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蒼穹 -そうきゅう-

『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)(2/5)サリバン先生①

『ヘレン=ケラー自伝』(ヘレン=ケラー/著 今西祐行/訳)
(講談社・火の鳥伝記文庫 昭和56年11月19日 第1刷発行)




〔参考情報〕

『ヘレン・ケラーの生涯』
(社会福祉法人 東京へレン・ケラー協会)




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「『希望の光』(P41~45)
ボルチモアへつくと、チザム博士(はくし)が、しんせつにむかえてくださいました。
このかたが、父のきいていた眼科の名医だったのです。
しかし、さすがの名医も、わたしの目をどうすることもできませんでした。
けれども博士は、わたしを教育することはできるから、ワシントンにおられる
アレキサンダー=グラハム=ベル博士に相談するよう、父に教えてくださいました。
ベル博士は、もちろん電話の発明家として有名ですが、目の見えない人や、
口のきけない人の話しかたについても、いろいろ研究なさっているかたです。
「博士にご相談になれば、目が見えない子や耳のきこえない子どもがいく学校や、
先生についても、きっといろいろ教えてくださるでしょう。」
チザム博士は、父にそういってくださったのです。
わたしたちはそのおことばに力をえて、そのまますぐに、ワシントンにむかいました。
父は、わたしの目がもうなおらないといわれ、すっかりふさぎこんでいました。
それに、はたしてベル博士が、じぶんたちのことなど心配してくださるだろうかと、
もう不安がつのるばかりのようすでした。
でもわたしは、父のそんなくるしみなどゆめにも知らず、ただ、また汽車にのって
旅行がつづけられるというので、うちょうてんになっていました。

ベル博士も、それはやさしいかたでした。
わたしは、だれよりもさきに、それがわかりました。
博士は、わたしをひざの上にだきあげてくださいました。
わたしが博士のとけいをいじっていますと、博士はすぐに、そのとけいを鳴らして
みせてくださいました。
それに、なによりもうれしかったことは、わたしの手まねのことばをわかって
くださることでした。
わたしはいっぺんにベル博士が大すきになりました。
この博士とのめぐりあいこそ、わたしが、やみから光の世界へ、孤独から
愛の世界へはいることができたとびらとなったのです。
もちろんそのときには、そんなことをゆめにも思っておりませんでしたけれども。
ベル博士は父に、あのディケンズが「アメリカ雑記」に書いたハウ博士のつくられた
パーキンズ学院のことを話してくださいました。
そしていま、ハウ博士のあとをついで、その学院の院長をしているアナグノスという
かたに手紙を書き、わたしを教えることのできる先生がおられるかどうか、
といあわせるようにといってくださいました。
父はベル博士のおことばにしたがって、さっそく、アナグノス院長に手紙をだしました。
すると、半月ほどして、返事がまいりました。
てきとうな先生が見つかったという、しんせつなうれしい知らせでした。
これが1886年の夏のことです。
そして、サリバン先生がわたしのところへきてくださったのは、あくる年の3月
になってからのことでした。
こうしてわたしは、あの「旧約聖書」にある、イスラエルの民をみちびいて
エジプトをぬけだしたモーゼが、シナイ山(さん)で神の霊にふれたように、
「知識は愛であり、光であり、のぞみである。」という神の声をきくことができた
のでした。」(P41~45)


「あくる朝、(サリバン)先生はわたしを、ごじぶんのへやにおつれになって、
一つの人形をくださいました。
あとで知ったことですが、それは、あのパーキンズ学院の、目の見えない
子どもたちからのおくりものでした。
それに、その人形は、ハウ博士の教えをうけてりっぱな洋裁師になられた
という、ローラ=ブリッジマンさん(※)がこしらえたという着物をきていました。
わたしがしばらくその人形であそんでいますと、サリバン先生は、そっとわたし
の手をとって、手のひらに「D(ディー)、O(オー)、L(エル)、L(エル)(ドール
――人形のこと)」という字を、ゆっくり書いてくださいました。
もちろんわたしは、それがことばをあらわす字だということは知りませんでした。
でも、この手のひらでするゆびのあそびがおもしろくて、まねをしているうちに、
とうぜんじぶんでも、それが書けるようになりました。
わたしはすっかりうれしくなって、二階からかけおり、母のところへいって、
母の手のひらに、さっそく「人形」という字を書いてみせました。
つづいてわたしは、「ピン」「ぼうし」「ちゃわん」、それから、「すわる」「立つ」
「あるく」などということばをおそわりました。
しかし、それもやはり、ただ先生のなさることをまねするだけのあそびで、
それがなんの意味だかも、文字というものだということも、ぜんぜん知らな
かったのです。
だいいち、すべてものに名まえがあるということすら知りませんでした。」
(P47~49)

※ローラ=ブリッジマン・・・(おさないときに病気になり、視力・聴力、
そして臭覚までもうしなったのですが、ハウ博士というかたの教育をうけて、
のちにはりっぱに洋裁で身をたてた人〔P37~38〕)


「しかしわたしは、わからないことを毎日なんどもくりかえされるので、
すっかりいらいらしていました。
あたらしいせとものの人形をつかむなり、ゆかになげつけてしまいました。
こなごなにくだけた人形をかわいがることを知らなかったのです。
くだけちった人形を、先生が暖炉のわきによせるのを知ると、なんだか
せいせいした気持ちでした。」(P49~50)


「わたしたちは、すいかずらのあまいにおいにさそわれて、すいかずらが
からまった井戸のある小屋にいきました。
だれかが水をくんでいました。
先生は、わたしの手をとってさしだし、ポンプからあふれでるつめたい水に
さわらせました。
そして、もういっぽうのわたしの手をとって、その手のひらには、はじめは
ゆっくりと、だんだんはやく、「水」という字を、何回も書きつづけられました。
わたしは、いっぽうの手でつめたい水をかんじながら、もういっぽうの手の
ひらの、先先生のゆびのうごきに、じっと全身の注意をそそいでいました。
とつぜん、わたしは、なにかしらわすれているものを思いだすような、
なんともいえないふしぎな気もちになりました。
こうして、わたしははじめて、手にかかるつめたいさわやかなものが「水」
というものだということを知りました。
はじめて、ことばというものを知ったのです。
わたしをじっとおさえていた、あの目に見えない力がとりのぞかれ、くらい
わたしの心の中に、光がさしてくるのがわかりました。
井戸をはなれたわたしは、手にふれるものの名まえを、かたっぱしから
先生にたずねました。
もっともっと、すべてのものの名まえを知りたい一心でした。
手にふれるものなんでもが、新鮮に、いきいきとかんじられました。
家にもどると、ふと、さきほどゆかになげつけてこわした人形のことを思い
だしました。
そっと手さぐりで暖炉のそばへいくと、そのかけらをひろいあつめました。
それをつぎあわせようとしましたが、だめでした。
目になみだがいっぱいたまりました。
じぶんがどんなにひどいことをしたか、わかったからです。
そしてはじめて、ほんとうにかなしくなりました。
その日は、たくさんのことばを学びました。
「父」「母」「妹」「先生」など、いろんなことばをおぼえればおぼえるほど、
この世の中が、あかるくたのしくなってくるようでした。
その晩、わたしはベッドにはいってからも、きょうはじめて知ったよろこびを、
一つ一つ、もういちど思いおこしていました。
この世の中に、じぶんほどしあわせな子どもはいないにちがいないと思い
ました。
そして、あしたがまちどおしくなりました。」(P50~52)




「『「愛」という言葉』(P58~65より一部抜粋した文)
すると(サリバン)先生は、わたしをしずかにだいて、
「わたしは、ヘレンを、愛していますよ。」
と、ゆびで話してくださいました。
「『愛』ってなんですか。」
わたしはたずねました。先生は
「それはここにありますよ。」
というように、わたしのむねをゆびさしておっしゃいました。
そのときはじめて、わたしは、心臓の鼓動に気がつきました。
でも、わたしはそれまで、手でふれることのできるもののほかは
知らなかったのですから、先生のおっしゃることは、どうしても
わかりませんでした。
わたしは先生が手にしているすみれのにおいをかいでから、
半分はことばで、半分は手まねで、

「愛って、このあまい花のかおりのことですか。」

とたずねました。

「いいえ。」

そこで、またわたしはしばらく考えました。
わたしたちの上に、あたたかい太陽がかがやいていました。
わたしはそのあたたかさのくる方向をゆびさして、

「これが愛ではないのですか。」

とたずねました。
すべてのものをあたため、成長させる太陽ほど、うつくしい
ものはないように思えたからです。
しかしサリバン先生は、やはり首をよこにおふりになりました。
わたしはとまどってしまいました。
これがミモザ、これがすいかずら・・・というように、先生はこれまで、
なんどもわたしの手にふれさせて教えてくださいました。
それなのに、先生は、「愛」を見せてくださらないのでしょう。
わたしはふしぎでなりませんでした。
それから一日、二日たってからのことです。
わたしは、大きさのちがうビーズ玉を糸にとおすことを教えてもらって
いました。
大きいのを二つとおすと、つぎに小さいのを三つ、というふうに、
つりあいのよいようにとおしていくのです。
いくらやっても、わたしはすぐにまちがえました。
そのたびに、先生はわたしのまちがいを、こんきよく、しんせつに
教えてくださいました。
それでもまだ、わたしはまちがえてしまいました。
(どうしたらいいのかしら。)
わたしはしばらく手を休めて、考えこんでいました。
すると、サリバン先生は、わたしのひたいに、ゆびで、「考える」と、
お書きになりました。
わたしは、はっとしました。
いまじぶんの頭の中におこっているふしぎなはたらき、それが「考える」
ということなのだなと、はじめて気がついたのです。
手にさわることのできないもの、かたちでいうことのできないものにも、
名まえがあるのだということが、はじめてわかったのです。
長いこと、わたしはじっとしていました。
ひざの上のビーズのことを考えていたのではありません。
(あの「愛」というのも、この「考える」と同じような、かたちのない、
手にふれることのできないものではないかしら。)
わたしは、そんなことを考えていたのでした。
その日は朝から、空はどんよりとくもって、ときどき雨さえふって
いました。
ところが、そのとき、きゅうに南国のかがやかしい太陽が、ぱっと
さしこんできたようでした。
わたしはもういちど、先生にうかがってみました。

「これが『愛』ではないのですか。」

すると、先生はちょっと考えるようにしてから、

「そうね、『愛』というのは、太陽がでてくるまえに、空にあった雲
のようなものよ。」

わたしには、いっそうわからなくなりました。
すると、先生はすぐに、もっとやさしいことばで、つづけてください
ました。

「雲は、さわることはできないでしょう。
でも、雨はかんじますね。
そして、雨がふると、草木や、かわいた土が、どんなによろこぶかも、
ヘレンは知っているでしょう。
『愛』もさわることはできないもの。
でも、その『愛』が、すべてのものにそそがれるとき、そのやさしい
よろこびは、かんじることができるものよ。
『愛』がなければ、しあわせもないし、きっと、あそびたくもなくなって
しまうわ・・・。」

先生のおっしゃることが、はじめてよくわかりました。
わたしは、じぶんの心と他(た)の人々の心とのあいだに、目に見えない、
さわることのできない、うつくしい糸がむすばれていることがわかった
のです。」(P62~65)


「わたしが二つ、三つのことばをつづれるようになると、サリバン先生は
さっそく、文字をうきぼりに印刷した、ほそ長い厚紙をくださいました。
それは、ものの名や、はたらきや、性質をあらわした単語でした。
それをならべて、みじかい文章がつくれるようになっているわくも、
いっしょにいただきました。
わたしは、わくの中に文字をいれて文章をつくるまえに、まず実物で
文章をつくりました。
たとえば、「人形」「あります」「ベッド」「の上に」という紙をとりだして、
「人形」は人形の上に、「ベッド」はベッドの上におきます。
それから人形をベッドの上におき、そのよこに、「ベッド」「の上に」
「あります」という紙をならべるのです。
こうしてわたしは、一つ一つの単語から文章をつくり、文章とじっさいの
意味とをむすびつけてみるのでした。
先生のお話によりますと、ある日わたしは、じぶんのしているエプロンに、
「少女」ということばをピンでつけて、おしいれの中にはいり、おしいれの
たなに、「おしいれ」「の中に」「います」ということばの紙をならべたり
したそうです。
このあそびほどおもしろいあそびはありませんでした。
へやの中にあるものをかたっぱしからつかって、わたしは毎日何時間も、
先生と、こうしたたのしい勉強をつづけました。」
(P66~67)


「こんなちょうしですから、わたしは、いわゆる「勉強」という気はすこしも
しませんでした。
みんなたのしいあそびのように思っていました。
サリバン先生は、どうしてわたしのしたがっていることや、よろこぶことを、
あんなによくわかってくださったのか、いまから考えてもふしぎなくらいです。
やはり、長いあいだ、目の見えない人たちといっしょにくらしてこられた
からでしょうか。
また先生は、すばらしい詩人でした。
先生は、まえに教えたことをおぼえているかどうかためすために、
問題をだすようなことは、けっしてなさいませんでした。
あまりわたしが興味をもちそうにない、理科の専門的なことばなどは、
ほんのすこしずつすこしずつ、それもかならず、ごく身近な問題として、
具体的に教えてくださいました。
ですから、むずかしいことでも、わたしは知らないままにおぼえていました。
わたしたちの教室は、家の中ではなく、いつも森や、しばくさの上でした。
ですから、そのころの勉強の思い出には、まつ葉のかすかなやにの
においや、のぶどうのかおりがしみています。
わたしの勉強には、いろんなものが参加してくれました。
うるさくなきつづけるかえる、きりぎりすやこおろぎ、わた毛につつまれた
ひな鳥、それに野の花、すみれ、新芽をふきだした果樹・・・。」
(P67~68)

「「だれが水に塩をいれたの?」」(P86)

「『話しかた』
わたしが口で話をすることを学びはじめたのは、ボストンにでてから二年
たった1890年の春のことでした。
どうにかして人にきこえる声をだしたいという気もちは、その以前から
ありました。
わたしは、かた手でじぶんののどをおさえ、かた手でくちびるのうごきを
さわりながら、よく、わけもわからない声をだしていたものです。
じぶんののどばかりではありません。
なんでも音をだすものがおもしろく、のどを鳴らすねこや、ほえている
いぬをさわるのが大すきでした。
また、歌をうたっている人ののどにも手をやってみましたし、だれかが
ひているピアノの上に、手をおくのもすきでした。」
(P99)


「お友だちの話によると、ないたり、わらったりは、ふつうの子とおなじ
ようにしていたそうです。
まえにもいいましたように、「ウォーター(水)」だけは、「ウォーウォー。」
と発音していましたが、それもサリバン先生が教えてくださるように
なったころには、ほとんどききとれないくらいにしか、発音できません
でした。
そして、ゆびで話をすることをおぼえてからは、もうまったく、
口をつかわなくなってしまったのです。
まわりの人たちが、わたしとはちがう方法で話をしていることは、
かなり以前から気がついてはいました。
そして指話法(しわほう)では、どうしてもまんぞくしきれないものは
かんじていました。
友だちも、わたしにわるいと思ってでしょうか、わたしと話すときは、
かならずゆびをつかいました。
ですから、口で話をするくふうをする機会もありませんでした。
それでも、わたしはあきらめていたのではありません。
わたしが口で話す練習をはじめるようになったのは、ぐうぜんの
ことからでした。
この年の春、ローラ=ブリッジマンの先生で、ちょうどノルウェーや
スウェーデンを旅してこられたラムソンという先生が、わたしを
たずねてきてくださったのです。
そして、ノルウェーの女の子で、わたしとおなじように、耳もきこえ
なくて、目も見えない身でありながら、勉強して、りっぱに話ができる
ようになった子どもの話をしてくださったのです。
先生はただ、わたしをはげますために、こんなお友だちもありますよと、
かるい気もちでお話しになったのだと思います。
ところが、わたしはその話をきくと、もう、いても立ってもいられなくなりました。
「先生、わたしにも、すぐその勉強をさせてください。」
と、いっしょうけんめいおねがいしました。
ラムソン先生は、あまりきゅうにわたしがおねがいしだしたので、
ちょっとおどろかれたようですが、やはりボストンにあるろう学校、
ホレス=マン学校の校長先生、サラ=フラー先生のところへつれて
いってあげましょうと、やくそくしてくださったのです。
その年の3月26日、わたしはフラー先生のところへつれていって
いただきました。
フラー先生は、やさしい先生でした。
話をきくと、その場で、じぶんが教えてあげようといってくださいました。
フラー先生は、わたしの手をとって、じぶんの顔のところへもっていき、
声をだすときの舌やくちびるにさわらせてくださいました。
わたしはそれをいっしょうけんめいまねて、一時間のうちには、
M(エム)、P(ピー)、A(エー)、S(エス)、T(ティー)、I(アイ)の、
六つの発音ができるようになりました。
先生はその日から、十一回、わたしのために授業をしてくださいました。
そして、じぶんの口ではじめて、
「きょうはあたたかいです」
ということばができたのでした。
それはもちろん、とぎれとぎれの、どもりながらの発音だったにちがい
ありません。
でも、それはまさしく人間のことばだったのです。
しかし、十一回のみじかい勉強では、ただ発音の基本を学んだだけでした。
わたしの話すことばは、フラー先生とサリバン先生にはわかっていただけ
ましたが、そのほかのかたには、わたしが話している百分の一もわかって
いただけなかったにちがいありません。」(P100~104)

「フラー先生の勉強がおわると、あとはまた、サリバン先生といっしょに、
くりかえしくりかえし練習をつづけなければなりませんでした。
サリバン先生は、一つでも発音がうまくできないと、わたしといっしょに、
何時間でも、できるまで練習をつづけてくださいました。
わたしはなんども、うまくできなくて、
(ああ、やっぱりだめなんだわ。)
そう思うときがありました。でも、つぎのしゅんかん、こんどうちに帰ったら、
母や妹と、口で話ができるのだと考えなおして、また勇気をだして、
できるまでつづけました。
こうして努力しているうちに、ゆびで話すより、口で話すほうがやさしく
思えるようになりました。
それからわたしは、できるだけゆびをつかうことをやめました。
ただ、人の話をきくときには、あいての人のくちびるに手をあてて話をする
より、ゆびのほうがはやいので、サリバン先生も、ほかのいく人かの友だちも、
そのあとも、ずっと指話法(しわほう)でわたしに話しかけてくださいました。」
(P104~105)

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by bunbun6610 | 2014-05-02 20:00 | 聴覚障害