異なる存在での共存

当ブログで以前、小山内美智子氏の著書を紹介したことがある。


『『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』(2/2)』
〔2013-09-16 19:00〕



「どうしてもおねしょがなおらない女の子がいた。
どうしておねしょをするんだろうと、みんなで考えると、
実は、その子は夜中に、

『おしっこ、おしっこ』

と小さな声で叫んでいることがわかった。
職員はずっと離れた職員室にいるので、
その声が届くはずがない。
いまのように、ブザーもなかった。

彼女はがまんできなくてその場でおしっこを
してしまうほかなくなり、朝、職員にみつかって
お尻をたたかれたり、寒い戸外に出されたり
してしまうのだ。

そこでみんなで話し合って、当番を決めることにした。
当番とその子の手を紐でつなぎ、おしっこをしたく
なったら、紐をひっぱって当番を起こすことにした
のである。
そして起こされた当番が職員を呼びにいく。

ところが、他の子どもたちも、昼間の訓練や勉強、
掃除、洗濯で疲れているから、紐をひっぱられても
起きられない。
私も、最初のうちは起きていたけれど、そのうち、
いくら『おしっこ、おしっこ』と言われても、
もうおしっこなんてしてもいいや、眠いんだから、
というふうになってしまった。

次の日、やっぱりおねしょをしているのがみつかって、
職員にお尻をたたかれたり、どなられる。
それをみているのは、自分がそうされているのと
同じようにつらかった。

もう一度、みんなで考えて、疲れていない子が
めんどうをみることにしたら、うまくいくようになった
のである。」





笑うに笑えない、この話。

難聴者の精神的苦しみとも似ている。
ただ、おねしょは見える事象であるのに対し、
難聴は見えないので、健聴者は気づかない。
そこがやはり、違う。


私も昔、宇佐木というニックネームを持った
健聴者と、親しくなったことがある。
健聴者にしては珍しく、私の難聴のことも
よく理解していて、積極的に筆談してくれた
ものだ。
私も筆談で応じて、二人で何時間も、
静寂の世界で筆談をしたものだった。

これは、普通の健聴者ならば、
耐えられない状況だっただろう。

しかし、コミュニケーション障害のある
私にとっては、それは貴重なコミュニケーション
体験であり、当然、その後の自分の人生に
大きな影響を与えるものだった。

しかし、それも、宇佐木のある一言によって、
あっけなく終わってしまった。


ある日、いつものように私が宇佐木のアパート
へ行き、筆談で話していると、宇佐木にその友人
から電話がかかってきた。
その電話で、宇佐木は友人と、何か約束をしたらしい。

それから1時間ほどして、宇佐木の友人がやって
来たのだった。
すると、すぐに宇佐木とその友人との、音声会話が
始まった。
それまでの、私と宇佐木との筆談の時間は、
その静寂の世界は、一気に破られてしまった。

そして宇佐木は気分モードが変わったように

「お前、いつまでいるんだよ?」

と言った。

それからはもう、二度と筆談の世界が戻ってくる
ことはなかった。

私は、自分の居場所がなくなったと思い、自分から

「今日はこれで帰ります」

と言って、出ていった。

宇佐木とその友人は、大して気にしていない様子で、
手を軽く振った。

それが、宇佐木と私との、最後となった。


筆談の世界に音声世界が入り込むと、
もう筆談は決して続かなくなってしまう。
難聴者にとっては大事なコミュニケーション手段でも、
健聴者にしてみれば

「(筆談なんか)もうどうでもいいや」

となってしまうのである。

難聴者にやさしい世界とは、ガラスのような、
もろい世界なのだと知った。
そんな世界を頼りにしていなければコミュニケーション
ができないのが、手話もできない難聴者の世界だった。

まるで難聴者は、この世界では“永遠の異邦人”
として生きねばならぬようだった。

健聴者にもろう者にも、この孤独はわからないだろう。
難聴者の気持ちは、難聴者にしか、わからない。
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by bunbun6610 | 2014-10-28 18:30 | 難聴・中途失聴
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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610
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