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蒼穹 -そうきゅう-

音声言語世界の中で生きる、ろう者の現実と、手話が持つ可能性

実は、これを観たくて、当日は会場に向かったのだけれども、
途中で道がわからなくなってしまって時間が過ぎ、
諦めた。
そういう事情があって観れなかったのだが、
調べたら資料があった。


『ろう者学セミナー - D PRO ~日本手話とろう文化の尊重~』



『D資料室
ろう者学セミナー「声の支配 ~ろう者にとって声とは~」
報告書(2011年6月25日)
「声の支配」報告書/20110625.pdf』






上のセミナーを実際に見た健聴者(手話通訳者)の感想もあった。



『キラキラ しゅわな空☆』


『ろう者学セミナー6月☆』
〔2011/06/26 00:53〕



『6月ろう者学セミナーについて 続き☆』
〔2011/06/28 11:53〕



『声のパワー☆』
〔2011/06/30 23:43〕





以下は『ろう者学セミナー「声の支配 ~ろう者にとって声とは~」報告書』
を読んで、思ったことを書く。




〔K氏〕(4~10ページ)

K氏が「歩み寄り」について話している。
本当に、私も健聴者の考え方に対し、非常に疑問に思った
体験がある。


例えば、ろう者を雇用していた会社での話だ。
上司は手話ができる健聴者だったが、
会社の飲み会でこんなことを言っていた。

「ろう者は手話も声も出せるけれども、健聴者は手話ができない
人もいる。
だから、ろう者の皆さんも、声を出して手話を話してください」

その時は、一見もっともな話に思えた。

しかし、手話ができない健聴者は、筆談のためのメモ帳とペンを
持っていても、全く使わないで、健聴者とばかり話していた。

結局、それでろう者と私も、手話だけで話すようになっていった。
飲み会が終わった後で、このことについて注意を受けた。
上司は、健聴者にも同様のことを、フェアに伝えたのだろうが、
やっぱりその後も、何も変わらなかった。
「心の壁」があることはわかっていても、それを取り除くことは
容易でなかったのだ。

このようなことは、聴覚障害者なら誰にでも、随分と経験がある
ことだろう。
飲み会では自由な雰囲気を大事にするので、ルール的なことは
強制できない。
しかし、健聴者とろう者とではルールが違うために、やはりこういう
ことになりやすいものだ。

健聴者は

「手話はわからないから」

と言う。
しかし、その異文化を理解しようとする行為が重要な一歩だと
いうことに、気づかなくてはならない。
ろう者が幾ら声と手話を一緒に使う努力をしても、健聴者が
それを理解し、異文化を受け入れなかったら、こちらだって、
やるのがバカバカしくなってしまうだろう。



『健聴者も聴覚障害者を理解しようとするには、勇気が必要』
〔2012-02-07 22:54〕




手話の違いもあり、そもそも飲み会のようなフランクな場では、
声出し手話(日本語対応手話)は、心から楽しむためには
ネックになることもある。

手話講習会での手話講師も、教室の講習中の手話と、
終わった後の飲み会での手話は違うというのを、
健聴者も知っていると思う。
健聴者がそれを見て

「教えられた手話とは違う」

と、よく言う。
そのはずで、ろう者も

「飲み会では、サークルの学習会や講習会で教えた
通りにはやらない」

と言う。

だから健聴者は

「その手話を教えた意味がないではないか」

と言う。

要するに、手話講習会で教えている手話は、
ろう者本来の手話とは違う、というわけだろう。
ろう者は、そのことをわかっている。
ところが、健聴者はそれをわかっていなかった。
それで、こういう話になる。

ろう者と中途失聴者、難聴者も、ろう者とはあまり一緒に
飲み会をやらなかったり、団体が別だというのも、こういう
理由がある。
つまり、文化等の違いを大きな理由としている。


以前に、大人の難聴者に聞いたことがある。

「手話通訳は、ろう者に合わせた日本手話ではなく、
難聴者に合わせた日本語対応手話がいい」

これはつまり、その手話通訳を見ていても、頭の中で日本語に
訳して理解していて、「だからこの手話のほうがいい」ということ
だからだ。

しかし、ろう者の場合は違う。
日本語対応手話を、頭の中で日本手話に訳さなくては、
正確な意味を理解できないらしいのだ。

当ブログにも、この事例がある。


『職場における、ろう者への手話通訳の問題点』
〔2012-02-03 00:12〕






〔T氏〕(11~17ページ)

そして、T氏の「声のパワーに負けてしまう」という話。

何人ものろう者が

「声の世界に、自己のアイデンティティが押しつぶされてきた」

というような体験談を、率直に話している。
この点は、中途失聴者や難聴者でも、あまり相違ないと思う。

このことを正直に打ち明けるようになってきたということは

「時代も、いよいよ変わってきたな」

と感じさせられる。

私もこのブログで、似たようなことをぶちまけてきたが、
ブログは、そこを開いたら誰でも見てしまうものなので、
なかには衝撃を受けた健聴者、難聴者等もいると思う。



私もろう者から

「もう、声を出すのをやめたら?」

とアドバイスを言われたことがある。
本当に「そうしたほうがいい」と思っている。

でも、できるわけがない。
突然、職場の皆に

「私はもう、声を出すことをやめさせてもらいます」

なんて言ったところで、健聴者は承知するだろうか。
そんなことをすれば、段々と面倒がられ、
次第に

「もういいから、前のように声を出せ」

という圧力をかけられるに決まっている。
それに、そんなことをすれば「偽ろう者」だと
言われたりすると思う。
だから、それもそれで、厄介なことになりやすい。

このセミナーの、棚田氏の話でもあったように、
健聴者には声がなければ困るのだ。
ちょうど、ろう者には手話がなければ困るのと同じように。

やはり、これも「声の世界特有のパワー」だ。
私も、それに負けてしまう。


下の記事を覚えている人も、いるかもしれない。


『コミュニケーションは、人間が生きるために必要なもの』
〔2012-02-18 01:19〕



『手話を学ぶ「はじめの一歩」は、聴こえない体験からしてみよう』
〔2012-01-08 23:5〕




だから根源的な答えは、やはりコミュニケーションなのだろう。
その方法が違っているだけで、相互理解しないことが問題なのだ。

旧約聖書にある「バベルの塔」の話と同じだ。
あの話は、信者の間では

「言語が通じなくなったからではなくて、わがままになって
いったから、彼らは建設の途中で分散していった」

と解釈する人もいるらしい。



これも以前のことだが、たましろの郷のフェスタ準備で、
こんなことがあった。
運営委員のろう者が、説明会を始めた。
ところが、途中である健聴者ボランティアを見て

「こっちを見て、ほらほら!」

と日本手話で呼びかけていた。
しかし、その健聴者は全然見ていないので、気がつかない。
このままでは、説明会が進まず、時間が過ぎていく。
しようがないからろう者は机を叩いて、手話で呼ぶ。
それでも、その健聴者は資料を見たり、他人と声で話したり
していたので

「無視しているんじゃないだろうか」

と思うようになったようだ。

その健聴者は、要するに、手話がわからないのでは
なくて、ろう者社会の常識を全く知らなかったのだろう。
健聴者ボランティアは、手話での説明会の最中に、
声で平気でしゃべっていた。
(ろう者だって、健聴者社会の中では、声での説明中に
平気で手話で話すこともあるが)

その時のろう者は、もう完全に怒っていた。

T氏の話にある「罰金制にした」という話は、
当然だと思う。
実効性あるルールにしなかったら、混沌とした社会に
なってしまうだろう。
障害者への合理的配慮義務にも、罰則のある障害者
差別禁止法をつくるべきなのである。





〔N氏〕(18~20ページ)




〔F氏〕(21~25ページ)

当ブログでも、老若男女問わず、ろう者が
「声や読話で失敗した話」はたくさん紹介している。


『ろう者の「聞こえるフリ」と「わかりました」と言う癖』
〔2012-09-14 18:30〕



『ろう者との会話 -職場の飲み会で、話が全然合わなかった例』
〔2012-09-12 18:30〕



『職場で、聴覚障害をごまかしたツケ』
〔2012-09-14 19:00〕



『ろう者の読話自信過剰は、失敗を招く』
〔2012-09-27 18:30〕



『ろう者の「やせ我慢」』
〔2012-09-15 22:00〕



『2日で職場放棄してしまった、ろう者』
〔2010-01-09 18:00〕






〔質疑応答〕(26~31ページ)

質疑応答では、手話歌についても、率直な感想を言っている。
私も知っていたとはいえ、ここまでハッキリ言っているのは、
初めて目にする。


K氏の

「声出し日本語対応手話をしているろう者が、
日本手話を蔑視し始めている」

という、ろう学校内での衝撃的な話もあった。
昔から手話を使わない中途失聴者、難聴者までやっていた、
手話蔑視と同じことをし始めたようだ。
ろう学校の教師の、大人としての正しい見方を
持つことが急務だと思った。

それから、私も「きいろぐみ」の手話歌を実際に
見たことがあるが、彼らの手話歌を見ても、
印象に残らなかった。

しかし、ビデオで観た、外国のろう者が見せた
手話詩は、とても印象的だった。
何度も思い出したくなるほどに。


「きいろぐみ」所属のメンバーのろう者と同じ会社で
働いたこともあったが、そのろう者は一年ほどで、
会社を辞めてしまった。

その時、そのろう者は補聴器装用、声を出して
コミュニケーションをしていたので

「障害程度が軽いから、職場にもうまく適応できている
んだな」

と思っていたのだが・・・。

当時、健聴者に手話ができる人はいなかったし、
結局、何も変わることなく、そのろう者だけが辞めて
いった。

反対に、同じ職場にいた、声を出さないろう者のほうは、
随分と長く残っていた。
そのうちに、手話を覚えてくれる健聴者も出てきた。
そして、なかには手話通訳者も誕生した。

私も、その頃から自分の聴力低下のためもあったが、
挫折した手話習得を再び始めて、手話を覚えていった。

そうした影響力をろう者が持つことは、大きな意味がある。




ろう者でも、手話のわからない健聴者や難聴者のいる
前では「声出し手話を使ってほしい」という要望がある
のは、自然と言えば自然だと思う。
その場に読み取り通訳がいなかったら、日本手話で
発言されてもわからない人がいるからだ。

会社でも健聴者は、ろう者同士が日本手話で話すこと
をよく思わない人がいる。

「ろう者同士が何を話しているのか、わからないから」

だと言う。
だから

「声出しで手話をすれば、手話の使用も認める」

と健聴者は考えていた。
その健聴者は、声出し手話と、ろう者本来の手話は
違うということを知らない。
それで、見えないところで摩擦が起きてしまっている
のだろう。
互いの理解が足りないことが原因だろう。
手話通訳者がいれば、この限りではない。
だが、手話通訳者の派遣を認めない会社がほとんど
なのである。


手話サークルとろう協との合同交流会準備委員会の
会議でも、こういうこと、不満がよく起こる。
手話がわからない人からすると、当然なのだろう。
それでも「頑張って読み取ってほしい」というのは、
情報保障なしで参加させられているのと同じで、
その辛さはどんな聴覚障害者にだって、わかると思う。

各人のレポートを聴いてみて(読んでみて)、総合的に
判断すると、私にはやはり

「双方とも、まだまだ心の壁があるのではないだろうか」

という感想になる。
歩み寄りは大切だが、その方法が、双方にフィットして
いないのではないだろうか。





〔特別講演 澁谷智子先生〕(32~40ページ)


「ろうの声を聞くと、聴者は聴者の声との違いに気付いて、

「あ、相手はろう者なんだ」

と認識します。
だから、相手が聞こえないことへの配慮を心がけるように
なります。

しかし、その声が聴者の声とかなり違っていると感じる
ことは、聴者が相手を「障害者」と意識することにも
つながっています。

一方、ろう者の話す声が聴者の声に近い場合は、
聴者は相手がろう者であることを忘れ、相手を聴者として
見てしまいます。
そのろう者が声を出して話せば、聴者も当然、声で答えます。
話のリズムやスピードなども、相手と同じように返します。
ろう者がゆっくり話せば、聴者もゆっくり話しますが、ろう者が
普通のスピードで話せば、聴者もそれに合わせて普通の
スピードで話します。
コミュニケーションにおいては、相手と同じスピードで話すのが
自然だからです。

次に、聴者は、声を出さないろう者に対しては、どう反応するか
を考えたいと思います。

ろう者が声を出さずに手話で話しかけると、聴者は緊張します。
声がないということが、相手が聞こえない人であることを意識
させるからです。

「手話が分からない、どうしよう。」

と考えるわけですね。
でも、声を出さずに話しかけられれば、聴者はたとえ手話が
わからなくても、指さしとか身振りなどを使って、なんとか視覚的
に表現しようとします。
声がない人に対しては、それに合わせて、視覚的に返そうとする
意識が働くからです。

社会心理学の研究では、人と人とのコミュニケーションに
おいては、お互いが影響を与え合うという研究報告があります。
つまり、発言の量や、沈黙時間、イントネーション、アクセント、
声の大きさ、発話のスピードなどが相手に似てくるということ
なんですね。

この研究は、聴者についての研究ですが、私は、これはろう者
と聴者のコミュニケーションにも当てはまるのではないかと
思っています。」(P37~38)





「健聴者は声を聴いて、その聴覚障害者の
障害レベルを識別する」

という傾向は、以前の佐村河内氏事件でもあった。

『聴覚障害者でも、しゃべれる人がいる理由①』
〔2014-03-14 18:30〕

(文中の『偽者ですね』を参照。)

難聴者や中途失聴者の場合は、声が健聴者と
全く変わらない人も少なくない。

そういう人は、聴覚障害者だとは思われない。
言えば逆に

「本当に聴覚障害者なの?」

と疑われ、面倒なことになってしまう場合も、
しばしばである。

たとえ、それは了承してくれたところでも、
配慮が得られないことはしばしばある

よって、澁谷氏の言うことが証明されている。
ろう者だけでなく、聴覚障害者について広く研究すると、
こういうことが見えてくる。

だから、発声が上手なろう者がいたとすると、
難聴者や中途失聴者と同じような目に遭い、
苦しむだろう。


ろう者からも、その親からも

「何のための、発声訓練だったのか?」

と疑問に持たれるだろう。

私見を言わせてもらえるなら、発声訓練が悪いとは
言えない。
それだけによる、国の偏った対策が問題なのだ。
聴覚だけに限ったことではなく、健常者が障害者
だけにバリア克服への努力を押しつけたことが、
一番の問題なのである。
国連・障害者権利条約では、これも“差別”としている。

とはいえ、社会はすぐに、そう簡単に変われるものでもない。
当分は「声(発声訓練)はまだ必要」という論が続くだろう。


最後の方に、澁谷氏から問題解決方法のヒントを
提示している。
ろう者だけでなく、中途失聴者や難聴者にも、
参考になると思う。

澁谷氏の言われる「パラ言語」というのが、
インターネットで調べてみたら、たとえば次のような
ものがあった。



『今話題のパラ言語とは?特性と情報を学ぶ。 [時事]』
〔2013-05-04 16:14 〕



『《9つの非言語メディア》 周辺言語① 舞台芸術とパラ言語と非言語と』
〔2011年8月13日 (土)〕




『話し言葉が伝えるものとは、結局何なのか?
—概念の整理および課題—
森 大毅(宇都宮大学大学院工学研究科)』





ちなみに、私の場合は、補聴器も声も読話も使う。
通訳・情報保障機器も使うし、筆談も使う。
その時に、使えそうなものは何でも使う。
手話も、使える状況ならば使う。

なかでも、推測力はかなり使っている。
“オウム返しのマジック”というテクニックで。
これは、声と視覚と推測力のセットだ。

このように、複数の方法を最大限に用いるのが、
健聴者とはやや異なる、聴覚障害者の特徴だろう。
だから、推測に役立つ材料を、視覚情報からや、
音の記憶の引き出しなどからも、すぐに探す癖がある。

この広さの点では、ろう者よりも、中途失聴者などに
多く見られる特徴かもしれない。

このブログでも、過去記事の引用が少なくないが、
それも記憶力からだ。
最も使うのは、視覚という感覚だが、その情報をもとに、
脳の中にある引き出し、そして推測力を使うのだ。

が、それでも、今のスタンスは変わらない。
どうしてもわからなければ、きちんと筆談の配慮を
お願いするし、それでもし、相手が配慮できなかったら、
こちらも無視するなど、やむをえない対応を取らざる
をえなくなる。
それで“対等関係”だと思っている。
お互い、恨みっこなしにする。
(しかし、問題点は問題点として、当ブログで取り上げるが)

「目には目、歯には歯」「報復」「逆差別」と受け
取られても仕方がないが、そのやり方を通している。

感心しないやり方だが、自分も超攻撃的な性格なので、
力づくで知略を出すやり方なのだ。
そうでもしないと、この世を生きていくことは
難しかった、と思っている。


『バカがいつまでも聴覚障害者差別をしている時代に』
〔2013-04-03 18:00〕



『補聴器と発声訓練が、聴覚障害者にもたらしたものとは――。』
〔2014-06-17 18:30〕



『筆談しない上司との人間関係』
〔2014-06-23 18:30〕



終わりの『ろう者学セミナーのまとめ(棚田茂)』
(41~42ページ)も、難聴者にとっても、
有意義な話だと思う。

「ろう者であること」と同様に、難聴者は
「難聴者であること」を考えることが、
その苦しみから自己を解放することにつながる
のではないだろうか。
誰か救ってくれる人が現れるのを待つのではなく、
自分からもアクションを起こさなくてはならない。

勿論、難聴者の場合は、声は使って構わない。
ただし、コミュニケーションは注意深くすることだ。
でないと、また愚かな健聴者どもに飲まれてしまうぞ。

そういう意味でも、ろう者からも刺激を受けてほしい。




〔参考情報〕


『第8回 『手話の世界を訪ねよう』文化人類学者 亀井伸孝氏
- 風 - 新書マップ』




平成18年度
コミュニケーション・スキル
テキスト 棚田 茂
〔立正大学社会福祉学部 2006 年3 月30 日〕


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by bunbun6610 | 2014-08-25 18:30 | 聴覚障害