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蒼穹 -そうきゅう-

健聴者も聴覚障害者を理解しようとするには、勇気が必要

『健聴者も聴覚障害者を理解しようとするには、勇気が必要』

当ブログ

『健聴者には気づかれにくい障害』(2012-02-05 23:38)

を読まれた方のなかには、もしかすると

「聞こえたんじゃないのなら、あなたが勝手に想像して
書いているだけなのか。
それじゃ、書いたって、誰にも信用されないよ」

という方も多いのでは、と思います。

周りの健聴者からよく言われることは、
私の書くものは、とにかく主観的だということです。
周りの健聴者から見ると、そう見えるというわけです。

これは、健聴者から見た客観的事実というとこになるでしょう。
しかし、聞こえない私は聞こえないゆえに、
相手が何と言っているのかは、確実にはわからない、
ということは客観的事実です。
また、本当のことはわからないのに書いていることも、
客観的事実です。

ちょっと話がそれてしまいますが、
今のことを考えるにあたって、
参考になる話です。
聖書には読み方があるそうです。

ある歴史学者が言っていたことなのですが、
詳しいことは私もよく憶えていません。
しかし、意味は同じだと思うので、それについて、
このまま書き進めていきたいと思います。

聖書には歴史的事実(客観的)と、
信仰的事実(主観的)があるのだという。

事実もあるし、事実ではない部分もある、
ということです。

(二つとも「事実」という言葉を使っているが、
この意味の違いについて、後述を読まれて、
よく考えてみて下さい)

大事なのは、事実でない部分があるからといって、
読む価値もなしとか、信仰に値しない、
とは言えないということでしょう。

たとえば

「イエスはメシア(救世主)だった」

とか

「イエスは神だった」

という部分については、聖書には確かに書かれてはいますが、
歴史上においても、誰もが認める客観的事実(証拠)が
残っているわけではありません。

聖書は、イエスの弟子たちが信仰したという
(信仰的)事実が書かせた本なのです。
この信じた、書かせた、という部分は、事実ですよね。
それが重要です。
聖書自体に価値があるのとは違うのかもしれません。


同じように聴覚障害者の、
相手が何と言っていたのかを理解する場合にも、
聴覚障害者は自分の中で客観的事実(状況証拠)と、
そうでないもの(主観的と言われようが、自分の想像力)を総合して、
理解しようとする場合があります。
もともと低い情報量に、自分の想像力を加えて補い、
理解するしか、方法がありません。
だから、どうしても主観的にならざるをえなかったりします。

客観性が高い、それとも主観性が高い、
という言い方のほうが合っていると思いますが、
それ以外に、相手を理解する方法がないからです。

「聞こえないからといって理解できない」

と考えていたら、
いつまでたっても理解などできないし、
それは間違いだと誰にでもわかるはずです。

「手話はわからないから、理解できない。
ろう者とコミュニケーションできない」

と言っている手話初心者と同じになってしまいます。

聴覚障害者はおそらく、相手が何と言っていたかを知らなければ
(聞き取れなければ)
コミュニケーションができない、とは信じていないと思います。
よく

「手話は心で通じ合うもの」

とも言われるように。
私の場合で言うと、コミュニケーションとは、
言葉として聞くことではなくて、感じるものなのです。

『耳の聞こえない私が4カ国語しゃべれる理由』を
書いた金修琳氏も、あとがきのほうで母の記憶との
食い違いを少し書いていますが、親子であっても、
健聴者と聴覚障害者とではそれが当たり前だと思います。

だから、私が前述した作文でも、例えば

「目をつぶれと言っているだろう!」

という部分は、私の主観に基づく想像で書いているに過ぎません。
それが客観的事実だった、と主張するつもりは全くないのです。
しかし、もしも本当は

「目をつぶりなさい」

と優しい言葉遣いで言っていたのだとしたら、
健聴者のほうでは、この食い違いを見て、どう思うだろうか。
おそらく、

「あなたの書いていることは、言葉のニュアンスが違って、
他の人に伝わってしまっているわよ」

などと言うのではないでしょうか。
もしそうならば、私もそれで納得します。

でも、そうなのかどうか、私自身はまったく知りません。
私が強く受けた印象が、先生が

「怒鳴り、私の頭を叩いた」

から

「先生は怖い人だ」

というイメージを持ち、

「目をつぶれと言っているだろう!」

と想像したわけです。
聞こえない私は、それ以外に、
そのコミュニケーションを理解する方法がないからです。

もしも、そのコミュニケーションに手話など、
視覚できちんと理解できる方法があったならば、
違った受け止め方になっていたでしょう。

聴覚障害者のコミュニケーションには、そんな部分もある、
ということです。

ですから、

「聴覚障害者は、自己中心的な人が多い」

と言われるのも、もしかすると、
この辺りに原因があるのではないかと思ったりします。
しかし、わからないなりに自己努力で頑張り、
理解しようとした結果であることも、
理解してほしいと思うのです。

反対に健聴者は、失敗を恐れずに私たちを
理解しようとしたことがあったでしょうか。

その聴覚障害者の心の状態にもより、
受け止め方は変わると思いますが、
それだけだったら健聴者も同じだと思いますので、
聴覚障害者には複雑な事情がまだ解明されて
いないのかもしれません。


※本稿で伝えたいことに関連する記事を、

 『変わらなければいけないのは社会』(2012-02-07 22:44)

に掲載しました。
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by bunbun6610 | 2012-02-07 22:54 | コミュニケーション能力