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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

手話パフォーマンスをどう思うか?

初めに誤解のないようにするためにも、言っておこう。

「勿論、手話歌やダンスが好きな聴覚障害者だっているし、
その意見を無視してはいけない」

この稿はあくまでも、私が思ったことを書いているだけに過ぎない。

昨年の24時間テレビでも、都内のろう学校の協力で
タップダンスがテレビ放映されたが、今の若い聴覚障害者
のなかには、音楽に合わせてやるパフォーマンスが好きな人も、
増えているようだ。


『今年の24時間テレビを観て』
〔2013-09-22 18:00〕




『何のための手話パフォーマンス?』 
手話パフォーマー/通訳士~南 瑠霞(るるか)の手話日記
〔2014年04月12日〕



以下は、『何のための手話パフォーマンス?』を読んで思ったことである。

きっかけとなったのが、下の質問のようである。


>「保育園などで、先生方が、
手話の歌の本を見ただけで、中身を正しく理解しないまま、
(間違った手話などを)子供たちに教えているケースが、
増えているように思います。
これについて、みなさんは、どう思われますか?」



この質問者は、どういう人なのかわからないし、
質問自体も漠然としたもので、何を聞きたいのか
よくわからない。
健聴者なのか、それとも聴覚障害者なのか?
聴覚障害者なら、どんな人なのだろうか?
ろう者としての質問なのだろうか?

(実は、私も以前、難聴者や中途失聴者に手話を
教えようとしたところ、ろう協(聴覚障害者協会)
側の人から

「間違った手話が広まると困るから」

と言われたことがある。)


また、質問自体に関して言えば、例えば


「手話歌に使われている手話も、手話ですか?」

とか

「手話歌を観るろう者にとって、それはどんなものだと
感じますか?」

とか、人により、いろいろな捉え方があるだろう。

であるから、回答も人により、いろいろになるだろう。
もっと明確な質問にしたならば、それに対する答えが
えられやすいのではないか、と思う。

南氏の調査結果によれば、回答者は手話パフォーマンスが
好きか嫌いか、という方向に分かれ、それはだいたい半々
のようだ。

しかし、これだって、調査対象の人がどういう人
(ろう者、中途失聴者、難聴者、あるいは健聴者も?)
で構成されているかによって、結果の数値は変わるはずだ。
だから、半々という結果を、そのまま受け入れてしまうこと
には危険性もある。

また「手話歌をどう思うか?」といった、漠然とした質問を、
回答者がどのように受け止めるか、それによっても回答は
違ってくる(変わってくる)のではないだろうか。

例えば、先に述べた

「手話歌に使われている手話も、手話ですか?」

という受け止め方だったとすると、その回答はろう者に
聞いた場合ならば、ろう文化を基準にしたものが多くなったり
すると思う。
要するに、言語学的な解釈、そういう議論が増えてくるのでは
ないか、と思う。
手話歌は難聴者や中途失聴者も使う日本語対応手話だから、
その存在意義にも言及してくるだろう。
質問者がこの質問をした理由も、まさにそこにあるのではないか。

しかし

「手話歌は聴覚障害者にとって、どう思いますか?」

という質問だったら、手話歌が好きな人が多い難聴者や
中途失聴者だったら「好き」と肯定的に捉える人が多くても
不思議ではない。

しかし、自分たちの手話(日本手話)に誇りを持っている
ろう者から見たら、手話歌は見るに耐えないものだろう。

手話歌も文化である以上、その異質な文化を受け入れる
ということには、相当の心の葛藤があると思われる。
そして、言語学的な問題とは別に、聴覚障害者心理も
働いた意見が入り込む余地も、ここでは生まれてくると思う。(※1)


(※1)〔関連記事〕当ブログ
『手話ソング&ダンス嫌い』
〔2011-06-29 19:49〕



このことを考えるとき、私は必ず『愛は静けさの中に』という
映画を思い出す。

その映画に、手話パフォーマンス(歌&ダンス)シーンがあって、
ろう者サラの深い反応が表されているからだ。

ろう者でない私から見たら、最初にそのシーンを観た時は、
サラの気持ちは全く理解できなかった。

「サラは、変な人だなぁ。
ろう者って、ひねくれ者なのか?」

などと思っていた。
本当は映画を観てほしいが、とりあえず、そのシーンだけを
簡単に説明しよう。

サラは、あるろう学校で、雑務係とか何かで働いていた。
そこの学校祭で、ジェームズ先生(健聴者)のクラスの発表会
が始まった。
生徒たちがやったのは、健聴者が聴くのと同じ音楽に
合わせて、声で歌ったり踊ったり、時々手話も交えて
歌ったりする、というものだった。
つまり、ろう学校の発声訓練の成果を発表する会だった。
その発表会を観に来ていた、生徒たちの父母は大喜び
していて、ジェームズ先生も生徒たちも勿論喜んでいた。

しかし、それを後方から見ていたサラだけは、その場所を
急いで離れ、一人で悔し泣きをしているようになり、
突然、仕事道具を鏡に投げつけるという器物破損と、
近くにいた人にも傷害を加えてしまうという事件を起こした。

この映画を初めて観た頃は、サラが泣いた理由が全く
わからなかった。
しかし、今は少しわかる気がする。

あるろう者の話によると、ろう学校に通っていた子どもは、
ろう者だけではないという。
補聴器をすれば、多少は聞き取れる難聴児もいたという。
手話禁止時代のろう学校では、聞こえる子どものほうが
成績優秀なため、常にろう児と難聴児は比較されていた、
という。
それで先生への不信感も募っていったそうだ。

手話歌やダンスだって、同じようなものだし、
その頃を思い起こさせられるに十分だったと思う。
私も、歌は昔から苦手で、絵のほうが好きだった
ほうだ。

健聴者のピエロになんかなって、一体何がいい
というのだ。
何のために一生懸命やるというのだ。
自分たちがやるべきことは、他にもっとあるはずだ。

ろう者の、あのおかしな奇声を出しながら、手話で歌って
踊る生徒たちを観ていた父母たちは喜んでいた。

皆、息子や娘の声を聴きたい、という思いは、
健聴者として当然にあるだろう。

だがそれは、社会に出たとき、一部の心の邪悪な人間
によって、嘲笑の的とされてしまう。
そういう邪悪な人間は、社会の中ではほんの一部に
すぎないとはいえ、それによって受ける心の傷という
ものは、ろう者にはとても大きいのではないだろうか。

それだけではない。
声を出せば、必ず健聴者のペースに引きずられてゆく。(※2)


(※2)〔関連記事〕

『補聴器と発声訓練が、聴覚障害者にもたらしたものとは――。』
〔2014-06-17 18:30〕



参照。



一度そうなり出したら、永久にその世界に縛られて
生きてゆくしかなくなる。
サラもまた、自分の声を健聴者の前でさらすことを
避けていた。

私とも、ろう者はよく比較されてしまっている。
健聴者はたいてい

「あなたは普通の学校に行って、良かったね」

と。
確かに、そんな面もなくはない。
しかし私も、そう言われても

「何もわかっていない」

とも思う。

健聴者社会の中では、声を出せば聴覚障害者は、
その土俵にどんどん引きずられていってしまう。
その危険性が健聴者にはわかっていないという点も、
見落としてはならない。
だから、ろう者は声を出すことをやめるのだ。
それは賢明な判断だと思う。

その証拠に、中途失聴者や難聴者は、声を出すことを
やめることができない。
話せるがゆえに、健聴者に引きずられてしまうからだ。
だからその悲劇が、死ぬまで続くのだ。

「では、ろう者だけ声なしで、手話歌をやればいいでは
ないか」

と思うかもしれない。

だが、健聴者の歌(音声日本語)に合わせてつくった
手話歌は、彼らの本当の手話ではないのだ。
そこにも、心の葛藤が出ないはずはない。



〔参考情報〕

『NHK『みんなの手話』2012年7月15日放送分 歌う海賊』


「手話サークル研究班」の思い


手話サークルに関する基本方針
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by bunbun6610 | 2014-06-24 18:30 | 手話