『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』(2/2)


『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』
(小山内 美智子/著 1988年9月16日/第1刷
ネスコ/発行 株式会社文芸春秋/発売)



この本は、最近話題になっている『はだしのゲン』と同じく、
閉架図書(※)になっている書籍です。


(※)[用語]閉架 - 図書館で、利用者が読みたい本や
資料を請求して書庫から取り出してもらう方式。Yahoo!辞書






「どうしてもおねしょがなおらない女の子がいた。
どうしておねしょをするんだろうと、みんなで考えると、
実は、その子は夜中に、

『おしっこ、おしっこ』

と小さな声で叫んでいることがわかった。
職員はずっと離れた職員室にいるので、
その声が届くはずがない。
いまのように、ブザーもなかった。

彼女はがまんできなくてその場でおしっこを
してしまうほかなくなり、朝、職員にみつかって
お尻をたたかれたり、寒い戸外に出されたり
してしまうのだ。

そこでみんなで話し合って、当番を決めることにした。
当番とその子の手を紐でつなぎ、おしっこをしたく
なったら、紐をひっぱって当番を起こすことにした
のである。
そして起こされた当番が職員を呼びにいく。

ところが、他の子どもたちも、昼間の訓練や勉強、
掃除、洗濯で疲れているから、紐をひっぱられても
起きられない。
私も、最初のうちは起きていたけれど、そのうち、
いくら『おしっこ、おしっこ』と言われても、
もうおしっこなんてしてもいいや、眠いんだから、
というふうになってしまった。

次の日、やっぱりおねしょをしているのがみつかって、
職員にお尻をたたかれたり、どなられる。
それをみているのは、自分がそうされているのと
同じようにつらかった。

もう一度、みんなで考えて、疲れていない子が
めんどうをみることにしたら、うまくいくようになった
のである。

忘れることのできない友だちのひとりに、
ルミ子ちゃんがいる。
ルミ子ちゃんは私より一歳下で、歩行器にぶら下がり、
片足でスイスイとこぎ歩く。
しかし、自分で歩行器をはずして部屋に入ることが
できなかった。

職員が介助に来てくれるまで、どんなに寒いときでも、
廊下にじっと立って待っていなければならなかった。

施設の廊下は暗くて寒く、まるで冷蔵庫のようである。
ある日、私が遅くなってから部屋に帰ると、
ルミ子ちゃんが廊下にぽつんと立っていた。
歩ける子はさっさと部屋に入って、暖かいスチームの
前で遊んでいるようだった。

『寒くないの?』

と声をかけ、ルミ子ちゃんの手にさわってみると、
氷のようだ。

かわいそうになって、ルミ子ちゃんの冷たい手に
ハーッと息を吹きかけた。
ルミ子ちゃんは私の手をつかんで泣きべそをかいた。

ルミ子ちゃんも早く部屋に入って、みんなと遊びたいんだ
と思い、自分が歩行器に乗っていたころのことを思い出
してみた。
あのときは、どんなふうにして部屋に入ったのだろう。

まず、入り口に対して後ろ向きになる。
そして少し高くなっている床の段差に歩行器をつけ、
がっちりおさえたところで歩行器からからだを離して
お尻から部屋に入ればいい。
私は歩行器を足でおさえて、ルミ子ちゃんにやりかたを
教えた。

『はい、がんばって!』

でも、ルミ子ちゃんは恐ろしがって、歩行器からからだを
離そうとしない。
首を横に振って、またべそをかいた。
私は腹が立ってきた。

『こんなことぐらい、できないの』

と、ルミ子ちゃんの胸を押すと、ルミ子ちゃんは突然怒りだし、
私の髪をひっぱってギャーとわめいた。
すると、部屋でままごとをしていた手のつかえる友だちが、
私たちを見にきた。
そして、ルミ子ちゃんがお尻をつくあたりにすわって
手をひろげてくれた。

『大丈夫。私がいるから痛くないよ』

ルミ子ちゃんのお尻がストンと床に落ち、
友だちがそのからだを抱きとめた。
部屋にいたみんなが、

『わーっ、ルミ子ちゃん、できたできた』

みんなで大拍手をする。
その日から、ルミ子ちゃんは廊下に立っていなくて
よくなったのである。」


「それから、しのぶちゃんの機嫌の悪いときは、
みんなで声を揃えて

『しのぶちゃんのおかあさん、きれいだものね』

と言うようになった。
しのぶちゃんはたちまちおとなしくなって
いい子になるのだ。
母がときどきかくれてお菓子を持ってくる。
手のつかえるしのぶちゃんに取ってもらい、
口に入れてもらう。
お菓子は半分、しのぶちゃんにあげる。
頭のいい子はすぐにごまかして、
私より多く食べてしまうが、
しのぶちゃんはそんなずるいことはしない。
しょっちゅうおねしょをしたころは、
夜中に私がしのぶちゃんを蹴とばして起こし、
一緒にトイレに行った。
しのぶちゃんは重い知恵おくれ。
私も知能指数60と決めつけられ、

『言ってもわからない子、知恵がおくれているから』

と言われてきたが、知恵おくれとは、
いったいなんだろうかと考えてしまう。
しのぶちゃんは確かに字も読めないし、計算もできない。
しかし、おかあさんを思う心、親切を素直に受け取る心、
頭のいい子といわれる子にくらべて、
決して裏切らない本物の心を持っていた気がする。

ルミ子ちゃんもしのぶちゃんも、よくおねしょをして
叱られていた。

ひとりの看護婦さんが、自分の布団を私たちの
部屋に持ってきて、一緒に寝てくれたことがあった。
すると、看護婦さんが一緒のあいだは、
だれもおねしょをしなかった。
部屋のみんなもとても安心して眠れたのである。

ところが、それが上の人にみつかって注意され、
看護婦さんは一緒に寝てくれなくなってしまった。
たくさんある部屋のなかで、一部屋だけ甘やかす
ことはできないというのが、施設側の言い分だった。

ルミ子ちゃんもしのぶちゃんも、夜中に看護婦さんを
起こしたわけではない。
一緒に寝てくれている、いつ呼んでもすぐに起きてくれる
という安心から、おねしょが止まったのだと私は思う。」


「母が面会にきたとき、毛糸とかぎ針を持ってきてくれる
ように頼んだ。

『そんなのつかえないだろ。だめだよ』

私が泣いて頼むので、母はしぶしぶ買ってきてくれた。
母の目のまえで、両足をつかって得意のくさり編みを
してみせると、母は両足を強くにぎりしめた。
足のうえに冷たいものがポットンポットン落ちてくる。
九歳だった私は、母の涙の意味がわからなかった。
また足をつかったので、あきれて悲しんでいるのかなと
思ったものだ。
その日から、母は私が足をつかっても、
なにも言わなくなった。

現在、歩行訓練や手をつかう訓練はあるが、
足をつかう訓練が行われていないことを、
私は残念に思う。
健常者と同じところを同じように動かそうという
訓練だけでは、絶対にだめだ。
動かないところはいくらやっても、動かないのだから。

それより、足でどうやって鉛筆を持つかとか
口でどうしたら字が書けるとか、残された機能を
生かすリハビリのしかたを発明してほしい。


高校に通いはじめ、足を自由につかうことを許されて、
私の足は手でもあるのだということを、
私は自信を持って考えることができるように
なったのである。」


「高校も卒業が近づいて、いよいよ職場実習がはじまった。
比較的障害の軽い人は、お菓子屋さんや洋裁店、
印刷屋さん、クリーニング工場などに実習に行くことになった。
私のような重度の障害になると、行き先がない。
できることといえば、足で絵を描くことと、足でカナタイプを
打つことだけである。

そのころ、テレビで老人ホームの番組をみた。
そうだ、老人ホームには寝たきりの老人がたくさんいて、
手紙を書きたくても書けない人がいるにちがいない。
目が悪くなったとか、口では言えても文章になると
どうやって書いていいかわからない人もいるはずだと
思って、先生に相談してみた。

『お年寄りから話を聞けば、タイプで代筆できる。
それを仕事としてやりたい』

先生は『そうか』と言って、真剣になってあちこちさがしてくれ、
ある老人ホームをみつけてくれた。
自分にもできることがあったという喜びでいっぱいだった。

私は毎日老人ホームに通った。
最初、バカにされたり、

『あっちへ行け』

と言われたり、頭をたたかれたりしたときには、
大きなショックだった。
やめてしまおうとも思ったけれど、学校のみんなが
仕事の話しをしているのに、私だけ黙っているのが
くやしくて、毎日行きつづけた。

行くときは千葉先生が送ってくれ、帰りは父が
迎えに来てくれた。
ホームの寮母さんや看護婦さんが食事や
トイレのめんどうをみてくれた。
いい人がたくさんいて、私を励ましてくれた。
ホームに通いはじめて四日目に、
やっとひとりのおばあさんが、

『手紙を書いてくれないかい』

と声をかけてくれた。

『なにを書きたいの?』

おばあさんは自分の身の上ばなしをはじめ、
私はそれを全部聞いてから、
『お元気ですか』ではじまる、手紙を書いた。
書き終わったものを読んであげたら、
おばあさんはたいへん喜んでくれた。

『わたしの言ったこと、こんないい文章にしてくれた』

そしてホーム中に見せて歩いた。

次の日から、みんな私をバカにすることをやめ、

『わしも手紙を書いてくれないか』

『わしにも』

『わしにも』

と、たくさんの注文が集まりはじめたのである。
楽しくておもしろい仕事だった。
私はそこに三週間通ったが、そのあいだに三人の人が
亡くなった。」


「そのころ、障害者の親たちが役所を相手に、

『北海道に福祉村を』

『この子たちが生きているあいだに、
一日も早く福祉村をつくってください』

と訴えつづけていた。

『小山内さん、あれが本物だと思うかい』

と西村さんが言った。
西村さんのその一言が、『いちご会』をつくるきっかけに
なったのである。
西村さんの言葉を私なりに考えた結果、
自分たちの願いは自分たちの声で訴えなければ
夢をつかむことはできないのだということがわかった。



「ケア制度が確立していないカナダで、
障害者の75パーセントが独立して職業を持ち、
地域で暮らしていることを聞いて驚いてしまった。
職場では、女としての差別はあるけれど、
障害者としての差別はありませんと、
キャサリンさんははっきり言った。

『私はひとりで暮らしはじめて八ヶ月になります』

そう言うと、キャサリンさんは、

『あなたのご両親はあなたをとても誇りに思っているでしょうね』

と言った。私は返事に困った。
まだまだ日本では、私のような重度の障害者が
親や施設に頼らないで、自主的に暮らしたいと考えると、
まわりの人は誇りに思うどころか、顔をしかめるのだ。
親もとや施設で暮らすほうが、危険がなくて楽でいいではないかと
言うにきまっている。

『そうか、おまえもおとなになったな』

と祝福して送り出してくれる親が、日本には何人いるだろうか。」


「一日おき、しかも三時には帰ってしまうヘルパーの
介助だけでは、私は生きていけない。
もちろん、施設にいれば生きていくことはできる。
施設では最低限必要な介助は保証されるが、施設には、
障害者のほんとうの自立生活はないというのが私の考えだ。
障害者は施設を出て、自由と自立を手にしなければならない。
私たち障害者が街なかでふつうの人に溶けあって
自立生活をすることには、ふたつの意味があると思う。
ひとつは、障害者が社会から隔離されないで、
ふつうの町でふつうに暮らすこと
――人間らしく生活することだ。
そしてふたつめは、ふつうの人たちが私たち障害者を
毎日の生活のなかに受け入れ、
みんなで一緒に力と心を寄せ合って生きることを
学ぶことである。
そのためにも、私たちは『施設の充実』ではなく、
『安心して地域で暮らすための介助システムの充実』を、
役所に要求しつづけている。


ところが現実はどうだろうか。
不充分なヘルパー派遣を補うために、私たちは、
自発的に自分の時間をさいて無償で介助にきてくれる、
ボランティアの手を頼らなければならない。
私たちにとって、ボランティアの確保は、文字通り、
生命にかかわる問題なのだ。
私たちは生きていくために、夜も眠れないような思いをして、
自分の手足でボランティアをさがさなくてはならない。」


「こうして来てもらったボランティアにも、
やってもらえることには限界がある。
あくまで自発的な意思に基づくボランティアが、
それぞれの事情でやめていくのを、
私たちはとどめることはできない。
卒業、結婚、就職、転勤など、事情はさまざまだ。

『私、来月結婚するから、もう来られません』

という若いボランティアを、

『おめでとう、よかったね』

と明るい声で送り出すのだが、心の中がまっ暗になり、
顔がひきつり、冷や汗が出てくるのをどう隠そうかと
苦労する。
代わりの人をどうやってみつけようかと、不安でいっぱいなのだ。
不安はときには怒りにさえなってしまう。
しかし、この不安や怒りをボランティアにぶつけるのは
まちがっている。
私たちの生活の安定と保障は、ボランティアの責任では
ないのだ。
私が望むこと、実現させるように努力しなければならないのは、
役所の行うヘルパー制度の充実なのである。
・・・(中略)・・・
もうひとつ、つけ加えれば、ヘルパーの層がなるべく厚く、
私たち障害者が、ヘルパーを選べるようになったらいいなと思う。
わがまますぎると誤解されそうだが、からだを他人に預けることは、
介助者も気をつかうだろうが、私たちにとっても、
かなり気をつかう微妙なことなのである。
介助者と気が合うか会わないか、ささいなことのようだけれど、
思いのほか、ストレスの原因になったりするものだ。
私たちにとっては、食べたり飲んだり、入浴したりすることは、
全身の力をふり絞らなければならないたいへんな労働でもある。
微妙な気持ちのズレが、大きな負担になることもあるという現実を、
わがままだと決めつけられることなく、少しでも多くの人に
わかってもらえたらと思う。
ヘルパー制度が理想的な形で充実したとしても、ボランティアが
私たちにとってたいせつな存在であることに変わりはない。

たとえば、福祉の先進国であるスウェーデンでも、
ボランティアたちは活躍している。
・・・(中略)・・・
とにかく、現状ではボランティアへの負担が大きすぎる。
役所がやるべきことまでボランティアの手に押しつけられている。」


実際の問題として、障害者のケアはどうあったらいいのだろうか。
これには現在、ふたつの考えかたがある。
ひとつは、介助者がいつも障害者のそばにいて、
必要なときにケアを行うというもの、
もうひとつは、障害者はできるだけ介助者との接触を
少なくして、基本的にはいつもひとりで生活し、
決まった時間あるいは必要な時間にだけ、
介助者がやってくるというものだ。


私の考えでは、後者の『コマ切れケア』がいいと思う。
とにかく、障害者は自立しなければならないと
思うからである。


私たち障害者は、長いあいだ、人から世話を受けること、
だれかしらと一緒にいることに慣らされている。
ともすれば、介助者に際限なく依存してしまいがちだ。
その結果、いま、なにをしてもらいたいのか、
自分で考え、自分で決めて相手に伝えることさえ、
しなくなってしまう。
介助の人のいうまま、されるままにはならないまでも、
親切で気ごころの知れた介助者の先まわりケアに
全部をあずけてしまったり、自分ひとりで決めるべきことまで、
相談して決めるようになってしまう心配がある。
これは必ずしもいいこととは言えない。


したがって、私はあくまで『コマ切れケア』にこだわって、
障害者がひとりでいる時間をたいせつにしたいと
考えている。

いま、私のところには何人かのボランティアが
交替できてくれているが、ケアをすませたらすぐに
帰ってもらうことにしている。
トイレだけ、五分のこともある。
夕食の下ごしらえや入浴など、やってもらうことに
よっては三十分のこともある。
もちろん、ずっとそばにいてもらいたい気分のときや、
ひとりでいることが淋しい日もないではないが、
ふつうの人と同じように、淋しさや孤独に耐えることもまた、
自立生活ではないだろうか。

淋しかったら、ケアの人に甘えるのではなく、
自分で友だちをつくっていくべきだと思う。
介助者と友だちになってもいい。
しかし、それはケア・システムとは切り離して
考えなければならないことだ。

また、五分、十分、三十分というコマ切れケアには、
ボランティアの負担を軽くするという利点もあると思う。

『べったり三時間は無理だけど、出勤前の十分ならできるよ』

という人もいるのではないだろうか。」


「食事の支度にしても、私がいろいろ指示をして、
その通りに手を動かしてもらう。
ニンジンを千切りにしてくださいとか、
大根はイチョ切りにしてくださいとか、
もっと厚く、もっと細かくなど、ひとつひとつ、
自分でつくるときと同じように指示をする。
できたものが失敗だったら、それは私自身の責任だ。
夫や子どもに、

『今日の味噌汁、しょっぱいね』

と言われて、

『ケアの人がつくったから』

と答えるのでは、家政婦さんや手伝いの人がつくった
ことになってしまう。
ケアを受けることと、家事の手伝いをしてもらう
こととはちがうのだ。

ボランティアのなかには、そのちがいがよくわからなくて、
なんでもやってあげることがいいことだと思っている人がいる。
親切心からしてくれていることがわかるだけに、
断るのに困ることがある。
・・・(中略)・・・
忘れてはいけないのは、ケアを受ける側が決定権を持つことだ。
つまり、私は自分の手で家事をすることはできないけれど、
セーターの洗濯を頼むときも、お湯の温度や量、
洗剤の量や干しかたまで知っていて指示できなければ
ならないのである。
ただでさえ不足しがちなボランティアに対して決定権を
主張することは、実際には恐ろしいことである。
気分を害されて逃げられてしまったら・・・という恐怖と
闘わなければならない。

しかし、ボランティアとの触れ合いは、緊張だけではない。
楽しいことや教えられることも多い。
家事のプロフェッショナルのような奥さんが来てくれることもある。
そんなときには、自分のやりかたを押し通すだけでなく、

『教えてください』

と素直に言葉が出てくる。

反対に、包丁を持ったこともない学生が来てくれることもある。
そんな女の子の場合は、見ているほうがヒヤヒヤする。
この子はできないな、と思ったら、メニューを簡単なものにする。
大根は千六本に切るつもりだったのをイチョウ切りにしたり、
煮つけをつくるつもりだった魚を、塩焼きに変更したりする。
・・・(中略)・・・
そのあたりは、相手に合わせる柔軟性も必要だと思う。」

「不十分なヘルパー派遣と、不足しがちなボランティア
――必然的に、家族に頼ることが多くなってしまう。
私の場合も、夫の手を借りなければ、生きていくことができない。
夫は結婚して大学を中退した。
何ヵ月かはアルバイトをして、その収入と私の障害者年金で
暮らした。
しかし、ヘルパーやボランティアが休むと、私のケアをするために、
夫はアルバイト先とアパートのあいだを、一日のうちに何度も
往復しなければならず、アルバイトを続けることは無理だと
わかった。
結局、夫はアルバイトをやめ、現在、私たちは生活保護の
給付を受け、障害者年金と合わせて、月額十五、六万円の
生活費で暮らしている。
年金と生活保護による収入のうち、毎月のアパート代に四万円、
そしていちご会が雇っている職員にかかる費用の分担金が二万円。
残りが日々の生活費ということになる。
決して楽ではないが、ぜいたくをしたいとも、貯金をしたいとも
思っていないので、親子三人、つつましく暮らすことができる。
仕事を持たない夫が、毎日、いったいなにをして過ごしているのか、
不思議に思う人もいるらしく、そのまま私たちへの非難となって、
耳に入ってくることもある。

『働かないで生活保護をもらうなんて、ゴキブリみたいなヤツだ』

などという内容の匿名の手紙を何度か受け取ったこともある。
社会では、生活保護を受けることを、まるで人間失格のように
考える人がまだまだ少なくはないのだ。
まず、給付する側の役所が、私たちの事情と夢を、
全く理解してくれようとしない。
親もとを離れ、ひとりでアパート住まいをすることに決めたとき、
私はまず自分の両親を説得した。

『台所をべつにするんだから、もっとお金がいるようになるよ。
いまもらっている障害者年金だけじゃひとりで暮らせないから、
私、生活保護を受けるつもりなの』

昔風の両親もやはり、生活保護を受けることを恥と考えていた。
私は必死だった。

『いまはいいよ。とうさんやかあさんに頼ることもできるけど、
私はこれから何年も何十年も生きていくんだよ。
ずうっと、私のめんどうをみられるかい。
毎月、十万も十五万も出せるかい』

両親は私の言うことをわかってくれたが、
私はさらに念を押さなければならなかった。

『役所の人が来て、きっと両親が面倒みろっていうだろうけど、
なにを言われても、『うん』とは言わないで』

私の予想通り、私が生活保護を申請すると、
役所の人間が、毎日のように、両親のところにやってきた。
娘ひとりの面倒くらいみられないのか、と言う。
しかし、両親は、

『あの子の決めたことだから』

の一点張りで、とうとう首をたてには振らないでいてくれた。
そのあと、菊之進さんと結婚して、おなかに大地がいるときも、
役所から厳しい追及を受けた。
妊娠六ヵ月のときだっただろうか。
役所の担当員とケースワーカーが同時に四人もやってきた
ことがあった。
夫と大きなおなかを抱えた私をまえに、
生活保護を打ち切る相談をしたいという。
とにかく、夫は若いし健康なんだから働け、という。
それは不可能だと言うと、私に施設に入れと言う、
子どもが生まれたら、乳児院に預ければ、
夫は働きつづけることができるというのだ。
それを聞いたとき、私は怒りを通りこして、
悲しくなってしまった。
どうやら、役所では自分の管轄地区から、
生活保護給付家庭を一軒でも減らしたいらしい。
よその区に引っ越したらどうか、と言われたこともあった。

『きちんと態勢が整ってから、自立すればよいのではないか。
生活保護を受けてまで、いまやる必要はないではないか』

と、お役所は全く無責任なことを言うが、

『何十年待てば準備ができるのですか。
その準備はだれがしているのですか』

と、言葉にならないくやしさが胸にこみあげてくる。
私たちは、たったいま、生きているのだ。
自立も結婚も出産も、いつまでも待てるものではないのだ。

『一人前の男が働きもしないで生活保護で暮らしている』

と思われている夫は、多分、ふつうのサラリーマンと同じくらい、
あるいはそれ以上に忙しい毎日を過ごしている。
・・・(中略)・・・
つまり、いまの地域ケアの貧弱さを、全部、夫が埋めているのだ。
・・・(中略)・・・
私たち障害者が受ける生活保護は、一般的に考えられている
生活保護と、意味がちがっている。
病気などの理由で一時的に働けない人は、病気が治れば
働くことができるが、私たちの場合は福祉行政そのものが整備され、
十分なケア制度が実現しない限り、障害者の家族の負担は減らない。」

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by bunbun6610 | 2013-09-16 19:00 | バリア&バリアフリー
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