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ある聴覚障害者から見た世界


by bunbun6610

難聴児を持つ親の意見から

「難聴児を持つ親の会」という団体があります。

 →http://www.zennancho.com/

この団体はときどき、ろう学校関係者などを招いて、
講演会を開いています。

ある年には、大杉 豊氏(筑波技術大学)の講演があり、私も観ました。

 →http://www.tsukuba-tech.ac.jp/rc/rc_staffs.php#OSUGI_YUTAKA

大杉氏は、自分の生い立ちについて話し、親をはじめとした
聴覚障害者差別問題についても触れました。
特に、手話排除の学校教育に対する反対者の立場、
という印象を感じさせました。

講演が終わった後の質問のなかには、親の一人が、
次のように言っていました。

「聴覚障害児を持つ親にも、手話ができない人はいる。
それでも、耳の不自由なわが子と話したい。
それでも親と日本語を話せる子になってほしくて、
手話を使わない普通学校へ通わせている。
その気持ちもわかってほしい」

保護者としての親の決定は、国家も警察も学校も、
聴覚障害者団体も口出しできません。
判断能力もない未就学の子どもは、親には絶対服従の
関係にあると思います。

しかし、第三者だったらこのとき

「子どもの権利とは?
子どものためには、どの言語を選択すべきなのか?」

と考え込むでしょう。

聴こえないということは、音声言語を自分で自由に
使いこなすことができない、ということではないでしょうか。

聴こえなくても私のように、言いたいことを何でも言える
ようには、もしかしたら、なれるかもしれません。
しかし、そんな一方的なコミュニケーションをする子どもが
いいという親は、いないと思います。

聴こえることは、話す能力よりも重要です。
ヘレン・ケラーが「耳がほしい」と答えたのも聡明だと思います。

 →http://www.ohigashi.net/sindoukouza0603.htm

ろう者は、実は耳を持っています。
視覚言語で、相手の話をきちんと聴くことができます。
しかし難聴者は耳が聴こえても、不完全です。

つまり「聴く」というのは、聴覚としての機能性の他に能力
(理解力とか人間的な思いやりとか)が必要で、
カウンセリング用語で「傾聴」と呼ばれる行為に近いのでは?
 と思います。
聖書にも言うことをきかないユダヤ人に対して

「彼らは耳があっても、きくことはできない」

とか書いていますよね。

親がそうなれば、子どももそうなるかもしれません。

「今のろう児は、日本語を喋るのは上手になったが、
マナーが悪い、自己中心的だ」

などと批判されるケースには、親と子どもの関係がうまく
いっていないことに原因があるようです。
聴くという行為の重要さを後回しにしてしまった結果なのかも
しれません。

なぜなら、私の知るろう者には親子関係がよい人もおり、
そういうろう者は文章力もマナー、精神性も、人格的というか、
全てにおいてバランスよく伸びているからです。
その人たちに聞くと、子どものときから親と良好な
コミュニケーションをとっていた、ということでした。

逆に、親に放置されてきた過去を持つろう者には、
手話一辺倒、それも自己中心的な手話の人が目立ちます。

ですから、ろうや難聴の子どもは聴こえないから聴くことが
できないのではなく、心に聞く耳を持たないまま育っている
から聴かないのだ、ということになるのかもしれません。

親の願いは万人共通の、ごく自然な気持ちからだということは、
疑いようもありません。
ただ、言葉というものを、伝える手段というものを、音声言語に
限定してしまうという、子どもの現実を見ようとしないような姿勢、
決定が、この世界を縛っているのではないか、と思ったりします。

子どもは、いつまでも親とそんな関係では、そのうちに嫌がって
くるのは当然ではないか、と思います。

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by bunbun6610 | 2011-07-14 22:50 | 難聴・中途失聴