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抑止力としての障害

バリバラ特集ドラマ『悪夢』
(主演;ハウス加賀谷〔松本ハウス〕)

〔2014年12月5日21:00~放送〕

http://www.nhk.or.jp/baribara/special/akumu.html



このドラマには、

「食べれば、どんな障害でも治る果実」

が出てくる。

おそらく、どの障害者にも

「もし、この障害が治せるならば・・・」

と思ったことがあるだろう。

それを食べれば、どんな障害でも治ってしまう
のだという。
ただし、それは自分のそれまでの過去の記憶と
引き換えになるのだという。

健常者になれるが、食べる前にあった記憶も全部
失う、ということだ。
障害者としての、自分の過去は消えるのだ。
だから、その過去へ戻りたいとも思わないだろう。

これは障害者にとっては、極めて現実的な話かも
しれない。
「記憶を失う」とは大げさでも、本当に怪我と
同じように障害も治ってしまったなら、
障害のことも忘れてしまうに違いない。
健康の有難さ、病気も怪我も、治った後に忘れる、
と健康な人も言うくらいだから。

その果実を渡されたのは、統合失調症という障害を
持つ真(まこと)である。
真は『健常者お断り』という不思議なラウンジで
知り合った障害者から

「食べるか、食べないか」

についての、各人各様の意志を聞く。
これはテレビドラマだから、その言葉が本音なのか
どうかは、私は知らない。

「食べる」と答えた障害者の気持ちも、
「食べない」と答えた障害者の気持ちも、
どちらもよく分かる。

注目すべきなのは

「自分がもしまだ少年だとか、若かったならば、
食べていたかもしれない」

という玉木さんだが、年齢を重ねた障害者ほど
「食べない」を選択するようにと、変わってくる。

つまり「障害の受容」には誰もが、それなりの時間が
かかるものだ、という点も見逃せないだろう。



ヘレン・ケラーは“三重苦”のうち、どれか一つだけ
治せるならば

「耳が欲しい」

と言ったそうな。
おそらく、耳が聞こえるようになるだけでも、
随分変わるだろう。
もし、耳が聞こえていたら、あるいは幼少期から
耳が聞こえるようになったならば、サリバン先生や
ベル博士との出会いはなかっただろう。
耳が聞こえるようになったらやりたいことがたくさん
できて、ベル博士との友情も、あれほど育たなかった
かもしれない。
あの記憶が体験後も、ヘレンにとって大切だったのは
間違いない。



『哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡』
(著者: ジョセフ・P. シャピロ /現代書館)


 →http://booklog.jp/users/miyamatsuoka/archives/4768434185


では、次のような話がある。

「ギャローデット大学の巨漢でカナダ出身の
フットボール選手、ジョン・リムニディスは、
映画『愛は静けさの中に』で端役を
演じたこともあるろう者だが、こう言う。

「耳が聴こえないことは障害ではありません。
むしろ文化です。
手話は別の言語です。
私は、耳が聴こえないことを誇りに思っています。
もし万が一耳が聴こえるようになる薬があっても、
決して飲まないでしょうね。
決して、決してね。
死ぬまで絶対飲みませんよ。」


これは、ろう者であることを誇りに思っている事例だ。



盲ろう者の福島智氏は、次のように話しているそうだ。

涜書録
『『ゆびさきの宇宙 福島智・盲聾を生きて』生井久美子』

〔2010/5/17(月) 午後 6:15〕

http://blogs.yahoo.co.jp/okia37/32616106.html


いずれも、障害を必ずしも、自分自身にとっては
負のものとは受け止めていないようだし、
むしろ障害を自己のアイデンティティとして、
しっかりと取り入れている、と思う。
彼らにとっては、障害も自分の一部だからだろう。

でも私は、障害も、その記憶を捨ててでも、
生まれ変わりたい、と思う。
そして健常者として、自分がやりたいことを
思い切ってやりたい、と思う。
障害者とすれ違っても、そんなヤツは無視して、
差別もして、ただ自分のやりたいことだけに
没頭するだろう。
それが“健常者の特権”だから。

「それを手に入れたい」

と思っている私がいる。

自由に生きる権利を、自由に使いたい。
この世で生まれたからには欲望と快楽を、
もっと追求したい。
そう思っている自分が、自分の心の中にいる。

だが、障害者としての人生を経験してしまった、
もう一人の自分がいる。
その両者が、自分の心の中で戦っているのだろう。
そして、それが苦しみとなって、自分に顕れている
のかもしれない。

このブログで情緒不安定が露呈しているのは、
そのためだろう。
下手をすると、今流行の“イスラム国”に
傾倒しかねない。

つまり、自分の心の中に神と悪魔がいて、
戦っているようなものだ。
自分はそのどちらでもない。
しかし、自分がそのどちらかに加勢することは
できるだろう。

ただし、加勢したほうに、自分は従わなければ
ならないのかもしれない。
どちらかにつけば、結局、
どちらかに支配されてしまうに違いない。

今、強いのは悪魔のほうだ。
その悪魔は「おまえも食べろ」と言っている。
しかし、弱い神のほうは、何も語らない。
私の心は、食べたいほうへ大きく傾いている。
この世の勝者になりたいのなら、
食べるが勝ちなのだとわかっている。

けれども

「それが、自分の進むべき道なのか」

という、迷いも続く。


高校の時、国語の教科書で、矢内原伊作の
『自己について』(確か、こんな表題)という
著作を読んだことがある。

そこにある、最後の言葉(結論)は

「自己を棄てる者こそ、自己を獲得する」

だった。

これはキリスト教の

「一粒の麦もし死なずば・・・。」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1132891496

と、共通点があるようだ。

「自己」とは、一体何か?
それをどう考えるかで「障害が治る果実」を
食べるか食べないかの答えが出る、と思う。

玉木さんが「正解はない」と話していたが、
その通りだと思う。


私は、小学校の教科書で読んだ『杜子春』
(芥川龍之介)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html


がとても好きだ。
この小説に、私の答えがある。


障害という、この世にあるもの、そして自分自身
にもある弱さは、自己抑制力にもなっている。

正直に言って

「『聴覚障害』なんてもう踏み潰してやりたい」

と思う毎日だ。
だが、それを踏み潰したら、
もう弱さを認めようとする、
今までの自分ではなくなる気がする。




抑止力としての障害_a0196876_1935529.jpg

by bunbun6610 | 2014-12-23 18:30 | Eテレ『バリバラ』

ある障害者から見た世界


by bunbun6610