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「愛の反対は憎しみではなく、無関心」

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」


有名な、マザー・テレサ(ノーベル平和賞受賞者)の言葉だ。
誰よりも平和と慈しみの世界を望んでいた彼女が、

愛の反対は憎しみではなく、無関心

と言ったのである。
憎しみよりも無関心のほうが、愛からはるかに
遠く離れている
、というのだ。

では、今いる多くの、無関心になっている人々には、
愛がないのだろうか。
彼女のこの言葉はまるで、無関心な人たちだけでなく、
憎しみを持っている人たちにも、
何らかの温かいメッセージを送っているように思えてならない。

というのは先日、犬養道子氏が亡くなられた。
私は昔、氏の『旧約聖書物語』『新約聖書物語』を読んで、
非常に感動した記憶がある。
旧約ではとにかく神の、イスラエルの民への聾愛ぶりが
強烈であった一方、民が神を裏切るような行為があれば、
神の怒りも物凄かった。
神との契約とは、そういうものだと知った。
だから愛と憎しみは、表裏一体のようにも思えた。

ところが、無関心は違う。
旧約に登場する神はイスラエル以外の人々に対しては、
無関心だったかもしれない。
無関心は恩恵も怒りも買うことがないが、果たしていいことなのか。
それは、大人が子どもを教育しないのと同じではないか。


昨日、植松聖容疑者の姿が、テレビに映っていた。
内容はわからない。

障害者に無関心な人々には愛も罪もないとされる一方、
障害者に関心を持ち、自分なりに考えた結果、
障害者を憎んで惨殺した植松のほうは、
何でああいうことになったのか。

植松の行為を容認することはできない。
だが私自身、障害者であり、自殺を考えたことは
何度もある。
安楽死を望んでいる障害者だ。
誰も恐怖を味わい、苦しんで死にたいとは思わない。
だが、死にたいとは思っている。

「死んだほうがマシだ」

というのは、ひどい考えかもしれないが、
それでも障害者の心を見た結果なのかもしれない。
そう思うと、植松は決して、障害者の「真の敵」だとは
思えない。
植松には、マザー・テレサの言葉の意味を是非、
よく考えて欲しい。

こんなことを言ったら、殺された障害者やその仲間、
遺族に申し訳ないかもしれない。
だが、植松だけが悪いのではないとわかるのである。
この事件の背景にあるのは、植松という人間を
つくり出した、日本社会の闇、障害者福祉の闇だろう。

憎しみを振りかざす人は裁かれ、無関心な人は
裁かれない。
こんなことが許されているのが、今の人間社会だと思った。

「知らぬが仏」という言葉もあるが、職場でもまさに、
こういう状態であるのだから、企業の腐敗も止まらないのだ。
by bunbun6610 | 2017-07-25 14:34 | マザー・テレサ(ノーベル平和賞)

ある障害者から見た世界


by bunbun6610