『交響曲第一番』(佐村河内守/著) 1/11

『交響曲第一番』
(佐村河内守/著 2007年10月31日/第1刷発行 講談社/発行所)




「交響曲をやりたい!

しかし、交響曲はひとりでは演奏できはしない。
ならば指揮者か?
極度な人見知りの私が、百人もの楽団員とわたり合えるとは思えない。
そうなると、交響曲とかかわる残された道は一つでした。
自分がそれを書く人になる!!
交響曲を書こう。
それを自分の遠い将来の目標にしよう。

私はその日から母の指導を離れ、はるか頂(いただき)にそびえる
《交響曲第一番》に向けて、ひとり歩み始めたのです。」


「しかし、アルバイトを続けていくうえで、私は大きな悩みのタネを
抱えていました。

高校二年生から始まった、あの偏頭痛(へんずつう)の発作です。
年二回、夏と冬にそれぞれ二ヵ月間。
ずっとサイクルは定着しており、毎日最低三回から五回の激しい
頭痛が起こります。
発症過程は高校時代から変わらず、最悪の頭痛時には悶絶という
言葉以外表現のしようがない状態となり、大量に発汗し、ときには
嘔吐し、平均で一時間ぐらい、最長では二時間近く続くこともある
のです。
病院を何軒訪ねても、「重度の偏頭痛」という同じ診断結果が出る
のみでした。

音楽の求道(ぐどう)に支障をきたす発作にはいつも悔しい思いを
させられましたが、生活を支えるアルバイトにおいてはもっと深刻な
問題でした。
発作で生じる問題を何とかしようと、あの手この手で理由をつけては
ごまかしてみたり、正直に事情を打ち明けて「発作の起きたときだけ
休ませてほしい」と頼んでみたこともありました。
最初のうちは「仕方ないなあ」と無理を聞いてくれていた雇い主も、
忙しいときに倒れてしまう私を見るたびに、あからさまなうんざり顔に
なっていくのがわかりました。
私は先方からクビを切りだされる前に、自ら身を引く旨を伝えるのを
習慣とするようになりました。

このような経験を重ねるうち、年に四ヵ月間の発作期間中は働けないし、
働いてもすぐに辞めざるを得ないことになるとわかったので、
それ以降は一つのアルバイトをしながら、発作期間明けに始められる
次のアルバイトの面接に行くといったことをくり返していたのです。

19歳のある時期には、アルバイトのつなぎがうまくいかずに家賃が
払えなくなり、ついにアパートを追いだされ、半年間の路上生活を送った
こともありました。
着替え、楽譜、五線紙だけをリュックに入れて、山手線に乗って終日
ぐるぐるとまわっていたこともあります。
夏には、開店と同時に路上生活の先輩方と一緒に、冷房の効いた
デパートになだれこんでいったこともありました。
偶然にも街でバッタリ出会った高校時代の先輩が警察官をやっていて、
勤務地である池袋の交番に宿泊させてくれたこともありました。
しかし、路上生活を送りながらも、音楽求道の手をゆるめることは
決してありませんでした。

若気(わかげ)の至りといえばそれまでですが、このような不安定な
生活も精神的にきついと感じたことはありません。
ただ仕送りを続け、「まっとう」以上につくしてくれていた両親の期待を
裏切った路上生活の行為には、強く胸を痛めていました。」



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この頃の佐村河内氏は、まだ難聴ではないようです。
偏頭痛に悩まされての体験だと思われます。
偏頭痛の症状が重くなるにつれて、症状の種類も増え、
後に耳鳴りや難聴にも悩まされるようになっていく、
そして失聴していくと、この本には記されている。


アルバイトをコロコロと変えるのは理由がある。
それは、難聴者の人生と似たところがあると思う。

私も、若いときは難聴を隠してアルバイト等を転々と
していたので、「私とよく似ているな」と感じる。
若いときの難聴が軽いうちならば、簡単にごまかして
雇ってもらえる。
そして、入社時の短い間ならば難聴は、ある程度までは
ごまかせる。
しかし、いつまでも隠しきれるというものではない。

圧倒的に多かったトラブルが、人間関係である。
働き続けるには、相当な厚かましい精神力(?)がなくては、
自分も苦悩に耐えられるものではなかった。
「聴覚障害」とか、身体障害者手帳も知らなかった。
親も、我が子の難聴を隠したがっていた。
今の時代のような考え方など、想像もできなかった。
だから、短期で辞めてしまう場合がほとんどだった。
いい加減といえばそれまでだが、それしかなかったのだ。

佐村河内氏も、当時の病気は違うけれども、同じような
苦悩があったと理解できる。
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by bunbun6610 | 2014-02-01 18:30 | 難聴・中途失聴
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