思い込んでいます。
常に比較してどっちが、と言うのが、健聴者というものです。
難聴に詳しい、ごく一部の健聴者を除いては。

なるほど。
確かに耳が聞こえなくて、話すこともできないほうが大変そうだし、
それは理にかなっている推論だと思います。
映画『ゆずり葉』にも、特に昔のろう者の苦しみがよく描かれています。
しかし、果たしてそう断言できるだろうか。

私の周囲の健聴者も皆、同じようなことを言うのを、今まで随分聞いてきました。

奥野英子氏(筑波大学シニアアドバイザー)はこんなことを言っていました。

「自分で言わない難聴者は甘い」

実は「難聴者が言えない理由」には、コミュニケーション障害と難聴者心理の
2つが関係しています。
どちらも健聴者には全く見えていないので、健聴者が気がつかないのも
当たり前です。

初めはコミュニケーション障害だけで、自分でどうにかしようと、あれこれ
考えてみたり、補聴器を買って試したり、あらゆる努力をしてみます。
しかし、自己努力に一生懸命なその頃はまだ、他者の理解を得ることが
非常に大切だとは、あまり意識していない場合が多いと思います。
障害の自覚もまだ十分ではないと思います。

一言で難聴は、「障害の受容に時間がかかる」と言われていますが、
これは最低でも数年、長ければ十年、二十年とかかります。

なぜそんなにかかるのかというと、一番の理由は、社会的な取り組みが
ないからだと思います。
もし普及した考え方があるなら、難聴者だってその通りにするでしょう。
しかし、今の社会では難聴は当たり前のように存在するのに、
その割には、取り組みが広まっていないと思います。

その原因は、身近な人の誰もが

「難聴なんて、大したことはない。
本人次第だ」

と思っているからではいないでしょうか。

周囲の人は、落ち込ませたくないと思ってそういう声をかけるのだと
思いますが、それが難聴者の心に「理解はしてもらえないのか」と感じさせ、
孤独感を大きくし、他者に協力を求めるのを諦めてしまいます。

難聴者の立場から見ると、

「難聴は周囲の理解を得るのが難しい」

と思い、ますます一人だけで悩むようになります。
その悩みは、生涯続いてしまう人もいるだろうと思います。

あきらめるのは当然です。
社会の無理解が、難聴者をいっそう、負のスパイラルへ追いやってしまう
のです。
それが「言えない」難聴者の心理の正体ではないかと思います。

奥野氏に見せた難聴者のビデオ(全難聴作成)には、2つの難聴者生活体験
の事例がありました。

1つは、道を歩いていた難聴者が、補聴器をつけていたにもかかわらず、
車が接近していることに気づきませんでした(これはちょっとオーバーで、
おかしいのかも?)。

車は、気づかない難聴者の真横を通り過ぎ、ドライバーは

「バカヤロー、どけっての!」

とか叫んでいた場面です。

これは、難聴者が一方的に悪いわけではありません。
社会の人々の、難聴者についての認知不足の問題もあると思うのです。

もう一つのストーリーは、病院の待合室で待ち続けていた難聴者が、
自分の名前を呼ばれても気づかず、とうとう最後の一人になるまで取り残され
てしまう、というドラマです。

これは、実は私も過去に同様の経験があります。

私は受付に「難聴です」と伝えていました。
受付はその対応方法として、私のカルテの表に「難聴」と書いただけでした。
その後、また各科の受付へそれを入れて待つのですが、病院全体での
難聴者対応が周知徹底されていなかったため、その後は、健聴者と同じ扱い
になってしまったのです。

待っても待っても、呼ばれたような気がしなかったので「おかしいなぁ」と思い、
受付に

「僕の番はまだですか?」

と聞いたら、

「もう呼んだのですが、来なかったので…」

と言われて、

「やっぱりここの病院の対応はダメなんだ」

と思いました。


「言わなければ、相手はわからない」

ということは難聴者もわかっています。
だから私の場合は、受付に責任を持って対応してもらえるように言いました。
しかし、言ってもこのような結果になってばかりでは、次第に諦めていくのも
無理もない、と思います。

もし相手がわからなければ、怒鳴ることもありました。
でも、周りの人は事情も知らず、不快な思いをするだけで、理解するどころか、
私への視線の様相も異様に変わります。

それでも耳が不自由のまま、話しをするのは圧倒的不利だとわかっている
のですから、怒ってしまった後は、自分も後悔するだけです。

健聴者もそろそろ、難聴者のありのままを認め、受け入れたらどうなのでしょうか。

ちなみに、先天性難聴障害から聴こえなくなっていった私の体験では、
難聴の時期、とりわけ両耳の聴力が80dBを超えてきた頃が、最も苦しかったです。
(実際は聴力だけでなく、語音明瞭度の測定結果も重要なのですが、
その検査はなかなかやれず、正確にはわかりません)

むしろ、聞こえなくなってしまったほうが、楽になったというか、周囲の理解も
容易になりました。
(その一方で、こんなに悪くならないと、健聴者は「聞こえない人」だと認めて
くれないのか? と、恨めしく思ったものです)

この体験談は、最初に述べた手話通訳者の話(考え)をひっくり返してしまう
でしょう。
聴覚障害についての専門知識を持つ手話通訳者でも、難聴者心理までは
理解できていないのですから。

難聴の苦しみゆえに、私は幼少期から自殺未遂や非行歴もあります。

そればかりでなく、難聴時代のときに芽生えた、健聴者への怨みは、
今や消えることのない記憶となっているのです。
健聴者の思い込みは、間違っています。
それを手話サークルで、社会で言っているのだとしたら、とんでもないこと。
障害者のことは、障害者から学ぶべきです。


言いたいことはもう一つあります。
それは、手話通訳者、手話通訳士でもなく、本当に中途失聴者、難聴者を
理解している専門的支援者が、これからは必要だと思います。

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by bunbun6610 | 2011-08-02 23:14 | 聴覚障害

障害を持つようになった方の「障害の受容」について

【長瀬氏の講演から】(国連・障害者権利条約の考え方から)
障害を持つようになった方の「障害の受容」について。

この話は、長瀬 修氏(東京大学大学院経済学研究科特任助教授)の講演
『障害者の権利条約―2006年12月13日採択―新たな人権の始まり―』
の、質疑応答の中からです。


質問者A(健聴者)/夫が突発性難聴になり、耳が聴こえなくなった。
「障害者」という言葉が、どうも自分は嫌いなのだけれども。


長瀬氏/障害もその人の個性の一つと、捉えていれば、別に呼び名にこだわらなくてもいいのでは。
例えば、顔にあざが出来た人がいて、それを見た人がびっくりしたとします。
それは、びっくりした方がおかしいと思うのではないでしょうか。

長瀬さんは、本当にいいお話をされる方ですので、皆さんも機会があれば是非、聴講されて下さい。

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by bunbun6610 | 2011-08-02 21:37 | 国連・障害者権利条約

知事選投票率、過去最低の背景には?

 →http://www.asahi.com/politics/update/0731/TKY201107310203.html

「投票率は全国の知事選で過去最低の24.89%(前回27.67%)だった。」


この選挙で中途失聴者、難聴者は果たして、どれだけの人が投票に行ったのでしょうか?
私の父も難聴で、投票には行きませんでした。

テレビに手話通訳はつくようになりましたが、字幕は未だにつきません。
立候補者の演説がよく聞こえなくてわからないのでは、投票も諦めてしまっている
かもしれません。
超高齢化、難聴者人口が増加している中での、難聴者への対応遅れも、
これからは投票率低下の原因に大きく関係していくのではないか、という気がします。

何と言っても、テレビ演説を見ても聞こえないからわからないという、疎外感を味わい続けると、
もう選挙にも興味がなくなるのではないか、という気がします。

健聴者には、そういう難聴者心理をなかなか、わかってくれないと思う。


画面に手話はあっても、中途失聴者や難聴者には必要な字幕がない。

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by bunbun6610 | 2011-08-01 22:35 | 情報保障(テレビ字幕)

聴覚障害者への情報保障・通訳について(2)

【C.健聴者の通訳の事例から】
これは、一流企業の社長(年齢は当時、70歳を超えていた)が、顧問に外国語
(英、仏など)通訳者S氏をむかえていて、
外国で主に重要な商談などをするときの通訳なので、公的派遣の聴覚障害者対象
通訳とは、全然違うということをご理解ください。

公的な通訳は、私的な通訳と違うということを理解する話かな、と思いますが、
あるいは聴覚障害者も本当は
「公的派遣でも、こんな通訳をしてくれたらいいな(個人依頼の派遣に限るが)」
という声があるかもしれません。
それがいいかどうかは置いといて、の話としてです。

それでは、話をS氏の通訳の姿勢の話へ移ります。

S氏はインタビューで、次のようなことを話していました。

「私は通訳者としてはダメなんです。
どうしてかというと、社長や相手の話す通りには通訳しないからです。

話し手の言いたいことは何か、それをまず自分が理解し、要するにこうなのだと
いうことを伝えています。
話し手が外国の方であると、その国の社会的慣習、言語、コミュニケーションの
文化など、日本と異なり、
辞書を引いたように訳しても、聞き手に意味がよく通じないこともあります。
だから、私はそういう訳し方はしないのです。

一方、社長が話されることを外国の方へ通訳するときも、やはり、日本語の意味、
社長の言いたいことを外国の方に伝わりやすいように訳します。
社長が何を言われたいのかは、社長との普段からのおつきあいがないと、
読みとれるようになりません。
だから、社長とのおついきあいも大切にしています。」

この話を聞いて私が思うのは
「通訳とは、やはり本来は中立的立場で、相手の言う言葉を忠実に訳して伝える
のが仕事なのかな」
ということです。
丁度、大きな新聞社ほど、中立的というか、事実を正確かつ客観的に伝えようと
しているのと同じように、です。
通訳の双務性という言葉もありますが、公的派遣の場合は、聴覚障害者のためだけの
通訳として存在するわけではありません。
そういう意味でも、読み手はろう者であっても、話し手は日本語を話す健聴者である
以上、言語の使い方は当然に違います。
公的派遣の通訳では、おそらく通訳者が介入してその違いを調整するのではなく、
その違いを知るべきなのは、利用者双方の問題なのだろう、と思います。

ですから、公的派遣によって忠実な通訳が提供された後は、それを利用者がどのように
扱うか、理解するか、その理解力の問題だ。
だから通訳者はそこまで(突っ込んだことは)しない、ということではないか、と。

このような異国での通訳にしろ、ことらの聴覚障害者への通訳にしても、相手の
言いたいことをつかんで通訳する、ということは大変に難しい通訳技術となる、
と思います。
もし、そのように訳しておいて、後の話を聞いているうちに「どうもさっきの訳は、
少しニュアンスが違っていたみたいだな」と思っても、
講演会等の公的派遣では取り返しはつきません。
だから通訳は、できるだけ忠実に訳し、理解は利用者に委ねるのが基本なのかも。
通訳の初心者も、まずこうしているのではないかと思います。
通訳者が意味の良くわからないような話を聞いても、通訳としてはそれをそのまま訳し、
利用者に伝え、判断は利用者にしてもらうのだろう、と思います。
その証拠に、通訳を見てわからなくても、通訳者からは「わからなかったら、
相手に聞いて」とよく言われます。

聴覚障害者対象では特に、手話通訳が、日本語で話していることを日本語対応手話で
表出すれば、こうなるのでしょう。
ところが、これではろう者にはよくわからない、という問題が、以前から起きています。

先ほどの社長も、年齢は70歳を超えており、そのためにおそらく、長々とした通訳を
聞くのは苦手と思われます。
それに、社長は難聴であり、補聴器をお使いになっているので、長い通訳は余計に
ストレスになり、理解度も落ちてしまうのかも、しれません。
さらに、社長業をしている人が、細かい話まで気を遣っている余裕なんてある
でしょうか?
「要点は何だ? それを早く言え!」
という気持ちが、通訳を介して聞いていると、あるのかもしれません。
社長は忙しい身で、考えなければならないことはたくさんあるのだから、通訳の話は
短いほうがいいのかもしれません。
私的通訳だからこそ、こういう配慮までできるのだと思います。

そんなことを思いました。
公的派遣としての聴覚障害者への通訳事業は、
利用者が要望しても、これと同じようにはできないと思いますが、
それでも、利用者なりの気持ちはあるのではないか、と思います。

「公的派遣の通訳者も、通訳者認定試験に合格すると、もう聴覚障害者と交流しなくなる
のはなぜ?
もっと積極的に交流を続けてほしい」
という声を、利用者の聴覚障害者から聞きます。

それから、通訳者の本で読んだと思うのですが、
「双方の言語の性質が違うほど、通訳は難しくなり、高度なので費用も高くなる」
そうです。

例)アマゾンの原住民の言葉⇔日本人(日本語) の通訳  通訳は高度になる。
  高齢ろう者(ほとんど伝統的手話〔日本手話〕のみの使用者)⇔健聴者(日本語)
 の通訳  通訳は高度になる。


誰と誰の通訳をするかによって、通訳料も違うのは当然かもしれませんね。



【D.長瀬氏の講演から】(国連・障害者権利条約の考え方から)
通訳の総務性、費用負担のあり方について。

この話は、長瀬 修氏(東京大学大学院経済学研究科特任助教授)の講演
『障害者の権利条約―2006年12月13日採択―新たな人権の始まり―』
の、質疑応答の中からです。


質問者B(ろう者)/自立支援法が施行されてからは、手話通訳者派遣事業の
実施状況が各地域によってバラバラで、サービスが行き届いていない。
有料化したところも出てきた。これについて、何か意見を聞きたい。


長瀬氏/手話通訳は、利用者(障害者)だけに必要なのではない。
聴覚障害者とのコミュニケーションのために、病院、会社、公共施設にとっても
手話通訳が必要だということを理解することが大切だ(通訳の双務性)。
それが、社会でのバリアをなくすということだからだ。
よって、一方だけがその費用を負担すればいいというものではない。
社会全体で負担すべきという考え方もある。
だから、税金によって賄われる公的予算が使われるべきなのかもしれない…。
しかし、国も莫大な借金を抱えている状況で、財務省は厚生労働省に福祉予算の
削減を指示した。
福祉予算そのものの額は、大したものではないようだが、国の財政を立て直すことを、
皆で考えなくてはいけない。
障害者の社会参加のためには、サービスの充実は必要だが財源をどうするのか。
そこが頭の痛いところ。

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by bunbun6610 | 2011-08-01 22:24 | 情報保障・通訳

聴覚障害者への情報保障・通訳について(1)

最近、手話通訳者から、手話通訳の話を聞きました。
また、過去に聞いた全要研(→)理事の講演や、健聴者の通訳の話も思い出しました。
この3点を話の材料にして、聴覚障害者の通訳について、考えてみたいと思いました。


【A.手話通訳の活動目的と手話】

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最近、手話通訳者から、次のような話を聞きました。

「ろう者のコミュニケーション言語としての手話と、手話通訳の手話は違う。
それに、中途失聴・難聴者が使う手話もまた違う。
手話通訳は福祉としての通訳を行うためにある。
よって、使用単語や通訳技術として用いる文法等も、(財)全日本ろうあ連盟の指導に
ならう。
だから、手話通訳者は皆、それを勉強し、さらに所定の研修を受けて手話通訳技術
の研鑽に務めている。
一方で、ろう者も中途失聴・難聴者も、手話通訳を勉強すべきで、勉強しないと
分からないのは当たり前。」

これを聞いたろう者からは、次のような疑問が出ています。

①「福祉って何?」
②「なぜ、ろう者のための通訳ではないの?」
③「ろう者から手話を学び、手話通訳もそれにならうべきだ」

このうち①と②は、私も同感でした。
③については、ろう者の立場からはそう考えるのが自然ではあっても、
立場が違えば、そうとは限らないのではないか、と思いました。

とにかく、ろう者からはトップ団体の全日本ろうあ連盟への批判も噴出するほどで、
団体は求心力を失いつつあるのではないか? という危惧もありそうです。
やはり、こうした結果になったことを、団体から会員に対し説明がなされないのは
残念に思います。
丁度、今の政治と同じ手法みたいですから、不信感が大きくなるのも無理はないと
思います。

特に「ろう者も中途失聴・難聴者も、手話通訳を勉強すべき」とは、具体的に
どうすべきだというのだろうか?
それって、どこですべき、誰に教わるべきなの?
 という、初歩的なことすら、会員の誰も知らないのではないでしょうか?

トップ団体が政令を出して、それで終わり。
それを広めるのは誰なのか?
おそらくは、誰もやっていなかったと思います。
広まるのも、広まらないのも、会員次第。
団体とは、そういうやり方。

丁度、新しい手話の研究開発、普及と同じ。
新しい手話を出してみて、広まらなければ、その手話は結局、消えていく。
宝くじを買ってみるのと同じことだ。

だから、今頃になって皆から「おかしい」という声が出てきているのだと思います。

それから、
「福祉って何?」
という疑問ですが、「社会福祉」なのか、それとも「障害者福祉」なのか、
それとも違うのかが、
全くわからないです。
社会福祉と障害者福祉にしても、両者の違いは何? という疑問も、素人にはある
と思います。
別々の目的なのか、それとも同じ目的のためにあるのかさえ、わからないです。

しかしおそらくは、同じ人間として、社会のなかで一緒に活動するための
コミュニケーション支援で、そのための福祉(手話通訳事業)と考えても
間違いないのではないか、と思われます。

聴覚障害者のためだけでなく、双方のために、社会全体のために公的派遣としての
手話通訳事業はあるのだと考えていいかもしれません。

しかし、それにしても③「ろう者から手話を学び、手話通訳もそれにならうべきだ」
は、どうなのだろうか?

もし通じない手話通訳だったら、お金をかけてまで通訳をつけても意味がない
のではないで
しょうか?
いやそれよりも、そのような押し付けはもしかして、ろう者への人権侵害に
なりはしないか?
 という疑問視も出るのではないでしょうか?

→当ブログ『誤解されている手話』(2011-06-18 21:25)参照。

そのときは聴覚障害者に原因があるということにし、結局、③の理由付けが後から
なされたと言ったら、疑い過ぎなのでしょうか?

③はやはり、②の疑問に対する、ろう者からの提案であり、これは自然な発想では
あるけれども、それでも公的派遣では、どこまで理解が得られるのか?
 という問題は残りそうです。



【2.全要研理事の講演から】
まずこれも、利用者(聴覚障害者)にどんな疑問や批判があるか、
ということを話し、その後に全要研理事の講演について話したいと思います。

聴覚障害者が公的派遣で利用できる通訳には手話と要約筆記の2種類があり、
利用者のニーズによって、選択されています。

これは要約筆記通訳のケースですから、利用者も通訳方法も、手話通訳とは異なります。

利用者は「日本語を読み、理解できる人」(中途失聴・難聴者のためだけではない)
ということだと思います。

このなかには、例えば、セミナー・講演会等の主催者が
「OHPパソコン・(手書き)要約筆記通訳(※)」を準備した場合、
障害者手帳を持っていない難聴者や、他の障害の認定があるが、
聴覚障害については認定されていない人にも利用できる、
といった公的にも広いメリットがあります。

(※)要約筆記の方法には、パソコン使う方法と、手書きの方法とがある。
OHPでは、それを投影する。
さらに、手書きにはOHPとノートテイクがある。

しかし、要約筆記に対する疑問や批判を言う人の多くは、やはり聴覚障害者、
そのなかでも特に、難聴者ではないか、と思われます。

よく聞くのは、次のようなものです。

①「要約し過ぎ」(情報の欠落が多すぎる)
②「要約せずに、もおっと書いて欲しい」(「できるだけ要約しないで書いて」という意味か?)
③「書くスピードが遅い」

上の①と②は、要するに同じことです。
③は、例えば皆と一緒についてゆけないくて、社会参加の意欲が薄れてしまう、という、
利用者の気持ちの表れだと思います。

①と②は技術的には制約があるので、要約筆記通訳の限界を理解したうえで、
上手に通訳を利用しようという気持ちが、利用者側に足りないことも考えられると思います。

それは③についても言えそうです。
要約筆記通訳のせいにするのは、全くおかしな話です。
こういうことを言う利用者は、不満でヒステリックになっているのではないか、と思います。
要約筆記通訳では決して満足しない難聴者のなかには、こういう人もいます。


ところで、全要研理事の講演から興味深かった話を、これから取り上げてみます。

話し言葉を全部聞き取って書くことはできません。
どのぐらい書けるかは、手書きで1分間に○~○文字、パソコンで1分間に○~○文字と、
ある程度の目安はあるそうです。
すると、「最低、○文字以上書けないといけない」という基準もあるのかもしれませんが。

それと、要約筆記通訳は、話し言葉の○○%に文字数を圧縮し、重要度の高い内容は伝わるように
するとか。
ここで「ケバ」と呼ばれる、意味のない繰り返し言葉などは、省かれるそうです。
ですから、話し手の言っていることを全部書くわけではないです。

しかし、話し手の方も聞き手の方も、普通はそんなことは全く知らないのようです。
おそらく、それで先に述べたような疑問、批判を言うのだと思います。


文字数の制約のなかで、肝心なのは内容をどうやって要約しているか、でしょう。
その要約理論の話は、もうあまりよく憶えていないのですが、自分の理解した範囲では要するに、
次のようだとします。


 ・忠実性というレベル軸があり、高いほど忠実性が高い。
 ・スピード(迅速性)というレベル軸があり、高いほど通訳スピードも速い。

この両方とも高くするのが理想ですが、現実には難しい。
両方とも低過ぎてしまっても、通訳として使いものにならない。
この両極以外の範囲内が、通訳として使われるが、その設定は場面によって変わり、
使い分けられる。

カメラで言うとちょうど、目的(撮影意図)によってT(シャッター速度)、V(レンズの絞り)
を変えて露出調整していることと、似ているようです。

それで例えば、芸術の通訳では忠実性を高く(原文に近く)しないと、
面白みとか魅力が伝わらないので、できる限りそうするらしい。
落語を要約してしまったら、利用者は面白くなく、ガッカリするので、
この場合の通訳では忠実性を重視しているようです。
しかしその分、スピードが落ちてしまうのはやむを得ないそうです。

コミュニケーションの場合は、例えば会社面接とか会議などでは、社会参加重視型で、
通訳文はなるべく短く、早く書き終えるようにしているらしいです。

セミナー・講演会の場合は、内容重視ですが、スピードはその分、少し下げても問題のない
場合にするそうです。

要するに、通訳の場面によって、利用者の目的に合わせて変わるそうです。

私も、他者に要約筆記通訳を準備してもらって、自分はそれを見ているだけのときは、
何も考えたことはなかったのですが、自分で依頼し、事前準備もやることになったときに、
初めて、要約筆記通訳を使いこなすには、ただ通訳者を手配するだけでは十分と言えないんだ、
ということに気づきました。

利用者が要約筆記理論を勉強する必要はないと思いますが、通訳とは何かとか、
利用するときはどのようにすればもっと良くなるのか、
ということは知っておいたほうがいいし、利用者ならそれができないとみっともないと
思います。

例えば、次のことは最低でもできなければならないと思います。

①利用の際、自分の席、通訳者の席はどこにすればいいか、自分で判断できるようにする。

②通訳者同行のときは、利用者が先方へ通訳者を紹介する。

③個人派遣依頼の場合、適切な用紙とペンを用意する。

④通訳者にも飲料、食物を出される可能性があると事前にわかっている場合は、予めお断りしておく。

⑤通訳に関わる、必要な情報・資料などがあれば、できるだけ借りておき、通訳者に事前貸与する。
できれば通訳日より前に情報提供したほうがいい。
これは、通訳の質、スピードに好影響する。

⑥自分の要望があれば、事前に伝えておく。多少の略記を増やす(その場限りの)程度は
認めてくれるので、それで通訳スピードがアップすることもある。筆記量が多いと、
話し言葉が速すぎる場合要約筆記者の負担が重くなり、文字が詠みにくくなっていく場合もあるので、
やはり長い単語が何度も出てくる場合は略記にしてもらったほうが、こちらも読みやすくなる。


以上のような点に配慮し、利用者は限界を全て通訳のせいにしたり、通訳が始まるまで成り行き任せに
しないで、よりよい社会参加になるよう、自分でも努力することが望ましいと思います。


他に、次のようなテーマで考えていることもあるのですが、それはまた後に
述べたいと思います。

【C.健聴者の通訳の事例から】
これは、利用者が聴覚障害者ではなく健聴者で、外国語通訳の例からなのですが、
通訳というものは何なのか、考えさせられるものなので、参考として書いてみたいと
思いました。


【D.長瀬氏の講演から】(国連・障害者権利条約の考え方から)
通訳の総務性、費用負担のあり方について。
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by bunbun6610 | 2011-08-01 21:38 | 情報保障(テレビ字幕)

松屋(東京都板橋区) 65年の伝統の大学芋!


★★★板橋が誇る、オススメ・スィーツ


ここの大学芋は上品な味で、非常においしいです。
芋にからみつくアメは甘過ぎず薄過ぎず、
固過ぎず柔か過ぎず、
芋の柔かさと絶妙マッチしています。
食べてみれば、きっとそのバランスの良さに
驚くと思います。

この大学芋を食べて思い出したのが、
フランス菓子の傑作ダックワーズのイメージです。

パートゥの表面のカスッとしたかすかな歯触りに、
中の柔かさに表れるやさしさが、この大学芋と
よく似ていると思うのです。

大学芋にはクリームがないですが、
勿論そのまま食べるだけでなく、
ソフトクリームやアイスクリーム、
ホイップクリームとも相性が良いと思います。

味は、芋の柔かさとアメの固さのバランスが良く、
口溶けと香りの良さにも驚きました。

これが小パックで350円、大パックでも500円という
安さだから、満足感も十分にあります。
この大学芋は、65年間も作り続けているそうです。

大学芋をよく見ると、芋の大きさが皆同じになっています。
それが、高品質の味の証でもあります。
手を抜かない、一つ一つの丁寧な仕事ぶりにも、
脱帽させられました。

お店は、東武東上線 大山駅南口から、
ハッピーロード大山(商店街)を歩き、
約2分のところにあります。

元パティシェの私もお勧めする味を、
是非、お試しを。

店名;松屋(お茶と甘味処のお店)
所在地;東京都板橋区大山町6-8
 ※ 両隣りがお茶店と八百屋です。

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これが小パック(タテ約15cm×ヨコ約9cm×深さ約4cm)です。
大体3×4cmの大学芋が、これで12個入っています。

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ハッピーロード大山(商店街)

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by bunbun6610 | 2011-08-01 00:14 | sweet
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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610
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