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蒼穹 -そうきゅう-

カテゴリ:哀れみはいらない( 21 )

米国社会から見た手話

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』
(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



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「ベルの伝記作家の中には、電話の発明はメイベルが家の中で
他の人たちとコミュニケーションをはかるためだった、と書いている
人もいるが、現実には、ベルの電話の発明でろう者は一般の世界
からさらに断絶させられてしまった。
他者とのコミュニケーションどころか、ろう者の雇用の機会や聴こえる
世界での居場所も奪われてしまったのだ。

一方、口話は当時の右に倣えの精神にうまく合致した。
ビクトリア女王時代(訳注:1837~1901年。上品ぶることと
因襲を重んじた)は、マイノリティを容赦しなかったからだ。

たとえばウェールズの学校ではウェルシュ語の使用が禁止され、
インド近辺諸国では英語が第一共通語と認定された。

その余波は手話に及び、手話の歴史を研究するアーデン・ナイサー
によれば、

「身振り手振りは、イタリア人やユダヤ人、フランス人がするもので、
文化の貧困と人格の未完成を反映していると考えられた。
手話も、これら人種・民族差別的な観点からみられるようになった」。

音声で話せることこそが神から与えられた人間の資格で、獣と人間
を区別するものである。
もししゃべることができなければ言葉がないのも同然であり、それは
人間の資格がないのと同じだ。
そうなるとアリストテレスの時代に言われた、人間の理性による推論
もできない。
しゃべらなければ悪魔の餌食になるしかない。
このような解釈がまかり通るようになった。
こういったことの全てが、人々にろうは病気で治療の必要のあるもの
と思わせてきた。
そして口話はその更生に必要な手段、いわば希望の星とされた。
口話は、実際には個人指導しかできなかったためたいへん時間が
かかり、とてもやっかいだった。
その点手話は、ひとりの教師がたくさんの生徒にまとめて教えられ
便利だったのだが、今や時代の主流は口話だ。
口話をマスターする人が現れると、その人は尊敬を集め、賞賛された。
ろうであることと無縁になればなるほど、誉められた。
19世紀後半、口話はこのようにして広まっていったが、ベル家では
当初よりすでに、その短所を把握していた。
というのも、ベルの妻メイベルは、夫や他から長年の訓練を受けて
いたにもかかわらず、口話もリップ・リーディング
(訳注:健聴者の音声による話し言葉を唇の動きから読み取る)
もあまり上達していなかったからだ。」(P137~138)


「それでは、現実に口話をマスターしたろう者はいったいどれほど
いたのだろうか?
それはごく少数だった。
しかもその大半は、聴力を失う前に音声による話し言葉をすでに
使ってきた人たちが、難聴者、あるいは補聴器の使用者だった。
聴こえる世界と、そうでない世界を自由に行き来できたからこそ、
口話も学習できたといえる。
そうでなければ、リップ・リーディングのマスターは至難の業だった。

「ゴルフで80の記録を破るのとか、油絵の大傑作を完成させる
のと同じようなものですよ」

ろう教育者、レオ・ジャコブはこう記している。

「だいたい、音声による言語を解釈できることと知性とは何の
相関関係もないのですから」

彼によれば、ろう者がどんなに最善の環境を与えられても、
唇の動きだけからでは音声による言語表現全体の30%しか
解釈できないという。
それに、いくら相手の言葉がわかるといっても、人々がはっきり
とわかりやすく唇を動かしたときだけ、それも明るいところで、
話す人の近くにいるときだけだ。

「初めて会った人だったら、その人の言葉の50%もわからない
でしょうね。
慣れても75%から80%が上限ですね」

『シカゴ・サン・タイムス』の編集者で、リップ・リーディングのうまい
ヘンリ・キザーは、その自伝

『What’s That Pig Outdoor?
(ファッツ・ザット・ピッグ・アウトドア=外にいるあの豚は何?)』

でこう書いている。

「いくら努力しても、全体の10%は、いつもまちがいなのです」

実はこの自伝の題名も、リップ・リーディングの難しさを顕している。
息子が彼に向かって

「What’s that big loud noise?
(ファッツ・ザット・ビッグ・ラウド・ノイズ=あの大きな音は何?)」

と言ったのを、キザーが間違ってこのように解釈したのだ。
口話が主流になる前の教育程度は、聴こえる人たちには劣らな
かった。
ところが、口話が主流になって以降その成績も識字率もどんどん
下がり、この傾向は次世紀にまで引き継がれた。
ギャローデットが1972年に行った調査では、18歳のろう者の
平均学力は小学校4年生程度だったという。」(P139~140)


「1880年のミラノ国際会議で手話が公式に禁止されて以降
90年間、手話は授業の現場から抹消された。
この決定に従わない学生は手をたたかれたり、しばられたりした
という罰を受けた。
ろう者の教師も実質的に教壇から追放され、たとえば1869年に
ろう学校教師全体におけるろう者の割合は41%だったが、
今世紀初頭にはこの割合が25%に、1960年代には12%に
まで落ちこんでしまった。
ギャローデット大学はアメリカ手話を使う唯一の学校だったが、
ここでも教師はアメリカ手話をやめ、代わりに英語対応手話を
使うようになった。
実は、アメフトのハドル(訳注:各ダウンの間に攻守両チームが
円陣を組んで行う作戦会議。
作戦は普通、記号や数の組み合わせで語られる)は、もともと
1890年代この大学で、相手に自分たちの手話をみられない
ようにするため考案されたものという。
アメリカ手話は、ジェスチャーたっぷりの俗語程度にしか見られ
なくなった。」
(P143)


『ベルの手話弾圧』
電話の発明で知られるアレクサンダー・グラハム・ベルは、
ろう者を対象にした高名な教育者だったが、当時流行した
優生思想の信奉者でもあった。
・・・(中略)・・・
この彼がろう教育専門家に与えた影響が、実は、手話軽視の
主要な原動力だった。
聴こえないのは欠陥で、ろう者は「欠陥」人種。
優生思想によればこういった人種は排除されるべきともなされる。
彼は、ろう者同士の結婚は禁止すべきであると、優生学の
典型的解決策を提唱していた。」(P144)


「ベルの講演は教育の現場から手話を追放しようという国際的
な動きの台頭を象徴していた。
ろう者を統一している唯一の手段は

「身振り手振りを手段にした言語」

だ。
ろう者はこの手話があるから

「英語やフランス語、ドイツ語やロシア語とは全く違う」

発想をしている。
これがあるから、ろう者は聴こえる世界から隔てられていると
主張した。
さらに、ろうの成人はしばしば英語の理解力や表現力に欠け
ている。
だから

「ブロークン・イングリッシュ(おぼつかない、かたことの英語)」

でしか文章を書けない。
同じ国に住んでいるのに、彼(女)らとはまるで

「外国人とのように」

コミュニケーションをはからなければならない。
ろう者たちには、偉大な英文学や

「今日の政治演説、新聞や雑誌の社説」

を楽しむ能力がない、
カナダのろう学校が手話の辞書を作ろうとしているのは、
この傾向をさらに悪化させるだけだ。
痛烈な手話批判が続いた。
ベルの結論は、ろう者の教師をやめさせて口話を教えるべき、
というのだった。
当時、ろう者の14%しか音声を使ってしゃべらなかったにも
かかわらずである。」(P146)


『恐ろしい「慈善家」』
・・・(中略)・・・
それに、彼(ベル)の言う

「統合(教育)」では、ろう者たちに対する理屈もない恐怖や
誤解を取り除くことも重要なポイントだった。
ろうの生徒は今まで、

「公の場から離れた施設に追いやられてしまったため」、

彼(女)に対する「まちがった考えが」生まれるようになったとも
言っている。

「どんな理由があるにしても、聴こえる人は聴こえない人に
対して偏見をもって接している。
そのおかげで仕事や人間関係をつくる機会を失っているのだ」。

そのためには、両者がまじわる機会を増やすしかない。
ベルは主張を強めた。

「ろう者は危険で気性も激しく、扱いにくいと思っている人は
たくさんいます。
化物の一種のようにとらえられ、できるだけ避けるべき存在とも
思われているのです。」

ベルはアラバマ州で起きた事件を引きあいに出した。
この州に住むあるろう者が、手話で聴こえる人にコミュニケーションを
はかろうとした。

ところが、それは相手にとって不慣れで不愉快な仕草としてしか
映らなかったという。
その人は鉄砲でそのろう者を射ち殺してしまった。
ベルのこのような話は、彼をろう者の代弁者にした。」(P147)


「ベルはろう者の良き擁護者のように思われていたが、彼の考え方を
よくみると、ろう者は哀れみをさそう存在としてとらえられている。
最も慈悲深き行為はろう者の文化や言葉に終止符を打つこと、
さらには生まれないようにすることだった。
ろうの専門家として、そしてその代弁者としての地位を確立した人が、
哀れみを使って抑圧すれば、ろう者自身、その力をはねのけるのが
とても難しくなってしまう。
障害者であれば多くの人が本能的に察知できるかもしれない。
一番根深く恐ろしいのは、偏狭な考えをもった人の偏見ではなく、
ベルのような、自らを慈善家と称する人々の偏見だ。」(P148)


『権利としての手話』
・・・(中略)・・・
今日ろう者たちは、アメリカ手話を使うことは生まれつき自分たちに
与えられた権利だと主張している。
100年以上も否定されてきた権利の復権が求められている。
全米ろう者協会(the National Association of the Deaf)も

「ろう者には、アメリカ手話と英語の両方に流暢になる権利があります。
どちらの言葉をどこで使用するか。
決定するのはろう者自身であるべきです」

とその立場を明らかにしている。」(P149)


「ろう者の作家、キャロル・パテンとハンファイアーによれば、
ろう者の世界は、「異なった中心」のまわりを廻っているという。
聴こえる社会ではろうであることは病理だが、ろう者たちにはそれが
あたりまえなのだ。
これは障害者権利運動が障害を病理としてとらえる医療モデルの
発想を拒否するのと同じだった。
だから手話の表現でも、聴こえないことが基準になっていて、
「聴こえにくい=難聴」と描写する場合は、その基準から逸脱した
状態として表現される。
聴こえることも、同じように聴こえないという基準からずれた状態
として表現される。」(P150)


「聴こえる人たちとの違いは、違いでいい。
むしろ祝福すべきだ。
どっちにしたって生涯はずっとあり続けるのだから、障害者は結局、
健常者とは違う。
ろう者はろう者だけの別の世界を築くべきではないか。
こう主張した。
これは、アフリカ系アメリカ人がこの30年、統合をめぐって展開した
議論に似ている。
・・・(中略)・・・
ろう者にとっての別の世界とは、ろう者がろうの学長によって運営
されるろう者のためだけの学校に通うことを意味していた。
となると、障害者権利運動の初期の勝利といえる統合教育の義務化は、
ろう者の「分離」主義者には逆に脅威としてとらえられた。
・・・(中略)・・・全米ろう者情報センター
(the National Information Center on Deafness)
のデビット・ウォルフは、普通校へのメインストリーミングと呼ばれる
統合を、

「いろんな人種の人々を白人にしてしまうことで人種問題を解決しようと
するのと同じなのかもしれません」

と批判している。
ろうの学生を全く未知の世界に無理やり入れこめば、劣等感を助長
させるのがおちだ、とも彼は言った。」(P151)


「ギャローデット大学の抗議運動後、ろう分離教育が新たな息吹を
あげた。
ろう世界の言語と文化、価値観を学ぶ場を求める声だ。
カリフォルニア州では、ろうの生徒は同じろうの仲間(=ピア)とともに、
アメリカ手話の流暢な教師によって教育を受けなければならないという
法案が州議会を通過した。
がこれは、分離と隔離を増長させる危険性があると判断した
ピート・ウィルソン知事が、拒否権を発動し実現されなかった。
聴こえる障害者の権利運動の世界では、完全なる統合の世界をめざす
のはあたりまえともいえる。
彼(女)らの多くが、健常者と共通する価値観や生活体系などを持って
いるため、一緒にいるほうがあたりまえと、心から感じるからだ。
多くは障害のない親に育てられ、障害のない兄弟姉妹と多くの時間を
過ごし、障害のない子どもも持っている。
それと対照的に、聴こえないということは聴こえる世界とは全く違う
世界に住むことである。
聴こえる世界とのコミュニケーションから、まるっきり切り離された
世界でもある。」(P151~152)



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(※)ベル博士についての記述は、下記の記事もあるので、参照されたい。

『『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)(4/5)ベル博士』
〔2014-05-04 20:00〕



『『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 1/3』
〔2013-10-03 18:00〕

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by bunbun6610 | 2014-05-31 18:30 | 哀れみはいらない


『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



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「『失われた言葉、失われた文化』
ろう文化独自のパワー。
聴こえる世界と対等なろうの世界の存在。
この考えを立証する現象を、私たちは歴史の中に
みることができる。

アメリカ東海岸の大西洋沖にあるマーサズ・ビンヤード島
では、約250年間、耳が聴こえないことのほうが
あたりまえだった。

最初にろう者の漁師、ジョナサン・ランバートが
ここに移り住んだのが1694年。
彼は、劣性遺伝として聴覚障害をもっていた。
その後孤立した島での結婚が何世代も続き、
子孫にろう者がたくさん生まれるようになった。
特に、チルマークやティスパリーと呼ばれる村では、
普通では考えられないほどろう者がたくさんいて、
たとえば19世紀の中ごろのチルマークでは、
25人に一人がろう者だった。
その中のさらに小さな地域では、4人に一人が
ろう者だったというデータさえ残っている。

文化人類学者ノラ・エレン・グロースが記した
『皆が手話で話した島
(Everyone Here Spoke SignLanguage)』
(佐野正信訳、築地書館)によれば、ここでは、
聴こえる人の文化と聴こえない人の文化がごく自然に、
うまく融合していた。
いったいどんな生活を送っていたのか。

まずこの島では、聴こえない人が家族にいなくても、
地域全体が手話を使っていた。
ろう者とのコミュニケーションの手段としてのみ
使われたというのではない。
たとえば耳の聴こえる漁師が漁船で漁をしているとき、
遠く離れた漁船とのコミュニケーションをはかるのにも
使われたし、教会内での会話にも使われた。
聴こえる人たちが会話をしているところにろう者が
くると、すぐに皆手話で話しはじめた。

1952年、このマーサズ・ビンヤード島で最後の
ろう者の住民が亡くなったといわれる。
けれどもその30年後、脳神経科医オリバー・サックス
がここを訪れとき、聴こえる高齢者の住民は、
依然として手話で民謡を語り、会話をしていたという。

サックスが会ったなかで一番年をとっていた女性の
ひとりは90歳代だったが、

「時々とても平和で夢心地の気分になって」

まるで編み物をしているように両手を動かし手話を
使っていたらしい。

「その娘が私に言うには、母親は考えごとをするとき
手話を使うらしい。
決して編み物をしているわけではない」

とサックスは書いている。

「聞くところによれば、あの最高齢の女性は、
眠っている最中でもベッドの上で、かけぶとんの内側に
話しかけるかのように手話を使っていたという。
夢も手話でみていたというのだ」

ともある。

マサチューセッツから少ししか離れていない、
大西洋に浮かぶこの島では、
耳の聴こえる人とそうでない人の間に、
言葉の上でも社会生活の上でも障壁がなかった。
ろう者は、政治から教会の催しまで地域のいろいろな
活動に積極的に参加していたし、結婚率80%というのも、
聴こえる人の率と同じだった。

19世紀末、アメリカ全体のろう者の結婚率はわずか
45%だったのと比べるとかなりの割合だ。
また、両者ともひと家族平均6人の子どもがいた。
1880年代、全米レベルでは、ろうと健聴の夫婦には、
平均2.6人の子どもしかいなかった。
さらにこの島では、ろう者はそうでない者と同じような
仕事につき、同じような収入を得、PTA活動から
高速道路の調査官、軍隊まで、生活の諸側面で活躍
していた。」




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by bunbun6610 | 2013-10-01 18:00 | 哀れみはいらない

『1988年にギャローデット大学で起きた、
ろう者学生、卒業生の抗議運動』


アメリカのギャローデット大学は、世界中からろう者が
集まる大学として有名です。

この出来事は、ADA法(1990年障害を持つアメリカ人法)が
出来る前に起きた、ろう者が主体の障害者運動です。

この頃、ジョージ・ブッシュ副大統領(当時)が

「ろう者の学長を選考するようギャローデット大学に
強く促していた」

のだという。

そして1990年7月26日、
ジョージ・ブッシュ大統領(当時)は、
ADA法に署名しました。

http://www.ibojapan.org/overseas/ada.html



ろう者の映像作家・今村彩子氏のブログには、
現在のアメリカの大学の状況を書いた記事が出ています。

http://studioaya.com/profile/img/201301_boramimi.pdf


日本とは、偉い違いだったようです。
アメリカはどうして、このようになったのでしょうか?

それを知る手がかりのひとつが、この

『哀れみはいらない ―全米障害者運動の軌跡』

という本なのです。



『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



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「『反乱の発端』
ギャローデット大学生の抗議運動。
人々は一九九八年三月に起きたこの出来事を学生の反乱として
覚えているが、実際のきっかけとなったのは、社会に出て偏見や
差別のつらさと闘っていた最近の卒業生の怒りだった。

発端は一九九七年八月。
ギャローデット大学で、健聴者のジェリー・リー学長がその年
一二月に辞職すると発表、氏の後を継ぐ候補者をふるいに
かけ始めた。
開校以来今までの一二四年、ギャローデットでは六人が
学長についたが、ろう者の学長が選ばれたことは一回も
なかった。
ひとり平均約二〇年間ずつ務めたが、一九八〇年代に
三人替わった。
前回の一九八四年にリーが選ばれたとき、ろう者を学長に
したほうがいいかどうか、ほんの少しだけ話題になった。

翌八八年二月に六人の卒業生が集まり、学長選出員会の
候補者リストに議論が集中した。
耳が聴こえないということは、聴こえる世界から全く期待
されていないことに対して絶えず闘うことだ。
ろう者の大学として世界に名立たる学校なのに、まだ学長に
ろう者がいない。
これは、ひどい屈辱だ。
だいたい前回の八四年には、どうしてろう者が選ばれなかった
のか。
皆がこう思った。

今度、もしろう者が選ばれなければ、さらに何年も待たなければ
ならないかもしれない。
今回しかチャンスはないのでは。

ろう者の学長を求めて立ち上がろう。
こう決意を固めた卒業生らは、学長と他の卒業生、
教員らの連帯を得て、学校側も無視できないような大集会を
キャンパスで開催することにした。

この集会開催に具体的支援を提供したのは、卒業生で地元の起業家、
ジョン・イエーとデイビット・バーンバウムだった。
卒業生が起こした企業と委託契約を結ぼうとしないギャローデット大学を、
ふたりは快く思っていなかったからだ。
ギャローデットは、赤レンガに囲まれたビクトリア調キャンパスで
ろう者の学生をまるで繭の中のような環境で保護している。

が、いったん学生が卒業してしまうと、聴こえる世界と同じように
心ない排除や軽蔑で対応している。
大学の本来の目的であるろう者の自立を全く裏切る行為ではないか。
こうふたりは思っていた。

一方、在学生の学生は、キャンパス外で起こっているろう者への
差別にはほとんど無関心だった、と卒業生の代表ジャック・ギャノン
は言う。
次期学長選出のニュースも、学生にとっては単なる学校運営上の
出来事でしかなかった。

「多くのろう者は聴こえる世界のほうがよいという考えをもつように言われ、
生活してきました。
ですから自分たちに押し付けられている限界を疑いもせず、
そのまま受けとめがちなんです」。

ギャローデットの生涯大学学長ロザリン・ローゼンは、
理由をこう説明する。
学生間で社会の対応に対して異なった意見が存在していたこともある。
アメリカにいる聴覚障害者二二〇〇万人のうち、全く耳の聴こえない
人たちはその一〇%といわれている。
この人口構成を反映して、ギャローデット大学には難聴者も多く、
補聴器をつければ聴こえる人たちもいた。
そして、同じ程度の障害者同士がグループをつくる傾向がみられ、
たとえば補聴器使用者のグループは社会に出ることに関しては
より楽観的だった。

どうしたら、無関心で、ばらばらの感覚や意見をもつ学生たちの
注意を喚起し、集会に動員できるか?
学長選出問題をできるだけわかりやすい人権問題として
学生たちにアピールできないか?
卒業生たちはこう考え始めた。



「「ろう者の学長を、今」と書いたTシャツのジェフ・ローゼンは、
ピック・アップ・トラックの荷台の上に立って手話で訴えた。

「公民権運動で命を失った人もいます。
ベトナム戦争に反対して刑務所に入れられた人もいます。
さて、一九八八年の今日、今この瞬間、私はここに立って
皆さんにお聞きしましょう。
皆さんはいったい何を信じて生きていますか。
何を理想にして生きていますか」

二十人ほどの講演者のひとり、アレン・サスマン教授は言った。

「今日のこの出来事は、歴史に残るでしょう。
ろう者による全米初の公民権運動なのですから」

この言葉が学生の心を大きくゆり動かした。
ろう者に対する社会の対応を、人権問題として考えたことも
なかった多くの学生が、この言葉で目覚めたのだ。」



「一方、偶然にも同じ日に、次期学長の最終候補三人が
決定されていた。
ひとりは、思春期に聴覚を失ったギャローデット大学の
文芸学部長、アイ・キング・ジョーダン、もうひとりは、
生まれたときからろう者で、ルイジアナ州の全寮制
ろう学校の学長、ハービー・コーソン、
最後は、健聴者で、北カロライナ大学グリーンスポロ校の
エリザベス・ジンサーだった。

…(中略)…

三月六日、日曜日、午前八時半。
約五百名の学生と卒業生グループが正門前に集合した。
ちょうどこの時間、理事会で学長が最終決定されることに
なっていたからだ。

が、実際はそれより二時間も前にプレス・リリースが発表され、
候補者のなかで唯一健聴のエリザベス・ジンサーが選ばれた。

人々の怒りは爆発した。
演説と、たくさんの涙。
抗議の象徴として、プレス・リリースが燃やされた。

さらに抗議の一団は、

「ろう者の学長を、今」

と叫びながら、町の中心地にあるメイフラワー・ホテルに
デモ行進した。

ここで大学の理事たちが新しい学長の決定を祝っていたからだ。
警察隊はホテルの入口をふさぎ、デモ隊が手話で抗議した。
ヒルブルックとローラス、そしてジェフ・ローゼンら数人が
中に呼ばれ、理事たちと話した。

このとき理事会長のジェーン・バセット・スピルマンは、
非常に屈辱的な説明をしたのだという。

「ろう者たちには、まだ、聴こえる世界で機能するための
準備ができていない」

と言ったのだ。
のちに彼女は、それは手話通訳の誤訳だと弁解したが、
この弁解自体、健聴者がろう者の上に立って発言するという
学校側の意識の反映と思われた。

また、スピルマンは七年間も理事を務めてきたが、
いまだに手話で会話ができない。
なぜ彼女は手話を学ぼうとしなかったのか。
その意識も疑われた。」



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この後、大変なことになっていることが原著に
記されています。
大学授業ボイコット、スピルマンと学生たちの
対立激化、連邦議事堂とホワイトハウスに向かっての
デモ行進、そしてこの問題は、全米の注目を集めるように
なったという。

市民のなかには、学生たちの抗議を支援する人も出てきた、
という。
この結果は、理事会によって選ばれたジンサーも、
スピルマンも辞職しました。

が、スピルマンは辞職のときも、またこんな屈辱的なことを言っています。


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「「私のような人間は、ギャローデット大学の未来の発展を
妨げていると思われる方もいるでしょう。
私はこの大学が発展することを心から、本当に心から
望んでいるがゆえに、その障害物をみずから取りのぞきましょう」。
が、彼女は最後まで、聴こえる学長が最善の選択だったと
主張していた。」



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いやいや…。
まさか、スピルマン自身が身を引く(辞職)ことによって、
ろう者たちの前にある障害物が取りのぞかれたとでも?
ろう者学生の主体的行動が、その障壁を壊した、
と言ったほうが適当なのではないだろうか。


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「『ろうは文化 障害ではない』
一方で、ギャローデット大学の学生が障害者の権利確立に
大きく寄与したのは大いなる皮肉と言えた。
なぜなら彼(彼女)らの多くは、聴こえないことを障害ととらえず、
ひとつの独立した文化としてとらえているからだ。
ユダヤ人であるとかアイルランド人であるとか、
ナバホ系インディアンであるのと同じ意味だ。
同じ耳が聴こえない(deaf)という表現でも、独立した文化集団
であることを意味するときは頭文字を大文字にして「Deaf」とし、
聴力の状態を指すときには小文字で「deaf」とすると
区別をつける人もいる。

大文字は、英語とは全然違う複雑な体系のアメリカ手話を使い、
独自の歴史や文化を所有しているというわけだ。

ギャローデット大学のリーダーたちにとって、
「障害」は医学的な観点からの人間の状態である。
聴力の欠如をこの「障害」、そして更生が必要な病理と考える
人々は長い間ろう者を抑圧してきた。

ギャローデットのリーダーたちは、自分たちを哀れみ、
能力が劣っているとみなしてきた人々に嫌悪感を抱いた。
この部分では障害者権利運動の大枠の考え方に共鳴する。


ギャローデット大学の巨漢でカナダ出身のフットボール選手、
ジョン・リムニディスは、映画『愛は静けさの中に』で端役を
演じたこともあるろう者だが、こう言う。

「耳が聴こえないことは障害ではありません。
むしろ文化です。
手話は別の言語です。
私は、耳が聴こえないことを誇りに思っています。
もし万が一耳が聴こえるようになる薬があっても、
決して飲まないでしょうね。
決して、決してね。
死ぬまで絶対飲みませんよ」」


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by bunbun6610 | 2013-03-05 18:00 | 哀れみはいらない

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



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「「私たちはこれ以上の隔離を受けません」。
ヒューマンはアイダーバーグに向かって怒りをぶつけます。
「もし障害者へのアクセスがない建物を建てたら、それは合法的に
隔離を実行していることになります。
政府がこれを理解するまで、座り込みは終わりません」。
ロバーツもアイダーバーグの言う「分離すれども平等」に反撃した。
「統合がキーワードです。
障害をもつ人々は社会にもどらなければいけないんです」。
サンフランシスコでの座り込みは、障害者権利運動の通過儀礼(成人式)
だったかもしれない。
自分の健康を害するという危険性や逮捕の危険性をも冒しながら、
市民的不服従の手法で、全米を、そして自分たち自身をも驚かせ、
大きく成長したからだ。
CILが奨励していた、障害の種別を越え結束する運動という哲学も実践した。
「あらゆる障害者が、理想に燃えて連邦ビルに入って行きました。
けれど最初から、自分とは違う障害を持つ人々についてよく理解して
いなかったと気づいたんです」。
二五日間座り込んだメアリー・ジェーン・オーエンは言う。
「ろう者はろう者の団体、車椅子使用者は車椅子の団体、二分脊椎は二分脊椎の団体、
知的障害者は知的障害者の団体。
この座り込みの前は、こんなふうに活動していました。」
こんな一種の教団主義といえる傾向が、座り込みをきっかけに変化したらしい。
連邦ビルの六階の閉鎖された空間で、皆一緒に生活しているうち、
プライバシーもなくなり、障害者だけの小さな町に住むようになったも
同然となったからだ。
…(中略)…
障害者として、自分たちが社会では二級の市民としてしか扱われていないと
誰もが共感し、友情が育まれた。」



====================================



用語については、ここでは、次の通りです。

「健常者」…障害のない人たち。

「健聴者」…障害がある、ない人とに関わらず、
聴覚には障害がない人たち。

「聴覚障害者」…ろう者、難聴者、中途失聴者、
また聴覚障害も含む重複障害を持つ人たちも含めて。



60歳以降の再雇用制度が少しずつ進んでいます。
これだけの高齢者層になると、そのなかにも、
何らかの障害のある人も増えていきます。

例えば、健常者でしたが、人工肛門とか、
片足が義足になったとか、脳梗塞の後遺症で
身体の一部あるいは大部分がマヒになってしまった人、
精神障害が起きた人、などです。
中途障害者の人たちです。

障害を持つようになると、それまでのようには
仕事ができなくなり、うつ病を併発するようになる
人も増えています。

「あなたにはもう、それまでの仕事は出来ません」

と会社に言われても、本人は過去(健常者時代)から
築いてきた栄光にこだわり、
すぐには障害の受容もできない。
それが心までも悪くしてしまうことは往々にしてあります。
怖いのは身体に障害を抱えることより、
内面に障害を抱えてしまうことです。

ではもし

「障害があってもいいんだ」

という社会だったとしたら、こういった悲劇は
減るのでしょうか?
障害のない人も、周りにいる障害者一人ひとりの
障害を受容することが、本当の共生社会では
大切なのではないでしょうか。
そういう社会的実験をしてみる価値もありそうです。


障害者が増えても、その障害者理解だけでは、
聴覚障害者は他の障害者とうまくいきません。
聴覚障害者特有のコミュニケーション問題があります。


障害者雇用促進法や、60歳以降再雇用制度のおかげで、
職場には他の障害者が増えてきました。
それで、私もときどき会うのですが、
障害者同士には確かに気が合うところがあるらしく、
よく日常会話がはずみます。

お昼の食事のときにも、携帯電話で相手を呼び出して、
一緒に食事をするほど、気さくな人間関係なようです。

ところが聴覚障害者の場合は、一緒にいても、
会話がありません。

なぜだと思いますか?

聞こえる人は、聴覚障害者に話すのも遠慮してしまうからです。
そして、聞こえる障害者同士で話すだけになってしまうからです。
聞こえない人が、透明人間のようになってしまうのです。
これは、とても寂しいことです。

こんなことがほとんど毎日、定年退職するまで、
いや生涯続くことなのです。
私は、本当はその宿命がイヤです。
でも、それを受け入れなくてはなりません。

「コミュニケーションとは、空気のようなものなのだなぁ」

そう感じました。

ただ、音声コミュニケーションと、
視覚コミュニケーションとの違いだけで、
こうなってしまうのだ。


我慢するだけでは何も変わりません。
聴覚障害の問題を理解はしてもらえません。

かといって、直接言うのも、どのように伝えるかが、
非常に難しい。
おそらく、聴覚障害者ならば皆、
こういう悩みを持っていることだろう。


最近、コミュニケーションの仕方で、
園田監督の暴力事件が大きく浮上していましたが、
暴力だけでなく、暴言も、
言い方に何か気に障るようなことでも良くありません。
自分ではそのつもりがなくても、
人間関係に悪影響を与えてしまい、
自分の墓穴を掘る結果になってしまいます。
だから、この問題を解決するのは難しい。
自分一人の努力だけでは到底、無理です。

健聴者には非常に大事な話をしているつもりなのですが、
よく

「あなたは自己主張ばかり」

と言われてしまうのです。

稀にはどうにか伝わる場合もありますが、
それは気持ちのほうなのです。
話す私の気持ちが真剣だから。

それでは、もの柔らかに伝えてみたらどうかというと、
これだと全然伝わらないのです。
何回言ってみても、まず全滅します。

勇気を出して、言ったところで

「後で…」

と言われ、そのままになってしまう事例、
またどうにかうまくいったとして、
上司がコミュニケーションのルールを決めたけれど、
ほとんどの人がやらない、という事例は、
他の聴覚障害者でも多いのではないかと思います。


「誰か一人でもやってくれただけでも、
いいじゃないか」

と言われ、それでよしと我慢する。
結局、全社的な取り組みにはならない。
周囲のほとんどの人にはないがしろにされる、
という屈辱を味わう。
理解してくれた誰か一人だけがボランティア的にやってくれる、
という程度にとどまる。


ある上司はこう言いました。

「コミュニケーション方法は大事なことなので、
聴覚障害者との場合についても皆に通達する。
ただ、それを守ってくれるかどうかまでは、
個人の意識による。
皆に強制はできないのです」


取り組みには時間がかかる、という意味でもあるのだろう。
しかし、罰則なきルール
(というより実質、『お願い』に過ぎないのであるが)
では、守らない人のほうが圧倒的に多いままです。

そのうちに、守ってくれていた人も人事異動などでいなくなり、
結局誰もやらなくなる。
そのルールを知っている人も、部署内にはだんだんといなくなる。
そして、忘れ去られてしまう。


コミュニケーションとは、やはり空気のようなものなのだ。
音声コミュニケーション上では、
その問題が起きていても、空気のごとく見えない。
聞こえない人にはそれが見えても、
聞こえる人にはわからない。



すごく残念です。
もう諦めるしかない、
とさえ思うことは、山ほどあります。


FMワイヤレスマイク・システムという方法を、
相手(健聴者)にお願いしたこともあるのですが、
これもすぐに使われなくなってしまいました。

これは、他の障害を持つ健聴者でも同じです。

なぜかというと、コミュニケーション方法にしても、
人により好き嫌いがあるようです。
お互いに重装備になるため、相手(健聴者)側に
とっても準備が面倒なのが、最大理由のようです。

このシステムの使用には、健聴者の協力も不可欠です。
協力してもらうためには、まず理解が必要です。

さらに、頭では理解はしてくれても、
まだ健聴者にやってもらわなければならない点が、
FMワイヤレス・システムにはあります。

この機器は、主にろう学校の先生などが使っているそうで、
会社でも威力を発揮する場合があります。
それはやはり、ろう学校の先生だから理解があるのです。

しかし会社だと、やはり使用に際しての健聴者の理解がなく、
使われずに終わってしまったり、
使われていても、マイクの取り付け方とか、
音量・音質調整などがおざなりに
なったりすることも多い。
それでうまくいかない場合がしばしばです。


こういった不具合は、手話・要約筆記通訳の利用場面でもあります。
健聴者からは、よく

「通訳は不要」

と言われます。
なぜかというと

「知らなくても大丈夫な情報だから」

なのだそうです。
じゃ、何でそこに聴覚障害者社員も含めて全員集めて、
誰かが話をしているのだろうか。
真剣に考えたら頭が変になりそうなのは、こっちのほうだ。

とにかく、一緒にいることが協調性を重んじることだと、
健聴者社会では考えられているらしい。
おかしなことであるのだが。

たとえ手話・要約筆記通訳はあっても、
今度はそれをうまく使う配慮がなかったりします。

つまり、健聴者は聴覚障害者情報保障など、
どうでもいいと思っているのだ。
かくして、公費派遣でわざわざ用意した通訳すら、
形式的配備で終わったりする。
最悪だと、こうなるのだ。


健常者よりも障害者のほうが、
確かに聴覚障害者に障害があるということを、
多少は理解してくれるようです。

でも、聴覚障害者の本当の障害について、
理解できている障害者というのは、
まだまだ少ないと思います。
それが当たり前です。

自立支援法施行のときに、
身体障害者は原則一割の応益負担を飲んだという。
しかし、聴覚障害者団体だけが、聴覚障害者通訳への
費用負担に反対しました。

それで、他の障害者から

「我々は費用負担に応じたのに、
聴覚障害者の手話・要約筆記通訳だけ、
なぜ無料実施を求めるのか」

という声があがったそうです。
それについて、まだ知らない読者もおられるかと思いますので、
いずれ書いてみようと思っています。


千葉県の障害者差別禁止法(※)をつくるときにも、
様々な障害者が集まり、議論が進められました。
しかし、最初は聴覚に障害があった人に対する
手話・要約筆記通訳が準備されていなかった。
そのため聴覚障害者が出席しても会議の内容が
さっぱりわからず、それで聴覚障害者側の意見も
言えず、聴覚障害者だけ取り残されていた、
という状況でした。
しかしその問題も、他の障害者は理解してくれるようになり、
解決しました。


障害者たちは、異なる障害であっても理解し合い、
障害を乗り越えることができた。
それなのに、健常者たちはなぜそれができないのだろうか。


(※)当ブログ
『日本の障害者差別禁止法制定への壁』
〔2013-01-29 18:00〕
参照。

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by bunbun6610 | 2013-02-05 18:00 | 哀れみはいらない

日本政府が2009年12月当時に鳩山政権が設置、
発足させた「障がい者制度改革推進本部」が、
障害者の差別禁止や社会参加の促進に取り組んでいます。

しかし日本は、アメリカなどのやり方を、
まだ形だけを真似しただけに過ぎないのかもしれません。

北朝鮮拉致問題もそうですが、人権問題のことは
全然進んでいないように思えます。

いやそれだけでなく、外交問題も同じかな。
日本のお役所などは、コミュニケーションが苦手なようで、
とにかく慎重というか、時間をかけたがるのでしょう。
だから遅々としていて、進まない。

アメリカの障害者運動は黒人運動の後に
起きたらしく、活発だったので、
1990年には障害者差別禁止法(※)
できています。
それでも、長い道のりです。

国連・障害者権利条約も最初の提唱(提唱国;イタリア)
から30年かかって、やっと採択されたそうです。

(※)ADA法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A4%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E6%B3%95

http://members.jcom.home.ne.jp/wheel-net/america.htm


=================================


『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子

 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html



「一方、赤十字のような慈善団体はこの頃、障害者のための
雇用サービスを始めた。
また一九二一年の法律では、母子医療センターが開設され、
母子の死亡率を下げる努力が開始された。

この傾向は大恐慌後も続き、一九三五年、当時のルーズベルト
大統領が社会保障法に署名するに至る。
これで、アメリカ史上初めて、成人障害者対象の恒久的な
社会保障制度が始まった。

ポリオと闘うルーズベルト大統領をアメリカ人は賞賛し、
彼は当時、全米で最も有名な障害者だった。
彼が設立を援助した慈善団体、「硬貨の行進」への寄付は増え、
小さな子どもでさえ、大統領がホワイトハウスで運動をする
ためのスイミングプール建設に寄付を提供したという。

しかし、歴史家ヒュー・グレゴリー・ギャラファーの
『FDR’s Splendid Deception(フランクリン・ルーズベルトの華麗な偽り)』
 によれば、ルーズベルトは自分の障害をできるだけ隠そうと
していたという。
実は歩けなかったのに、一般にはその印象を与えないよう
一生懸命努力していたというのだ。

「ルーズベルトはポリオによるマヒで少し足をひきずるように
なったが、今は直っている。
一般の人々の間ではこう思われていた。
『今は回復したかたわ』とみなされていたのだ」

テレビが今のようになる前だからこそ可能だったかもしれないが、
大統領の車椅子の姿は決して公開されず、プライベートの写真も
撮られなかった。
ルーズベルト自身と彼の息子、護衛の人たちは創意工夫を凝らし、
彼が建物から出たり入ったりする手助けをしていた。
公の立場に出なくてはならないときは息子と護衛が彼の両側に
立ち彼を支え、彼はまるで体操選手が体操用のてすりにつかまる
ようにふたりに運ばれていたに過ぎなかった。

ホワイトハウスや連邦議事堂、陸軍省、国務省、海軍のビル、
そしてラファイエット広場のむかいにある聖ジョン教会には、
当時からスロープが設置され、歩行が困難な人でも移動が
しやすかった。
ルーズベルト大統領が歩けなかったから、そして、首都ワシントン
の中でもこれらの場所に彼がよく行ったから、こんなことも可能
だったのだ。
が、法律でアクセスが広範に義務づけられるようになるまでには、
それから三〇年以上かかった。

第二次世界大戦後、連邦のリハビリ・プログラムがさらに拡張し、
戦争帰還の障害者を国ぐるみで救おうという新しい試みがみられる
ようになった。
まず一九四六年、マヒをもつ戦争帰還者アメリカ人協会が設立され、
翌四七年には、リハビリを終えた障害者を企業で雇用することを
保障する義務から、大統領直轄障害者雇用委員会が設置された。」


=================================



〔参考記事〕
当ブログ
『聴覚障害と目的の喪失』
(2012-09-20 18:30)参照。


【追記】(2012年9月22日)

http://www.excite.co.jp/News/society_g/20120922/Kyodo_BR_MN2012092201001525.html

障害者差別「ある」89% 前回より増加、
内閣府調査

2012年9月22日 17時12分

内閣府が22日付で公表した「障害者に関する世論調査」によると、
日本社会で障害者に対する差別や偏見が「ある」と思う人は89・2%
に上り、2007年の前回調査より6・3ポイント増えた。

「ない」と答えたのは前回より5・4ポイント減の9・7%にとどまった。

09年12月に当時の鳩山政権は「障がい者制度改革推進本部」を設置。
障害者の差別禁止や社会参加の促進に取り組んでいるが、
十分な効果が出ていない状況だ。

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by bunbun6610 | 2012-10-24 18:00 | 哀れみはいらない

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html




==========================




「障害の程度によって人々の人生を左右する
福祉の制度がいかにあてにならないか。

ロバーツは今までの人生で十分といってよい
ほどこのことを証明してきたが、このときほど
痛切に感じたことはなかった。
(カリフォルニア州リハビリテーション局の)
局長に就任したロバーツはリハビリ局の制度
改革を促した。
もともとここでは、自立生活センターのような
各種サービスを直接提供するか、民間の団体
に委託していた。
けれどセンターと違い、障害者を何人就職させ
たかという達成数に重点が置かれていたので、
その数さえ十分であればよかった。
そうすれば、局も委託のサービス提供団体も
ほぼ無条件に州や連邦の補助金を取得できる
ようになっていたのだ。

数字を上げること自体はそれほど難しくなかった。
ロバーツは、こういう制度を、
「クリーミング(creaming=上層の部分だけを
抜き出すこと)」
を助長しているにすぎないと批判した。

リハビリ局のカウンセラーは、事業報告書上の
就職者数を多くするため、軽度の障害者だけを
対象にサービスを提供する傾向にあったからだ。
これはリハビリ局の伝統にさえなっていた。

逆に言えばロバーツのような重度の障害者が
サービスを求めても、就職援助などあっさり断ら
れていた。
あまりにも大変すぎるという理由で相手にも
されていなかったのだ。

このような実態はサービスを受けられない人たち
を生み、バークレーの自立生活センターは
そういった人たちを救った。
CILはリハビリ局と違い、利用者数や就職者の
増加数でサービスの成功をはからない。
いわばもっと曖昧模糊とした測定するのは難しい
「自立生活」の達成を目標にしていたからだ。
リハビリ局長になったロバーツは、この一見して
矛盾しあう自立生活とリハビリの原則の統合に
努力した。」



==========================





日本でも「クリーミング」という現象を、
思い当たらないでしょうか?

当ブログ
『企業イメージを重視 求める人材を奪い合い』
〔2012-04-12 19:21〕

を見れば、企業も負担の少ない軽度の障害者を
雇用したがっていることが、
わかるだろう。
例えば企業は

「聴覚障害者ならば、耳が聞こえないだけだから」

という安直な考え方で、聴覚障害者しか
雇用しないところもあるほどです。
聴覚障害者を雇用するだけで終わりにする
のです(※)


(※)〔参考記事〕
当ブログ
『公用語が“日本手話”と“書記日本語”のカフェ』
〔2012-05-15 22:33〕


一方、ハローワーク専門援助第二部門
(障害者就労援助等をする部門)の目標は、
法定雇用率達成です。
その質ではなく、実雇用率1.8%という量を
達成することだけしか、頭の中にはないのです。
だから、その数字になるように、
障害者を企業に押し込めることだけを
考えています。
それには「クリーミング」手法がいいのは、
日本でも同じようです。
そして障害者を雇った企業には、
国をあげて報奨金(名目上は「助成金」)を
与えています。

「障害者を食いモノにしている」

とは、まさにこのことです。
その一方で、重度の盲ろう者などの就労支援
は、放置したままなのです。
今の障害者雇用は、そういう既成のシステム、
つまりクリーミングに基づいているように
思います。

これは障害者だけに限らないと思いますが、
障害者間の格差を拡大させてしまう、
不公平な施策といえると思います。


仕事に就けない重度障害者には、暗黙に

「重度障害者は、もうダメです。
あきらめたほうがいいですよ」

とでも思っているのでしょうか。
でも、そんなことは言えるわけがありません。
だから障害者差別という現実を変えるよりも、
こうしたことでできてしまった限界を放置
している、のではないでしょうか?

障害者雇用助成金制度の恩恵を受けて
いるのは、できるだけ手の掛からない
障害者だけだ、といえるのかもしれません。
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by bunbun6610 | 2012-08-28 19:21 | 哀れみはいらない

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html


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「一方、赤十字のような慈善団体はこの頃、障害者のための
雇用サービスを始めた。
また一九二一年の法律では、母子医療センターが開設され、
母子の死亡率を下げる努力が開始された。
この傾向は大恐慌後も続き、一九三五年、当時のルーズベルト
大統領が社会保障法に署名するに至る。
これで、アメリカ史上初めて、成人障害者対象の恒久的な
社会保障制度が始まった。
ポリオと闘うルーズベルト大統領をアメリカ人は賞賛し、
彼は当時、全米で最も有名な障害者だった。
彼が設立を援助した慈善団体、「硬貨の行進」への寄付は増え、
小さな子どもでさえ、大統領がホワイトハウスで運動をするための
スイミングプール建設に寄付を提供したという。

しかし、歴史家ヒュー・グレゴリー・ギャラファーの

『FDR’s Splendid Deception(フランクリン・ルーズベルトの華麗な偽り)』

によれば、ルーズベルトは自分の障害をできるだけ隠そうと
していたという。
実は歩けなかったのに、一般にはその印象を与えないよう
一生懸命努力していたというのだ。
「ルーズベルトはポリオによるマヒで少し足をひきずるようになったが、
今は直っている。
一般の人々の間ではこう思われていた。
『今は回復したかたわ』とみなされていたのだ」
テレビが今のようになる前だからこそ可能だったかもしれないが、
大統領の車椅子の姿は決して公開されず、プライベートの写真も
撮られなかった。
ルーズベルト自身と彼の息子、護衛の人たちは創意工夫を凝らし、
彼が建物から出たり入ったりする手助けをしていた。
公の立場に出なくてはならないときは息子と護衛が彼の両側に
立ち彼を支え、彼はまるで体操選手が体操用のてすりにつかまる
ようにふたりに運ばれていたに過ぎなかった。
ホワイトハウスや連邦議事堂、陸軍省、国務省、海軍のビル、
そしてラファイエット広場のむかいにある聖ジョン教会には、
当時からスロープが設置され、歩行が困難な人でも移動が
しやすかった。
ルーズベルト大統領が歩けなかったから、そして、首都ワシントンの
中でもこれらの場所に彼がよく行ったから、こんなことも可能だった
のだ。
が、法律でアクセスが広範に義務づけられるようになるまでには、
それから三〇年以上かかった。
第二次世界大戦後、連邦のリハビリ・プログラムがさらに拡張し、
戦争帰還の障害者を国ぐるみで救おうという新しい試みがみられる
ようになった。
まず一九四六年、マヒをもつ戦争帰還者アメリカ人協会が設立され、
翌四七年には、リハビリを終えた障害者を企業で雇用することを
保障する義務から、大統領直轄障害者雇用委員会が設置された。」



=================================

ルーズベルト元米大統領も障害者でしたが、隠そうとしていたようです。
当ブログでも同カテゴリーに

 『障害イコール恥という感覚』
 (2011-10-22 19:27)

という記事を掲載しましたが、元健常者だからこそ、
障害者というネガティブなイメージで他の人から見られたくない、
という感覚があったのではないか、と思います。
やはり障害というものは、初めからすぐに受容できるものではない
のだと思います。
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by bunbun6610 | 2012-07-23 20:10 | 哀れみはいらない

障害者運動

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html


「『あらゆる障害者の運動』
自立(independence, self-sufficiency)、メインストリーミング(mainstreaming)、
社会問題としての障害者問題(disability as a social problem)。
PDSPはこれらの概念を中心に発展し、障害者権利運動の最先端を担った。
この過程に気づいたのは、あらゆる障害をもつ人たちが障害者の権利を求める
闘いを共有できるということだった。
それまで障害者は、どちらかといえば各障害者別にグループをつくってばらばらに
活動しがちで、共通の目的のために何かをするということはなかった。
バークレーのこのPDSPでさえ、「身体」障害者のために設立され、
車椅子利用者によって運営されていた。
しかし、プログラムがスタートすると、視覚障害者が援助を求めてきたりして、
たとえ障害が違おうとも、自立達成に関しては共通の意識や問題を抱えていると
わかった。
だからPDSPは、介助者紹介サービスに、視覚障害者のための代読者も入れる
ようになった。
もともとロバーツの研究は、コミュニティの組織化や連合の形成による政治力の
強化だったので、こうした事実から学ぶことは大きかった。」



=======================================

この本のタイトルには「全米障害者運動」が使われており、
例えばアメリカのろう運動も書かれています。
ギャローデット大学での、ろう学生主体によるボイコット事件も
書かれています。

私は昔、障害者運動には否定的でした。
自分の中で勝手に、反社会的な運動という
イメージが先行していたためか

「それは健常者との歩み寄りにならないから」

という漠然とした理由を持っていました。
でも、今は全く違う意志によって生きています。
今までの「歩み寄り」は、まだ本当の歩み寄り
ではなかった、と思うようになりました。

私が記憶に残っている日本の障害者運動で、
30年以上も昔の、車椅子障害者が国鉄の駅に
バリアフリーのためのエレベーター設置を求める
運動があります。

今でこそ、いたる駅にエレべーターが設置されていますが、
30年ほど昔は、まだなかったのです。
その頃では

「お金がかかり過ぎるから、エレベーターの設置は難しい」

という健常者の声が、あちこちで聞かれていました。
それで車椅子障害者は駅を利用できない、電車に乗れない、
という移動手段の制限を受けていました。

これでは車椅子障害者の就労にも影響します。
今でも障害者枠の求人票には

「自力通勤が可能な者」

とか

「車での通勤不可」

とかいう条件が多いのです。
これでは能力があっても、働かせてもらうことは難しかった、
と想像に難くありません。

それに抗議したのか、車椅子障害者が集団で無理矢理、
駅ホームに強行突入しようとした事件が起こりました。
制止する駅員の腕を振り払って、それでも入ろうとしている
雑誌写真を見た記憶があります。

しかし昔の私は

「そういう、ルールを守らない行為は良くない」

と当時は思っていました。

でも、今思うと「彼らは正しかった」と思います。
彼らの行動の背景を知らなかったその頃と、
知っている今とは行動の解釈が違っています。

車椅子障害者たちの運動によって今日では、
エレベーター設置は急速に進んでいますが、
どういうわけか車椅子障害者が利用している場面は、
未だ滅多に見かけません。
実際の利用者は健常者が、お年寄り、
妊婦の方、ベビーカー利用の方などが圧倒的に多い。
なぜなのでしょうか?

私は、この恩恵自体は公平だと思っています。
ただし、私も本当のところはわかりませんが、
これで果たして車椅子障害者たちの
問題は解決したのかと言うと、
違うのではないだろうか、と感じています。

もしかしたら、車椅子障害者たちの就労が
進んでいないのかもしれません。
何か理由があるのではないでしょうか。

しかし、それでもバリアフリー・エレベーター設置は
できたのです。
日本も車椅子障害者の運動の結果、いろいろな人が、
あのバリアフリー・エレベーターを利用できる世の中に
変わりました。
それには、車椅子障害者だけの益になるのではない、
ということが、ようやく認知されてきたからなのかも
しれませんが。

車椅子障害者は他にも、聴覚障害者への支援者として、
パソコン要約筆記や手話通訳をされている場面を
見たことがあります。
他の障害者と助け合う、そうした輪が徐々に
広がりつつあります。

聴覚障害者も、情報バリアフリーなど、
他の障害者と方法は違っても本質は同じ問題点を、
ともに解決していく輪を大きくしていくため、
力を合わせていけるといい、と思います。
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by bunbun6610 | 2012-05-26 17:44 | 哀れみはいらない

自分の意志でできること

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html

「『自分の意志でできること』
当時のロバーツには、医師の言うことが間違っているとは想像もつかない。
それでは、自分の意志でできることは何もないのか。
思いついたのは、看護婦に反抗し、食事を拒否することだった。
七ヵ月後、彼の体重は六〇キロから二五キロに激減し、今までの看護婦が辞めた。
すると彼は食事を受け付け始めた。
このような行動のもつ意味を、彼自身も自覚していなかったかもしれない。
が、これは、彼にとっての最初のセルフ・エンパワーメント(Self-empowerment)
の行動(訳注:自分で決めて自分で行動することで、自分に自信をつける行動。
マイノリティや心に傷を負った人たちが、自信を回復し、自己主張をするために
必要ともいわれる)だったといえる。
「救いようのないかたわ」でも、いつ何を食べるかについては他の誰も僕には
命令できないよ。
自分で決めることなんだ。
こう主張したかったのではないか。」


========================================

エド・ロバーツ

重度身体障害者であったエド・ロバーツ(米国)。
今日の障害者自立支援センターの考え方に影響を与え、
ピア・カウンセリングの世界でも有名な障害者です。

障害者の自己決定を表した、この話は当ブログ

 『障害者には自己決定などできない』(2012-03-04 18:01)

とは反対です。

障害者は「自己決定ができない」のではない。
障害者は「自己決定権がない」のではない。

健常者が障害者の自己決定権を奪ってきた結果なのだ。
健常者は間違っている。
健常者のやり方は、障害者への間接的人権侵害だ。
だから障害者は、健常者に遠慮する必要なんかないのだ。
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by bunbun6610 | 2012-05-13 18:51 | 哀れみはいらない

『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)

 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185

(参考)臼井久実子
 →http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020529-1.html


「『税金を支払う立場になりたい』
私は考える。
障害者差別の最大の問題はこのような裁判闘争より、日常茶飯事に
潜んでいるかもしれないと。
たとえば、1985年のハリス統計によれば、障害者の実際の
就職率はたった三分の一だ。
残りの三分の二は仕事をこなす能力や資格もあり、就職を希望しているのに、
雇用時の障害者に対する差別や交通手段におけるアクセスの欠如のため、
働けないという。

全米障害者評議会(the National Council on the Disability)」
のサンドラ・スイフト・パリノは言う。
障害者は
「働きたくて働きたくてしょうがないし、働ける力も十分もっている」。
職種の範囲が狭まることはあるが、企業側が障害者を雇いたくないと
思っていたり、障害者のニーズにあわせて環境整備をしないことの
ほうが現実には多い。


失業中の障害者は連邦政府から障害年金を受給しているが、
これは年間六千億ドルにもなる。

医療費やリハビリ費用、直接現金を生むような生産的活動をしていない
ことを社会のコストとして含めれば、障害者は毎年、
国に約一万七千億ドル支出させているという計算が成り立つ。

「障害者は生産性を高め、税金を支払う立場になりたいと
願っているのに、国はこの人たちを社会保障に依存させている。
こんなばかげた話はない」


大統領直轄障害者雇用委員会
(the President’s Committee on Employment of People with
Disabilities)
の前議長ジェイ・ロシュリンは言う。
が、障害者を雇わないと現実に公言する企業はめったにない。

ポール・スティーブン・ミラーの例をみてみよう。
彼自身は、「背が低い」と言われる方を好むが、
小人症という障害をもっている。

彼は1986年、ハーバード・ロースクール
(訳注:日本の大学院に相当する法学研究科)
をトップの成績で卒業した。
問題は卒業後だ。

同級生はつぎつぎに有名会社に就職しているのに、彼にはどこからも
声がかからなかった。
すでに四十もの法律事務所に面接していたにもかかわらずだ。
しかも誰も不採用の理由をはっきりと説明してくれない。

フィラデルフィアのある法律事務所の弁護士がようやくこう言った。

ミラーの業績自体には非常によい印象をもっているが、
彼を雇った場合不安だ。

もし外部のお客さんが社を訪ねてきて廊下でミラーの姿を見たら、
「この会社はサーカスで奇形を集めているのか」
と思われるかもしれない。
それは困るというのだった。

ミラーは現在、ロサンゼルスにあるウエスタン障害者権利法律センターで
働いている。」




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『就労前の聴覚障害者問題』では、
聴覚障害者は見た目だけでは、
不利を受けることはないと思われます。
障害者雇用どころか、難聴者には自分の障害を隠して、
一般枠で就職している人もたくさんいます。
とはいえ、企業側は、聴覚障害者の本当の問題点を
知らなかったから、就職できやすかっただけの話なのだが。
聴覚障害者の方も、何と言っても生活のために就職することが
大事なのだから、この問題を言わないし、隠したがります。

しかし、他の障害者のなかには就職困難な人もいます。
健常者は、見た目で障害者の障害を判断する場合が少なからずある、
からです。

これは、当ブログ・カテゴリー『障害者の経済学』とも
関連の深い話です。
もしも、国にこのような障害者対象の支出費用を調査させたとしたら、
どういう結果になるだろうか。
原発と同じように、障害者福祉コストを背負い続けるという、
高コスト問題はありえるだろう。

障害者問題など、誰も相手にしていないから、
国民も全く知らないのだろう。
「障害者イコールお荷物」という考え方は、
もしかしたら健常者の考え方が間違っているせいかもしれないのに。

障害者の経済的社会的自立は、
障害者のほうだけにメリットがあるのではありません。
社会全体にとっても、プラスになるのです。
それが『障害者の経済学』の主張の一つになっている、
と思います。

障害者に最も必要なのは、
24時間テレビなどがやっている慈善的支援ではない。
彼ら自身の真の自立への、支援なのです。
それが障害者を、精神的にも自立させることになる。
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by bunbun6610 | 2012-04-18 19:04 | 哀れみはいらない