難聴者の世界 - 同障者が涙流さずにいられない手記
2014年 03月 17日
副題;『ろう者とは対照的な生涯を歩む、難聴者の辛い人生』
岩波新書『音から隔てられて - 難聴者の声 -』
(入谷仙介、林瓢介/編者 1975年7月21日/第1刷発行
株式会社岩波書店/発行所)
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『信濃路(しなのじ)の旅は哀しき』
〔Yさん 第二種4級 縫製加工家内業 46歳 N市〕
(P55~61)より。
「「母ちゃんのばか! なんで私を生んだの」
と難聴になった私は、母にたてついた。
「そんなこといったとて、わしんたちのころには
子どもをおろすことなんか、できせんかっただよ」
と、母はただおろおろして弁解した。
私の父は、世間でいう“つんぼ”であった。
祖父もやはり耳が遠かった。
祖父は年寄りだから、と私はそう思っていたのに。
私までがいつのまにか、きこえが不自由になってしまったのだ。
すでに、兄の中には難聴のきざしがあらわれている者があり、
遺伝性難聴を疑わざるを得なくなった私は、一瞬にして、
目の前が真暗になったのを感じた。
「このまま放置しておいたら、私の耳も、祖父や、
父のように、ひどいつんぼになってしまうに違いない。
あんなふうになるのはいやだ!
なんとかしなくては、なんとかして!」
という叫びが、母へのたてつきとなった。」(P55)
「母は、私が難聴と気づいても、一度も医者へは
連れていかなかった。
現代の医学では、遺伝性難聴が治らないことを知って
いたから。
「医者の研究材料にされて、余計に悪くなるから」
と、いつもそういっては、行かせなかった。
だから神仏に祈って、これ以上悪くならないように
したらよいと、私は、あちこちの神様へお詣りに
行かされた。
大勢の神主さんを家に招いて、ご気濤(きとう)を
してもらったこともあった。
首から上のことなら、なんでも効くという神様へも、
汽車に乗ってひとりでお詣りにいった。
文明の世の中に治らないとは知りつつも、そうしなければ、
私の心には救いがなかったから。」(P55~56)
「ハンディを持つ私は、つらくとも働かなければ主人に
満足してもらえないのだと、心にいいきかせた。
健聴の主人に、聴覚障害への理解を求めることには、
限度があるということも、知らなければならないと思った。」
(P59~60)
「「コマクサノハナヒラク」
の信州大学合格の電報を受け取った時、息子は決して
喜ばなかった。
息子には、すでに難聴という苦悩がつきまとっていたから。
私が年頃に難聴になったように、息子にも、成長とともに
難聴障害があらわれた。
大学の進路を決定していた高校二年の時、名古屋大学病院で、
「母が難聴なら、遺伝性で治らないであろう」
と、すげない宣告を受けたのである。
高校生ともなれば、「遺伝」については何もかも知っているが、
この母の私には、何ひとつぐちらなかった。
胸をつまらせてじっと悲しみに耐えていたその時のことを、
私は忘れられない。
いとしい息子までが、難聴になってしまったということで、
主人は私を憎んだ。
「お前なんかと一緒になったばっかしに、息子にまでが難聴に」
と激怒した。
思いもかけない夫の怒りを聞いても、私は何もいえなかった。
あまりにも冷たい神のむちに思えて、ただ大粒の涙がこぼれた。
私が母に、
「なぜ私を生んだの!」
と、たてついた時のことが、走馬燈のように、私の脳裏をかすめた。
そして今まで私が歩んできた苦悩の道を、また、息子があゆんで
いかなければならないことを思いながら、心の中で息子に
詫びる信濃路の旅は哀しかった。」
(P60~61)
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岩波新書『音から隔てられて - 難聴者の声 -』
(入谷仙介、林瓢介/編者 1975年7月21日/第1刷発行
株式会社岩波書店/発行所)
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『信濃路(しなのじ)の旅は哀しき』
〔Yさん 第二種4級 縫製加工家内業 46歳 N市〕
(P55~61)より。
「「母ちゃんのばか! なんで私を生んだの」
と難聴になった私は、母にたてついた。
「そんなこといったとて、わしんたちのころには
子どもをおろすことなんか、できせんかっただよ」
と、母はただおろおろして弁解した。
私の父は、世間でいう“つんぼ”であった。
祖父もやはり耳が遠かった。
祖父は年寄りだから、と私はそう思っていたのに。
私までがいつのまにか、きこえが不自由になってしまったのだ。
すでに、兄の中には難聴のきざしがあらわれている者があり、
遺伝性難聴を疑わざるを得なくなった私は、一瞬にして、
目の前が真暗になったのを感じた。
「このまま放置しておいたら、私の耳も、祖父や、
父のように、ひどいつんぼになってしまうに違いない。
あんなふうになるのはいやだ!
なんとかしなくては、なんとかして!」
という叫びが、母へのたてつきとなった。」(P55)
「母は、私が難聴と気づいても、一度も医者へは
連れていかなかった。
現代の医学では、遺伝性難聴が治らないことを知って
いたから。
「医者の研究材料にされて、余計に悪くなるから」
と、いつもそういっては、行かせなかった。
だから神仏に祈って、これ以上悪くならないように
したらよいと、私は、あちこちの神様へお詣りに
行かされた。
大勢の神主さんを家に招いて、ご気濤(きとう)を
してもらったこともあった。
首から上のことなら、なんでも効くという神様へも、
汽車に乗ってひとりでお詣りにいった。
文明の世の中に治らないとは知りつつも、そうしなければ、
私の心には救いがなかったから。」(P55~56)
「ハンディを持つ私は、つらくとも働かなければ主人に
満足してもらえないのだと、心にいいきかせた。
健聴の主人に、聴覚障害への理解を求めることには、
限度があるということも、知らなければならないと思った。」
(P59~60)
「「コマクサノハナヒラク」
の信州大学合格の電報を受け取った時、息子は決して
喜ばなかった。
息子には、すでに難聴という苦悩がつきまとっていたから。
私が年頃に難聴になったように、息子にも、成長とともに
難聴障害があらわれた。
大学の進路を決定していた高校二年の時、名古屋大学病院で、
「母が難聴なら、遺伝性で治らないであろう」
と、すげない宣告を受けたのである。
高校生ともなれば、「遺伝」については何もかも知っているが、
この母の私には、何ひとつぐちらなかった。
胸をつまらせてじっと悲しみに耐えていたその時のことを、
私は忘れられない。
いとしい息子までが、難聴になってしまったということで、
主人は私を憎んだ。
「お前なんかと一緒になったばっかしに、息子にまでが難聴に」
と激怒した。
思いもかけない夫の怒りを聞いても、私は何もいえなかった。
あまりにも冷たい神のむちに思えて、ただ大粒の涙がこぼれた。
私が母に、
「なぜ私を生んだの!」
と、たてついた時のことが、走馬燈のように、私の脳裏をかすめた。
そして今まで私が歩んできた苦悩の道を、また、息子があゆんで
いかなければならないことを思いながら、心の中で息子に
詫びる信濃路の旅は哀しかった。」
(P60~61)
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>「医者の研究材料にされて、余計に悪くなるから」
もう一つ、考えられることがあると思う。
それは「医者のカネ儲けの材料にされる」ということだ。
信じられないかもしれないが、これは実際に十分、有り得ることだと思う。
いい例が近最近の政治家が取る態度だろう。
「謝れば済む」ということが多過ぎる。
(2021年2月27日追記)
by bunbun6610
| 2014-03-17 18:30
| 聴覚障害者の世界【難聴】