『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 2/3

『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・エレン・グロース/著 佐野正信/訳)
(1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行所)

【著者】
ノーラ・エレン・グロース=1952年生まれ。文化医療人類学者。

【訳者】
佐野正信=1959年静岡県生まれ。8歳のとき、ストマイにより失聴。
翻訳家。杉並区聴覚障害者協会理事。


「ハンディキャップが文化によって生み出されるものである以上、
われわれはみな、それに対して責任を負っている
――著者のこの指摘には大きな意味がある。
・・・読む者に感動と勇気を与える書」
(『ヴィレッジ・ヴォイス』)


「申し分のない論証と真に迫った描写・・・聴覚障害者の立場に
たつ説得力のある調査報告」
(『サイエンティフィック・アメリカン』)


「差別はいつでもどこにでも存在していた
・・・この仮説の正当性に疑問をさしはさむ」
(『クォリティティヴ・ソシオロジー』)




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・・・島のろう者の肉親に、健聴者の手話を理解するに際して
何か問題がなかったかをたずねてみた。
かれらの記憶では、ろうの近親がその点に関して不満をいったり、
意見を述べたりすることはなかったという。

本来の手話は独自の文法、統語法、慣用構造をもっている。
島の健聴者の中には、ピジンの手指体系、つまり指文字を多用
することによって手話を英語の文法構造に合わせた混成言語の
体系を用いていた者もいたかもしれない。
ピジン手話をあらわしてはいたが、ヴィンヤード島の手話が
用いられたときには、それを読み取っていた者もいたかもしれない。
というのは、読み取りの能力は正確な表現より身につけやすい
場合が多いからである。
島外では、ピジン手話は成人の健聴者がもっともよく用いる
手指コミュニケーションの形式である。〔※3〕
成人健聴者が手話を習得するとき、最初に身につけた話し言葉の
文法形式の影響を受けるのがふつうだが、ヴィンヤード島の健聴者
の場合、幼児期に手話を覚えることが多かったので、このような
影響はあまりなかったのかもしれない。
インフォーマントの多くは、手話の語順が英語とは違っていることや、
一つの手話で『さまざまなもの』をあらわせることに気付いていた。


『ここいらの人間は、日ごろ顔を合わせる機会が多かったので、
手話を素速くあらわすことができました。
手話はたくさんの内容を短く縮めてあらわせます。
たった一つの単語で、一つの文章をまるごとあらわすことさえできる
のです


また多くのインフォーマントが、ろう者とろう者が話す場合と、
健聴者とろう者が話す場合とで、手話の種類や語順に差はないと
証言した。
島外のろう者には、健聴者と話すときに、アメリカ手話(ASL)を
使わないで、英語的手話(サインド・イングリッシュ)(英語を手話に
逐語訳したもの)に切り換える者がいることを考えると、これは意味
深長な事実といわねばならない。
島ではせいぜいのところ、手話が得意でない者と話すときに、
『日ごろ接する機会のあまりない者と話す場合のように』、
ろう者がゆっくり手話をあらわすというのが、唯一例外といえる例外
なのであった。



手話と英語の二言語併用法(バイリンガリズム)は、この共同体
では日常生活のすべての面にいきわたっていた。
意思の疎通にかかわるあらゆる情況で、手話が欠かせなくなって
いた
のである。
インフォーマントたちは、島のろう者が自由に加わっていたことを、
こぞって証言している。

チルマークに出かけたりすると、そこで何人もつんぼの姿を見かけ
ました。
あまり大勢いるので、だれもその存在を気にかけなくなっていたの
ですが、まだ幼かった私は、その場のやりとりを見ているのが
おもしろく、一体、何を話しているのかと、好奇心をうずかせたもの
です。
親睦の集まりか何かがチルマークで開かれたりしますと、みなそこに
集まり、あの人たち〔ろう者たち〕も他の人たちと変わることなく、
いっしょになって興じていました。
あの人たちは――いいえ、私たちは、みな心ゆくまで
楽しんでいたのです。」

「また別のインフォーマントは次のように回想している。
『ええ、タウンのたまり場には、たいてい連中も顔を出しました。
私たちは毎日のようにチルマークの郵便局にいって、届いた物を
受け取っていたのですが、そこで連中と顔を合わせることは、
少なくありませんでした』

ニューイングランドの小さなタウンの多くがそうであったように、
チルマークでも、雑貨店を兼ねた郵便局はうわさやニュースや
ゴシップの集まる場所となった。
人びとは夏は表のポーチに腰をおろし、冬はだるまストーブの
まわりに輪を作った。
私が話をした人の多くは、ろう者がその中に加わっていたことを
はっきりと覚えていた。
80代後半のある老人は次のように回想する。

腰をおろして郵便物が届くのを待ちながら、私たちはよく話に
花を咲かせたものです。
そんなときは、ろう者もいっしょでした。
みんないっしょでした。
ろう者は仲間として一座に加わっていたのです。
漁師やら、農夫やら、いろんな人がいました。
ろう者も、私たちと同じように、何か変わったことがないか知り
たがりました。
話が始まると、みなが話についていけるように、たいてい口話と
手話が同時に使われました。
きこえる者よりきこえない者の方が多い場合には、もちろん全員が
手話を使うこともありました。それが一つの作法みたいになっていた
のです。

また別の男性は次のようにいう。

『何人かが集まっていて、その中にろう者がいるとき、そのろう者は
話し合いの輪に加わるもの、冗談や話題についていくのも、まったく
意のままにできました。
いつも一座にとけ込み、仲間はずれになることなど、
いっさいなかったのです』

この男の妻は次のように回想する。

そこでは郵便物を受け取ったり、塩漬けの豚肉を半ポンド買ったり
してました・・・。
毎晩、人が集まってました。
中にはろう者もおり、手話を使い、きこえない者同士で話しをする者、
きこえる者に話しかける者、人さまざまでしたが、
片方だけが一方的に話すということはありませんでした。
それがふつうのことだったのです。
小さな子供も・・・手話を知ってました。
大人が話を打ち切って子供に手話で話しかけ、クスクス笑っている
光景もよく目にしたものです。」


「また別の人は次のように回想する。

手話を覚えたのは子供のころです。
タウンの人間はみんな手話を知ってました。
ええ、そうです。
あの人たち、とくに男の人は、毎晩、郵便局に集まってました。
6人から8人はいたでしょうか。
分け隔てなどまったくありません。
みんな手話を知ってましたから。
みんながあの人たちと話をしました。
それは、しゃべれる人間と話すのと、何のちがいもなかったのです。




「ある女性は島西部出身の親戚のことを話してくれた。
かれらは健聴者で、まわりにろう者の近親は一人もいなかった
という。

『あの人たち、よく手話を使って話をしてましたが、意識して使って
いたのではなく、ちょうど知らぬ間に頭をかいているのと同じように、
知らぬ間に手が動いていたようです。
すっかり体が覚え込んでいたみたいで、話をするときは、
手話になったり、口話になったり、それは目まぐるしいものでした


また別の男性は、郵便局や浜辺にいけば、いつでも手話を目撃
できたといい、次のような話をしてくれた。
『あのころは今みたいに、一日中浜辺に出ていたのですが、
浜に集まって大勢でワイワイやっていると、家の中の問題とか、
おおっぴらには口にできない問題とか、そういったことが話の種
になることがありました。
で、そんなときは、みんなピタッと口を閉ざし、向きなおっておもむろ
に手話を使い始めたわけです』」


「離れて話をするとき、手話の方が使いやすいと思えば、
つんぼの者もそうでない者も、しばしば手話を用いる。
見やすい位置や頭上に両腕を振りあげることで、ノース氏〔ろう者〕
と夫人は、たとえば人の声がまったく届かないほど離れていても、
お互いの意思を伝え合うことができるのである。」


「次は『ボストン・サンデー・ヘラルド』紙(1895年)からの抜粋。

チルマークでは、家の裏口で、毎日世にも珍しいパントマイムが
繰り広げられる。
たとえばこんなふうに――。
人里離れた農家にくらしていて、いちばん近い隣の家まで200
メートルあったとしよう。
どちらの家も男たちはみな漁師で、こちらは小型の望遠鏡を手に
している。
朝の8時に戸口のところに立つ。
相手も戸口のところに立っている。
望遠鏡を手にして、うけに入っていたロブスターの数とか、
とりとめのない女のうわさ話とかを手話で伝える。
伝え終わると、今度は望遠鏡を手にした相手が、手話で答える
のに目をこらすのである。」


「漁師たちは氷が張る前の海に船を出したが、そうした船上で
手話が使われることもあった。
ある男性は次のように回想する。

『ヴィンヤード海峡やゲイ・ヘッドの沖合で、うけをたぐり込んでいて、
船がちりぢりになってしまうと、漁師たちは、どのくらい、うけに
かかっていたかなど、やりだすんです。
みんな健聴者だったのですが、船と船との距離が開きすぎていて、
叫んでも声が届かなかったのです』

島外から移ってきた別の男性は、始めて手話を目(ま)の当たり
にした時のことを、次のように語っている。

義父〔健聴者〕は海上で弟〔これも健聴者〕の船とすれちがうと、
〔手話を使って〕話をしました。
そのやりとりを初めて目にしたのは、バイト号という名の船に
乗せてもらい、義父と二人で初めて、――あるいは二度目に、
ヴィンヤード島を訪れたときのことです。
『ほら、あそこにゼノがいる』――そういったかと思うと、義父は
ロブスターを何匹捕まえたとか、この糸のかかりはよいが
あの糸のかかりはよくないとか、そんなことを向こうの船に
向けて告げ始めました。
相手との距離は、ゆうに100メートル、いや150メートルは
あったでしょう。
二人とも〔頭の上の〕ここらへんまでまっすぐ手をのばし、
お互いが読みとりやすいようにしてました。」


「島外出身のある女性は次のように証言する。

『夫はある専業の漁師といっしょに、漁船や遊覧船で海に
出てましたが、この方は入港のとき、海岸に立っている人に
向かって、その日どのくらい漁獲があったか、手まねで伝えて
おりました』

島では漁業がさかんになるずっと以前に、手話が常用される
ようになっていたようだから、島の手話はとくに海上生活の
利便をはかるものとして発達したのではなかったらしい。
したがって船、漁具、魚介類などをあらわす手話は、後になって
からつくられたと見るべきだろう。
そうはいっても、手話がきわめて有効な海上の意思伝達手段
であったのはまちがいなさそうで、陸上のみならず海上に
おいても、手話は日常的に用いられていたと思われる。

英語と手話を併用する共同体では、手話を使っているかどうかが、
共同体の構成員であるかどうかの目安となるが、これは
ヴィンヤード島の場合も同じだった。
島民たちは島外の人間を話題にする際に手話を用いることで、
部外者とのあいだに一定の距離をおくことが少なくなかった。」


結婚
「ヴィンヤード島では、ろう者が結婚するのに何の妨げもなかった。
適齢期に達したろう者の約80パーセントが結婚したが、これは
島の健聴者の結婚率とほぼ同じである。
19世紀において、アメリカ全体のろう者の結婚率がほぼ
45パーセントであったことを考えれば、島の結婚率の高さが
わかるであろう。〔※8〕
80パーセントという数字は、今日のアメリカのろう者の結婚率と
比べても高率なのである。

ヴィンヤード島では、1816年以前に生まれたろう者の
73パーセントが結婚したが、そのうち相手が同じろう者だったのは、
わずか35パーセントにすぎなかった。
これは19世紀末の全国平均が79パーセントであったことを考えると、
かなりの低率である。〔※9〕
シャインとデルクの見積もり〔※10〕 によると今日のアメリカでは
ろう者の結婚の80パーセントは夫婦ともろう者であり、7パーセント
はどちらか一方が難聴者〔軽度の聴覚障害者〕であるという。
おそらくこの共同体が英語と手話の二言語を併用していたために、
その構成員である健聴者とろう者の結婚が、島外よりありふれたものに
なったのだろう。
加えて島のろう者は、島外の同時代のろう者よりも早婚だった。
当時の島外のろう者が20代後半まで結婚せず、〔※11〕
また現代のろう者もそのころまで結婚しないのに対し、島のろう者の場合、
男性は平均22歳、ジル余生は平均20歳で結婚した。
これは島の健聴者が結婚する年齢と実質的に同じだった。
再婚率もろう者としてはきわだって高かった。
夫婦のどちらか一方が亡くなると、たいていのろう者は再婚し、
老いてから後家になった場合を別にして、一年も二年もやもめぐらしを
続ける者はまれだった。
再婚や再々婚はいうにおよばず、再々々婚さえおこなわれることが
あった。
島のろう者たちは、新しい連れ合いを見つけるのに、たいして苦労
しなかったようである。
17世紀から18世紀にかけて、離婚は極端に少なかった。
この間に離婚した島民はごくわずかであり、その中にろう者は一人も
含まれていない。
19世紀の後半になっても、離婚は相変わらず少なく、不道徳なものと
見なされることが多かったが、このころ島では、二組のろうの夫婦が
離婚している。
本土でくらすろうの夫婦の場合、耳のきこえないことによる
社会的経済的圧力が、結婚生活にいっそうの緊張をしいるため、
離婚率は島よりずっと高かった。〔※9〕」


家族
「島ではどの時代でも出生率が異常に高かった。
健聴とろうの夫婦に生まれた子供の数を比較できる統計は、
19世紀の中期から後期にかけてのものしかない。
この期間のマサチューセッツ州の既婚者には、平均で4.11人
の子供がいたのに対し、〔※9〕 同時期のヴィンヤード島の
既婚者には、平均で6.1人の子供がいた。
島のろう者の場合、島全体の平均よりごくわずかに少ない
平均5.9人の子供がいたが、これは人口の少なさを考えると、
統計上無視できる差異である。
島のろう者に生まれた子供の数は、ろう者の全国平均と
比べると、いっそうきわだった数値となる。
全国レベルで見ると、たとえば1880年代には、おそらくは
晩婚や経済的制約のためであろうが、ろう者と健聴者の夫婦
には、平均で2.6人しか子供がいなかった。〔※9〕
これは健聴者同士に生まれた子供の平均出生数の半分にしか
ならない。
ろう者同士が結婚した場合、子供の数は、微減ながらこれ以下
となる。
20世紀の後半に入ってからも、ろう者同士の夫婦およびろう者
と健聴者の夫婦の出生率は、健聴者同士の夫婦の出生率より
依然として低いままである。〔※10〕
ヴィンヤード島では、ろう者とろう者が結婚した場合と、ろう者と
健聴者が結婚した場合とで、出生数に統計上の差異は認められ
なかった。
島のろう者の出生率を高めるのに、社会的要因が大きく寄与して
いたことはまちがいあるまい。
共同体に完全にとけ込めたおかげで、社会的にも経済的にも
恵まれた立場にあった島のろう者は、島外のろう者より早い時期
に結婚して、〔※5〕 大家族を養うこともできたのである。」


くらし向き
「ヴィンヤード島の水準からすれば富裕といえるろうの男女のうち、
資産を受け継いで金持ちになった者も、わずかながら存在する。
とはいえ大半の者は、忍耐と倹約という昔ながらの北部人の
処世訓を守って、その地位を築き上げていった。
ナサニエル・マンは、さほどの資産家ではないろうの両親のもとに
生まれた。
父親はナサニエルがまだほんの子供のころに他界し、母親の
蓄えもすぐ底をついた。
成人して、ナサニエルは漁師兼酪農場の所有者となった。
1924年にこの世を去ったとき、チルマークに広大な土地を所有
していたナサニエルは、25万ドル以上の資産を有する大金持ち
としてその名をはせていた。
ナサニエルのろうの兄、片腕のジェディダイアは、一応金持ちと
見られてはいたが、弟ほどの資産家とはいえなかった。
家計のやりくりに苦労したろう者も何人かおり、中でも未亡人や
病気持ちの老人のおかれた情況はきびしかった。
それでもそうしたろう者たちは、老齢や病気や災難などのために
蓄えをはたいてしまったり、働けなくなったりするまで、自給自足
のくらしを維持しようとした。
タウンの貧民救済農場の名簿には、ろう者の名前は一人も記載
されていない。
アメリカ全体では、ヴィンヤード島とは対照的に、ろう者のくらし
向きはよくなかった。
19世紀になると、ろうのアメリカ人の中には、植字や機械操作
などの専門技術を身につける者もあらわれたが、それでも
たいていのろう者の平均所得は、健聴者のそれを大幅に
下まわっており、健聴者と比べてケタはずれに多くのろう者が
ワリの合わない仕事に甘んじていた。〔※14〕
こうした情況は今日のアメリカでも変わっていない。
現在でも、ろう者の平均所得は、健聴者のそれと比べて、
男性の場合30パーセント低く、女性の場合40パーセント低い
のである。」


政治参加
「アメリカ合衆国とマサチューセッツ州の法律は、成人ろう者
の参政権、選挙権、被選挙権を否定しなかった。
とはいえ19世紀以前は、ろう者の政治参加を認めるべきでは
ないとするのが大勢だったため、ほとんどのタウンや市では、
これが議論の的となることが少なくなかった。
ヴィンヤード島では、そのような形でこれらの権利が制限される
ことはなかった。
ろう者は積極的にタウンの政治に関与しただけでなく、民兵
としての登録もおこなった。
成人ろう男性のすべてが選挙権、被選挙権を与えられていた
らしいし、中には、政治に深くかかわったろう者もいたようである。
たとえば数名のろう者が、石壁の見回り役、教育委員会委員、
公道監視官などの公職につき、繰り返し再選されている。
また何年にもわたって、数名のろう男性が、貧民救済農場管理
委員会の委員に任命されたり、選出されたりしている。
タウンの記録にはろう者が行政委員会(タウンの運営委員会)
の委員をつとめたという記述はない。
とはいえ同じ行政委員が15年も20年も続けて再選されるのが
通例であったから、ろう者であるなしを問わず、その中にわり込む
のはなかなか困難だったようである。」


法的義務
「ジョナサン・ランバートが初めてヴィンヤード島の土地を購入
した1694年から、島の最後のろう者がこの世を去った1951年
まで、島のろう者は、一人を除いて、全員があらゆる法的な義務
と権利を認められていた。
ろう者であっても、土地の購入や契約書の署名が可能であったし、
本人名義の供託や遺書の作成もできたわけである。」


社会生活
島のくらしのあらゆる面についてそうであったように、人間関係の
面でも、ろう者と健聴者を区別した者はいなかった。
どのインフォーマントも、ろう者だけがかかわっていた社会活動を
一つとしてあげていない。
各種各様のろう者クラブや活動が多くのろう者に触れ合いの中心
となっている本土とちがって、ヴィンヤード島では、ろう者も健聴者も、
いっしょに島内活動に加わっていたのである。

それは単に、島の健聴者が、ろう者を自分たちの中にあたたかく
迎え入れたというだけではなかった。
ろう者の方でも、健聴の家族や友人や隣人から離れて、独自の活動
を始めようとはしなかったようなのである。
ろう者がろう者しか仲間として認めなかったとしたら、そのろう者は
配偶者、きょうだい、親友、隣人、子供たちを仲間から除外せざるを
えなくなり、そうした人たち全員を傷つけてしまうことになったはずである。
島のろう者のあいだにはかなり親密な友情があったが、ろう者としか
付き合わない人間や、付きあいの範囲がほとんどろう者だけに
限られている人間は、皆無といってよかった。

友情をはぐくむ基盤となったのは、ろう者であるとないとを問わず、
ともに育った人間や近くでくらしていた人間だった。
島のろう者が、ハートフォードで知り合った島外のろう者と、ずっと
関係を保ち続けていたということもなさそうである。
さらに島のろう者は、本土のろう者にとっては重要な社会的きずな
であるろう者の州組織や全国組織にも加入しなかった。
わかる範囲でいえば、島のろう者は、自身を他と異なる社会集団
とは見なしていなかったのである。

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by bunbun6610 | 2013-10-04 18:00 | 手話
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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610
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