「歩み寄り」って、何ですか?

聴覚障害者労働問題、手話普及、通訳への理解などで、
よく

「聴者も聴覚障害者も、お互いに歩み寄りが必要(大切)」

という結論で締めくくられます。

この結論を聞いた最初の頃は、

「それが一番いい方法だ」

と思って、賛同していました。

けれども、最近はどうもそうは思わなくなりました。

ろう者も難聴者も

「聴者がろう者(あるいは難聴者)を理解するなんて無理」

と漏らす人は案外多い。

私も今になって、そう思うようになってきました。
その間、ずいぶんと努力してみたことは、
言うまでもありません。

努力不足ということも、ないわけではないかも
しれませんが、それでも自分からは越えられない
壁は絶対にあると、今は確信しています。


聾(ろう)や難聴を経験したことのない、また体験して
みようとも思わない聴者は、ただの傍観者であり、
理解などできっこないのです。

一体どうして、あれで理解などできるでしょうか?
理解がなくても、歩み寄りなんてできるのでしょうか?


手話講習会などでも聴覚障害や、聴覚障害者に
ついての基礎知識として教えられていても、
歩み寄りはできないという健聴者はたくさんいます。

ろう者から「難聴者」とか「健聴者育ち」と言われる私も、
聴者との対話でしばしば感じることがあります。

特に、職場では問題解決のために話し合った末、
健聴者は必ずこう言います。

「わかりました。
これからはこう(筆談とか、具体的方法)します。
でも、ルールを守らないと、理解は得られませんよ」

それは、なぜ聴覚障害者がルールを守らないのか、
守らなくなったのかを、聴者は全然気づいていない
ような言い草です。

いや、気づこうともしません。
聴覚障害者の側が一方的に悪いと思っているような
態度で、自分は反省のかけらも一切ないのです。
それで聴覚障害者側にだけ、反省を押し付けようと
している厚かましさといったら…。


今まで差別をしていたとは微塵にも思ってはいない、
このような言葉には、

「私も今度からこうするから、あなたもこうして下さい」

という条件交換の意志しか見られません。
欧米の契約思想的なところが。
話し合いって、それで済むことなのかと、半ば呆れて
しまいます。

それが会社における上下関係と言えばそうなのでしょうが、
人権にかかわる問題であっても、聴覚障害者に対しては
そういうものなのだろうか? と思うのは、
自分に社会勉強が無いせいなのでしょうか?

私には落胆するだけで、理解できません。
交換条件なんかしたって、それが真の理解にはならないと、
自分にはわかっています。
その虚しさに、自分の人間としての存在の意味、
生きる意味も喪失してしまうのです。

だからこそ、聴覚障害者に

「聴者が聴覚障害者を理解するなんて無理」

と言わしめているのではないかと思ったりします。

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by bunbun6610 | 2011-08-20 02:10 | 聴覚障害
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ある聴覚障害者から見た世界


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