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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』(1/2)


『車椅子からウィンク 脳性マヒのママがつづる愛と性』
(小山内 美智子/著 1988年9月16日/第1刷
ネスコ/発行 株式会社文芸春秋/発売)



この本は、最近話題になっている『はだしのゲン』と同じく、
閉架図書(※)になっている書籍です。


(※)[用語]閉架 - 図書館で、利用者が読みたい本や
資料を請求して書庫から取り出してもらう方式。
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「『大地、バイバイ』
夫が手を振って出ていくと、大地は手をのばして
大声で泣きはじめる。
大地はすっかりおとうちゃん子になってしまったようだ。
ちょっとさびしい気がする。
両手で抱いてやりたい気持ちでいっぱいだ。

『おかあちゃん、抱けないんだ。ごめんね』

私は足で大地の頭をなでる。
なんとかなだめようと、足でおなかをくすぐると、
大地はやっといつもの笑顔に戻った。
そして私の足にからみついてきた。
私の口から自然に子守唄が出てくる。
はっと気づいて歌うのをやめる。
私の歌を聞いて育ったら、大地が音痴になってしまう。
十一年まえ、姉が男の子を生んだ。
私がかたわらで子守唄を歌っていると、姉が、

『あんたが歌を教えたら音痴になるからやめて』

と笑いながら言った。
身内の気やすさが言わせた悪気のない冗談だったのだが、
私は深刻に悩んでしまった。
私は手のつけられないほどの音痴で、しかも言語障害がある。
いつか自分の子どもが生まれたら、どうやって言葉を教えようか、
言語障害がうつったらどうしようと考えた。
それから、私は赤ちゃんのいるところでは歌わないことに決めた。
しかし、八ヶ月になった大地は、ある日、

『だいちゃん。まんま。ぱっぱ』

と、三つの言葉をはっきりと正確に口にした。
たとえ大地が音痴になったとしても、生活にはそう困らないだろう。
眠りかけた大地の邪魔をするように、私は子守唄をふたたび
歌いはじめた。
少しのあいだ、大地は眉をひそめたが、次第に安らかな
寝顔になっていった。」


「時間が許す限り、夫と一緒に保育園まで大地を迎えに
行くことにしている。
最初、子どもたちは私の姿を見て、

『わっ、あれ、なんだ。
人間か? 怪獣か? おばけだーっ』

とわめきまわった。
なんのことかわからないまま、大地も一緒になって

『おばけー』

とはしゃいだ。
笑おうと思っても、ほおがひきつった。

『私の父は障害者だったんだ』

四、五年もつき合って、やっと話してくれた友だちがいた。
大地ももうすぐ私の存在を隠したがるときがくるだろう。」


「目的地は札幌市内の“芸術の森”だ。
階段が多くて車椅子がつかえず、歩いて登ったので、
足がガタガタになってしまった。
保母さんたちも私のことを気にしてくださり、手をつないでくれたり、
車椅子を運んでくださったりで、たいへんお世話になった。

『来年は階段のないところにしなきゃね』

と言ってくださるのを聞いてうれしかった。
障害を持たない人たちと行動することは、
周りの人々にさまざまな波紋をひろげることになる。
そんななかからほんとうの人と人とのつき合いが生まれてくる。

母親二年生の私にも学ぶことが多い一日だった。」


「友だちのひとりと通りかかったとき、
彼女がなにげなく言ったことがある。

『小山内さん、ここのお医者さん、
すごく上手なんだってよ。
小山内さんも妊娠したら、ここにくればいいよ』

それは悲しい言葉だった。

『そうね。
そのまえに、まず素敵な男をみつけなきゃね』

と、自分を慰めるつもりで答えたものの、
私が産婦人科にくることはないだろうと思った。
玄関までのたった四段の階段が、
私にはエベレストに登るより、高くて遠い、
困難な道のりに思えた。
ふつうの人なら、一秒もかからないで駆けあがって
いく四段きりの階段は、障害者には一生かかっても
登れない階段なのだ。」


「たまに耳にする話だが、障害をもつ娘の
初潮を悲しがる母親がいたり、ひどい場合は、
自分で始末もできないし、どうせ子どもも
生まないのだからと、卵巣や子宮をとられて
しまう人もいるという。
ほんとうにひどい話だ。
幸い、私の場合は、三年おくれで入った高校で、
いい先生に出会うことができ、専門のケアもつけて
もらって、トイレも生理の始末もしてもらえるようになった。
高校生になって、はじめて人生が開けたような気がした。」


「私も女のひとりとして言いたいのは、
女にとってセックスは単に『挿入する』だけではない
ということ、挿入がなくても、十分に幸福になれるという
ことなのだ。
『立つか立たないか』
『挿入できるかできないか』
の点にこだわって深刻に悩んでいる男性障害者に、
ぜひわかってほしいと思う。
愛することは挿入することとイコールではない。
むしろ、どんなふうにでも愛し合うことができ、
快感をわかち合うことができる柔軟性と積極性を
持つチャンスを与えられていると思ったほうがいい。
とにかく、恋をすること、愛すること、愛する人と
結ばれたいと願うことから、はじまるような気がする。
それらをおそれてはいけない。
異性に胸がときめく自分を前向きに認めなければ
いけないと思うのだ。
失恋して傷ついても、恋はしないよりしたほうがいい。
それが結局は『性を持った自分』を生きることに
つながると、私は信じている。」


「養護学校や施設では、脳性マヒの子どもに、
『やればできる』という方針で、
汗水流して自分のことは自分で、
という教育をしているが、
三十代で肉体が衰えることを実感してみると、
あの教育も考えなおさなければならないのでは
ないだろうか。

一時間も二時間もかかって食事をし、
着替えも洗面も、ふつうの人の百倍のエネルギーを
つかってやることが、最善の暮らしかただろうか。
食事の半分を自分で食べ、あとの半分は介助して
もらうとか、着替えにも介助を受けて、あとの時間は
ゆっくり音楽でも聞くというようにコントロールする
方法もあるのではないかと思う。
過去、多くの脳性マヒ者が、授産所で、からだを
すり減らして早死にしてきた。
東京の仲間たちは、いま真剣に脳性マヒ者の
老化について研究している。
そういえば、脳性マヒの老人にはまだ会ったことがない。」


「自由に生きることは、とてもエネルギーがいる。
心臓も強くなければならない。
ポケットからお金を取ってもらう。
ストローをグラスにさしてもらう・・・・・・
そばに手のつかえる友だちがいれば、
簡単にしてもらえることだが、見知らぬ人、
障害者と出会ったことのない人に声をかけ、
手伝ってもらうのは、なかなかたいへんなことだ。
以前、タクシーに乗ったとき、
ポケットからお金を取ってくださいと頼んだら、

『あんた、どうして親と歩かないんだ。
だめじゃないか』

とどなられた。

『困ったもんだ』

『親はなにをしているんだ』

ブツブツ言いつづける運転手に向かって、
私は一生懸命に言った。

『私はおとなです。
いつでも、できるかぎり、ひとりで歩いています。
いけませんか』

障害者を無視する人、拒否する人に、
障害者もごくありふれたひとりの人間であることを
認めさせなければならない。
そのためには、むりやりにでも、
私たちの存在を見せなければならない。
小さな外出にも、そんな意味がある。

運転手は、私の言葉に黙りこんで、
ポケットからお金を取って、
走り去っていった。」


「私は一度も『おとなになったら・・・』という夢を
持ったことがないのだ。
ただ、歩けるようになりたい、手をつかいたいという、
目のまえの現実しか考えていなかった。
醒めきった子どもだったのかなと、いまさらのように思う。
二十八歳になって、ペールくんの質問に答えられない
ことが、私の最大の障害だったのかもしれないと思う。
はじめから私を障害者としかみていなかった
まわりのおとなたちも、障害を持たない子どもには
あたりまえのように質問することを、
私には聞かなかったのだろう。
障害は人間がつくりだすものだということが、
ペールくんの質問ではっきりわかった気がした。
これからは、どんなに障害の重い子どもにも、

『おとなになったらなにをしたいの』

と聞かなければならない。
その質問と答えが、障害を持ったものの世界を
変えていくきっかけになるかもしれないからだ。
今日のペールくんの言葉は神様の言葉に似ていた。
ありがとう。」


「私は、ものごころついたころから、
親に反抗することはほとんどなかった。
とくべついい子だったわけではない。
なにもいわなくても、母がすべてしてくれたからだ。
子どものころはそれで許されても、おとなになったとき、
すでに身についてしまった依存心が
甘えとあきらめだけを増長させて、
自立心をマヒさせていることに気づく。
この子が不憫だといって、親たちはいつも先回まわりして、
冷たい風に当てないようにする。
社会の目にふれさせたくないといって、
養護学校や施設をつくる。
そのかばいかたが障害者にとってマイナスになっているのだ。
子どもは社会や親に対し、さまざまに反抗する。
反抗して、実際に行動してみて、自分でまちがいに
気づいたとき、おとなへの階段をのぼるのだと思う。



「ひとり暮らしをはじめてから二、三ヵ月のあいだは、
不安で不安で、電気、水道、ガス、ドアの鍵などを、
夜中に一度起きて確かめたものだった。
親と暮らしていたときには、戸締りなど、
考えたこともなかった。
お米屋さんがお米を配達してきたときには、
足でお金を払うのが恥かしかった。

『ボランティアの人が来たら払いますから』

などと言ってしまった。
障害者は肉体的には依存して
『助けられて』生きなければならない。
しかし、それがいつしか全面的な依存『甘え』に
なってしまう。
ある朝、ボランティアに来てくれている奥さんと
郵便局に行った。
奥さんは私のポケットから手紙とお金を出して言った。

『美智子ちゃん、あとは自分で言いなさい』

そしてどこかに行ってしまった。
私はあせって、冷たい人だなあと思った。
でも、郵便局の人とうまく話ができて自分ひとりで
用が足せたとき、心が晴れ晴れした。
奥さんのやりかたは、障害者にとって正しいものだった。
社会や施設に対する不満を陰でぶつぶついいながら、
施設の暖かい部屋のなかで、
決まった時間に食事が出てくるという生活では
『生かされている』ことにしかならない。
それでほんとうにいいのだろうか。
だれもひとりでは生きられないけれど、
私たちは身にしみついた依存心を振り払って
いかなければならないと思う。



「・・・来客だ。
・・・(中略)・・・
やってきたのは、いまいる施設を出て暮らしたいという
希望を持った障害者だった。
三度目の来訪だ。
彼は生まれたときから施設で暮らし、十二年間、
ぞうきんを縫っていた。
施設を出たいが、親や兄弟がいい返事をしないらしい。
彼は脳性マヒで障害は中程度である。

『三十二歳にもなるんだから、親や兄弟のことばかり
気にしないで、自分のことは自分で決めて。
人生は一度しかないんだから』

私は施設を出るようにけしかけた。
彼は自分ひとりでは説得は無理だと思っているらしく、
お兄さんや妹を連れてきた。
彼の兄弟たちは、話もわかってくれ、
彼のことを真剣に考えているようだった。
私がいままで見たり聞いたりした例でいくと、
脳性マヒの障害者でも、自分のことはすべて自分ででき、
学校にも行っているくらいの人は、
健常者の社会でも十分生きられるという希望を持つ。
しかし、たいていは失敗し、脱落してしまう。
何十軒とまわって職を求めても断られるのが現実で、
そのうちきっと働けると思いながら、
結局は施設や家に閉じこもって年老いていく。
希望は持つべきだが、もっと自分の現実を知らなくては
ならないと思う。
字を書いてもミミズがはったよう、話をしてもなかなか
通じないうえ、顔が歪んで相手に不快感を与える・・・
こんな人が、いまの競争社会のなかで生きていけるだろうか。
大きな企業ほど雇ってはくれまい。
私たち脳性マヒは、社会にとっては煮ても焼いても
食えない存在なのだと思う。
煮ても焼いても食えないところからはじまる
開きなおりがなくては、私はこんなに若い夫と
恋はできなかった。
大地を生む決心もつかなかった。
今日、訪ねてきた人も、なんとか開きなおって、
地域で暮らしてほしい。」


「医者はずっとクル病だと言っていたそうだ。
昔はわからない病気はみんなクル病ということに
してしまったらしい。
父と母はそれを信じて、牛乳や卵や砂糖など、
栄養のあるものばかり食べさせてくれていた。
ところが、ある日、婦人雑誌を読んでいた母が
『脳性小児マヒ』という言葉を発見した。
記事を読んでいくと、私の症状によく似ている。
母は

『うちの子はクル病ではない。
脳性小児マヒという名の病気だ』

と直感したという。

そして札幌にきていろんな人にみせたら、
やはり母の直感は当たっていた。
私の病気を最初に発見したのは母だったのである。
昔は脳性マヒはただマッサージをすればなおる、
ほかに方法はないと思われていたので父と母は
毎日毎日私の手や腕をマッサージしたり、
年に何度か札幌に連れて出て訓練を受けさせたり、
いろいろなことをした。
そのころ、両親は農業をしていたので、
冬のあいだは手足の訓練をする時間もあったが、
夏になると忙しくなる。
自然とほったらかすことになり、せっかく動きかけた
手がまた動かなくなる。
毎年、そのくり返しだった。
いまでも母が後悔しているのは、もっと早く農業を
やめていたら、私の手がもう少し動いていたかも
しれないということだ。
夏のあいだ、天気のいい日は毎日畑に行った。
母とお手伝いのお姉さんと手をつないで、
必ず歩いて行った。泣いてもわめいても、
歩かされた。
私がいま歩けるのは、そういうことがあったからである。」


「あるとき、母が内緒で風船ガムを持ってきてくれた。
施設では虫歯予防のためということで、毎晩ガムがでた。
私は悪知恵をはたらかせて、毎日でるガムの包み紙を
取っておき、風船ガムの包み紙と取りかえて
カムフラージュしようとした。
風船ガムを包みなおすときは、少し知恵がおくれている
友だちに手伝ってもらった。
頭のいい子に手伝ってもらうと、そのまま取られてしまう
からである。

『半分あげるから手伝ってよ。
保母さんにも看護婦さんにも黙っているんだよ』

と口止めすると、知恵おくれの子は喜んで手伝ってくれた。
いま思うと知恵おくれの子を利用したみたいだが、
手のつかえない私にとっては生きるための知恵だった。
といって、知恵がおくれているからといって、
バカにしたり、ガムの数をごまかしたりすると、
その子は二度と手伝ってはくれなくなる。
正直にガムを分け、『ありがとう』と言うと、
どんなときでも裏切られることはない。
部屋のたたみのあいだから、
ガムが一枚出てきたことがあった。
みつけたのは手がつかえる子で、
その子は自分ひとりでそのガムを食べようとした。

『ちょっと待って。そのガムはだれのもの?』

みんなで話し合ったがいったいだれが落としたものか、
わからない。
じゃあみんなで分けて食べようということになり、
算数のできる子がものさしで六等分した。
ガム一枚にも、小さな政治や思惑があった。

日曜日には親が面会に来る子と来ない子、
いろんな表情があった。
親が会いに来られない子は、職員や同室の子に
当たり散らす。
消灯後になると、親が来た子は、布団のなかやトイレで、
親が持ってきてくれたお菓子をこっそり食べる。
私は母の持ってきてくれたお菓子を、
ひき出しのいちばん奥に入れておいた。
手がつかえないので、布団のなかやトイレで食べる
ことはできない。
施設に入って三年目で、私は部屋のボスになっていたから、
知恵の遅れている子に命令して、ひとりで隠れて
食べている子からお菓子を取り上げ、
みんなの口に入れるように指示した。
いかにも正義の子どものようだが、実は私自身、
手がつかえないから思いついたことなのだ。
もし手がつかえていたら、食べられない子の悲しみや
屈辱をわかることができなかったかもしれない。

施設の外に一歩出れば、お菓子屋の店先に、
お菓子が山のように積んである。
そのころの私には不思議な光景だった。
施設では、職員の数も十分とはいえなかったから、
ただ責めてもしかたのないことだとは思う。
いまでは、私のいたころのような施設はないと
思いたいが、私には施設はまるで牢獄のようにつらい
ところだった。」

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by bunbun6610 | 2013-09-16 18:00 | バリア&バリアフリー