願うこと

最近、テレビで『必殺仕事人2012』
(以下、『仕事人』と略記)を観ました。

 →http://asahi.co.jp/hissatsu2012/

昔から続く有名な時代劇ドラマですが、
先天性聴覚障害者障害者の私にとっては、
少なくとも字幕が付くようになるまでは、
全く観たことがなかった人気テレビ番組です。

これを観て思ったことがあります。
弱き人々の恨みを聞いて加害者を殺害する、
という仕事は依頼人がいて成立する、という。
普通の正義ドラマのテレビではみられない
特徴があると思いませんか。

だれが悪人を裁くのかというと、
その仕事人たちが、ではないのだと思います。
庶民が決める(裁く)という、民主主義のような一面が
ないわけでもありませんか。

恨みにもいろいろなものがあるでしょう。
『仕事人』の依頼内容には、
私怨というレベルを超していると思いました。
(でなきゃ、視聴者から共感は得られないと思いますが)

弱きの人たちを守るためのしかるべき法律もなく、
あるいは不当に事実を隠蔽されてしまったり、
不当に曲げられてしまう行為が許されている世の中です。

弱き人たちの大半が、それを「常識」として
受け入れなければならないのが当然、
いや、そこまででなくとも、自分が生きていくためには、
いやでも守るのは「やむを得ない」ことだと考えています。

常識に反することを「不条理」だというのなら、
不条理なことはしてはいけないことだ、と。

しかし、もしもその常識が、そもそもおかしかったのなら、
何ものかに不正に曲げられてつくられていたのならば、
おかしくはなくとも、それだけではすべての人への
公正にはならないのだとしたら、
それだけでは正しい常識と言えるのだろうか。

それでも、常識は「常識」として、居座り続けるだろう。

この世の常識のすべてが、正しいわけではない。
世の裁きと、神の裁きも違うといわれています。
いったい、公正な裁きとは、何なのだろうか。

聖書には

「誰も人を裁くことはできない」

という言葉さえあります。

それでは、常識を裁くものは一体何か?
それは、人間のなかにある良心ではないのか?

良心は、罪人にもある。

その良心は時として、世の非常識、
罪の道に人を導くことはあろうが、
何を信じたらいいというのか。

苦しまないこと、誰も苦しめないことが幸せなのだろうか。

これは、先頃の少年犯罪者の死刑確定裁判(光市母子殺害事件)のことも、
思い出されると思いますが。

 →http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B8%82%E6%AF%8D%E5%AD%90%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

願うことは、それを皆が一人ひとり、考える社会になってほしい。

皆が一人のために、一人が皆のために。
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by bunbun6610 | 2012-02-23 20:15 | 社会
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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610
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