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『みんなが手話で話した島』(ノーラ・E・グロース/著) 1/3

『みんなが手話で話した島』
(ノーラ・エレン・グロース/著 佐野正信/訳)
(1991年11月11日/初版発行 築地書館株式会社/発行所)

【著者】
ノーラ・エレン・グロース=1952年生まれ。文化医療人類学者。

【訳者】
佐野正信=1959年静岡県生まれ。8歳のとき、ストマイにより失聴。
翻訳家。杉並区聴覚障害者協会理事。


「ハンディキャップが文化によって生み出されるものである以上、
われわれはみな、それに対して責任を負っている
――著者のこの指摘には大きな意味がある。
・・・読む者に感動と勇気を与える書」
(『ヴィレッジ・ヴォイス』)


「申し分のない論証と真に迫った描写・・・聴覚障害者の立場に
たつ説得力のある調査報告」
(『サイエンティフィック・アメリカン』)


「差別はいつでもどこにでも存在していた
・・・この仮説の正当性に疑問をさしはさむ」
(『クォリティティヴ・ソシオロジー』)




http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN4-8067-2220-0.html

http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/2220n.html

http://www.thesalon.jp/themagazine/culture/post.html

http://idea-labo-beta.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

http://blog.livedoor.jp/aonoharuka/archives/1660360.html


これが国連・障害者権利条約の批准、そして目的達成への
カギになるのはもちろん、聴覚障害者の就労問題も
解決する、重要ヒントにもなっていると思います。

もうすでに過去の事実だが、
もしも、現代社会がこの島のように進歩したならば、
国連・障害者権利条約の役割も終わることだろう。
それが理想社会の到来なのだと思います。

障害者問題の解決は、障害者も含めた経済活動も
活発になることを意味し、経済全体を好転させるだろう
と思います。

ボランティアも障害者福祉もいらない社会なんて、
それこそ聴覚障害者にとってだけではなく、
健聴者にとっても理想ではないでしょうか。

また、手話学習者にとっても、ろう者の手話を
覚えるにはどうすればよいのか、知るきっかけを
得られるかもしれない。


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訳者あとがき(訳者注解)
「・・・本書の訳語にいわゆる『差別用語』が用いられている点について、
少し触れておきたい。
正直いって、deaf and dumb や deaf-mute と『つんぼ』や『おし』が、
ぴったり対応しているとは思わない。
だがこの場合、『ろうあ者』などとしたら、原語のイメージを伝えていない
のは明らかである。
島民が現在の一般的なアメリカ人にとっての侮辱語を平気で使っている
のだという事実を読者に隠してしまうのは、訳者個人の『差別用語』観は
別にして、翻訳家としての義務怠慢だと考える(蛇足ながら、訳者は
聴覚障害者である)。


また『つんぼ』や『おし』とバランスをとる意味で、他の障害についても
意図的に『差別用語』とされる訳語を用いた箇所がある。

人によっては――とくに当事者によっては、本書が障害の遺伝問題を
おおっぴらに扱いすぎていると感じるむきもあるかもしれない。
しかし著者は、偏見をあおるために本書を書いたのではない。
むしろその逆である。
基本的に遺伝問題は、変に隠し立てをするより、科学的で正確な知識を
キチンともつことが大切ではないかと思う(個人のプライバシーをまもるのは、
また別の問題である)。」



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「マーサズ・ヴィンヤード島は、マサチューセッツ州南東部の
大西洋岸から8キロほど沖合いに浮かぶ島である。
1640年代に北部人(ヤンキー)の開拓者が対岸のケープゴッド
から移住したこの島は、ほとんどの時代で農業、漁業を主産業
とする、生活水準のさほど高くない土地だった。
だがこの隔離された島には、よそでは見られない特徴があった。
この特徴によって、ヴィンヤード島は今日的な意義をもつことになる。

島では300年以上にわたり、先天性のろう者の数が飛び抜けて
高い比率を示した。
これは遺伝性の聴覚障害が原因だった。
アメリカにやってきたイギリスの初期開拓者のもたらした遺伝子が、
結婚を通じて子々孫々に伝えていったのである。
とはいえ初期開拓者の小さな核集団が、島とか高山に挟まれた
谷間とかのような、比較的外部から遮断された土地でくらすという
ことなら、ほかにも事例がないわけではない。
人類学者が同族結婚と呼び、遺伝学者が『創始者効果』と呼ぶ
この婚姻形態は、すでに世界中の多くの共同体で報告されている。

それではヴィンヤード島に限って見られた特徴とは何かといえば、
それはこうした遺伝の発生に対して、社会的、に適応してみせた
ことである。
ヴィンヤード島では、300年以上にわたり、健聴者が島の手話を覚え、
実生活の場でそれを用いていた。
島の健聴児の多くは、ちょうどメキシコとの国境沿いでくらす今日の
アメリカの子供が英語とスペイン語を覚えてしまうのと同じように、
英語と手話という二言語を完全に併用しながら大人になっていった。


ろう者の社会生活や職業生活を制限しているのは、聞こえないという
障害ではなく、まわりの健聴世界との間に立ちはだかる言葉の壁なのだ

――ろう者がしばしばこう発言しているのを考えると、ヴィンヤード島で
見られた情況には大きな意義があるといえよう。
そのような壁が取り除かれたとき、どのような情況が生じるのだろうか。
ろう者は、そしてまたほかの障害者は、社会が万人に適応しようとした
場合、自由に社会にとけ込めるのだろうか。

ヴィンヤード島は、こうした問いかけに対する答えを見つけるのに
うってつけの場所である。

そしてここ10年間、障害者の権利拡大運動が世界中で大きな盛り上がり
を見せていることを考えると、現在ほど、こうした問いかけをするに
ふさわしい時期もない。

障害者や障害者の集団が、障害者の多くは、肉体や感覚や精神の障害
から生じるのではなく、障害者のまえに立ちはだかっている壁
――つまり人間関係や障害者観や法律の壁から生じるのだということを
声高に主張している。

かれらのいい分はこうである。

『少しだけこちらに合わせてください。
そうすれば社会のお役に立てますから』。

今や障害者の問題は、医学とリハビリテーションの領域から市民権の
領域にその射程を移し変えている。

障害をもつ市民が社会にとけ込もうとしたとき、本当に社会の側では、
そうした情況に適応したり、そうした情況から何かを引き出したりできる
のだろうか。
ヴィンヤード島の住民が300年間にわたって経験したことは、この問いかけ
について考える手がかりを与えてくれるはずである。
それは私たちすべての将来とじかに関わる『自然の実験』だったのだから。」


「遺伝性聴覚障害については、これまで約70のタイプが確認されている。〔※1〕
これらのうちの半数強は、色素性網膜炎、皮膚や外耳の異常、白皮症、
甲状腺腫、腎炎、心臓病等の異常と関係し、特異の症状郡を形成している。〔※2〕
これら以外の遺伝性聴覚障害のタイプは非特異的であり、関係する
疾患をもたない。〔※3〕
つまり聴力損失を除けば正常といってよい。
ヴィンヤード島の聴覚障害も非特異的であったのではないかと思われる。
この障害をもった人びとは一見みな正常で健康そのものに見えたが、
あらゆる周波数の音域で音を識別することができなかった。
古い写真を見ると、こうした人たちの外耳はまったく正常であるように
見える。
判明している島のろう者について、私はカルテや死亡記録を数例発見
したが、それらの中に、単一の死因とか特異的な遺伝性障害と関係
する長期的疾患とかを示すものは、一つとして存在しない。〔※4〕
遺伝のパターンは、その特質としては劣性のものであったと思われる。

島で先天性のろう者として生を受けたすべての子供の85パーセントが、
父も母も健聴である両親から生まれている。
聴覚障害が直系の子孫に発生した場合、しばしば二世代か三世代
――六世代というのも一例ある――の間隔をおいてあらわれているが、
これは劣性遺伝に見られる特徴である。
男女の発生率はほぼ同じである、私がこれまでにようやく確認できた
ろう者の数は、男性が29名、女性が34名であった。
このほか、名簿にろう者と記載されている子供を9名確認しているが、
この子供たちについては性別を明らかにする記録がみつかっていない。」


「島のタウンの中でもっとも隔離の度合いの激しいチルマークでは、
19世紀の半ばまでに、健聴者とろう者の比率は25対1になっていた。
60人ほどの島民がくらすチルマークのある小居住区などは、その比率
が何と4対1であった。
18世紀から20世紀にかけて平均人口わずか300人たらずのタウンで、
先天性のろう者が全部で39人も判明しているのは驚きである。」


「ヴィクトリア朝〔1837年~1901年〕の科学では、遺伝的性質は
父〔母〕から子、子から孫、といったように、直系の子孫に受け継がれる
と考えられていた。
父〔母〕、祖父〔祖母〕、あるいはもっと隔たった直系の先祖がろう者でない
ならば、ろう児が遺伝によって障害を受け継いだなどとは考えられなかった。
これ以外の、おじ、おば、姪、甥、近縁、遠縁のいとこなどといった縁者
との結び付きは、かりにその人物がろう者であったとしても、はなから
問題にされなかった。
せいぜいのところ、聴覚障害は『血筋』によって生じるのだというぐらいが
関の山だった。
〔※16〕

ダーウィンでさえ、うまく説明できないでいた。

『つんぼは数人がまとまって同一家族の中にあらわれることが多く、
またいとこなど他の縁者にあらわれることも多いが、それにもかかわらず、
親の方がつんぼである場合が少ないのは不思議な現象といわねばならぬ』

これは1868年にダーウィンが書いた一文である。
その結論部分はこうなっている。

『現在のわれわれの知識では、このような事例は、すべて理解不能として
おくのが無難であろう』〔※17〕
科学者たちが家族の遺伝パターンを理解する手がかりを得たのは、
1900年にグレゴール・メンデルの劣性遺伝の考え方が知られるように
なってからである。
ベルはヴィンヤード島で聴覚障害がどう遺伝されていたのかを理解して
いなかったが、聴覚障害が遺伝とつながっていることには確信があったらしく、
ろう児の生まれる可能性がある以上、ろう者同士の結婚はみあわせるべき
だと主張した。

聴覚障害がヴィンヤード島の島民のような一つの個体群の中で高い
発生率を示すとすれば、寄宿制学校にろう児を囲い込むのは、ろう者同士
の結婚を助長させ、一つの純粋品種、つまり先天性のろう児という『変種』
を生み出してしまい、つまるところ、いたずらに問題を複雑にするだけの
結果しかもたらさないのではないか――ベルはこう警告した。

ろう者は族内婚を差し控えるべきだとした学者は、何もベルが初めてでは
ないが、〔※18〕 このようなベルの所説は、世間一般の人にこの問題を
考えるきっかけを与えるとともに、その後ろう社会でえんえんと続くことに
なる論争の引き金にもなった。

ベルがヴィンヤード島で集めた情報は、『人類にろう者という変種が形成
されたことについての回想録』と題する名高い研究論文の核心をなすもの
であった。
その後20世紀にいたるまで、優生学者たちは、ほぼ全面的にベルの
データに依拠して、アメリカのろう者はむやみに結婚すべきではないとする
論文を発表し続けた。
ろう者の中には不妊手術を施される者もいたが、その際、本人には無断で、
あるいは本人の意思を無視して、手術がおこなわれることも少なくなかった。

にもかかわらずこうした学者たちの大半は、ベルが結論を導く際に依拠した
データに疑問を投げかけようとはしなかった。

ベルのノートはつい最近入手できるようになったが、これを読むと、
劣性遺伝の性質に関するメンデルの理論を知らないために、
家族に聴覚障害が発生する問題について、まったく見当ちがいの結論を
出してしまっているのがよくわかる。
調査には細心の注意を払うベルのことだから、ジグソーパズルのピースが
一つ欠けているのに気づかなかったわけではない。
私はノートのあいだに、一枚のメモ用紙がはさまっているのを見つけた。
聴覚障害のあらわれそうな家族に、4人に1人しか先天性のろう者がいないのは
なぜなのだろう――そこにはこんな自問が書かれていた。
高校で生物を習った人間ならだれもが知るように、メンデルの劣性遺伝の
性質は4人に1人(25パーセント)の確率で各子孫にあらわれるのである。



島民は幼児期に手話を習得した。
健聴児やろう児の手話習得法をたずねると、どのインフォーマントも、
子供は英語を覚えるときと
同じように、成長とともに自然に手話を覚えてしまうのだと答えた。
家の中でろう者といっしょにくらしていると、『見よう見まねで手話を覚えて
しまう』のだという。
これは大勢の人が証言するところである。

たとえばろう者を母にもつある女性はこんなふうにいう。

『深く考えたことはないのです。
自然に身についてしまいましたから』

また別の年配の男性によると、ろうの父と健聴の母をもつ健聴のいとこ
〔女性〕は、話し言葉よりもさきに、手話を覚えてしまったという。

『あれは英語ができないうちから、手まね〔デフ・アンド・ダム〕ができたんだ。
ほんの小さいころに覚えてしまったと、よくきかされたよ。
・・・耳のきこえる母親とは話せないのに、〔父親の方とは〕話が通じるんだ。
みんなこの話をよくしてたな』

これまでの調査によると、幼児期に手話と接触したろう児は、少なくとも
健聴児が言葉を使い始めるのと同じ時期に、手話を使い始めるという。
調査によっては、手話を使う能力の獲得が発語能力の獲得より数ヵ月先行
する例もある。
ろう児の語彙習得率は、そのろう児が手話使用者であれば、健聴児の習得率
と実質的に一致し、5歳ごろまでにどちらも1000語以上の語彙を習得する。

これに対し、口語だけを教え込まれ、手話と接する機会をもたなかったろう児
の場合、5歳までに習得する機能語彙は、わずか数十語にとどまることが
少なくない。
ろうの親をもつ健聴児の、手話と英語の習得については、これまでの研究から、
両言語の同時習得は容易であることが明らかになっている。
〔※2〕」


ろうの家族のいる家ではもちろん、ろうの家族のいない家でも、親は子供に
手話の手ほどきをした。

上手に手話を操るためには、たえず手話を使い続ける必要があった。
次はある老女の回想である。

『小さいころは、もちろん手まねや指文字をたくさん知っていましたが、
Mさんに『クリスマスおめでとう』を伝えようと思い、はたと当惑してしまいました。
『クリスマスおめでとう』の手話をまだ知らなかったのです。
そこでMさんの奥さまは耳のきこえる方だったのですが、そのあらわし方を
教えてくださいました。
こうしてMさんに『クリスマスおめでとう』を伝えることができましたが、
そのときのMさんの喜びようといったら、それはもうたとえようもないほど
だったのです』

それからこの女性は、現在70代後半の息子に、どのように手話を教えたかを
話してくれた。

『仔猫』、『犬』、『赤ちゃん』などの手話を教えてあげたのは、あの子が3歳
くらいのときです。
そのころ、耳のきこえない方で、雑貨店に顔を出し、人の出入りを見ている
のが好きな方がおりました。
ある日のこと、あの子といっしょにその店に行きましたところ、その方の姿を
みとめましたので、あの子に向かって

『さあ、あそこにいるTさんに「こんにちは」をしていきなさい』

と命じたのです。
あの子がそのままあいさつにいきましたので、私はさらに、あれこれ、猫とか
犬とかあらわしてごらんなさい、といいました。
そうしたら、まあ、Tさんの喜んだこと、こんなちっちゃな子が手話でいろいろ
話したものですから、それはもうたいそう喜んでくださいまして、さらにいくつかの
手話をあの子に教えてくださったのです。
あの子はそうやって手話を覚えました――私たちもみなそうやって手話を
覚えたのです。

インフォーマントの中に、きちんと手話を習った者は一人もいなかった。

『それは、どういったらいいんでしょうか、たぶん本能のようなものだったと
思います。
・・・手話を覚えないわけにはいかなかったのです。
いつでも、それを目にしてましたから』


島西部の住民はかならず手話を覚えなければならなかった。

『手話はぜひとも身につける必要がありました。
だれもが手話を知ってました。
・・・手話を知らないでは、ここのくらしが成り立たなかったのです』



「次は島西部のおばを定期的に訪ねていた、エドガータウン出身のある婦人
の回想である。

おばはつんぼの人と同じように、手まねができました。
〔島西部には〕つんぼの人が大勢住んでいて、たいていの人が手まねを使って
いました。
・・・私自身、みなが手まねの使い方を知っているのは当然だと思っていたようです。
手まねで話し合っている光景はごくありふれたものだったので、あまり人の
注意をひきませんでした。
そのころの島の人は、ほとんどが手話の使い方を知っていたのです。



「1931年、『ヴィンヤード・ガゼット』紙のコラムで、島のお年寄りの何人かを
選んで、その略歴が紹介されたことがある。
取り上げられた島民の一人はろう者であった。

ノース氏が子供だったころ、チルマークにはつんぼがかなりくらしており、
身近に同障の者をもたぬまま生まれた場合とくらべて、氏も気なぐさみを
感じることが多かったと思われる。
氏のきょうだいには、つんぼだけでなく、完全に話せてきこえる者もいく人か
いた。
ほかに大人や子供のつんぼが大勢おり、その数の多さのためだろう、
チルマークで手話を使いこなせぬ者は、ごくわずかしかいなかった。

大人になってからこの地域に移り住んだ人たちでさえ(そのほとんどは
古くから島西部でくらしている家族に嫁いだ人たちである)、
手話を覚えるのに労を惜しまなかった。



「1920年代末にチルマーク出身の男性と結婚し、現在70代後半のある
女性は、次のように語っている。
結婚してから、チルマークで手話を覚えました。
うちの人が教えてくれたのです。

うちの人はチルマークの育ちで、そこのつんぼの人とはみな知り合いでした。
それで私も会話を楽しめるくらいには、手話ができるようになったのです。
・・・〔系統立てて手話を習ったのかどうかという問いに対して〕いいえ、あの人
の教え方は・・・何といったらいいんでしょうか、ほんのときたま、ごくたまに、
いろんな手話を教えてくれるというだけでした。
時間を決めての勉強とか、そういう形ではありません。
ただ話ができるようになればいいという、それだけのことだったのです。
手話を覚えたいと思ったのは、手話のやりとりを見ているのがおもしろく、
私もいっしょに話してみたいと思ったからです
――だってそうでしょう、あの人たちも、お隣りさんだったんですから
』」


手話がごく自然に習得されていたことは次のような話をきくといっそう
はっきりする。
これは1930年代の初めにチルマークに嫁いだ女性の証言である。

そうですね、手話を習ったのは、ええっと、だれからでしたっけねえ。
たぶん、お隣りのアビゲイルからだったと思います。
アビゲイルに教わるまで、手話は知りませんでした。
私は北で生まれ、それから結婚して、チルマークに移りました。
チルマークに移って、すぐ手話を覚えたのです。
タウンではみんな手話で話していたので――みんなある程度手話を
知っていたので、これは私も覚えなければと考えたわけなのです。



「断定はできないにしても、島の健聴者はろう者と意思の疎通を
はかるのに不自由はしなかったと思われる。
島のろう者に読話のできる者は皆無だったようで、意思の疎通は
すべて手話でなされた。

何人かのインフォーマントは、日常会話で用いられないような
特殊な単語が出てくると、話が通じにくくなる場合があったと
証言している。
そんなとき島の健聴者は、もっと適当な手話表現をさがし、
あくまでも手話でその単語をあらわそうとするのがふつうだった。
ときには指文字を知っている者がその単語の綴りを一字一字
あらわすこともあったが、インフォーマントの中で指文字を
知っている者は半数以下であり、指文字を多用する者となると、
ほんのごくわずかしかいなかった。
指文字使用者の多くが指文字を『本来の』手話と思い込んでいた
のは興味深い。
このような見方は、20年前まで本物の手話に押されていた
烙印(ステイグマ)と軌を一にするものと見てよいだろう。」


「島の外のもっと広い社会では、健聴者は筆談でろう者と話をする
ことが多かったが、島の場合、筆談をおこなうことはなかったらしい。
17世紀から18世紀にかけて、ヴィンヤード島のろう者が文字を
読めたかどうかはわからない。
19世紀には、1人を除いてすべてのろう者が英語の読み書きが
できた。
これはおそらく、第二言語として学校で身につけたものと思われる。
ろう者の書いた手紙が数通残っているが、これらを読むと、英語を
書く力がじゅうぶんあったことがうかがい知れる。
たぶんろう者の多くは、必要があれば筆談で健聴者と意思の疎通を
はかれたはずだが、実際のところ、ろう者が筆談をするのを見覚えて
いる者はいなかった。
ほとんどのインフォーマントは、島のろう者の筆談を目撃したことは
いっさいないと証言した。

たとえばあるインフォーマントは、次のように語っている。

私の記憶では、だれも筆談はしていなかったと思います。
当時はまだ子供でしたが、それはたぶんまちがいないと思います。
それでもいわんとすることは、じゅうぶん通じていました。
そういう仕方が、当たりまえになっていたのです


島のろう者が筆談をしていたのではないかという証言が一つだけある。
近所に住んでいたろうの女性についてのある男性の記憶なのだが、
夫が夏の避暑客相手に牛乳と木材の販売をしていた関係で、
この女性は、島外から来た客人とうまく話せなくなった場合に備えて、
黒板の断片と一本のチョークをよく裏口に用意しておいたという。
島西部の共同体では、たえず手話が用いられていたので、
そこにくらす人たちは、だれでもすんなりと意思の疎通がはかれた
ようである。
そうですね、〔健聴者で〕手話が上手な者、上手でない者が何人ほど
いたか、本当のところ、記憶があいまいなんです・・・。
たいていの者は、手話を読み取るのも、あらわすのも、不自由して
なかったと思います。

あの人たちは、みな文章が読めましたが、手話を使えばこちらの
いいたいことは伝わりました。
通じなくて困ったという話はきいたことがありません。
そういう話は、まずなかったと思います。

ええ、手話はできましたし、あの人たちともうまくやってました。
私だけでなく、たいていの者がそうだったのです。

私は指文字は習いませんでした。
まあ、とにかく、かなりの人間が手話を知っていたのです。」

by bunbun6610 | 2013-10-03 18:00 | 『みんなが手話で…』(ヴィンヤード島)

ある障害者から見た世界


by bunbun6610