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蒼穹 -そうきゅう-

聴覚障害者でも、しゃべれる人がいる理由①

(※)この記事は、一人の聴覚障害者が、個人的な見方を
述べたものに過ぎないことを、予めお断りしておきます。
個人の経験から得ている事実のほか、推論まで加え、
時間をかけて書き上げたものです。

見えない障害であり、そしてこの障害について、
医学的にもまだまだ解明が進んでいない以上、
このような試みによって、少しでも理解してもらうより、
他に手はないと思ったからである。

もちろん、もしかしたら、誤っている部分もあるかも
しれません。

また、この記事を書いている最中に、佐村河内氏が
中度難聴者であることが再検査の結果判明したが、
佐村河内氏だけに限った問題ではないので、
中途失聴者や中途難聴者への理解の一助になれば
と思い、本稿をそのまま記事にすることにした。

個人的に書いた記事である以上、賛否両論が
起きてしまうことは、仕方がないと思う。

恐れてばかりいて何もやらないでいては、
何も変わらないだろうから。




佐村河内氏事件は、聴覚障害者にも少なからず
衝撃を与えた、と思う。

「本人の作曲ではなかった」

というだけでなく

「聴覚障害者偽装疑惑」

まで噴出したからだ。

しかし、もし佐村河内氏が今も本当に聴覚障害者
2級相当の人だったなら、あれだけ騒いで書き立てた
マスコミは、どう責任を取るつもりなのだろうか。

そのことを考えると、生活保護バッシングと同様、
マスコミの加害性を思わずにいられない。

少なくともこの件に関してだけは、佐村河内氏だけ
でなく、聴覚障害者にも、深くお詫びしなければ
ならないだろう。


私も職場で最近

「聞こえてる?」

なんて、正面から、今さらのように言われたこともある。
おそらく、ちょっとは疑われているのだろう。
佐村河内氏の事件をきっかけに、そういうことも起きた。

特に疑われやすくなったのは、
重度聴覚障害の身体障害者手帳を持ちながら、
健聴者と同じようにしゃべれる中途失聴者だろう。

障害者雇用で働いている、その人たちの場合は、
かなり疑われたりしている人もいるかもしれない。

彼らの場合は健聴者と同様に、
(多少の音声の崩れはあるにしても)
日本語をほぼ流暢に話せるからだ。

健聴者と毎日話しているので、読話力も口話力も、
そうすぐには衰えるものではないと思う。
だから、余計に疑われるのかもしれない。


さて、健聴者が疑う理由とは、一体何であろうか?
今回の佐村河内氏の、「聴覚障害者」偽装疑惑で、
それがわかる。


【社会に 「普通にしゃべれる=聞こえる人」 という
誤解を与えかねないブログ、マスコミ記事について】


例えば、下のブログ記事である。


============================


http://ttensan.exblog.jp/20330506/

偽物ですね

 2014年 02月 08日


「全聾の人に会った事がある方はわかると
思いますが発音が崩れてしまうんです。
自分で発している声そのものがわからない
から当然なんです。

あれだけはっきりと発音できるのは
間違いなく聞こえているからです。

で、当然ながら障害者手帳を持っている
ということそのものが違法行為となるわけ
ですが、佐村河内のあの要領の悪さからして
当人が考えついたものではないと思います。」


============================




聴覚障害者について、本当によく理解している
人ならば、これはもうわかるでしょう。

「聴覚障害者=ろう者」

とは限っていないし

「しゃべれる人=聞こえる人」

とも限らない。

「全聾」だから、ろう者とは限っていないのです。

しかし、上のブログでは、ろう者と中途失聴者が
混同されてしまっている。

それで

「聞こえないはずはない。
ウソだろう」

となる。


【二元論で聴覚障害者を苦しめる健聴者たち】

例えば、

「聞こえているか、いないか」

の判断材料に、ろう者の声は「崩れている」
ことを引き合いに出している。
このようにすぐに比べたがって

「聞こえる、聞こえない」

の二元論展開が、健聴者には多い。

中途失聴者だけでなく、多くの感音性難聴者を悩まし、
苦しめる原因が、ここにある。


【「全聾」という言葉について】

佐村河内氏自身で「全聾」と主張したのだろうか?

それとも、マスコミが勝手に「全聾」と宣伝した
のだろうか?

もし、前者ならば

「佐村河内氏は聾者を騙って商売をしたことになる」

と疑われても仕方がない。

もし後者ならば

「奇跡であるかのように報じて、マスコミが(佐村河内氏の)
虚像をつくり出したことになる」

と思う。

いずれにしても、“障害”を利用して有名にする手段だった、
ということだ。
昔、テレビが手話ドラマでブームを起こしたように、
これもまた、“障害者というアイテムで演出した”に
すぎなかったことになる。
しかし、後者の場合は、マスコミにも責任があるのでは
ないだろうか。


「全聾」(「全聾者」)とは、客観論としては「医学的ろう
の状態(の人)を指すのではないか、と思う。

一方、「ろう者(ろうあ者)社会」で言う「ろう者(Deaf)
の場合は、もっと深い意味で使われている、と思う。
私が勝手に簡単に言うならば

「ろう者(Deaf)社会の文化を受け継いでいて、
かつ、その社会に属している者」

という意味だろうか。

ろう者(全聾者、deaf)に生まれたからといって
「ろう者(Deaf)」とは限らない、ということだろうと思う。

反対に、難聴者や中途失聴者でも、ろう者(Deaf)社会
に属しているというケースもある。
すなわち、単に聴力だけで分類された社会ではないのである。

詳細は

『ろう文化案内』
(キャロル・パッデン博士、トム・ハンフリーズ博士/共著)



などの本を読むと、よく理解できる、と思う。
著者、訳者ともろう者(Deaf)で、この本は名著だと思う。



そういった観点で見ると、佐村河内氏の場合は全然、
「ろう者(Deaf)」ではないだろう。
彼は単に「医学的ろう(deaf)」であるに過ぎない。


おそらく、上に取り上げたブログの筆者は、本当は

「偽聴覚障害者です」

ではなく

「偽ろう者です」

と言いたかったのだろう。

そういう意味でならば、聴覚障害者にも読んでいて、
納得できるのではないか、と思う。


まだ佐村河内氏の聴力に関する客観的データも
明らかになっていないというのに、

「偽聴覚障害者です」

と言われる(断言される)と

「それは、どうかな?」

と首を傾げたくなる。


繰り返しになるが、佐村河内氏は、ろう者ではない。
けれども、もしかしたら佐村河内氏だって、
「自分はろう者だ」と社会に伝えたくて「全聾です」と
言ったのではなかったのかもしれないのだ。

実際に聴覚障害者が著している古い本では、
ある中途失聴者も

「全聾になりました」

などと言っているところもあった。
しかし、これは勿論、ろう者(Deaf)の言う「ろう」とは
意味が全く異なる。

その結果、ろう者や健聴者の社会それぞれ
にある意味の受け取り方のズレが原因で、
今回のような疑惑騒動に発展してしまった、
という推測も考えられる。

ちなみに、今では中途失聴者でも自分のことを
「全聾です」と言う人は、ほとんどいない。
普通はろう者と混同されたくないがために、
「聾」という言葉は使わないと思う。


一方、「中途失聴者」という、聞き慣れない言葉を
健聴者が聞くと

「人生の途中で、音が全く聞こえなくなってしまった人」

と思う人もいると思う。

けれども、聴覚障害者の世界(社会)では、必ずしも
そんなことはない。
補聴器を使えば、多少は聞こえる人もいる。
難聴者でも自分を「中途失聴者」だとしている人もいる、
という。
つまり、その用語は

「必ずしもその聴覚障害者の聴力を正確に、
わかりやすく表した(区別した)ものとは限らない」

ということだ。

極端に言えば主観的であるのだが、
それは本人のアイデンティティに関わる問題である。

それに、仮に難聴者社会の中に入って、自分だけ
「中途失聴者です」とか「ろう者です」と言えるだろうか。

反対に、ろう者社会で自分を「難聴者です」と自己紹介
すると、今度はろう者から無視されることもある。
そういった心理面も無視できないと思う。

したがって、この点でも、健聴者と聴覚障害者との
認識にはズレがあると言えそうだ。

ろう者には中途失聴者と難聴者を区別せず、
どちらもまとめて「難聴者」と呼んでしまう人も多い。
これは聴力よりも、言語・文化的分類が理由のように
思える。

確かに、よく

「ろう者は言語的少数者である」

などと、ろう者が主張している。



ところで、

「耳が聞こえるか、聞こえないか」

ということで、健聴者社会ではよく、

「ろう者であるかないか」

がよく言われている。

全く馬鹿げた二元論ではないか。

実際の聴覚障害者の世界は、
そんな単純なものではない。
ダイグロシアのように、非常に分けるのが難しい
存在になってしまっている人も多いのである。

勿論、佐村河内氏のような人だっている。
それは「中途失聴者」と呼ばれる聴覚障害者である。

彼の場合は難聴者と同様、健聴者に非常に近い
存在だ。
健聴者と同様に話せるはずだ。
だから、ろう者とは全く違うように見えて、
当たり前なのだ。

しかし、だからといって

「聴覚障害者ではない」

と断定してしまうことには無理があるし、
全く馬鹿げている論法だ。




【聴覚障害者でも、しゃべれる人がいる理由】

なぜ、ろう者の声は変で、中途失聴者の声は健聴者と
同じなのか、理解できないというのが、
健聴者の主張なのだろう。

その答えを知りたければ、以下の話を読んで、
よく考えることである。



【大人のろう者Aさんの話】

「ろう学校に通っていた時、毎日毎日発声練習を
させられました。
手話を使うことは禁止されていました。
学校を卒業してから、働きはじめました。
しかし、自分の声は健聴者に笑われてしまうので、
私はしゃべるのをやめました。
それ以来、ずっとしゃべっていません。
それで、今ではすっかり、しゃべることも
できなくなってしまいました。
今では手話だけです。」



Aさんの話から、人間(幼児)が音声言語を獲得するためには、
耳が聞こえるという条件が必要だということがわかる。

しかし、いったん音声言語を獲得した後に聞こえなくなった
中途失聴者の場合は、聞こえなくなったからといって、
直ちにその「しゃべる能力」まで同時に失う、ということは
ないだろう。



【大人のろう者Bさんの話】

「補聴器を持っています。
しかし、補聴器をすれば音は聞こえるけど、
相手が何て言っているのかまでは、わかりません。

同じろう者の友だちに、人工内耳手術をした人がいます。
でも、手術をしても、分からなかったから、その人はもう、
(人工内耳を)取ってしまいました。
今では手話コミュニケーションに逆戻りしてしまっています」


ろう者Bさんの話から、大人になってからでは、
人工内耳や補聴器で音がやっと聞こえるようになったとしても、
日本語の学習は難しくなる、ということがわかると思う。


「音声言語の獲得には3歳頃までに聞こえていることが重要」

とか

「3歳まで聞こえていれば、ろうでもしゃべれる」

と聞いたことがある。
それ以降では、音声言語習得が難しくなっていくそうだ。


ヘレン=ケラーは1歳頃で失聴しているが、
自伝によると、それ以前は「ティー(紅茶)」と
ハッキリしゃべることができたらしい。
しかしその後は失聴が原因でしゃべらなくなり、
言葉の学習は遅れていったようだ。


ろう者Bさんの話をもとに考えると、
ろう者の場合は、補聴器、人工内耳の効果が
期待できない聴覚障害者ということになる。

このような人がそれらの機器で音声を聞くことが
できるようになっても、言葉がわからないのである。

つまり、それではしゃべることもうまくできない、
ということを意味する。


一方、中途失聴者の場合は、補聴器にしろ、
人工内耳にしろ、昔聞いていた音とは若干違う
機械音ではあるものの、脳がそれを音の記憶と
マッチングさせ、音を理解する能力が再生する。
つまり、脳の推測力で補えるのだ。

生まれつき耳が聞こえない幼児を除いて、人間は皆、
6歳ぐらいまでに、音を聞いたり、しゃべる訓練を
自然に積んでいる。
そしてこれが、しゃべる能力になるわけだ。
健聴者はそれに恵まれている。
中途失聴者や中途難聴者も同じだった。

しかし、生まれつき全く聞こえないろう児は、
この訓練ができない。
幼児期の聴能訓練成果の影響は大きい。
これが、口話法の習得力にも大きく影響する。

それで、「聾(ろう)」の児童は「唖(あ)」になりやすく、
昔は「聾唖者」と呼ばれることが普通だったようである。
たとえ、しゃべれるようになった聾唖者でも、
声が変だと言われるのが、むしろ当たり前だった。

一方、人生のどこかで失聴してしまった中途失聴者は、
「聾(ろう)」「全聾」になることはあっても、
直ちに「唖」になることはない。
発声能力の、ある程度の維持は可能だろう。


〔関連記事〕

『しゃべれる聴覚障害者がいる理由』
〔2014-01-28 18:30〕




【人工内耳装用者の話】
「人工内耳を装用する前に、適性を調べる必要がある。
人工内耳手術をしても、効果がない人もいるからだ」


ろう者Bさんと、人工内耳装用者の話を
統括すると、話せるようになるためには、
聞こえるようになるだけでなく、本人の音の
記憶力やリハビリに取り組む力など、
さまざまな力が必要、だと思える。

優れた人工内耳、補聴器があれば聞こえる
ようになり、その結果、話せるようになると
勘違いしている健聴者がいることも事実で、
こういう人たちが安易な推測で噂を広め、
聴覚障害者を苦しめているのではないか、
と思われる。


【発声練習ができる聴覚障害児と、できない聴覚障害児】
私は以前に、インターネットの情報から

「発声練習に失敗したろう児」

という文字だったと思うが、そういう情報を見たことがあった。
多分、ろう児教育に携わっている人の論文みたいなものを
読んで、発見したのだと思う。
それはまさに、健聴者の視点での言い方だと思う。

結論から言おう。
中途失聴者の場合は、聞こえている間に、すでに言語を
獲得している。
その後に失聴した。

反対にろう者の場合は、聞こえないまま言語獲得に
挑戦させられ、「失敗」したとさせられている。

中途失聴者は、少し無理に例えるならば、すでに
“完成した声のアスリート”と同じようなものではない
だろうか。
その頭脳には音の記憶を持っており、正確な音の
イメージを再現し、肉体の声を出す部分も、正確に
動くのだろう。

だから、中途失聴者は聞こえなくなったってしゃべれるし、
再訓練する必要もないのだ。
人工内耳の効果が期待できるのも、音の記憶を持っていて、
言語獲得しているからだと思う。

ところが、ろう者の場合はどうだろうか。
ろう児がしゃべれない、あるいはきちんと声を出せない、
奇声のようにしゃべる、といったことになるのは、
この「発声練習に失敗した」という言葉に表れているから
だと思われる。

それは「失敗」ではなくて、うまくしやべれないのが、
むしろ当たり前ではないか、と思う。
それはすでに、学者も言っていることだ。


【聴覚障害三級の人の話】
「(幼児期に)大学病院の一医師から、

「聞くことをやめてはいけない、ラジオに耳を押しつけてでも
音を聞きなさい」

といわれた。」


この理由は、おそらく幼児期こそ、言語(日本語)獲得に大事な
時期だからなのではないか、と思う。


【日本手話を使うならば当然、声は出さない】
それと、手話の実情を知らない健聴者もいる。

手話通訳者や難聴者・中途失聴者には、
日本語をしゃべりながら手話も表している人もいる。
しかし、その手話(日本語対応手話)は、
ろう者の手話とはかなり違うものだ。

ろう者の手話(日本手話)をしながら、
同時に日本語でしゃべることはできない。

逆に、日本手話の文法で手話を表しながら、
日本語の言葉を考えようとすれば、
今度は自分のしゃべる声のほうが、
いつのまにかおかしくなってしまう。
つまり、これもできない。

ろう者にも日本語をしゃべれる人はいるが、
その人でさえ、講演会等で難聴者相手に
仕方なく日本語でしゃべりながら、
日本語対応手話をやっていると、
ものすごく疲れてしまうそうだ。

でも、そのろう者が書いた本、文章を読むと、
びっくりする。
健聴者以上に上手だったからだ。

これも多分、ろう者にとっても、日本語を知って
いること、そして書くことと、日本語をしゃべるという
ことは、ずいぶん違う証拠となるのだろう。

健聴者の「ろう者の声は変だ」というのも、本当だと思う。

すると、よけいに、自分を「全聾です」と告白した
佐村河内氏は、疑われるのが当たり前だったのかも
しれない。


【テレビドラマの影響(功罪)】
また、テレビでやった、昔の手話ドラマの影響か、
聴覚障害者=ろう者というような、誤った見方が依然
として続いているのではないか、と思われる。

「発声練習に失敗したろう児」と、(大人の)ろう者と、
聴覚障害者とが、健聴者の頭の中では結びついている
のではないか、と思われる。


【手話サークル、講習会の「聴覚障害者」に関する、
偏った学習内容も原因。
また、健聴者の勉強不足でもある。
聴覚障害者協会(ろう協)(※)が主催する講習会だけを信じ込む、
健聴者の姿勢もかなり疑問に思う】


手話サークルや手話講習会などでも、ろう者については
詳しく説明するが、難聴者や中途失聴者のことについては、
詳しい説明はなされていない。

その理由は簡単である。
聴覚障害者協会とは言っても、難聴者や中途失聴者の
当事者が少ないので、そのことについて知らない人も多い。

すでに述べたとおり、難聴者や中途失聴者こそ、
多様に存在する聴覚障害者であり、その説明は非常に難しく、
また多くの労力と時間を要する。
それは、ろう者についての説明よりも、ずっと難しいと思う。
ろう者に、その説明はできないと思う。

(※)聴覚障害者協会(ろう協)は、ろう者が主体となっている
聴覚障害者団体である。
上部団体は(財)全日本ろうあ連盟
全国各地の手話講習会等の運営にも、ほとんどが
聴覚障害者協会が関わっている。
また、手話サークルも、聴覚障害者協会と協力関係
にある。

一方、中途失聴者・難聴者が主体となっている
聴覚障害者団体も存在する。
こちらの上部団体は一般社団法人 全日本難聴者・中途失聴者団体連合会



〔関連記事〕

『「聴覚障害者」の定義に関する共同声明(1989年)』
〔2011-03-31 23:19〕



【聴覚障害2級(「両耳全聾」状態の診断)の現状】
――異なる聴覚障害者が混在していて、曖昧な基準。
――その画一的基準の矛盾点とは。

中途失聴者とろう者を混同視しがちな現状。
及びその理由。

「医学的ろう(全聾)」と、「ろう者」は、
意味が違うということを、
健聴者は理解していない。

「全聾」の人でも、残存聴力がある人はいる。
というか、その聴力を生かし、補聴器で音を
拾うぐらいは可能な人もいる。

また、聴力は同程度の人でも、その聞こえの具合は
非常な個人差があることも珍しくはない。
詳しいことは「感音性難聴障害」について、
調べるとよい。

聴覚障害があっても、筆談や読話や日本語対応手話
(母語が健聴者と同じ日本語の、難聴者や中途失聴者
がよく使う手話)など、視覚情報を駆使すれば
コミュニケーションを行うことが可能である。
つまり、聴覚障害者のコミュニケーション方法は、
耳だけに頼ってはいない。
耳が聞こえないからといって、コミュニケーションが
不可能だと断じるのも、健聴者の間違いであり、
偏見に過ぎない。

健聴者も

「見た目ではわかりにくい障害だから」

と言い訳ばかりして逃げるのは、もうやめてほしい。

この点は、健聴者と違う点なので、聴覚障害者理解
には極めて重要である。

身体障害者手帳についての話であるが、
聴覚障害のみの身体障害者等級は、

2、3、4、6級

のみである。
ただし、聴覚障害者の中にも、1級や、5級の手帳を
持っている人も、なかにはいる。

それは、その人の障害が聴覚障害だけでなく、
例えば言語障害とか、他の障害もあって、
聴覚障害の点数と他の障害の点数を合わせた結果、
1級や5級に認定されたためである。

障害が重いろう者には、言語障害を持っている人もいて、
1級の人もいる。

言語障害は、例えば脳性マヒ障害者のなかにもいる場合
がある。
同じ「言語障害」という“くくり”ではあるが、やはり
これも、その障害になった原因が違う。

聴覚障害だけの場合では、最高等級が2級までなので、
残存聴力がある人も、ない人も2級という、同じ等級に
なってしまうのである。

ほとんど聴力だけの判定のようなので、しゃべれる人も、
しゃべれない人でも言語障害までは認定されなければ、
2級が最高等級なのである。

だから上のような問題が起きるのは、国の認定基準にも
責任がないだろうか?

という疑問を、私は持っている。

なぜ、ろう者と中途失聴者は同じ障害等級なのだろうか?

そう思う人は、少なくないはずだ。

これは、ろう者と中途失聴者が混同されて見られたり、
必要な配慮も混同されやすくなる一因なのではないか、
と思われる。

それで、上に取り上げたブログの筆者のように考えてしまう
健聴者が、後を絶たないのではないだろうか。



【追記】

千葉県
『条例制定当時に寄せられた
「障害者差別に当たると思われる事例」(その他)』
〔更新日:平成26(2014)年8月8日〕



>「手話で話していたら、私の声が普通と違うので、
外国人と勘違いした人がいて、日本人だとわかると、

「へー、何で日本語しゃべれねんだ?
知恵遅れか?」

と言われた。」



〔記事容量オーバーのため、別記〕

『聴覚障害者でも、しゃべれる人がいる理由①〔参考資料〕』
〔2014-03-14 18:31〕

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by bunbun6610 | 2014-03-14 18:30 | コミュニケーション能力